第2章:一瞬の夏、命懸けの言葉

翌朝、僕が目を覚ました時、世界は昨日までとはまるで違って見えた。

窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと金色に照らしている。カーテンを揺らす夏の風は、どこか甘い花の匂いを運んでくる。窓の外で鳴く蝉の声さえ、鬱陶しい騒音ではなく、生命力に満ちた祝祭の音楽のように聞こえた。

たった一つの約束が、たった一人の理解者が、こんなにも世界の色を変えてしまうなんて。僕は、まるで生まれ変わったような気分だった。

学校へ向かう足取りは、驚くほど軽かった。教室のドアを開けると、すでに来ていた数人のクラスメイトが「おはよー」と声をかけてくれる。僕は、少しだけ照れ臭いのを感じながら、「おはよう」と返した。昨日までの僕なら、会釈だけで済ませていただろう。

自分の席に着くと、僕はすぐに鞄からハンカチを取り出した。昨夜、丁寧に手洗いし、アイロンまでかけたものだ。彼女の残り香はもう消えてしまっていたが、その代わりに石鹸の清潔な匂いがする。これを、いつ渡そうか。朝のホームルームが始まる前か、それとも休み時間か。そんなことを考えているだけで、心臓が少しだけ早く脈打った。

僕がそわそわと落ち着かずにいると、教室の前のドアが開き、彼女が入ってきた。

天野星奈あまのせな

僕の視線に気づいた彼女は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと微笑んで、小さく会釈をした。その何気ない仕草だけで、僕の一日はもう、最高のものになることが確定した。

彼女が自分の席に着くのを見届けてから、僕は意を決して立ち上がった。

「天野さん、おはよう」

「おはよう、夏月なつきくん」

「あの、これ。昨日、ありがとう」

僕は、少しだけ緊張しながらハンカチを差し出した。

「あ、うん。ありがとう、わざわざ」

彼女はそれを受け取ると、丁寧に折りたたんで制服のポケットにしまった。その指先が、ほんの少しだけ僕の指に触れる。それだけで、僕の身体はカッと熱くなった。

「じゃ、じゃあ」

用件はそれだけのはずなのに、僕はなぜかその場を離れがたかった。何か、何か話さなければ。

「きょ、今日の天気、いいよな」

口から出たのは、我ながら呆れるほど陳腐な言葉だった。

星奈は、きょとんとした顔で僕を見た後、くすくすと楽しそうに笑い出した。

「うん、そうだね。絶好のお洗濯日和だね」

彼女の笑顔につられて、僕も自然と笑みがこぼれた。

「あ、そうだ。夏月くん、今日の昼休み、屋上に来れる?」

「え? あ、うん。行くけど」

「よかった。じゃあ、お昼にね」

彼女はそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶって見せた。その表情に、僕は完全に心を射抜かれてしまう。自分の席に戻るまでの数メートルの道のりが、まるで雲の上を歩いているみたいに、ふわふわとして覚束なかった。

昼休み、僕は弁当が入った袋を片手に、ほとんど駆け足で屋上へと向かった。

扉を開けると、彼女はもうそこにいた。フェンス際にレジャーシートを広げ、ちょこんとその上に座っている。

「あ、夏月くん、こっちこっち」

彼女は僕を見つけると、嬉しそうに手を振った。まるで、ピクニックにでも来たみたいだ。

「どうしたんだ、急に」

僕は彼女の隣に腰を下ろしながら尋ねた。

「んー? だって、夏月くん、いつもお昼ご飯、教室で寂しそうに食べてるから」

「……見てたのか」

「見てたよー」

彼女は、からかうように舌を出した。

「だから、これからは一緒に食べようかなって。ダメだった?」

「ダメじゃないけど……」

ダメなはずがない。むしろ、嬉しくてたまらなかった。

僕が買ってきたメロンパンを袋から取り出すと、星奈は「あ、ずるい! それ、一番人気のやつ!」と声を上げた。彼女の手には、可愛らしい二段重ねのお弁当箱が握られている。

僕たちは、並んで昼食を摂った。

他愛のない話をした。昨日のテレビ番組のこと。苦手な数学の先生のこと。星奈が飼っている、少し太り気味の猫のこと。

彼女の作る卵焼きは、ほんのり甘くて、すごく美味しかった。僕がそう正直に伝えると、彼女は「ほんと? よかった!」と、心の底から嬉しそうに笑った。

その笑顔を見るたびに、僕の胸は温かくなった。嘘をついた時の痛みとはまったく違う、じんわりと広がる、陽だまりのような温かさ。

僕は、この感覚を、もっと、もっとたくさん味わいたいと思った。

その日から、屋上での昼食は僕たちの新しい日課になった。

それだけじゃない。僕たちの関係は、少しずつ、でも確実に変化していった。

朝、教室で交わす「おはよう」の挨拶。

授業の合間に、廊下ですれ違いざまに交わす、ほんの短い会話。

放課後、一緒に図書室で本を読んだり、時には、少しだけ寄り道をして帰ったり。

僕のモノクロだった日常は、彼女という存在によって、急速に鮮やかな色彩を取り戻していった。

もちろん、僕の身体を蝕む呪いが消えたわけではない。

相変わらず、僕は些細な嘘でも胸に痛みが走った。けれど、以前のような絶望的な恐怖はもうなかった。

なぜなら、僕にはもう、一人だけ、すべてを打ち明けられる相手がいたからだ。

「……で、さっき健太けんたに『今日の髪型決まってるな』って言ったら、また痛くなって」

「あはは、夏月くんも大変だねぇ」

ある日の放課後、僕たちは商店街のベンチに並んで座り、クリームソーダを飲んでいた。僕は、今日一日で僕の身に起きた「痛み」の報告を、半ば呆れながら星奈に聞かせていた。

「でもさ、それって、夏月くんが本当は健太くんの髪型、変だと思ってたってことでしょ? ひどーい」

「いや、変っていうか……。まあ、正直、寝癖かと思った」

「正直すぎるよ」

星奈は、グラスの中でカランと氷を鳴らしながら、楽しそうに笑う。

こんなふうに、僕の呪いのことを、誰かと笑い話にできる日が来るなんて、少し前までは想像もできなかった。

「星奈はいいよな。嘘、つき放題で」

僕が少しだけ拗ねたように言うと、彼女はピタリと動きを止めた。そして、ストローを口に含んだまま、何かを考えるように、じっと遠くを見つめた。

その横顔に、また、あの日の夕暮れに見せた哀しげな影が差す。

僕は、しまった、と思った。また、彼女の心のデリケートな部分に、無神経に触れてしまったのかもしれない。

「……ごめん。今の、忘れて」

僕が慌てて言うと、星奈はゆっくりと首を横に振った。

「ううん、いいの。……そうだね。私は、嘘、つき放題だもんね」

その声は、自嘲しているようにも聞こえた。

「私ね、嘘つくの、すごく上手なんだよ。自分でも、どれが本当の気持ちで、どれが嘘なのか、時々分からなくなっちゃうくらい」

「天野さん……」

「だからね、夏月くんが、少しだけ羨ましかったりするんだ」

彼女は、僕の方に向き直ると、寂しそうに微笑んだ。

「嘘がつけないって、すごく苦しいことだと思う。でも、それって、夏月くんの言葉が、全部『本物』だってことの証明でもあるでしょ?」

「本物……?」

「うん。夏月くんが『きれいだ』って言ってくれる空も、『美味しい』って言ってくれる卵焼きも、全部、一点の曇りもない、本当の気持ちだって信じられるから。……それって、すごく、素敵なことだと思うな」

彼女の言葉は、僕が今まで呪いでしかないと思っていた自分の体質に、初めて、ほんの少しだけ肯定的な光を当ててくれた。

僕の言葉は、全部、本物。

その事実に、僕は少しだけ、胸を張ってもいいのかもしれない。

「……ありがとう」

僕がそう言うと、彼女は「どういたしまして」と、いつもの優しい笑顔に戻っていた。

流星群が降る夜まで、あと四日。

僕たちの夏は、まるで線香花火が最後の輝きを放つみたいに、一日一日、その彩度を増していった。

僕は、毎日、夢中でシャッターを切った。

屋上で笑う彼女の顔を。クリームソーダの緑色を。夕暮れの商店街のオレンジ色を。

消えてしまうかもしれない、この一瞬の輝きを、永遠に閉じ込めるために。

流星群の夜まで、あと三日。

その日の放課後、僕たちはいつものように屋上で時間を過ごしていた。じりじりと肌を焼くような真夏の太陽は少しだけ勢いを弱め、空には秋の気配をかすかに含んだ、薄い巻雲が刷毛で描いたように広がっている。

「ねえ、夏月なつきくん」

フェンスに凭れかかり、遠くの空を眺めながら、星奈せながぽつりと呟いた。

「ん?」

僕はカメラのファインダーから目を離し、彼女の方を向く。

「もしもさ、夏月くんのその……呪いが解けたら、どうする?」

「呪いが、解けたら?」

考えたこともない質問だった。僕にとって、この「嘘がつけない身体」は、もはや変えることのできない前提条件になっていたからだ。

「うん。ある日突然、嘘がつけても胸が痛くならなくなったら、ってこと。元の夏月くんに戻ったら、どうしたい?」

僕は腕を組み、少しだけ考えてみた。

元の僕。本音と建前を器用に使い分け、面倒ごとを避けて生きていた僕。

「どうだろうな……。とりあえず、健太けんたの髪型を、心の底から褒めちぎってやるかな」

「あはは、ひどい! 健太くんが可哀想だよ」

「あとは……そうだな。別に、あまり変わりないかもしれない」

「え、そうなの?」

意外そうな顔をする星奈に、僕は頷いた。

「だって、今のままでも、別に困ってないから」

それは、紛れもない本心だった。胸は痛まない。

「確かに、クラスの奴らとの当たり障りのない会話は、ちょっとだけ大変だけど。でも、本当に大事なことなら、正直に言った方がいいって、最近思うようになったし」

そう思えるようになったのは、間違いなく彼女のおかげだ。僕の言葉を「本物だ」と言ってくれた、彼女のおかげだ。

「それに、天野さんには、もう嘘つく必要ないしな」

僕は、少し照れ臭いのをごまかすように、そっぽを向きながら言った。

すると、隣から衣擦れの音がして、僕のTシャツの袖が、きゅっと小さな力で掴まれた。

見ると、星奈がすぐそばまで顔を寄せて、潤んだ瞳で僕の顔をじっと見つめていた。その距離の近さに、僕の心臓が大きく跳ねる。

「……嬉しい」

吐息のような、小さな声だった。

「夏月くんがそう思ってくれてるの、すごく嬉しい」

彼女の顔が、夕陽のせいではない赤色に染まっている。僕の顔も、きっと同じくらい赤くなっているに違いない。僕たちは、しばらくの間、何も言えずにただ見つめ合っていた。先に視線を逸らしたのは、僕の方だった。これ以上彼女の目を見ていたら、僕の心臓は破裂してしまうだろう。

「あ、そうだ!」

何かを思い出したように、星奈が声を上げた。

「私、夏月くんに見せたいものがあるんだった。今日、家に寄って行ってもいい?」

「え? 家に?」

唐突な提案に、僕は目を白黒させた。女子が、男子の家に、一人で。そんな、漫画やドラマの中でしか起こらないようなイベントが、今、僕の身に起ころうとしている。

「だ、ダメかな……? 別に、変なことしたりしないから!」

「いや、変なことって……」

彼女の慌てぶりに、思わず笑ってしまう。

「ダメじゃないけど。散らかってるぞ、多分」

「大丈夫、気にしない!」

そういうわけで、僕たちはその日、一緒に僕の家へ向かうことになった。

僕の家は、学校から歩いて十五分ほどの場所にある、古い二階建てのアパートだった。両親は僕が幼い頃に離婚し、母親は数年前に病気で亡くなった。今は、僕一人暮らしだ。

ギシギ-と音を立てる階段を上り、二階の角部屋のドアを開ける。

「どうぞ。汚いけど」

「お邪魔しまーす」

星奈は、少しだけ緊張した面持ちで、部屋に足を踏み入れた。

六畳一間の、殺風景な部屋。ベッドと、小さなローテーブル、本が詰め込まれたカラーボックス。それ以外には、ほとんど何もない。壁には、僕が撮った風景写真が、数枚だけ無造作に貼られていた。

「わあ……」

星奈は、部屋の中を興味深そうにきょろきょろと見回している。

「本当に、男の子の部屋って感じだね。なんか、生活感ない」

「ほっとけ」

「あ、この写真、すごく綺麗。これ、いつ撮ったの?」

彼女は、壁に貼られた一枚の写真を指差した。雨上がりの神社の、濡れた石畳を写した一枚だ。

「先月かな。雨が止んだ瞬間の、光が綺麗だったから」

「そっか……。夏月くんの目には、世界がこんなふうに見えてるんだね」

彼女は、どこか羨ましそうにそう呟いた。

「で、見せたいものって?」

僕が尋ねると、星奈は「あ、そうだった!」と思い出したように鞄を探り、中から一冊の、分厚いスケッチブックを取り出した。表紙には、「星の図鑑」と、可愛らしい文字で書かれている。

「これ、なんだ?」

「開いてみて」

促されるままに、僕はスケッチブックのページをめくった。

そこに広がっていたのは、僕が絶句するほど、美しくて、緻-な星空の絵だった。

水彩絵の具で描かれた、深い藍色の夜空。その中に、無数の星々が、まるで本物のように輝いている。一つ一つの星には、ちゃんと名前や星座の名前が、丁寧な文字で書き添えられていた。

ページをめくるたびに、様々な季節の星座が現れる。春のしし座、夏のはくちょう座、秋のペガスス座、冬のオリオン座。それは、ただの絵ではなかった。描いた人間の、星に対する深い愛情が、ページの一枚一枚から溢れ出しているようだった。

「これ、天野さんが描いたのか?」

「うん。小さい頃から、ずっと描いてるの。私の、宝物」

「すごいな……。写真みたいだ」

「そんなことないよ。夏月くんの写真の方が、ずっとすごい」

彼女は謙遜するが、僕には分かる。これは、付け焼き刃の技術で描けるようなものじゃない。膨大な時間と、情熱を注ぎ込まなければ、決して生み出すことのできない作品だ。

「私ね、身体が弱くて、あんまり外に出られなかったから。代わりに、図鑑とか、プラネタリウムとかで見た星空を、想像で描いてたんだ。いつか、本物の、満天の星空を見てみたいって、ずっと思ってた」

彼女は、少し遠い目をして言った。

「だから、流星群、すごく楽しみなんだ。夏月くんと一緒に見られるのが、本当に、夢みたい」

スケッチブックを抱きしめながら、彼女は心の底から嬉しそうに微笑んだ。

その笑顔を見て、僕の胸は、喜びと、そして同じくらいの痛みで締め付けられた。

(僕に、その夢を叶えてやる資格があるんだろうか)

もし、流星群の夜、僕の命が尽きてしまったら?

彼女の最高の思い出になるはずの一日が、最悪の悪夢に変わってしまうかもしれない。

僕がそんな不安を顔に出してしまったのか、星奈は少し心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「どうしたの? 元気ない?」

「……いや、なんでもない」

僕は、咄嗟にそう答えてしまった。

その瞬間、ズキン、と鋭い痛みが胸を走った。

「――ッ!」

思わず胸を押さえる。まずい。彼女の前で、やってしまった。

「夏月くん!?」

星奈が、慌てて僕の背中をさする。その手は、小さく震えていた。

「大丈夫……。いつもの、やつだから」

僕は、荒い息を整えながら、なんとかそれだけ言った。痛みは、数秒で引いていく。けれど、それ以上に、自己嫌悪の念が僕の心を支配していた。

彼女の前では、もう嘘はつかないと決めたはずなのに。

どうして、僕は。

「……嘘、ついたんだね」

星奈が、静かな声で言った。

僕は、彼女の顔を見ることができなかった。ただ、無言で頷く。

「『なんでもない』って、嘘だったんだ」

「……ごめん」

「謝らないで」

彼女の声は、責めているようではなかった。むしろ、ひどく、哀しそうだった。

「私に、心配かけたくなかったんでしょ? ……優しいね、夏月くんは」

「優しくなんかない。僕は、ただの臆病者だ」

僕は、絞り出すように言った。

「怖いんだ。流星群の夜、僕がもし、いなくなってしまったらって思うと……。天野さんを、一人にしてしまったらって思うと、怖くてたまらない」

それが、僕の偽らざる本心だった。

言ってしまってから、僕は後悔した。こんな重い言葉、彼女にぶつけてどうするんだ。彼女を、困らせるだけじゃないか。

けれど、星奈は、困った顔をしなかった。

彼女は、静かに僕の隣に座ると、僕の手を、彼女の小さな両手でそっと包み込んだ。触れた彼女の手は、相変わらず驚くほど冷たい。

「……私も、同じだよ」

「え?」

「私も、怖いの。夏月くんと同じくらい、ううん、もしかしたら、それ以上に」

彼女の声は、微かに震えていた。

「私ね、ずっと隠してたことがあるの。夏月くんに、言わなきゃいけないって、ずっと思ってたこと」

僕は、息をのんだ。彼女の真剣な表情から、それがただ事ではないことが伝わってくる。

「私の心臓、あんまり丈夫じゃないんだ」

彼女は、自分の胸にそっと手を当てながら、続けた。

「生まれつき、少しだけ、ね。だから、小さい頃から入退院を繰り返してた。激しい運動もダメだし、疲れやすいし。お医者さんには、あまり、無理はしないようにって、いつも言われてる」

それは、僕が薄々感づいていたことでもあった。

彼女の透けるような肌の白さ。時折見せる、疲れたような表情。そして、この季節には不釣り合いなくらい、冷たい指先。

すべてが、一本の線で繋がった。

「だから、嘘をつくのに疲れちゃったって言ったんだ。自分の身体のこと、友達に心配かけたくなくて、いつも『大丈夫だよ』って、平気なふりをするのに、もう疲れちゃったの」

彼女の告白は、僕の胸に重く、深く、響いた。

僕たちは、似ていたのだ。

僕は「嘘がつけない」呪いを。彼女は「嘘をつかなければいけない」呪いを。

お互いに、自分の身体に、運命に、縛り付けられながら、必死に生きている。

「流星群の夜、私の身体が、もつかどうか、正直、分からない」

彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「もし、私のせいで、夏月くんとの約束が守れなくなっちゃったらって思うと、私も、すごく怖い。夏月くんを、悲しませてしまったらって思うと、胸が張り裂けそうになる」

彼女の大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。それは、僕の手に、小さな温かい染みを作った。

「でもね」と、彼女は涙を拭いもせずに、続けた。

「それでも、私は、行きたい。夏月くんと一緒に、あの星空が見たい。たとえ、それが、私の人生で最後の景色になったとしても、後悔しない。夏月くんと一緒なら」

彼女の、命懸けの覚悟。

その言葉の重みに、僕は何も言えなかった。僕が抱えていた不安や恐怖など、彼女の覚悟に比べれば、なんてちっぽけで、自分勝手なものだったのだろう。

僕は、彼女の手を、強く、強く握り返した。

「……行こう。絶対に行こう」

僕は、言った。

「二人で、一緒に、あの星空を見に行こう。僕が、絶対に、君を連れて行く」

それは、何の保証もない、ただの決意表明でしかなかった。

けれど、その言葉に、嘘は一欠片も混じっていなかった。僕の胸は、少しも痛まなかった。

星奈は、涙で濡れた顔で、こくりと力強く頷いた。そして、僕が今まで見た中で、一番、美しい笑顔で、笑った。

その笑顔を、僕は一生忘れないだろうと思った。

その日、僕たちは、初めてお互いのすべてを分かち合った。

僕の呪いも、彼女の病も、お互いが抱える恐怖も、そして、二人で同じ夢を見るという、揺るぎない希望も。

夕暮れの光が差し込む、僕の殺風景な六畳一間のアパートは、その瞬間、世界で一番温かくて、かけがえのない場所に変わっていた。

流星群の夜まで、あと三日。

僕たちの、短くて、かけがえのない夏の時間は、もうすぐ、クライマックスを迎えようとしていた。

流星群の夜まで、あと二日。

あの日、僕の部屋で互いの秘密と覚悟を分かち合ってから、僕と星奈せなの間の空気は、以前とは少しだけ変わっていた。

もちろん、屋上で一緒に昼食を食べたり、放課後に他愛のない話をするという日課は変わらない。けれど、言葉にしなくても伝わる、深い信頼と共感が、僕たちの間に確かな根を張っているのを感じていた。

僕たちは、共犯者になったのだ。

「未来」という不確かなものに、二人で一緒に立ち向かう、運命共同体。その繋がりは、僕にこれ以上ないほどの勇気と安らぎを与えてくれた。

その日の昼休みも、僕たちは屋上の定位置で、レジャーシートの上に並んで座っていた。空はどこまでも高く、青く澄み渡り、まるで僕たちの決意を祝福してくれているかのようだ。

「はい、これ」

星奈が、お弁当箱の蓋を開けながら、小さなタッパーを僕の前に差し出した。中には、綺麗な黄色をした卵焼きが、行儀よく並んでいる。

「お、サンキュ」

僕は遠慮なく一つをつまみ、口に放り込んだ。ほんのりとした甘さが、口の中に優しく広がる。

「ん、うまい」

「ほんと? よかった」

彼女は嬉しそうに目を細めた。もうすっかりお馴染みになったこのやり取りが、僕はたまらなく好きだった。

「そういえばさ」と、僕はおにぎりを頬張りながら切り出した。

「天野さんって、なんでそんなに星が好きなんだ?」

先日のスケッチブックを見て以来、ずっと気になっていたことだった。

彼女は、少しだけ遠い目をして、空を見上げた。

「うーん……なんで、って言われると難しいな。物心ついた時から、当たり前のように好きだったから」

「きっかけとかは?」

「きっかけ……」

彼女は少しの間、記憶を辿るように黙り込んでいたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。

「小さい頃、私、すっごく身体が弱くて、ほとんど病院のベッドの上で過ごしてたんだ。同い年の子たちが外で元気に走り回ってるのを、窓から眺めてるだけ。夜になると、部屋は真っ暗で、一人ぼっちで、すごく寂しくて……怖かった」

その光景が目に浮かぶようだった。幼い彼女が、たった一人で、見えない不安と戦っていたのだ。

「そんな時、お母さんが、星の図鑑を買ってきてくれたの。すごく分厚くて、綺麗な写真がたくさん載ってるやつ。それから、星座にまつわる神話の本も」

彼女の声は、遠い昔の宝物を語るように、優しく響いた。

「ベッドの上からでも、星だけは見えたから。図鑑と見比べながら、あれがカシオペア座で、あれが北斗七星だねって、一人で探すのが唯一の楽しみだった。星たちは、いつだって、どんな時だって、同じ場所で静かに光っててくれた。それが、なんだかすごく安心したんだよね。私、一人じゃないんだなって」

彼女は、自分の胸にそっと手を当てた。

「星座の神話も、大好きだった。悲しいお話も多いけど、みんな、最後には天に昇って、永遠の星になるでしょ? 死んで、おしまいじゃないんだって、子供心に思ったの。たとえこの身体がなくなっても、魂はずっと、あの空の上で輝き続けることができるのかもしれないなって」

その言葉は、僕の胸に深く、深く突き刺さった。

僕にとって「死」は、ただの無であり、終わりだった。けれど、彼女は、その先にある「永遠」を、満天の星空に見ていたのだ。

僕と彼女が見ている世界は、同じようでいて、全く違っていた。僕の世界が有限で、閉ざされたものだとしたら、彼女の世界は無限で、どこまでも広がっていた。

「だからね、私にとって星を見ることは、ただ綺麗な景色を眺めることじゃないんだ。なんて言うか……お祈り、みたいなもの、かな。今日も、ちゃんと生きていられたことへの感謝と、明日も、ちゃんと生きていけますようにっていう、願い」

その時、僕は初めて、彼女が言っていた「流星群を見たい」という夢の、本当の重さを理解した気がした。

それは、単なる高校生の淡い憧れなどではなかった。

彼女の、これまでの人生の全てを懸けた、切実な「祈り」そのものだったのだ。

そして、その祈りの瞬間に、彼女は僕を、隣にいるパートナーとして選んでくれた。

その事実が、僕の心を震わせた。僕なんかが、その大役を担う資格があるのだろうか。

いや、資格があるかないかなんて、もう関係ない。

僕は、彼女の祈りを、この手で守らなければならない。何があっても。

「……そっか」

僕は、それだけ言うのが精一杯だった。どんな言葉も、彼女の想いの前では陳腐に聞こえてしまいそうだった。

「ごめんね、なんか、しんみりしちゃって」

星奈は、照れくさそうに笑った。

「ううん。聞けてよかった。天野さんのこと、また一つ、知れた気がする」

「私もだよ。夏月くんの呪いのことも、写真への想いも、知ることができて、すごく嬉しい」

僕たちは、顔を見合わせて、少しだけ笑い合った。

その時、不意に、強い風が屋上を吹き抜けた。星奈がレジャーシートの端に置いていたスケッチブックが、風に煽られてパラパラとページをめくる。

「あ!」

星奈が慌てて押さえるより先に、一枚の紙が、スケッチブックからひらりと舞い上がった。それは、今まで描いた絵とは別に挟んであった、一枚の画用紙のようだった。

紙は、くるくると回転しながら、屋上の床を滑っていく。

「待って!」

僕たちは、同時に立ち上がってそれを追いかけた。紙は、まるで生きているかのように風に乗り、僕たちの手をすり抜けていく。そして、無情にも、給水タンクの裏側へと吸い込まれてしまった。

「ったく、おてんばな紙だな……」

僕は苦笑しながら、給水タンクの裏へと回り込んだ。そこは、普段僕たちがいる場所からは死角になる、屋上の隅だった。

落ちていた画用紙を拾い上げ、そこに描かれたものを見て、僕は息をのんだ。

それは、まだ下書きの段階だったが、一人の男の子の横顔が、鉛筆で丁寧に描かれていた。

逆光の中に立つ、カメラを構えた、僕の姿だった。

「……これ」

僕が呆然と呟くと、追いかけてきた星奈が、顔を真っ赤にしてそれを僕の手からひったくった。

「み、見ないで!」

「いや、もう見ちゃったけど……」

「忘れなさい!」

彼女は、画用紙を胸に抱きしめるようにして、僕から顔をそむけてしまう。その耳まで、真っ赤に染まっていた。

「……いつの間に、描いてたんだ」

「……夏月くんが、写真に夢中になってる時、こっそり」

「へえ……」

僕は、込み上げてくる笑いを堪えることができなかった。

「なんで笑うのよ!」

「いや、だって……」

嬉しかった。彼女が、僕を見ていてくれたことが。僕のことを、彼女の大切なスケッチブックに、描き留めたいと思ってくれたことが、たまらなく嬉しかった。

彼女の描く僕の横顔は、僕自身が知っているよりも、少しだけ、優しくて、真剣な顔をしていた。

その日の帰り道、僕たちは、初めて手を繋いで歩いた。

どちらからともなく、歩くうちに、指先が触れ合ったのがきっかけだった。僕は、勇気を出して、彼女の冷たい指をそっと握った。彼女は、驚いたように少しだけ肩を揺らしたが、すぐに、小さな力で僕の手を握り返してくれた。

僕の、少し汗ばんだ大きな手と、彼女の、ひんやりとした小さな手。

その感触が、僕たちの間のすべての言葉よりも、雄弁に、お互いの気持ちを伝えているようだった。

夕暮れの商店街。行き交う人々の喧騒。甘いクレープの匂い。そのすべてが、僕たちのための背景みたいに、きらきらと輝いていた。

僕は、この時間が、永遠に続けばいいのに、と本気で思った。

僕の呪いも、彼女の病気も、すべてが嘘みたいに消えてなくなって、僕たちは、ただの恋人同士として、こうしていつまでも手を繋いで歩いていける。そんな、ありえない未来を夢見てしまった。

だが、運命の神様は、僕たちにそんなささやかな幸せさえ、長くは許してくれなかったらしい。

流星群の夜まで、あと一日。

その日、星奈は、学校を休んだ。

朝、教室に彼女の姿がないことに気づいた時、僕の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。

ただの風邪かもしれない。寝坊しただけかもしれない。そう自分に言い聞かせようとするが、胸の奥で警報が鳴り響いている。

ホームルームで、担任の先生が「天野は、体調不良でしばらく休む」と、事務的に告げた。

その瞬間、僕の世界から、また色が失われていくのが分かった。

クラスメイトたちが「大丈夫かな」「最近、顔色悪かったもんね」と心配そうに囁き合っている。僕は、誰よりも彼女の本当の病状を知っているはずなのに、何も言えず、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。

昼休み、僕は一人で屋上へ行った。

そこには、僕たちがいつも使っていたレジャーシートが、几帳面に畳まれて、隅に置いてあった。まるで、主の帰りを待っているかのように。

僕は、シートを広げる気にもなれず、冷たいコンクリートの上に直接座り込んだ。買ってきたパンを口に入れるが、全く味がしない。

空は、昨日と同じように、どこまでも青い。

でも、その青は、今の僕の目には、ひどく冷たくて、残酷な色にしか見えなかった。

彼女がいないだけで、この場所は、また元の、ただの空っぽの箱に戻ってしまった。

僕は、彼女に連絡を取ろうと、スマホを取り出した。メッセージアプリを開き、トーク画面を表示する。『大丈夫か?』と打ち込んでは、消す。何度も、何度も、それを繰り返した。

どんな言葉を送ればいい?

『無理するなよ』? 彼女は、誰よりも無理なんてしたくないはずだ。『早く元気になれよ』? そんな無責任な言葉、言えるはずがない。

僕の言葉は、全部「本物」でなければならない。その事実が、今、重く僕にのしかかる。

結局、僕は、何も送ることができなかった。

既読のつかないままの、僕たちの最後のやり取り。『また明日ね』という、彼女からのメッセージ。その隣には、猫が可愛くお辞儀をしているスタンプ。

「明日」は、もう、来なかった。

放課後、僕は、いてもたってもいられなくなり、彼女の親友である美咲みさきさんを探した。彼女なら、何か知っているかもしれない。

二組の教室を覗くと、彼女は友達と談笑していた。僕の姿に気づくと、少し驚いた顔でこちらへやってくる。

「夏月くん、だよね? どうしたの?」

「あの、天野さんのことなんだけど……」

僕がそう切り出すと、美咲さんの表情が、さっと曇った。

「……やっぱり、心配だよね。私も、今朝、お見舞いに行ってきたとこ」

「容態は……」

「うん……。あんまり、良くない、みたい。お医者さんにも、絶対安静だって言われてるって。面会も、今日は断られちゃった」

その言葉は、僕の胸に、重い鉛のように沈んだ。

絶対安静。それは、明日の流星群なんて、絶望的だということを意味していた。

「あいつ、無理してたんだよね、きっと。最近、すっごく楽しそうだったから、私もつい、調子に乗って連れ回しちゃったし……」

美咲さんは、自分のことのように、悔しそうに唇を噛んだ。

「夏月くんも、でしょ? 最近、ずっと星奈と一緒にいたもんね。あいつ、夏月くんのこと話す時、すっごく嬉しそうだったよ」

「……そう、なのか」

「うん。だから、ごめんね。明日の流星群、約束してたんでしょ? たぶん、無理だと思う。本当に、ごめん……」

美咲さんは、僕に深々と頭を下げた。彼女が謝ることではないのに。悪いのは、全部、僕たちの、ままならない運命なのだ。

僕は、力なく学校を後にした。

夕暮れの帰り道。昨日、彼女と手を繋いで歩いた道。

たった一日で、景色はこんなにも色褪せて見える。

僕は、どうすればいい?

約束は、もう、守れないのか?

彼女の、あの祈るような夢を、僕は、叶えてやれないのか?

無力感と、絶望感が、全身を叩きのめす。僕が、彼女の病気を代わってやれたら。僕の、残り少ない寿命を、彼女に分けてやることができたなら。

そんな、ありえないことばかりが頭をよぎる。

僕は、ふと、ある場所で足を止めた。

あの日、彼女と会った、薬局の前。

僕は、吸い寄せられるように、店の中に入った。そして、薬剤師に、一つの薬の名前を告げた。それは、彼女が抱えている心臓の病気に、一般的に使われる薬の名前だった。インターネットで、必死に調べた知識だ。

「この薬が欲しいんです」と。

もちろん、処方箋もなしに、そんな薬が手に入るはずがない。薬剤師は、怪訝な顔で僕を一瞥し、「医師の診断書がないと、お出しできません」と、冷たく言い放った。

分かっていた。分かっていたことだ。

それでも、僕は、何かに縋りたかったのだ。

薬局を出て、僕はその場に蹲りそうになるのを、必死で堪えた。

もう、僕にできることは、何もないのか?

ただ、奇跡を祈ることしか、許されないのか?

その時だった。

ポケットの中のスマホが、ぶるりと震えた。

画面を見ると、そこには、信じられない名前が表示されていた。

『天野星奈』

僕は、震える指で、通話ボタンを押した。

ポケットの中で震えるスマホのディスプレイに浮かび上がった『天野星奈』という四文字は、今の僕にとって、どんな奇跡の言葉よりも鮮烈に目に映った。僕はまるで溺れる者が掴んだ一本の藁のように、震える指で通話ボタンをスライドさせた。

「……もしもし」

耳に当てたスマホから聞こえてきたのは、僕がよく知っている彼女の澄んだ声とは似ても似つかない、細く、か細く、息の混じった声だった。電話の向こう側で、彼女が呼吸をするたびに、微かな雑音が混じる。それが、僕の心臓をナイフで抉るように痛めつけた。

「天野さん……? 大丈夫なのか? 身体、つらいんじゃないのか」

「……うん、ちょっとだけね。でも、声、聞きたかったから」

彼女は、一言一言を紡ぎ出すように、ゆっくりと話した。その声からは、明らかに体力を消耗しているのが伝わってくる。

「ごめんね、夏月くん。今日の学校、行けなくて。お昼も、屋上で待ってた……?」

「そんなこと、気にするな。それより、自分の身体のことだけ考えろよ」

僕の声が、自分でも驚くほど硬くなっているのが分かった。心配と、不安と、どうしようもない無力感が、僕の言葉から優しさを奪っていく。

「……怒ってる?」

彼女が、不安そうに尋ねた。

「違う! 怒ってなんかない。ただ……」

ただ、心配なんだ。お前のことが、どうにかなってしまいそうで、怖いんだ。

その、喉まで出かかった言葉を、僕はなんとか飲み込んだ。今、僕が弱音を吐いてどうする。一番辛いのは、彼女のはずなのに。

美咲みさきから、聞いたんだ」と、彼女は続けた。「夏月くんが、心配してくれてたって」

「当たり前だろ」

「……明日の、流星群のことなんだけど」

彼女が、核心に触れてきた。僕は、息をのむ。

「やっぱり、無理、みたい。お医者さんにも、お母さんにも、止められちゃった。ごめんね、夏月くん。約束、したのに」

その声は、震えていた。電話の向こうで、彼女が泣いているのが分かった。自分のことよりも、僕との約束を守れなかったことを、彼女は悔やんでいるのだ。

その事実が、僕の胸を締め付けた。

「謝るなよ。天野さんが悪いわけじゃないだろ。仕方ない。仕方ないことなんだから」

僕は、自分に言い聞かせるように言った。そうだ、これは誰のせいでもない。ままならない運命が、僕たちからささやかな夢を奪おうとしているだけだ。諦めるしかない。そう、思うしかなかった。

「……嫌だ」

電話の向こうから、凛とした声が聞こえた。それは、さっきまでのか細い声とは違う、彼女の魂の叫びそのものだった。

「嫌だよ、諦めたくない。私、夏月くんと、一緒に星が見たい。たとえ、病院のベッドの上からだって、同じ空を、同じ瞬間に、見上げたい」

彼女の、悲痛なほどの願い。

それは、僕が諦めかけていた心の奥底に、小さな火を灯した。

そうだ。諦めて、たまるか。

僕たちの夏を、こんな形で終わらせていいはずがない。

「……分かった」

僕は、大きく息を吸い、決意を込めて言った。

「天野さん。俺に、少しだけ時間をくれないか。絶対に、お前を後悔させない。俺たちの約束を、必ず、守ってみせるから」

その言葉に、嘘はなかった。僕の胸は、痛むどころか、不思議なほどの熱を帯びていた。

電話の向こうで、彼女が息をのむ気配がした。

「……うん。信じてる。夏月くんのこと、信じて待ってる」

その言葉を最後に、通話は切れた。

僕は、夕闇が迫る街の中で、スマホを強く握りしめたまま、しばらく動けなかった。

信じて、待ってる。

その言葉が、僕の背中を押した。僕を、ただの無力な高校生から、彼女の夢を叶えるための騎士へと変えてくれた。

何ができる? 今の僕に、何ができる?

思考を、フル回転させる。彼女を病院から連れ出すなんて、無茶なことはできない。彼女の身体に、これ以上の負担をかけるわけにはいかない。

病院の中からでも、一緒に星を見る方法。

プラネタリウム? いや、違う。彼女が見たいのは、作り物の星空じゃない。本物の、生きている星空だ。

僕は、ポケットに入れていたカメラの、冷たい感触に気づいた。

そうだ、これだ。僕には、これがある。

僕にしかできない、僕だからこそできる方法が、きっとあるはずだ。

僕は、踵を返すと、全力で走り出した。目指すは、美咲さんの家。彼女の協力が、絶対に必要だった。幸い、彼女の家は以前、星奈から聞いていたのですぐに分かった。

インターホンを鳴らすと、怪訝な顔をした美咲さんが出てきた。

「夏月くん? どうしたの、そんなに慌てて」

「頼む! 力を貸してほしい!」

僕は、息を切らしながら、頭を下げた。

僕の突拍子もない計画を聞いた美咲さんは、最初、呆れたような顔をしていた。けれど、僕の目が本気であることに気づくと、彼女の表情は次第に真剣なものへと変わっていった。

「……あんた、本気で言ってるの?」

「ああ、本気だ」

「無茶だよ。そんなこと、本当にできるの?」

「やるんだ。俺が、やる。だから、頼む。天野さんの病室のこととか、消灯時間とか、あんたにしか頼めないことがあるんだ」

僕の計画。それは、こうだ。

明日の夜、僕が一人で、約束の場所である山の上の展望台へ行く。そして、そこにカメラを設置し、インターネットを使って、展望台から見える星空を、リアルタイムで星奈のいる病室へライブ配信する。

これなら、彼女はベッドの上からでも、特等席で流星群を見ることができる。僕は、展望台で同じ空を見上げる。離れていても、僕たちは、間違いなく「一緒に」星空を見ることができる。

僕のカメラと、現代のテクノロジーを使えば、不可能な計画ではなかった。

美咲さんは、しばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて、ふっと息を吐くと、ニヤリと笑った。

「……ばっかじゃないの、あんた。最高じゃん」

彼女は、僕の肩を力強く叩いた。

「分かった、乗った! あいつの夢、あんた一人の手柄にさせるわけにはいかないからね! 私にも、手伝わせなさい!」

僕は、心の底から安堵し、彼女に深く頭を下げた。

「ありがとう……!」

「礼には及ばないって。さ、作戦会議の始まりだよ!」

その夜、僕と美咲さんは、ファミレスのドリンクバーで、深夜まで計画を練り上げた。

美咲さんは、驚くほど頼りになった。彼女は、星奈の病室の窓の方角や、Wi-Fiの電波状況、看護師の見回りの時間など、僕一人では到底知り得なかった情報を、次々と提供してくれた。

「星奈の病室、ちょうど南向きだから、しし座が見える方角とはちょっと違うんだよね。でも、窓から見える範囲の空なら、ライブ映像と見比べることはできるはず」

「タブレットは、俺が持っていく。親父の遺品で、少し古いけど、まだ使えるはずだ」

「よしきた。充電はMAXにしといてよ! 私が明日、フルーツの差し入れってことにして、こっそり病室に持ち込むから」

パズルのピースが、一つ、また一つと嵌っていく感覚。不可能だと思っていた計画が、少しずつ、現実味を帯びていく。

僕たちは、まるで秘密基地で悪巧みをする子供のように、目を輝かせながら話し合った。

翌日、つまり、流星群の夜、当日。

僕は、学校を早退した。担任には「体調不良」という、命を削る嘘をついた。胸が痛んだが、今の僕には、そんな小さな痛みに構っている暇はなかった。

僕は、なけなしの貯金を下ろし、機材の準備に奔走した。

モバイルバッテリー、小型の三脚、夜間の撮影に必要なレリーズケーブル。そして、展望台の山頂は冷えるだろうから、使い捨てカイロと、温かいお茶を入れた水筒。

必要なものをリュックに詰め込みながら、僕は星奈に短いメッセージを送った。

『今夜、奇跡を起こす。楽しみにしてて』

すぐに、彼女から返信が来た。

『うん。待ってる』

たった四文字。でも、その短い言葉に、彼女のすべての信頼が込められているのが分かった。

夕方、僕はバスに乗り込み、展望台のある山の麓へと向かった。

展望台までは、そこからさらに、暗い山道を三十分ほど歩かなければならない。リュックの重みが、ずっしりと肩に食い込む。けれど、その重みが、僕の使命の重さのように感じられて、不思議と苦にはならなかった。

心臓が、高鳴っている。それは、不安から来るものではなく、武者震いに近い興奮だった。

山道は、僕が想像していたよりも、ずっと暗く、険しかった。スマートフォンのライトだけを頼りに、獣道を一歩、また一歩と進んでいく。時折、風で木々がざわめく音や、遠くで動物の鳴く声が聞こえ、背筋がぞっとする。

けれど、僕は足を止めなかった。

この道の先に、彼女が待っている。僕が届ける星空を、たった一人で、待っていてくれる。

その事実だけが、僕を前へ、前へと進ませた。

長い時間をかけて、僕はようやく、開けた場所に出た。

目的の、展望台だ。

木造の、古びた展望台。そこからは、眼下に広がる街の夜景と、そして、頭上に広がる、信じられないほどの星空が見えた。

「……すげえ」

思わず、声が漏れた。

街の明かりが届かない山頂では、星々はまるで生きているかのように、激しく瞬いていた。天の川が、白い帯となって、夜空をはっきりと横切っている。一つ一つの星が、ダイヤモンドの粒みたいに、僕の目に突き刺さってきた。

こんな空を、彼女に見せたかったのだ。

僕は、リュックから手際よく機材を取り出し、設置を始めた。三脚を立て、カメラを固定する。画角を調整し、ピントを合わせる。そして、タブレットとカメラを接続し、ライブ配信のテストを開始する。

すべてが、順調だった。タブレットの画面に、カメラが捉えたままの、美しい星空が映し出される。

美咲さんに『準備完了』とメッセージを送ると、すぐに『こちらもOK!』という頼もしい返信と、タブ涜ットをベッドの上にセットし、親指を立てて笑う星奈の写真が送られてきた。写真の中の彼女は、少し顔色は悪いけれど、僕が今まで見た中で、一番わくわくした、少女のような顔をしていた。

僕は、すべての準備を終え、展望台の手すりに寄りかかって、夜空を見上げた。

しし座流星群の極大時刻は、午後十一時。あと、一時間ほどだ。

山の空気は、ひんやりとしていて、澄み渡っている。僕は、水筒に入れてきた温かいお茶を一口飲んだ。お茶の温かさが、冷えた身体にじんわりと染み渡っていく。

僕は、一人だった。けれど、孤独ではなかった。

イヤホンの片方を耳につける。そこからは、美咲さんが繋いでくれた、星奈との通話が、ずっと繋がったままになっている。

「……夏月くん、聞こえる?」

「ああ、聞こえるよ。そっちはどうだ? ちゃんと、映像、見えてるか?」

「うん。すごく、綺麗……。私の部屋の窓から見える星とは、全然違う。星って、こんなにたくさん、あったんだね」

彼女の、感動に震える声が、イヤホンから聞こえてくる。

それだけで、僕がここまで来た苦労は、すべて報われた気がした。

「なあ、天野さん」

「……うん?」

「寒いか?」

「ううん、大丈夫。毛布、たくさんかけてるから。夏月くんこそ、寒くない?」

「俺は平気。なんか、燃えてるから」

「ふふ、なにそれ」

僕たちは、そんな他愛のない会話を交わしながら、静かに、その時を待った。

離れていても、同じ空の下で、僕たちは繋がっている。

僕が撮る星空が、彼女の瞳に届いている。彼女の声が、僕の耳に届いている。

それだけで、僕たちは、間違いなく「一緒」だった。

やがて、その瞬間は、訪れた。

夜空の一点から、すうっと、一筋の光が流れた。

「あ!」

僕と彼女の声が、ぴったりと重なった。

それを皮切りに、まるで堰を切ったように、星々が降り注ぎ始めた。

一本、また一本と、夜空のキャンバスに、光の筋が描かれていく。それは、僕が想像していたよりも、ずっと、ずっと幻想的で、神々しい光景だった。

「すごい……」

イヤホンの向こうで、星奈が息をのむ音が聞こえる。

「……流れ星」

僕は、目の前の光景に圧倒されながら、ただ、呟いた。

僕たちの夏が、今、最高の輝きを放っている。

この一瞬が、永遠に続けばいい。

そう、願わずにはいられなかった。

流れ星は、まるで夜空が流す涙のように、ひっきりなしに降り注いでいた。

一本、また一本と光の筋が走るたびに、イヤホンの向こうから星奈せなの感動に満ちた吐息が聞こえてくる。僕の目が見ている光景と、彼女の心が感じる煌めきが、リアルタイムでシンクロしていく。その不思議な一体感が、僕の心を温かく満たしていた。

夏月なつきくん」

星奈が、囁くような声で僕を呼んだ。

「ん?」

「ありがとう」

その一言に、彼女の万感の想いが込められているのが分かった。

「私の、一番の夢だったの。こんな、満天の星空を見ること。それを、夏月くんが、叶えてくれた。……私、今日のこの夜のことを、一生、忘れない」

「……俺もだよ」

僕は、目の前の星空から目を離さずに答えた。

「俺も、忘れない。天野さんと出会ってからの、この短い夏のこと、全部。たとえ、この先何があっても」

僕の言葉に、嘘はなかった。胸は痛まない。ただ、静かな決意が、冷えた身体の芯をじわりと熱くしていく。

僕たちは、しばらくの間、言葉を交わすことなく、ただ降り注ぐ星の光に身を委ねていた。離れていても、同じものを見て、同じことを感じている。その事実が、僕たちの孤独を優しく溶かしていった。

と、その時だった。

ひときわ大きく、そして明るい流れ星が、夜空を切り裂くようにして流れた。それは、まるで天を司る龍のように、長く、美しい尾を引いていた。

「うわ……!」

僕と星奈の声が、再び綺麗に重なった。

その、あまりにも荘厳な光景に、僕は思わず、祈るように両手を組んでいた。

(神様)

いるかいないかなんて分からない、不確かな存在に、僕は生まれて初めて、心の底から願った。

(もし、いるのなら。どうか、彼女に、もっと時間をください。僕の寿命なんて、どうなったっていい。だから、どうか、彼女が、もっとたくさんの美しいものを見られるように。もっと、たくさん笑えるように。彼女に、未来を――)

僕がそこまで祈った、その瞬間だった。

僕の胸の中心で、何かが、カチリと音を立てたような気がした。

それは、今まで僕を苛んできた、あの鋭い痛みとは全く違う感覚だった。

例えるなら、ずっと固く閉ざされていた、古い錠前が開くような。あるいは、絡まっていた糸が、するりと解けるような。

静かで、けれど、決定的な変化。

ズキン、という痛みではなく、じんわりとした、温かい光のようなものが、僕の胸の中心から全身へと広がっていく。

「……え?」

何が起きたのか分からず、僕は呆然と自分の胸に手を当てた。

心臓の鼓動は、穏やかだ。痛みも、苦しみもない。ただ、言いようのないほどの、穏やかな安堵感が、僕の全身を包み込んでいた。

(なんだったんだ、今のは……)

僕は、自分の身に起きた不可解な現象を理解できずにいた。

イヤホンからは、星奈の、少し心配そうな声が聞こえてくる。

「夏月くん? どうしたの、黙っちゃって」

「あ、いや……なんでもない」

僕は、反射的にそう答えた。

そして、ハッとした。

(しまった……! 嘘、ついた)

「なんでもなく」は、ない。明らかに、僕の身体に何か尋常ではないことが起きたのだから。これは、紛れもない「嘘」だ。

僕は、次に襲ってくるであろう、あの心臓を抉るような激痛に備えて、ぐっと身を固くした。

けれど。

一秒経っても、五秒経っても、痛みは来なかった。

僕の心臓は、相変わらず穏やかに、静かに、時を刻み続けている。

「……あれ?」

声が、漏れた。信じられなかった。

僕は、確かめるように、もう一度、意図的に嘘をついてみた。

「……天野さん、今、俺、全然寒くない。むしろ、暑いくらいだ」

もちろん、大嘘だ。山の上の夜気は、容赦なく僕の体温を奪っている。

けれど、やはり、胸は痛まない。

あの、命が削れるような、絶望的な感覚が、どこにもない。

まるで、最初から、そんな呪いなんて存在しなかったかのように、僕の身体は、完全に「普通」だった。

(嘘、だろ……)

僕は、自分の身体の変化に、ただただ、呆然とするしかなかった。

どうして? なぜ?

僕の呪いは、解けたのか?

だとしたら、なぜ、今? このタイミングで?

僕は、先ほどの、ひときわ大きな流れ星を思い出した。

そして、その流れ星に向かって、僕が捧げた、祈りを。

(――僕の寿命なんて、どうなったっていい。だから、どうか、彼女に、未来を)

まさか。

そんな、漫画みたいなことがあるはずがない。

僕の祈りが、神様に届いた? 僕の寿命と引き換えに、彼女の未来が約束された? そして、その「契約」が成立した証として、僕の呪いは解かれた……?

いや、違う。そんなお伽話みたいな解釈は、あまりにも非現実的すぎる。

僕は、もっと別の可能性に思い至った。

もしかしたら、僕のこの奇妙な体質は、病気でも呪いでもなく、もっと別の、何か意味のある現象だったのではないか。

例えば、それは、僕自身が、無意識に自分に課した「枷」のようなものだったのかもしれない。

本音を隠し、他人と深く関わることを避けて生きてきた僕。そんな僕に、「正直に生きろ」「誰かと本気で向き合え」と、僕自身の魂が、悲鳴を上げていたのではないか。

そして、星奈と出会い、彼女にだけは本当の自分をさらけ出し、彼女のために命懸けで行動した、今この瞬間。

僕が、誰かのために「自分の命さえ惜しくない」と、心の底から本気で願った、その時。

僕の魂は、ようやく満たされ、その役目を終えた「枷」を、自ら外したのではないか。

それは、科学的には全く説明のつかない、詩的な解釈でしかなかった。

けれど、今の僕には、その解釈が、すとんと胸に落ちるように、しっくりときた。

僕の呪いは、罰ではなかった。

それは、僕が本当の自分を取り戻し、星奈と出会うための、神様がくれた、少しだけ手荒な道標だったのかもしれない。

「夏月くん? 本当に、どうしたの?」

イヤホンから聞こえる星奈の声が、僕を現実へと引き戻した。

「……いや、なんでもないんだ。本当に」

今度の言葉は、嘘ではなかった。

僕の心は、不思議なくらい、晴れやかだったから。

「ただ、ちょっとな。……奇跡って、本当に、あるんだなって思っただけ」

「奇跡?」

「ああ。俺たちの夏は、奇跡の連続だったんだなって」

僕の言葉に、彼女は「ふふ」と、優しく笑った。

その夜、僕たちは、流星群が静まるまで、ずっと話を続けた。

僕の呪いが解けたことは、まだ、彼女には言わなかった。それは、ちゃんと彼女の顔を見て、直接、伝えたかったからだ。

夜が白み始め、東の空が少しずつ明るくなってきた頃、僕たちは通話を切った。

『ありがとう』と、最後に送られてきた彼女からのメッセージ。その隣には、満面の笑顔でピースサインをする、猫のスタンプが添えられていた。

僕は、夜明けの光の中で、一人、機材を片付けた。

身体は、疲労で鉛のように重い。けれど、心は、生まれて初めて感じるほどの、軽やかさと喜びに満ちていた。

僕は、助かったのだ。

そして、もしかしたら。もしかしたら、僕の祈りは、本当に、何らかの形で届いたのかもしれない。僕の寿命がどうなったのかは分からない。でも、彼女の未来は、きっと、明るい方に少しだけ、傾いてくれたのではないか。

そんな、何の根拠もない、けれど、確かな希望が、僕の胸にはあった。

帰り道、山の麓のバス停で始発のバスを待っていると、ポケットの中のスマホが震えた。

美咲さんからだった。

『星奈、今朝、検査の結果が出たって。数値、少しだけだけど、安定してるって! お医者さんも、びっくりしてたらしいよ!』

そのメッセージを読んだ瞬間、僕は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。

涙が、溢れて止まらなかった。

それは、悲しみの涙ではなかった。

僕の夏が、僕たちの夏が、最高の形で、奇跡と共に、今、新たな始まりを告げたのだ。

僕たちの物語は、まだ、終わらない。終わらせない。

朝焼けの光が、僕の涙で濡れた頬を、優しく、照らしていた。

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君と見上げた、最後の夏空 神楽 朔 @kagura_saku

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