潮の雨

二ノ前はじめ@ninomaehajime

潮の雨

 しおの雨が降っていた。

 その雨は、異常なほど塩化ナトリウムを含んでいた。要するに海水と同じ成分で、海中でしか生息しないプランクトンも発見された。複数の都道府県にまたがってこの異常気象が続いており、世界的に注目を集めている。

 テレビの中の専門家は、ある種のファフロツキーズ現象ではないかと指摘している。空から脈絡みゃくらくもなくかえるや魚が降ってくることだ。全世界でこの事例が報告され、一説では竜巻で巻き上げられた水中の生き物が落下してきているのではないかと言われている。ただ、気象庁では大規模な竜巻の発生を確認していないらしい。

 何にせよ、幾日にもわたって続くのは説明がつかない。既に塩害による作物の悪影響が報告されており、金属が急激に錆びるなど人々の暮らしにも目に見える形で問題が現われている。

 大人と子供が手をつないだ、青い丸形の標識にさびが浮いていた。この異常気象が原因だ。例え前代未聞の事態におちいっても、私たちは生活をしなければならない。強い潮の香りに包まれて嗅覚が麻痺している。今のところ人体に影響が出たという報告はなかった。それでも雨傘を差すだけではなく、ポリエステル製のレインコートに身を包んでいる。

 お腹のふくらみが隠される。手を当てると、宿った命の胎動を感じる。どういった状況にあろうと、この子だけは守らなければならない。

 近くの産婦人科で診察を受けた。胎児は順調に成長しており、半年後には出産を迎えるだろう。私は祈った。一刻も早く、この雨が止んでほしい。

 手早く買い物を済ませて帰宅する予定だった。この天候と午前中であるためか、人通りは途絶えている。濁った空の下、傘を差して長靴の底で水飛沫を弾く。濡れた歩道の先に、流線形の影を見た。手足がなく、何度も跳ねている。フードの奥で目をらしながら、その物体を見極めた。

 魚だった。目がえぐれている。

 驚く間もなく、空から次々と魚影ぎょえいが落ちてくる。傘の上部が魚を弾き、思わず握り締めた柄に衝撃が伝わる。周囲の路面には大勢の拍手にも似た、跳ねる音が満ちた。

 しばらくまぶたつむって固まっていた。やがて魚が落下する現象は止み、尾を打擲ちょうちゃくする音も小さくなっていった。降りしきる雨の音が勝り、鼓膜を包む。その中に生々しい不協和音が入りこんだ。何かを噛み千切り、咀嚼そしゃくしている。

 恐る恐る傘を傾けて、そのみなもとを辿った。横たわる魚の群れの中に、小柄な影がうずくまっていた。白く豊かな尾を後ろに垂らして、最初は犬か何かだと思った。違う。目のない魚を片手で掴んで、その横腹に食らいついている。顎が上下するたびに、咀嚼する音が響いた。

 あれは人だ。少なくとも、私にはそう思えた。

 白い尾に見えていたのは、長く伸びた毛髪だった。剥き出しになった足の裏をこちらに向けて、全裸の子供に思えた。異様な光景だった。夥しい魚の中心で両膝をつき、その身をむさぼっている。

 不意に目が合った。瞳孔が縦に裂けていた。

 身がすくんだ。傘を手放して、尻餅をつく。その拍子でレインコートの下で肌身離さず持ち歩いていたお守りがこぼれた。雨の中でかすんだ人影が立ち上がり、白い髪の毛を肢体にまとって近づいてくる。その姿は、肘から下の右手が失われていた。

 口の周りが血で汚れた顔面を上げる。左目ごと顔の一部が欠けており、片方の瞳だけがこちらを映していた。その容貌はとても尋常じんじょうではなかった。

 正気の沙汰さたではない。立ち上がれないまま、お腹を庇って後ずさる。死屍しし累々るいるいの中を縫って、異形いぎょうの子供が目前まで迫る。息を詰めた。残った左手をこちらに差し向ける。その爪は長く、指の股には薄い水かきが張られていた。

 鋭い爪に引き裂かれる寸前で、白い子供が残った眼球を巡らせた。レインコート越しに膨らんだ腹部に目を移し、次いですぐ傍らの地面を見る。引っ繰り返った傘のそばに落ちていたのは、安産祈願のお守りだった。

 長い爪を伸ばし、その紐をつまんだ。小さなお守りをぶら下げ、私の前に差し出した。

 その欠けた顔は、なぜだか泣き出しそうに笑っていた。

 呆然自失としていた。気づけば白い子供の姿はなく、雨に打たれた腹の上には安産祈願のお守りが置かれていた。

 なまぐさい死臭の中で、潮の雨だけが静かに降っていた。

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