空へ 夢へ

@Moriuta

空へ 夢へ

またE判定か。

模試の結果が返された瞬間、僕はその紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。赤く囲まれた「E」の文字が、まるで僕の存在そのものを否定しているようだった。教室のざわめきが遠くに感じる。誰かが笑っている。誰かがため息をついている。

隣の席の彼が、僕の肩を軽く叩いた。

「どうだった?」

僕は紙を見せた。彼は自分の結果も見せてきた。A判定。T大医学部志望の彼は、いつも通りの成績だった。僕とは違う世界にいる人間だ。

「勉強、教えようか?」

彼の声は優しかった。いつも僕のことを気にかけてくれる。でも、僕にはその優しさが苦しかった。彼の言葉は、僕の無力さを突きつける。

「いいよ。自分でやる。」

僕は無理に笑って答えた。彼は少し眉をひそめたけど、それ以上は何も言わなかった。

教室の隅に転がっていたサッカーボールが目に入った。体育の授業で使われたまま、誰にも気にされず放置されている。僕は目をそらした。

家に帰る道すがら、僕はずっと紙を握りしめていた。くしゃくしゃになった模試の結果。何度見ても「E判定」は消えない。頭の中では、父の声が響いていた。「K大理工学部ですらE判定か」。まだ言われてもいないのに、もう聞こえてくる。

玄関を開けると、家の空気が重く感じた。リビングでは父がいつものように新聞を広げていた。僕が入ると、新聞の端をゆっくりと下げて、僕を見た。

「模試の結果は?」

僕は黙って紙を差し出した。父はそれを受け取り、目を通す。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じた。

そして、机に紙を叩きつける音が響いた。

「お前は何をしているんだ?」

その言葉は、僕の胸を突き刺した。父の声は怒りではなく、失望と軽蔑に満ちていた。

「弟を見ろ。医者になるために、毎日努力している。お前はなんだ。勉強から逃げてばかりだ。」

母はキッチンで皿を洗っていた。僕の視線に気づいても、何も言わなかった。成績不振になってからのこの1年間は、僕は家族の中で透明な存在だ。

自室に戻ると、クローゼットの奥にしまったスパイクが目に入った。埃をかぶり、色も褪せていた。触れることすらできなかった。あれは、僕が本当にやりたかったことの象徴だった。


その夜、僕はマンションの屋上に立った。風が吹いていた。街の灯りが遠くに揺れていた。柵の前に立ち、下を見下ろした。

「僕がいなくなっても、誰も困らない。」

そう思った。涙は出なかった。ただ、心が空っぽだった。怒りも悲しみも、何も残っていなかった。

足を一歩、前に出した。その瞬間、何かが僕の中でほどけた気がした。重力が消えたような感覚。身体がふわりと浮いた。

目を開けると、僕は空にいた。羽があった。風を感じていた。僕は鳥になっていた。


空を飛ぶ日々は、とても新鮮だった。風の匂い、雲の感触、地上を見下ろす視界の広さ。すべてが僕にとって未知で、自由だった。どこにでも行ける。時間の制限もない。


でも、時間が経つにつれて、その自由は少しずつ色褪せていった。空は広いけれど、どこへ行っても同じだ。飛んで、探して、食べて、眠るを繰り返すだけの毎日。誰にも否定されない代わりに、誰にも認められない。


秋が近づくと、風は冷たくなり、餌も減ってきた。空腹は以前より鋭く、羽ばたく力も弱まっていた。他の鳥との争いも増えた。僕は、ただ生き延びるために飛んでいた。


ある日、ふらふらと飛んでいると、校庭でサッカーをしている小学生たちが目に入った。ボールを追いかける姿。歓声。

…僕が本当にやりたかったこと。サッカー選手になる夢。

あの頃の僕は、ボールを蹴るだけで幸せだった。誰かに認められなくても、自分が好きなことをしていた。あの感覚を、僕はずっと忘れていた。

その瞬間、背後に気配を感じた。振り返る間もなく、鋭い爪が僕の羽をかすめた。猛禽だ。冷たい目で、僕を狙っていた。

必死に逃げた。羽ばたきながら、心臓が爆発しそうだった。空は広いはずなのに、逃げ場がない。僕は、ただの小さな命だった。自由なんて…幻想だった。

そして、意識が遠のいた。


気づくと、僕はまた人間に生まれ変わっていた。目を開けた瞬間、地面の感触が足に伝わってきた。呼吸は浅く、でも確かに空気を吸っていた。僕は生きていた。


目を覚ました僕は、また高校生になっていた。汗をかきながらボールを蹴る日々が戻ってきた。グラウンドの土の匂い、スパイクの重み、風を切る感覚。すべてが懐かしくて、でも新しかった。

最初は体が思うように動かなかった。筋肉は鈍っていて、息もすぐに上がった。それでも、僕は毎日練習した。誰かに認められるためじゃない。ただ、自分がやりたいから。あの頃の僕が忘れてしまった感覚を、もう一度取り戻すために。

放課後、誰もいないグラウンドで一人ボールを蹴る時間が好きだった。夕焼けが空を染める頃、僕は何度もシュートを打った。うまくいかない日もあった。でも、悔しさすら心地よかった。

ある日、練習中に蹴ったボールが、一羽の鳥に当たりそうになった。鳥が怒鳴った。

「おい、危ないだろ!」

その声に、僕は驚いて振り返った。鳥が僕を見ていた。目が合った瞬間、僕はその目に見覚えがあることに気づいた。

「…君?」

鳥は羽を広げ、少しだけ笑ったように見えた。

「やっと気づいたか。こっちから見てたんだよ、ずっと。」

彼だった。彼も鳥に生まれ変わっていた。


彼は前世の話をしてくれた。

医者になり、美しい妻と結婚し、子供も生まれて、順風満帆の人生だった。自分の人生は何の問題もなく幸せだと信じていた。でも、子供が受験に失敗して自宅に引きこもるようになってから、その幸せは崩壊した。妻が苦しそうに毎日何かを訴えていたのに、彼は仕事が忙しく、子供と向き合わなかった。次第に子供が暴力を振るうようになり、妻は家から出て行った。子供は外で問題行動を繰り返すようになり、そのたびに彼は警察と被害者に謝りに行った。そんな生活に疲れ果て、彼の人生をめちゃくちゃにした子供を刺して、終わりにした。


「人間の人生なんて、虚しいだけだ。だから鳥になった。自由で、気楽に生きられる。」

彼の声には、諦めと少しの誇りが混じっていた。僕はしばらく黙っていた。でも、心の中にははっきりとした思いがあった。

「鳥こそ虚しいよ。何もできない。ただ飛んで、餌を探して、死ぬだけだ。それより、自分が本当に本当にやりたいことを追いかけるのが、誰にとっても一番の幸せだと思う。」

彼は僕を見つめた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。やがて、彼は羽ばたいた。

「それでも僕は、自由を選ぶよ。」

そう言って、彼は空へと飛び去っていった。

僕は空を見上げた。風が吹いて、空が広がっていた。

その夜、僕は部屋の隅に置いてあったスパイクを手に取った。埃を払って、紐を結び直す。窓の外には星が瞬いていた。僕はボールを抱えて、静かに外へ出た。

グラウンドに立ち、ボールを足元に置く。深呼吸をして、蹴り出す。風を切る音が、夜の静けさに溶けていった。

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