隣の君
舞夢宜人
偶然の出会いが、僕の平凡な日常を特別な物語に変えていく。
### 第1話:隣の君
引っ越しのトラックがアパートの前に止まると、僕は少し緊張しながら、見慣れない都会の風景を見上げた。新しい生活への期待と、慣れない環境への不安が胸の中で複雑に絡み合う。ここは、僕の故郷とは何もかもが違う。ビルが空に突き刺さるようにそびえ立ち、絶え間なく車の轟音が響き、人々は皆、忙しなく目的へと向かう。この街の速度に、僕の足はついていけるだろうか。
「増沢さん、荷物、これで全部だよ!」
トラックの運転手が大きな声をかけてきた。僕は慌てて頭を下げ、お礼を言う。作業を終えた男たちが去っていくと、僕は一人、がらんとした部屋の鍵を開けた。六畳一間の、決して広くはないが、僕だけの空間。窓からは向かいのアパートの窓が見えるだけで、人の気配は感じられない。一抹の寂しさを感じながら、僕は段ボールの山と向き合った。
まずは、ベッドからだ。慣れない説明書と格闘しながら、組み立てを始める。しかし、力加減を間違えたのか、最後のネジがどうしても締まらない。額に汗がにじみ、苛立ちが募る。思わず大きなため息をついた、その時だった。
「大丈夫ですか?」
突然、背後から優しい声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには見慣れない女性が立っていた。つややかな黒髪は肩にかかる長さで、大きな瞳は好奇心に満ちている。彼女は僕の苦戦ぶりを見て、にこりと微笑んだ。
「あの、隣に引っ越してきた者なんですけど、物音が聞こえたから気になって……」
「あ、はい。僕、今日からここに。増沢康之、です」
「花村彩花です。私もこのアパートの隣の部屋に住んでるんですよ。もしかして、ベッドの組み立てですか?よかったら、手伝いましょうか?」
彼女はそう言うと、すっと僕の隣にしゃがみ込んだ。その距離に、僕は思わず心臓が跳ね上がる。不意に香った、石鹸のような、清潔感のある香りが、僕の心を落ち着かせてくれた。彼女の細い指が器用にネジを回していく。さっきまで僕が格闘していたネジが、あっという間に締まった。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえいえ、お互い様ですから。これから、よろしくお願いしますね、増沢さん」
彩花はそう言って立ち上がり、僕に笑顔を向けた。その屈託のない笑顔に、僕はなぜか胸の奥が温かくなるのを感じた。
その日の夜、僕は組み上がったばかりのベッドに横たわり、天井を見つめていた。彩花という、隣人の存在。そして、その隣人が僕と同じくらいの年齢の女性だということ。壁一枚隔てた向こうに彼女がいると思うと、なんだか不思議な気持ちになった。都会での孤独な新生活を覚悟していたけれど、もしかしたら、僕の日常は少しだけ賑やかになるのかもしれない。
翌朝、大学の入学式に向かうため、アパートの玄関を出ると、隣のドアが開いた。
「増沢さん、おはよう!」
彩花が、昨日と同じ優しい笑顔で僕に手を振った。
「花村さん、おはよう。もしかして、大学、今日ですよね?」
「はい!もしかして、増沢さんも?」
「はい。もしかして、同じ大学だったりして……」
僕の冗談交じりの言葉に、彩花は笑った。そして、彼女の口から出たのは、僕と同じ大学名だった。僕の日常は、もうすでに特別な物語へと変わり始めていた。
### 第2話:初めての共同作業
入学式が終わった日の夕方、僕は自室で段ボールの片付けをしていた。まだ照明が取り付けられていない天井のソケットを見上げ、ため息をつく。引っ越しの時に運転手から渡された電球は、どこにいったか分からない。スマートフォンのライトを頼りに段ボールを漁るが、見つかる気配はない。このままでは今夜は真っ暗な部屋で過ごすことになる。そう考えると、途端に心細さが募った。
その時、ドアを叩く音がした。こんな時間に誰だろうかと訝しみながらドアを開けると、そこには花村彩花が立っていた。彼女はプラスチックの買い物袋を両手に下げ、僕を見てにっこりと微笑んだ。
「増沢さん、お疲れ様です!もしよかったら、これ。おすそ分けです」
そう言って彼女が差し出したのは、スーパーの惣菜と、缶ビールだった。驚いて受け取ろうとすると、彼女は部屋の中を覗き込み、一瞬、目を丸くした。
「あれ?増沢さん、もしかして、電気……?」
「あ、はい。電球がどこか行っちゃって……」
僕が気まずそうに答えると、彼女は少し考えてから、ぱっと顔を輝かせた。
「もしかして、電球の予備、ありますか?私、得意なんですよ、こういうの!」
「ありますけど、大丈夫ですか?」
「お任せください!」
彼女はそう言うと、手際よく僕の部屋に入ってきた。僕は慌てて彼女を招き入れる。すると、彼女は素早く部屋の隅に置かれた脚立に目を留め、スタスタと近づいていった。そして、僕が探しきれなかった段ボールの中から、目的の電球をあっという間に見つけ出した。
「ありました!やっぱりこういうのは、女性のほうが得意なのかもしれませんね」
彼女は得意げに笑い、脚立に登り始めた。その無防備な姿に、僕は慌てて目を伏せる。
「増沢さん、脚立、しっかり押さえててくださいね!」
彩花の明るい声に、僕は慌てて脚立を両手で押さえた。彼女の指示に従い、僕はただ黙ってその作業を見守った。ソケットに電球がはまり、カチリと音が鳴る。そして、壁のスイッチを入れると、部屋全体が温かい光に包まれた。
「わぁ、明るい!」
彩花が嬉しそうに声を上げた。僕もほっと息をつき、彼女に感謝を伝えた。
「本当にありがとうございます、花村さん。助かりました」
「どういたしまして!それにしても、増沢さんって、本当に真面目ですね」
彼女は脚立から降りると、僕をまじまじと見つめた。そのまっすぐな視線に、僕は再び心臓が跳ねるのを感じた。
「さっきも、私が脚立に登ってる間、ずっと下を見てましたよね?なんか、エッチな想像でもしてるのかと思いました」
彩花は悪戯っぽく笑い、僕の肩を軽く叩いた。僕は顔が熱くなるのを感じた。
「そんなことないです!ただ、あの、失礼がないようにって……」
「ふふ、冗談ですよ。でも、そういう増沢さん、面白いです」
僕が真っ赤になって否定する様子を見て、彩花はさらに楽しそうに笑った。その笑顔は、僕の心を温めてくれる、優しい光のようだった。
電球の交換という些細な出来事をきっかけに、僕たちの距離はぐっと縮まった。同じアパートの隣人であり、同じ大学の同級生。これから始まる新生活は、きっと彼女の存在で、何倍も色鮮やかなものになるだろう。僕はそう確信した。
### 第3話:大学での再会
入学式の翌日、僕は真新しいキャンパスの正門をくぐった。広大な敷地に、歴史を感じさせる煉瓦造りの校舎が立ち並んでいる。多くの学生が行き交い、皆が皆、希望に満ちた顔をしているように見えた。僕もその一人になれたことに、高揚感を覚えた。
自分の所属する学科の教室を探し、掲示板に貼り出された新入生の名簿を確認する。僕の名前の隣には、僕の故郷とはまるで違う名前が並んでいた。見知らぬ人々と、これから四年間を共に過ごすのかと思うと、わずかに身が引き締まる思いがした。
その時、名簿の下の方に、見慣れた名前を見つけた。「花村彩花」。僕は思わず二度見した。まさか、同じアパートの隣人であり、昨日会ったばかりの彩花が、僕と同じ学科、同じクラスだなんて。こんな偶然があるだろうか。運命のような、不思議な縁を感じた。
教室に入ると、すでに多くの学生が席についていた。僕は空いている席を見つけて座り、持ってきた教科書を開いた。すると、僕の隣の席に、ふわりと柔らかな香りが漂ってきた。顔を上げると、彩花がにこやかな笑顔で立っていた。
「増沢さん!やっぱり同じクラスだったんですね!」
彼女はそう言うと、僕の隣に座った。彩花の、澄んだ大きな瞳が僕をまっすぐに見つめる。その視線に、僕は戸惑いながらも、どこか安心感を覚えた。
「本当に偶然だね。まさか、こんな広い大学で同じクラスになるなんて」
「はい、びっくりしました!でも、増沢さんがいてくれて、なんだか心強いです」
彩花はそう言って、僕にいたずらっぽい笑みを向けた。彼女の言葉に、僕の心の緊張が少しずつ解けていく。都会の真ん中で、一人きりではないという事実に、安堵のため息をついた。
講義が始まると、僕たちは真剣にノートを取り始めた。時折、彼女の消しゴムの匂いや、シャープペンシルの軽快な音が聞こえてくる。彩花が教科書に線を引くたびに、彼女の腕から、微かに甘い香りが漂ってきた。それは、僕の集中力を少しだけ奪い、不思議な心地よさを運んできた。
「ねぇ、増沢さん。この教授、ちょっと早口だと思いませんか?」
休憩時間になり、彩花が僕に話しかけてきた。
「うん、ちょっと聞き取るのが大変だね」
「よかった、私だけじゃなくて。増沢さん、ノート、すごく綺麗ですね。もしよかったら、後でノートを見せてもらえませんか?」
彼女の頼み事を断る理由なんて、僕にはなかった。
「いいよ、いつでも」
僕がそう言うと、彩花は本当に嬉しそうな顔で、ありがとう、と微笑んだ。
大学での再会は、僕たちの関係をさらに深めるきっかけとなった。隣の部屋に住んでいるだけでなく、同じ学科の同級生。僕たちの日常は、これからもずっと、壁一枚を隔てた二人の物語として、続いていくのだろう。僕は、これからの大学生活が、以前よりもずっと楽しみになっていた。
### 第4話:勉強会と心の距離
大学の授業が始まって二週間が経った頃、最初のグループ課題が発表された。僕たちは、彩花、そして別のクラスメイト二人と四人グループを組むことになった。
「よし、頑張ろうね、増沢くん!」
彩花はそう言って、僕の目の前でガッツポーズをした。その明るい笑顔に、僕の心の緊張はすっと和らいだ。課題のテーマは、都市計画に関するもの。僕の専攻分野で、少しだけ自信があった。
「花村さん、僕の部屋で勉強会しない? 課題に必要な本、僕の部屋にあるから」
「いいんですか!? やったー! じゃあ、今日、みんなで集まりましょう!」
結局、その日の勉強会は僕と彩花だけの二人きりになった。他のメンバーは都合が悪くなったらしい。僕は少しばかり戸惑ったが、彩花は気にする様子もなく、僕の部屋にやってきた。
彩花が部屋に入ってくると、途端に部屋の雰囲気が変わった。普段は僕一人で静まり返っている部屋が、彼女の存在だけで明るく、温かい空気で満たされた。彩花は僕の部屋の窓から見える景色を眺めたり、壁に飾られたポスターに興味を示したり、子供のように目を輝かせていた。
「増沢くんの部屋、落ち着くね。なんだか、増沢くんそのものって感じがする」
彼女はそう言いながら、床に広げた資料の上に腰を下ろした。僕も彼女の隣に座り、課題について話し始めた。最初は真面目に議論していたが、いつの間にか他愛もない話になっていた。
「ねぇ、増沢くんって、どうしてこの大学に入ろうと思ったの?」
彩花の質問に、僕は少し躊躇した。この街に出てきた理由を、誰かに話すのは初めてだったから。
「僕、田舎の出身で、昔から都会に憧れてたんだ。たくさんの人がいて、色々なものが溢れてて。この街に来れば、何かが変わるんじゃないかって……」
僕が正直に話すと、彩花は僕の言葉をじっと聞いていた。彼女の大きな瞳が、僕の心の奥底を見透かしているような気がした。
「そっか。増沢くんは、この街で新しい自分を見つけたいんだね。なんか、素敵だなぁ」
彩花はそう言って、僕の目を見て微笑んだ。その瞬間、僕の胸に、今まで感じたことのない温かい感情が湧き上がってきた。それは、単なる友人に対する感情とは少し違っていた。
勉強会の帰り際、彩花が玄関で振り返った。
「ねぇ、増沢くん。今日の勉強会、すごく楽しかった。またやろうね!」
彼女はそう言って、僕の腕を軽く叩いた。その小さな触れ合いに、僕の心臓は激しく鼓動を打った。そして僕は、この胸の高鳴りが、彼女への特別な感情であることを、はっきりと自覚した。壁一枚隔てた隣にいる彼女は、僕の心を揺さぶる、唯一無二の存在になりつつあった。
### 第5話:初めてのデート
勉強会から一週間後、僕は講義が終わってすぐに彩花に誘われた。
「増沢くん、今日、このあと空いてる? よかったら、一緒にお買い物に行きませんか?」
「買い物?」
「うん! 大学からすぐのところに、新しいショッピングモールができたんだって。私、一人で行くのはちょっと心細くて……」
彩花はそう言って、僕に期待に満ちた瞳を向けた。僕は、彼女の誘いを断る理由なんてなかった。むしろ、内心では嬉しさで胸が躍っていた。
「うん、いいよ。行こうか」
僕が答えると、彩花は本当に嬉しそうな笑顔を見せた。僕たちは二人で、大学から徒歩五分ほどの場所にある、真新しいショッピングモールへと向かった。
中に入ると、そこは別世界だった。煌びやかな照明がフロアを照らし、様々な店が軒を連ね、活気にあふれている。人の波に少し圧倒されながらも、隣に彩花がいることで、僕は不思議と落ち着いていた。
「わぁ、すごい……! 見て、増沢くん! あのお店、すごく可愛い!」
彩花は子供のように目を輝かせ、次々と興味のある店に足を運んでいく。僕は彼女の後を追いかけながら、その無邪気な様子を愛おしく感じていた。彼女の髪がふわりと揺れ、甘いシャンプーの香りが僕の鼻先をくすぐる。
「増沢くんは、何か買いたいものある?」
立ち止まった彩花が、僕に尋ねた。
「うーん、特には……」
「そっか。じゃあ、付き合ってくれてありがとう。お礼に、何か奢るよ」
「いやいや、そんな。いいよ」
「ダメ! せっかくだから! 増沢くん、何がいい?」
彼女に押し切られ、僕は苦笑しながら、近くにあったカフェを指さした。
「じゃあ、コーヒーでも」
「よーし、行こう!」
僕たちはカフェに入り、窓際の席に座った。彩花はホットココアを、僕はアイスコーヒーを注文した。温かい飲み物を片手に、僕たちはまた他愛のない話に花を咲かせた。故郷でのこと、大学でのこと、そしてこれからのこと。彼女の話は、いつも僕の心を明るくしてくれた。
「私、大学に入って、本当に増沢くんと出会えてよかった」
彩花が、ぽつりと呟いた。僕は彼女の言葉に、思わず心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。
「僕もだよ」
僕が素直に答えると、彼女は少しだけ恥ずかしそうに俯いた。その姿に、僕はたまらなく愛おしさを感じた。
買い物を終え、アパートへの帰り道。夜風が少し冷たかったが、僕たちの心は温かかった。僕たちの距離は、壁一枚どころか、もうほとんど隔たりがないように思えた。
「今日はありがとう、増沢くん。すごく楽しかった!」
彩花は、アパートの前で僕に笑顔を向けた。
「僕も。また、行こうね」
僕は、自然とそう口にしていた。彼女がドアを開け、自分の部屋に入っていく。僕は、自分の部屋の鍵を開けながら、もう一度、彼女の部屋のドアに目をやった。
壁一枚隔てた向こうに、彼女がいる。そう思うだけで、僕の心は満たされていた。今夜は、きっといい夢が見られるだろう。
### 第6話:突然の告白
初めての街でのデートを終え、僕は彩花と二人でアパートへの帰り道を歩いていた。夜の帳が降り、街灯の柔らかい光がアスファルトを照らしている。昼間の賑わいが嘘のように静まり返った通りに、僕たちの足音だけが響いていた。
「今日は本当にありがとう、増沢くん。久しぶりに、こんなに楽しい時間を過ごせた」
彩花が、少しだけはにかみながら僕に微笑みかけた。その笑顔を見るたびに、僕の胸は温かいもので満たされていく。
「僕も。花村さんと一緒だと、なんだか時間があっという間に過ぎる気がするよ」
僕が素直にそう言うと、彼女は嬉しそうに俯いた。その横顔が、街灯の光に照らされて、美しく輝いて見えた。
アパートが近づくにつれ、僕の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。今、この感情を彼女に伝えないと、後悔するかもしれない。このまま、何事もなかったかのように彼女を部屋に帰してしまうのは嫌だ。
「あのさ、花村さん」
僕は意を決して、彼女に声をかけた。彩花は僕の言葉に、不思議そうな顔で顔を上げた。
「どうしたの?」
「えっと、その、なんて言ったらいいか……」
言葉が喉につかえ、僕は俯いてしまう。手のひらにじんわりと汗がにじむ。普段の真面目で不器用な自分を、今ほどもどかしいと思ったことはなかった。
「増沢くん?」
彩花が、僕の顔を覗き込むように近づいてきた。彼女の優しい香りが、僕の全身を包み込む。その香りに背中を押されるように、僕は震える声で言葉を紡いだ。
「僕、花村さんのことが好きです」
言ってしまった。たった一言なのに、全身の力が抜けていくようだった。僕は彼女の反応が怖くて、顔を上げることができない。沈黙が、僕たちの間に重くのしかかる。
どれくらいの時間が経っただろうか。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。その沈黙を破ったのは、彩花の声だった。
「……増沢くん、ありがとう」
その声は、驚きでも、拒絶でもなく、ただただ優しい響きを持っていた。僕は意を決して顔を上げる。彩花は、少しだけ顔を赤らめていたが、その表情は穏やかで、微笑みを浮かべていた。
「あの、返事は……」
僕が恐る恐る尋ねると、彼女はふわりと笑った。
「返事は、また今度ね。でも、増沢くんの気持ち、すごく嬉しい」
彩花はそう言って、僕の腕にそっと手を添えた。その手の温もりが、僕の心に安堵をもたらしてくれる。彼女の言葉は、僕の告白を否定するものではなかった。それは、希望の光だった。
僕たちはアパートの前に着いた。いつものように彼女が先に入っていく。その背中を見送りながら、僕は自分の心臓の鼓動が、先ほどよりもずっと穏やかで、そして力強いものであることを感じていた。
壁一枚隔てた隣の部屋に、僕の心を揺さぶった彼女がいる。彼女のくれた希望を胸に、僕は明日からの日々を、もっと大切に生きていこうと、そう心に決めた。
### 第7話:それぞれの過去
彩花に告白をしてから、僕たちの関係は少しだけ変わった。彼女は依然として明るく接してくれたが、時折、僕を見るその瞳に、何かを迷うような、複雑な感情が宿っているように感じられた。僕はその理由を知りたかった。そして、僕が知らない彼女の一面を、もっと深く知りたいと思った。
数日後、大学の図書館で、僕たちは偶然再会した。僕は課題の資料を探し、彼女は専門書を読んでいた。
「花村さん」
僕が声をかけると、彼女は顔を上げ、少し驚いたように目を瞬かせた。
「増沢くん、こんにちは。どうしたの?」
「いや、特には。ちょうど、花村さんに会いたいなって思ってたところだったから」
僕の言葉に、彩花は少しだけ頬を赤らめた。そして、彼女はそっと僕の隣の椅子を指差した。
「よかったら、座って話しませんか?」
僕は彼女の隣に座り、お互い何も話さないまま、数分が過ぎた。僕は、この沈黙が心地よかった。彼女のそばにいるだけで、心が満たされるのを感じた。
「あのね、増沢くん」
彩花が、先に口を開いた。
「この前、告白してくれて、本当に嬉しかった。ありがとう」
「うん」
「でも、私、増沢くんみたいに、誰かに何かを真剣に伝えるのが苦手で……」
彼女はそう言うと、持っていた本をぎゅっと握りしめた。その姿は、いつも明るく振る舞っている彼女とは全く違い、どこか寂しそうで、か細く見えた。
「私、今まで、誰かと深く関わるのが怖かったの。親の仕事の関係で、引っ越しが多くて……仲良くなっても、すぐに別れが来るから。だから、あんまり本気にならないように、いつも自分に言い聞かせてたんだ」
彩花の言葉に、僕は胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼女の明るさの裏に、そんな寂しさが隠されていたなんて、想像もしていなかった。
「僕も、似たようなところがあるんだ。田舎から出てきて、誰も知り合いがいないから、最初は本当に不安だった。もしかしたら、僕の故郷にいる家族や友達とは、もう会うことはないかもしれない。そう思うと、新しい人間関係を作るのが怖かった」
僕がそう言うと、彩花はゆっくりと顔を上げ、僕の目を見た。その瞳は、涙で少し潤んでいたが、安堵に満ちていた。
「そっか。増沢くんも、そうだったんだね」
「うん。でも、花村さんが隣にいてくれたから、僕は寂しいって感じなかった。花村さんのことをもっと知りたいって思ったから、もっとこの街にいたいって思うようになった。花村さんと話していると、心が温かくなるんだ」
僕の言葉に、彩花は静かに微笑んだ。その微笑みは、今まで見た中で一番、彼女の心の内側を映し出しているように思えた。
「ありがとう、増沢くん。私も……増沢くんのこと、もっと知りたいな。これからも、たくさんお話ししようね」
彼女はそう言って、僕の手に自分の手を重ねた。図書館の静かな空間に、僕たちの鼓動だけが、そっと響き渡っていた。言葉を交わし、互いの過去を打ち明けたことで、僕たちの心の距離は、一気に縮まった。壁一枚を隔てた二人の部屋が、今、確かな絆で結ばれたような気がした。
### 第8話:交際開始
お互いの過去を打ち明け合ったあの日から、僕たちの心の距離は急速に縮まっていった。言葉を交わすたびに、壁一枚隔てた隣人という関係が、かけがえのない大切な存在へと変わっていくのを実感していた。彩花の言葉の端々に隠された寂しさも、僕の不器用さも、すべてを包み込むように、僕たちの心は深く結びつき始めていた。
ある日の夕方、僕はアパートの自室で夕食の準備をしていた。すると、ドアがノックされた。開けると、そこには彩花が立っていた。彼女は少しはにかんだように微笑みながら、僕に小さな包みを差し出した。
「増沢くん、あの、これ……」
「ん? 何?」
「この前、お料理上手だって言ってたでしょう? だから、これ、よかったら使ってください」
包みを開けると、中には可愛らしいデザインのエプロンと、小さな瓶に入ったハーブソルトが入っていた。
「ありがとう、花村さん。でも、なんで?」
「あの、それは……」
彩花は顔を赤らめ、視線を泳がせた。その様子に、僕は彼女の気持ちを察した。そして、その気持ちを、僕の口から確かめたくなった。
「もしかして、花村さん、僕のことが、好き?」
僕が恐る恐る尋ねると、彼女は一瞬、はっと息をのんだ。そして、真っ直ぐに僕の目を見て、静かに頷いた。
「うん……好き。増沢くんの真面目なところも、不器用なところも、全部。増沢くんと一緒にいると、なんだかすごく落ち着くの。私のことを、ちゃんと見てくれているって思うから」
彼女の言葉は、僕の心を温かく満たしてくれた。僕の告白から、ずっと彼女の返事を待っていた。その返事が、今、目の前で、僕の心を温かく満たしてくれた。
「僕も、花村さんのことが好きだよ。誰と話すよりも、花村さんと話している時が一番楽しいし、心が安らぐ。これからもずっと、花村さんと一緒にいたい」
僕がそう言うと、彩花は嬉しそうに涙ぐみ、僕にそっと抱きついてきた。彼女の温かくて柔らかい身体が僕の胸に触れ、僕の心臓は激しく鼓動を打った。そして、僕はその鼓動が、今まで感じたことのない、確かな愛の証であることを知った。
「じゃあ、私たち……恋人、だね」
彩花が、僕の胸に顔を埋めたまま、嬉しそうに呟いた。僕は、その言葉に力強く頷いた。
「うん。よろしく、彩花」
その日から、僕たちの日常は、たった一人だった孤独な日々から、二人で紡ぐ温かい日々へと変わった。そして、壁一枚隔てた二つの部屋は、今、確かな愛で結ばれ、一つの物語を歩み始めた。
### 第9話:二人だけの時間
彩花と恋人になってから一週間。僕たちはほとんど毎日、一緒に時間を過ごしていた。大学の講義を終えた後、二人でカフェに寄ったり、夕食を一緒に作ったり。壁一枚隔てた隣の部屋に住んでいることが、僕たちの関係をより特別なものにしていた。いつでも会える、という安心感と、いつでも隣に彼女がいるという幸せ。僕の平凡だった日常は、鮮やかな色に満ちていた。
ある日の夜、彩花が僕の部屋にやってきた。
「増沢くん、今日、泊まっていってもいい?」
彼女の突然の申し出に、僕は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「いいけど、どうしたの?」
「んー、なんとなく。増沢くんと、もっと一緒にいたいなって思ったから」
彩花はそう言って、僕の腕にそっと自分の身体を寄せた。彼女の頬の温かさが僕の腕に伝わり、僕は少しだけ緊張しながら、彼女の肩を抱き寄せた。
「僕もだよ」
僕は彼女の髪に顔を埋め、その柔らかな感触と、甘い香りを深く吸い込んだ。
それから僕たちは、ベッドの上で向かい合って座った。彩花は少しだけ恥ずかしそうに、僕の顔を見つめている。彼女の大きな瞳に、僕の顔が映っていた。その瞳に吸い込まれるように、僕はゆっくりと彼女に顔を近づけた。そして、僕たちの唇が、そっと触れ合った。
それは、柔らかくて、温かくて、そして少しだけ震えていた。初めてのキス。僕の身体に電流が走ったような感覚が広がり、心臓が大きく高鳴った。彩花の唇が離れていくと、彼女は目を閉じたまま、ふわりと微笑んだ。その表情は、幸せに満ちていて、僕はたまらなく愛おしさを感じた。
「増沢くん、もう一度」
彼女はそう囁くと、今度は彼女から僕にキスをしてきた。それは先ほどよりも少しだけ深く、甘いキスだった。僕は、そのキスに答えるように、彼女の腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。二人の身体が密着し、お互いの鼓動が伝わってくる。
「彩花……」
僕は彼女の名前を呼んだ。彩花は僕の言葉に応えるように、ゆっくりと目を閉じ、僕に身を任せた。
その夜、僕たちは初めての夜を過ごした。部屋の明かりを落とし、月の光だけが差し込む中で、僕たちは互いの温もりを確かめ合った。それは、今まで感じたことのない、安らぎと、そして興奮に満ちた時間だった。
僕たちは、言葉を交わすことなく、互いの服を脱がせていった。一枚ずつ、僕たちの間を隔てていた布がなくなっていくたびに、二人の間に漂う熱が、濃く、甘く、そして苦しくなるのを感じた。僕の視界には、月の光に照らされた彩花の身体が映っていた。その滑らかな肌は、僕の熱い視線を吸い込むように輝いていた。
「増沢くん……」
彩花が、僕の顔を覗き込むように近づいてきた。彼女の柔らかな髪が、僕の頬をそっとくすぐる。その香りに、僕の心臓は激しく鼓動を打った。
「僕、彩花のこと、もっと知りたい」
僕がそう言うと、彩花はふわりと微笑んだ。そして、彼女はゆっくりと僕のYシャツのボタンに手をかけた。その小さな触れ合いに、僕の身体の奥底から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「……私も、増沢くんのこと、もっと知りたい」
彼女はそう囁きながら、一番上のボタンを外し、次に下のボタンへと手を滑らせていく。その指先が触れるたびに、僕の肌は粟立ち、熱を帯びていった。彼女の瞳は潤んでいて、僕の心の内側をすべて見透かすような、甘く強い光を宿している。僕はその視線から逃れるように、彼女の唇にそっとキスをした。先ほどよりも深く、そして熱を帯びたキス。唇が触れ合うたびに、甘い蜜が溶け合うような、とろける感覚が全身に広がっていく。
僕たちは、言葉を交わすことなく、互いの服を脱がせていった。一枚ずつ、僕たちの間を隔てていた布がなくなっていくたびに、二人の間に漂う熱が、濃く、甘く、そして苦しくなるのを感じた。僕の視界には、月の光に照らされた彩花の身体が映っていた。その滑らかな肌は、僕の熱い視線を吸い込むように輝いていた。
「増沢くん……」
彩花が僕の名前を呼んだ。その声は、どこか切なげで、僕の心臓を締め付けるような響きを持っていた。僕は彼女の柔らかい身体を抱き締め、ベッドに押し倒した。そして、彼女の身体に自分の身体を重ねた。
「彩花、愛してる」
僕の言葉に、彩花は静かに頷いた。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。それは、喜びと、そして僕たちの愛を確かめるための、温かい涙だった。
僕はゆっくりと、そして、彼女を大切にするように、彼女の身体へと進んでいった。初めての感覚に、彩花の身体が小刻みに震える。僕は彼女の髪を撫で、おでこにキスをしながら、彼女の心を落ち着かせるように、優しく囁いた。
「大丈夫。僕がいるから」
僕の言葉に、彩花は大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。そして、彼女の身体が、僕の侵入を、少しずつ受け入れていく。二つの身体が一つに溶け合うような、不思議な感覚。僕たちの心臓が、一つになって脈打っているように感じられた。
彩花の身体が、少しずつ僕の動きに合わせていく。僕は彼女の首筋にキスをしながら、彼女の鼓動が早くなっていくのを感じた。その鼓動は、僕の心を揺さぶり、僕たちの愛が、確かにここに存在していることを、何度も何度も伝えてきていた。
「増沢くん……」
彩花はそう言って、僕の背中に爪を立て、絶頂の感覚を全身で受け止めていた。僕もまた、彼女の反応に呼応するように、身体の奥から湧き上がる衝動を解放した。僕たちの熱い吐息が、部屋の空気に溶け合う。
僕たちは、一つになったまま、しばらくの間、何も話さなかった。ただ、互いの温もりを、感触を、そして存在を、深く感じ合っていた。
「増沢くん……私、本当に幸せだよ」
彩花が、僕の胸に顔を埋めたまま、そう囁いた。僕は彼女の髪を優しく撫で、ただ黙って頷いた。言葉はいらなかった。僕たちの心は、もう一つになっていた。壁一枚を隔てていた二つの日常は、今、完全に一つに溶け合い、僕たちは二人の、そして一つの物語を歩み始めた。
### 第10話:初めての喧嘩
彩花と恋人になり、初めて夜を共にしてから一週間が経った。僕たちの日常は、まるで砂糖をまぶしたように甘く、幸せな日々が続いていた。講義が終わればどちらかの部屋で夕食を作り、他愛のない話で夜が更けるまで笑い合った。壁一枚を隔てて眠りにつく夜は、孤独とは無縁で、僕の心はいつも満たされていた。
そんなある日のことだった。大学の課題で、僕の所属する都市計画サークルと、彩花が所属するデザインサークルが共同でプロジェクトを行うことになった。僕たちは二人で一つのチームになったが、それが、僕たちの間に初めての摩擦を生むきっかけになるとは、その時の僕は想像もしていなかった。
「ねぇ、増沢くん。このポスター、もっと色を明るくしたほうが良くない? こっちの方が、人の目に留まりやすいと思うんだけど」
「うーん、でも、このプロジェクトのコンセプトは『落ち着いた街並み』だから、あまり派手な色にすると、コンセプトとずれてしまうんじゃないかな」
「でも、注目してもらわないと、プロジェクトの意味がないじゃない」
彩花は、いつもの明るい笑顔ではなく、少しだけ険しい表情で僕に言い返した。僕も、真面目な性格が故に、彼女の意見を簡単に受け入れることができなかった。
「コンセプトを無視してまで、注目を集めるのは違うと思う。それに、彩花はいつもそうやって、人の意見を聞かずに突っ走るよね」
僕が意地悪な言葉を口にすると、彩花の顔から、さっと血の気が失われた。彼女は黙って、僕の顔をじっと見つめている。その瞳には、僕の言葉に傷ついたような光が宿っていた。
「……増沢くん、ひどい」
彩花はそれだけ言うと、僕の部屋から出て行ってしまった。残された僕は、ただ茫然と、閉まったドアを見つめることしかできなかった。
僕は、なぜあんなことを言ってしまったのだろう。彩花が部屋を出て行ってから、後悔の念が津波のように押し寄せてきた。彼女がどれだけこのプロジェクトに情熱を傾けていたか、僕には分かっていたはずなのに。不器用な僕の口から出たのは、彼女の気持ちを無視した、最低な言葉だった。
その夜、僕は自分の部屋に閉じこもった。彩花の部屋からは、何の物音も聞こえてこない。いつもなら聞こえてくる、彼女の楽しそうな話し声や、音楽の音も、今日は全く聞こえなかった。壁一枚隔てた向こうに、彼女がいる。でも、その壁は、僕たちの心の距離を映し出しているかのように、途方もなく遠く感じられた。
僕は、彼女に謝りたかった。けれど、どんな顔をして彼女のドアを叩けばいいのか分からなかった。もし、彼女がドアを開けてくれなかったらどうしよう。そんな恐怖が、僕の足をすくませる。
僕は、ベッドの上で丸くなり、ただただ、時間が過ぎるのを待つことしかできなかった。僕たちの間にできた、初めての亀裂。それは、僕の心に、小さな痛みを残していった。
### 第11話:すれ違う心
彩花が僕の部屋を出て行ってから、丸一日が経った。僕たちの間にできた、初めての亀裂。それは、思ったよりも深く、僕の心を蝕んでいた。僕は、彼女に謝るタイミングを何度も探したが、怖くてドアをノックすることができないでいた。
大学の講義でも、僕たちの距離は開いたままだった。いつも隣に座っていたはずの彩花は、僕から少し離れた席に座り、僕に視線を向けることはなかった。その日の授業は、僕の頭には全く入ってこなかった。ただ、彼女の横顔を見つめるだけで精一杯だった。
授業が終わると、彼女は僕に一瞥もくれず、足早に教室を出ていった。僕は、追いかけることもできず、ただその背中を見送ることしかできなかった。
僕たちは、部屋に戻ってからも、一度も顔を合わせることはなかった。僕は、何度も携帯電話を手に取ったが、なんてメッセージを送ればいいのか分からず、結局、画面を閉じてしまう。たった一つの些細な喧嘩が、僕たちの関係をこんなにも冷たいものにしてしまうなんて、信じられなかった。
その夜、僕は自分の部屋で、一人で夕食をとっていた。彩花が作ってくれた、僕の好きなハンバーグ。それを思い出し、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。彼女の部屋からは、何も聞こえてこない。僕は、彼女もまた、一人で寂しい思いをしているのではないかと、勝手に想像し、さらに苦しくなった。
翌日、大学に向かうためにアパートの玄関を出ると、隣のドアが開いた。僕は、思わず心臓が跳ね上がるのを感じた。
「彩花……」
僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は僕から目を逸らし、無言で僕の前を通り過ぎようとした。僕は、慌てて彼女の腕を掴んだ。
「待って、彩花。あの時は、ごめん。僕が、ひどいことを言った」
僕が正直に謝ると、彼女は僕の腕からそっと自分の腕を引き抜いた。
「増沢くん、謝らなくてもいいよ。私も、増沢くんの気持ちを考えずに、自分の意見ばかり押し付けたから」
彼女はそう言ったが、その表情は固く、僕の目を見てくれなかった。僕は、彼女の冷たい態度に、さらに心を痛めた。
「もう、いいの。増沢くんは、増沢くんの思う通りにすればいい。私たちが付き合っても、結局、何もかもがうまくいくわけじゃないって、分かったから」
彩花はそう言うと、僕に背を向け、早足で大学へと向かっていった。僕は、彼女の背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。僕たちの心は、もうすっかり、すれ違ってしまっていた。そして、このままでは、僕たちの関係は、もう元に戻れないのではないかと、僕は初めて、心底から不安になった。
### 第12話:第三者の介入
彩花との喧嘩から数日、僕たちの心の距離は縮まるどころか、ますます広がっていった。彼女は僕を避けるようになり、僕はそれを追いかけることができなかった。僕たちの間にできた溝は、いつしか僕たちの心を冷たく凍りつかせ、互いの存在を遠いものにしていた。
そんな日々の中、大学の課題を提出するために研究室へ向かっていると、不意に、僕の前に一人の男が立ちはだかった。
「増沢康之、だよね? 花村彩花の彼氏って」
その男は、僕と同じくらいの年齢で、僕とは対照的に、自信に満ちた表情をしていた。その男に見覚えはなかったが、彼は僕の名前と彩花との関係を知っていた。
「君は……?」
僕が警戒しながら尋ねると、男はにやりと笑った。
「俺は、小宮隼人。彩花とは、高校の同級生だよ。最近、こっちの大学に転入してきたんだ」
隼人と名乗る男の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。彩花が、高校時代の友人のことを話すことはほとんどなかったからだ。
「彩花とは、今でも連絡を取ってるんだ。こっちに来て、久しぶりに会ったんだけど……なんか、元気がないみたいでさ」
隼人は、僕の胸の内を見透かすように、まっすぐな瞳で僕を見つめた。
「もしかして、君と何かあったのかな?」
僕は、彼の言葉に何も返すことができなかった。ただ黙って俯く僕の様子を見て、隼人はさらに畳み掛けるように言った。
「彩花はさ、昔から、自分の気持ちを素直に言えない子なんだ。すぐに我慢しちゃう。だから、もし君と何かあったなら、ちゃんと話を聞いてあげてほしい」
隼人の言葉は、僕の心を深くえぐった。僕は、彼女の気持ちを、彼女の寂しさを、そして彼女の心を、何も分かっていなかったのではないか。僕のせいで、彼女を傷つけてしまったのではないか。
「もしかして、喧嘩でもしたのか? 彩花は今、俺と一緒にいるよ。もし、よかったら、三人で話さないか?」
隼人はそう言って、僕の背中に手を置き、僕を研究室へと誘った。そこには、僕が数日間、顔を合わせることができなかった彩花がいた。彼女は、僕の姿を見て、一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに目を逸らしてしまった。
隼人は、僕たちの間にできた冷たい空気を、楽しんでいるかのように見えた。僕は、隼人の存在が、僕たちの関係をさらに複雑にしているような、そんな予感を抱いた。この男は、僕たちの間に、一体何をしようとしているのだろうか。僕は、警戒心を抱きながらも、彩花と話せる唯一のチャンスだと、自分に言い聞かせた。
### 第13話:真実の告白
隼人の誘いで研究室へ行くと、彩花が椅子に座ってスマホを弄っていた。僕たちの姿を見ると、彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐにまた視線をスマホへと戻してしまった。僕たちの間に流れる、冷たくて重い空気に、隼人は少し戸惑った表情を見せた。
「あれ? なんか、思ったよりピリピリしてるな……」
隼人は、そう言って苦笑いをした。彼の言葉に、彩花は何も反応しない。僕は、このままではいけないと思い、意を決して彩花に話しかけた。
「彩花、話があるんだ。二人で……話せないか?」
僕がそう言うと、彩花は一度、僕を見た。その瞳は、何かを我慢しているような、痛みを伴った光を宿していた。
「いいよ。でも、ここで」
彼女の返事に、僕は胸が締め付けられるような思いをした。僕のプライドが、邪魔をしている。僕は、隼人の前で彼女と話すことに抵抗を感じていた。
「隼人くん、僕と彩花で少し話したいんだ。席を外してもらえないか?」
僕がそう言うと、隼人は少しだけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに理解したように頷いた。
「分かった。じゃあ、俺、外で待ってるから。ちゃんと、話を聞いてあげてね」
隼人は、そう言って研究室を出ていった。二人きりになった部屋に、再び重い沈黙が降りてくる。僕は、彩花が座っている椅子の前に立ち、彼女の顔をまっすぐに見つめた。
「彩花……本当にごめん。あの時、ひどいことを言ってしまって……」
僕が正直に謝ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「っ……増沢くん、ひどいよ……」
彩花は、そう言って嗚咽を漏らした。僕は、彼女の涙を見て、自分のしたことの重大さに改めて気づかされた。僕は、彼女の心を深く傷つけていたのだ。
「ごめん……。僕、素直になれなくて。プロジェクトのことも、僕が頑張って作り上げてきたものだったから、どうしても譲れなかったんだ。でも、それ以上に、彩花が大事だった。僕が、意地を張ってごめん」
僕がそう言うと、彩花は涙を拭い、僕に自分の心の内をさらけ出した。
「私も……ごめんね。いつも、増沢くんの言葉に傷ついてばっかりで、素直になれなかった。でも、増沢くんの言う通り、私の意見ばっかり押し付けようとしてた。ごめん……」
彼女の言葉に、僕は安堵の息をついた。彼女もまた、僕と同じように悩んでいたのだ。僕たちは、互いの弱さを認め、そして、許し合った。
「私、本当に、増沢くんのことが好き」
彩花はそう言って、僕に抱きついてきた。僕は、彼女の温かい身体を、力強く抱き締めた。僕たちの間に、もう壁はなかった。お互いの心の内をさらけ出し、僕たちは、再び、一つになった。
「俺、戻ってきていいか?」
部屋の外から、隼人の声が聞こえた。僕たちは、慌てて身体を離した。隼人は、僕たちの様子を見て、満足そうに頷いた。
「よかった。喧嘩するほど仲がいいって言うしな! これからは、俺も、二人を応援するよ!」
隼人はそう言って、僕たちの関係を祝福してくれた。僕たちは、彼に心から感謝した。第三者の介入は、僕たちの関係に亀裂を入れるものではなかった。それは、僕たちがお互いの気持ちを再確認し、より深く愛し合うための、大切な試練だった。
### 第14話:仲直りの夜
隼人の介入によって、僕たちの心に巣食っていた誤解は解け、二人の間に再び温かい光が差し込んだ。研究室を出た僕たちは、並んでアパートへの帰り道を歩いていた。いつものように、他愛のない話で笑い合う。たった数日間、この時間が途切れてしまったことが、嘘のように感じられた。
「ねぇ、増沢くん」
彩花が、僕にそっと顔を向けた。その瞳は、もう痛みではなく、安堵と愛おしさで満ちている。
「今夜、もう一度、私の部屋に来てくれない?」
彼女の言葉に、僕は驚きながらも、すぐに頷いた。
「うん」
アパートに着くと、僕たちは一度、それぞれの部屋に戻った。僕は、心を落ち着かせるために、シャワーを浴び、服を着替えた。そして、彼女の部屋のドアをノックする。
ドアを開けると、そこには、少しだけ化粧をした彩花が立っていた。彼女の部屋は、僕の部屋とは違い、柔らかな照明で照らされ、僕を心地よい香りで包み込んだ。
「どうぞ」
彩花はそう言って、僕を部屋に招き入れた。僕たちは、ベッドに腰かけ、何も話さずに、ただ互いの顔を見つめ合った。その沈黙は、心地よく、僕たちの間に流れる空気は、とても穏やかだった。
「増沢くん、ごめんね。私が、素直になれなかったから、こんなことになっちゃった」
彩花が、少しだけ声を震わせながら言った。僕は、彼女の手をそっと握った。
「僕もだよ。僕が、彩花の気持ちをちゃんと汲み取ってあげられなかった。ごめん」
僕たちの手は、しっかりと握り締められていた。それは、二度と離さない、という強い意志のようにも思えた。
「もう、二度と、あんな喧嘩はしたくないね」
「うん。絶対に」
僕は、彼女の瞳を見て、力強く頷いた。そして、僕たちは、ゆっくりと顔を近づけ、唇を重ね合わせた。それは、仲直りのキス。深く、そして互いの愛を確かめ合うようなキスだった。
キスを終え、彩花は僕の胸に顔を埋めた。彼女の柔らかな髪が、僕の鎖骨のあたりをくすぐる。僕は、彼女の細い背中に腕を回し、優しく抱き締めた。
「増沢くん……」
「ん……」
「僕は、彩花がいないと、何もできないんだ。一人でいることが、こんなに寂しいって、初めて知った」
僕がそう言うと、彼女は僕の胸に顔を擦り付けた。彼女の頬が、温かい雫で濡れているのを感じた。
「私も。増沢くんがいないと、つまらない」
僕は、彼女の頭を優しく撫でた。僕たちの心は、もう完全に一つに戻っていた。いや、むしろ、喧嘩をする前よりも、もっと深く、強く、結びついていた。
僕は、彼女の身体を優しく抱き上げ、ベッドへと向かった。前回、初めての夜は、お互いに手探りで、どこか遠慮がちだった。お互いの身体に触れるたびに、戸惑いと緊張があった。しかし、今は違う。僕たちの心は、既に互いのすべてをさらけ出し、許し合っている。だから、身体もまた、お互いを求め合うように、自然に、そして情熱的に触れ合った。
僕は、彼女の滑らかな肌に触れ、その感触を全身で味わった。彼女の吐息が、僕の首筋に熱い息を吹きかける。それは、僕の身体の奥底に眠っていた、激しい欲望を呼び覚ますのに十分だった。
「増沢くん……」
彩花が、僕の名前を呼んだ。その声は、甘く、そして蕩けるような響きを持っていた。僕は、彼女の身体に自分の身体を重ね、ゆっくりと、そして熱く、彼女の内部へと進んでいった。
前回は、緊張と不安で、身体が強ばっていた。しかし、今回は違う。僕たちの身体は、互いの熱を求め合うように、自然に、そして滑らかに動いた。僕の動きに合わせ、彩花の身体が、激しく反応していく。僕は、その反応の一つ一つを、全身で感じ取った。
「んっ……」
彼女の甘い声が、僕の耳元で響いた。その声は、僕の心をさらに熱くさせ、僕たちの行為を、さらに情熱的なものへと変えていった。僕たちは、互いの存在を確かめ合うように、何度も、何度も、一つになった。
僕たちは、一つになったまま、しばらくの間、何も話さなかった。ただ、互いの温もりを、感触を、そして存在を、深く感じ合っていた。
「増沢くん……私、本当に幸せだよ」
彩花が、僕の胸に顔を埋めたまま、そう囁いた。僕は彼女の髪を優しく撫で、ただ黙って頷いた。言葉はいらなかった。僕たちの心は、もう完全に一つになっていた。壁一枚を隔てた二つの部屋は、今、確かな愛で結ばれ、僕たちは、この先もずっと、二人で一つの物語を歩んでいくのだろうと、僕はそう確信した。
### 第15話:二人で一つの未来へ
仲直りをしたあの夜から、僕たちの関係は、以前よりもずっと深く、そして強固なものになった。一度、互いの弱さをさらけ出し、許し合ったことで、僕たちは、本当の意味で心を通わせることができたのだ。喧嘩をする前は、どこか遠慮がちだった僕たちの関係は、今や、もう何一つ隠すものはない、絶対的な信頼で結ばれていた。
翌朝、目を覚ますと、隣には眠っている彩花の顔があった。僕の腕の中にすっぽりと収まり、安らかな寝息を立てている。その頬をそっと撫でると、彼女はゆっくりと目を開け、僕にふわりと微笑んだ。
「おはよう、増沢くん」
「おはよう、彩花」
たった一言の挨拶だったが、そこには、何ものにも代えがたい温かい気持ちが込められていた。あの喧嘩が、まるで遠い昔のことのように感じられる。僕たちは、身支度を整え、一緒に大学へと向かった。
大学に着くと、僕たちは喧嘩の原因となった共同プロジェクトの課題に取り組んだ。以前のように、僕がコンセプトの正確さを主張し、彩花がデザインの美しさを追求しようとする。しかし、今回は違った。お互いが一歩譲り、相手の意見に耳を傾けた。
「うん、増沢くんの言う通りだね。コンセプトを明確にした上で、色を調整してみよう」
「そうだね。彩花のアイデアもすごくいい。このデザインを活かすために、僕がコンセプトの再構築をしてみるよ」
互いの専門分野を尊重し、協力し合うことで、僕たちのプロジェクトは、以前よりも格段に素晴らしいものになった。それは、単なる課題の成功以上の意味を持っていた。僕たちの絆が、より強固なものになった、確かな証だった。
課題を終え、僕たちはいつものカフェで、将来について語り合った。僕は、自分の将来に漠然とした不安を抱えていた。
「僕、このままでいいのかな……。この大学で学んだことが、将来に活かせるのか、正直、自信がなくて……」
僕がそう言うと、彩花は僕の手をそっと握り、真っ直ぐに僕の目を見つめた。
「大丈夫だよ、増沢くん。増沢くんは、とても真面目で、優しい人。それに、私には、増沢くんが一番のクリエイターだって、分かっているから」
彼女の言葉に、僕は驚き、そして胸が熱くなった。
「増沢くんと私なら、きっとどんな困難も乗り越えていける。増沢くんの隣には、いつも私がいるから」
彩花の言葉は、僕の心に、深い安心感と、そして確信を与えてくれた。僕は、彼女の手を力強く握り締めた。僕たちの未来は、決して楽なものではないかもしれない。でも、この手の中に、かけがえのない大切な人がいる。それだけで、僕は、どんな困難も乗り越えていけるだろうと、そう確信した。
僕たちは、この先もずっと、二人で一つの物語を歩んでいくのだろう。壁一枚を隔てた二つの部屋は、今、確かな愛で結ばれ、二人の未来を明るく照らしていた。
### 第16話:実家への帰省
あれから数週間が経ち、大学は春休みに入った。僕は彩花に、故郷に一緒に帰らないかと誘った。最初は戸惑っていた彼女だったが、僕の真剣な眼差しに、やがて優しく頷いてくれた。僕たちは二人で、僕の故郷へと向かう新幹線に乗った。
都会の喧騒が遠ざかり、窓の外の景色が、ビル群から、のどかな田園風景へと変わっていく。彩花は、僕の隣で、目を輝かせながらその景色を眺めている。
「すごい……! 空が広い! 都会にいると、空がこんなに広いってこと、忘れちゃうね」
彼女の言葉に、僕は少しだけ照れくさそうに笑った。僕の故郷は、見渡す限り田んぼが広がる、何もない場所だ。都会に憧れて出てきたはずの僕が、今、故郷を懐かしく、そして愛おしく思っている。それは、隣に彩花がいるからだろう。
最寄り駅に着くと、父の車が迎えに来てくれていた。彩花は緊張した面持ちで、僕の父に挨拶をした。
「初めまして、花村彩花です。いつも康之が、お世話になっています」
彩花の丁寧な言葉に、父は満面の笑みで応えた。
「おう! 康之から話は聞いてたぞ。こんな可愛い彼女がいたなんて、びっくりしたわ! さあさあ、遠慮しないで、乗ってくれ!」
父の屈託のない笑顔に、彩花の緊張も少しずつ解けていくようだった。車が実家へと向かう道中、彩花は窓の外を興味深そうに眺め、父の故郷に関する質問に、楽しそうに答えていた。
実家に着くと、母が温かい夕食を用意してくれていた。食卓には、僕が子供の頃から食べていた、懐かしい料理が並んでいる。彩花は、僕の母が作った料理を、美味しい、美味しいと言って食べてくれた。その姿を見て、母も本当に嬉しそうに笑っていた。
その夜、僕は彩花と一緒に、僕の部屋で布団を並べて寝た。子供の頃から変わらない、古い部屋。窓から見えるのは、都会の光ではなく、満天の星空だ。
「ねぇ、増沢くん。都会に来て、よかった?」
彩花が、僕にそう尋ねた。僕は、彼女の顔をまっすぐに見つめ、強く頷いた。
「うん。彩花に会えたから、よかった」
僕がそう言うと、彩花は僕の胸に顔を埋め、安堵のため息をついた。
「私も。増沢くんに会えて、本当によかった」
僕たちは、互いの温もりを感じながら、静かに夜を過ごした。窓の外には、都会の光はなく、ただ静かな星空が広がっている。僕たちの未来は、この故郷の空のように、どこまでも広く、そして限りなく明るいものになるだろう。僕の心は、確かな愛と、そして、彩花と歩む未来への、揺るぎない確信で満たされていた。
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隣の君 舞夢宜人 @MyTime1969
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