キミを照らすため、ここにいる
スパイシーライフ
短編
<1>
五月も間もなく終わりを告げようとしている、とある日の夕暮れ。練習を終えた球場の片隅で朝倉陸は、汗でびしょ濡れになったユニフォームを手に握りしめながら天を仰いでいた。
ブルペンでどれほど投げても首脳陣の彼に対する評価は上がらない。試合にも使ってはもらえないので結果を残すことも出来ない。このままでは……。
「まだ足りない、まだ何もかも全然足りないんだ」
もちろんコーチは彼をチームの戦力とすべく指導もアドバイスもしてくれるが、肝心の本人がそれを自分の成長に結びつけることが出来ないのだ。
「でも、これ以上どうすればいいんだよ」
プロ野球の世界には1軍>2軍>育成枠という階級が厳然と存在する。プロ野球選手の最底辺である育成枠選手の契約は同一のチームでは最大3年間という決まりがあり、契約期間が満了すると自動的に自由契約となる。その後他チームと契約を結ぶことは出来るが、3年間やって芽の出ない育成選手を獲得する球団があるわけもない。
「来年までに結果を出さなきゃクビなんだ。でも諦めるわけにはいかない。諦めちゃダメだ……」
陸は自らに言い聞かせるように、自らを奮い立たせるかのようにそう呟いたが、それで焦りが消えるわけもなかった。
朝倉陸が焦燥に駆られていた同じ頃、都内の小さなライブハウスのステージ上で七海結衣はマイクを握っていた。眩しく光るライトに照らされ輝く彼女だが、客席は三分の一も埋まってはいなかった。キャパの小さなライブハウスであるにも関わらず、だ。
「次の曲、聞いてください……」
その歌声は少し震えていた。高校を卒業し歌手を目指して本格的に活動を始めてからもう二年目。いくつものオーディションを受けては落ち受けては落ち、同じような境遇の者たちが一人また一人と夢を諦めて行く中で、彼女はそれでもまだ踏みとどまっている。
歌い終えた結衣に対する拍手はまばらだった。それでも彼女は精一杯の笑顔を作って頭を下げる。もう何度も何度も繰り返されてきた光景だった。
「陸ぅ、ちょっとライブハウスにでも行かないか」
そう言って朝倉陸を誘ったのは同期のキャッチャーである神谷だった。だが音楽にさほど関心もない彼は一度断った。
「まあそう言うなよ。育成のオマエが焦る気持ちはわかるけどさ、たまには気分転換しろよ。自分で気づいてないかもしれんけど、オマエ顔色マジでヤバイぞ」
神谷いわく、陸は悲壮感すら漂わせているそうだ。そこまで言われさすがに自分でもマズイかもと思った陸は、しぶしぶながら気乗りしないままライブハウスへと足を運んだ。気分転換の重要さは知っているから。
「ここのライブハウスにはよく来るのか?」
「たまにな。ライブハウスの雰囲気が好きだし、色んなジャンルの音楽を聞いてるとリラックス出来るんだ。まあ趣味だよな」
「全く聞かないってわけじゃないけど、俺は正直音楽にあんま興味ないんだよな」
「まあそう言うなって。俺もいつも一人で楽しむだけじゃつまんなくてさ。たまには誰かと楽しみたいと思ってね。お、今日の一人目は女の子なんだな」
そう言われて陸が向けたその視線の先に彼女が……七海結衣が立っていた。
「俺らと同じくらいかな」
神谷が言う通り、ステージに立つ女性は自分たちと同年齢ぐらいに見えた。
「それでは、聞いてください」
そう言って歌いだした彼女の歌は、正直言って音楽にあまり興味が無く野球しか頭に無い陸には上手いのか下手なのかさっぱりわからなかった。
だが、その眩しいほどの笑顔で一生懸命に歌うその姿は、小細工のない魂がそのまま彼の胸の中に飛んでくるようだった。声量は決して大きくない。おそらく技巧的でもない、と思う。それでもなぜか自分の心に響く……不思議だった。
懸命に声を振り絞る様に歌うその姿。やがて陸は気づいた。
(そうか、きっと俺と同じなんだ)
誰も認めてくれなくても、苦しく辛い現実に押しつぶされそうになっても、それでもやめられないものが、諦められないものが人にはある。
陸にとってそれは野球だが、彼女にとってのそれは歌なのだろう。言葉にしなくてもそれが伝わってくる。だからこそこんなにも自分の心に響くのだろう。そう、これはきっと共感なのだ。
「あのコ、誰だ? 知ってるか?」
陸は神谷に尋ねてみたが、彼も知らないようだった。生まれて初めて来たライブハウス。誘われて渋々来たこの場所で出会った一人の女の子の歌声に惹かれ、気づけば息を詰め拳を強く握りしめながらステージを見つめていた。その心臓の鼓動はマウンドに立っている時のようだった。
それは七海結衣にとって初めての体験だった。無名である彼女の歌を真剣に聞く者などほとんどおらず、中には歌そっちのけでスマホをいじっている者すらいる。だが、彼は違った。
最後のフレーズを歌い切ってマイクを下げた瞬間、客席にひときわ真剣なまなざしがあることに気づいた。拍手はいつもと同じくまばら。けれどその一人だけは、無表情に見えるのに目が離せないほど自分を真剣に見てくれているのが伝わってきた。
「あの人……私の歌を……」
彼がどこの誰かなんてわからない。けれどなぜだろう。なぜか今夜の歌は彼に届いた気がした。今夜は彼のために歌ったのかもしれない、そんな気持ちになったのは初めてだった。
「いやぁ満足満足。今日は結構当たりだったなぁ」
神谷は嬉しそうにそう言った。彼は充分に楽しみ気分転換が出来充実した時間が過ごせたのだろう。
「さてと、たっぷり楽しんだし帰るとしますか」
客席からの人波に流されるまま陸と神谷は出口へ向かった。
(あのコに会えないかな)
一瞬そんな思いが陸の頭をよぎったが、すぐにそれを打ち消した。会ってどうするというのか。会ったからといって何を言うというのか。そんな事を考えていた彼の足がふいに、止まった。
出入口の脇で彼女がスタッフに頭を下げていた。ライトに照らされていたステージ上とは違い少し疲れた顔。それでも笑顔だけは崩していなかった。すぐにあの彼女だとわかった。
思わず見つめていたら、ふと視線が合った。結衣が一瞬目を丸くした。
「あ……さっきのお客さん」
陸は言葉に詰まった。何を言えばいいのかわからない。ただ、この胸の奥に残っている熱を彼女に伝えたい。
「……歌、よかったです」
結衣はぱちぱちと瞬きをしてから、ふっと笑った。
「ありがとう。今日、真剣に見てくれてたの、あなただけだったから……すごく嬉しいです」
陸は耳の奥が熱くなるのを感じた。
「別に……そういうわけじゃ」
不器用に言い訳をしかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「私、ステージであなたと目が合った気がして……初めてなんです、私の歌が誰かに届いたって実感したの。勘違いかもしれないけど、私にはそう思えたんです」
「そんなことない!」
自分でもビックリするくらい大きく強く陸はそう言った。
「歌、すごくよかったです。なんて言うか……そう、真っすぐだった」
結衣はそう言われて一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに相好を崩した。
「ありがとう。それ、一番嬉しいかも」
結衣は両手でマイクケースを胸に抱えながら、少し照れたような恥ずかし気なような笑みを見せた。
「こういう小さなステージでも、真剣に見てくれる人が一人でもいるって、すごく支えになります。ホントにありがとう。嬉しい」
陸は言葉を探すように視線を落とした。
「……また、聴きに来ます」
自分でも驚いた。音楽なんて特別興味はなかったのに、女の子と約束なんて軽々しくするタイプじゃないのに、なのにもう一度彼女の歌を聞きたいと思った。結衣は目を輝かせて、嬉しそうに頷いた。
「本当? じゃあ次は、今日よりもっといい歌を歌うね」
その笑顔に、陸は心臓をぐっと掴まれるような感覚を覚えた。初めてボールを握った時とも、初めてマウンドに立った時とも違う、けれど確かに胸を熱くする何かがそこにあった。
「私、七海結衣っていいます。まだまだ全然だけど……また歌、聴いて欲しいな」
名前を告げられた瞬間、陸は胸の鼓動が速くなるのを抑えられなかった。ただ名前を知っただけなのに。
「俺は朝倉、朝倉陸っていいます」
それが陸の限界だった。
結衣は軽く手を振るとスタッフに呼ばれて奥へと消えていった。残された陸はその場に立ち尽くしたまま小さく息を吐いた。
「……また聴きに来る、か」
その言葉は、自分自身への誓いのようにも響いていた。
「ずいぶん話し込んでたな。惚れたか?」
神谷が茶化すようにそう言った。
「そんなんじゃねーよ。そんなんじゃねーけど、なんかあのコの歌、良かったなって思ってさ。それを伝えただけだよ」
自分の気持ちを伝えただけ、それは確かにそうなのだが、今日生まれて初めてそんな気持ちになったのはなぜなのだろうか? それが陸にはわからなかった。
「ふーん、ずいぶんと気に入ったんだな。そんなに歌の上手いコだとも思えなかったけど」
神谷はそう言った。自分もそう思う。けれどそうじゃない。歌が上手いとか下手じゃなくて、もっと心の奥底にあるものが揺さぶられたのだ。惚れたのかと問われたのなら、自分の心に真っすぐ語りかけてきた彼女の歌に惚れたのだと答えるべきだろう。
<2>
あの日以来朝倉陸の日常には小さな、しかし確かな変化が生まれていた。ブルペンでの投球練習。これまでは焦燥感に駆られ、ただただ闇雲に腕を振っていた。
昔から全力で投げれば誰にも負けないほどの球速を出せたが、一方でコントロールが途端に定まらなくなる。球速を抑えればコントロールは良くなるが、打たれることも増えていく。それでも高校まではそれでも抑えられていたが、プロでそんな中途半端は通用しなかった。コーチの指導も身にはならず、結果を出すことも出来ず、焦れば焦るほどさらに焦りが増す。
だが今はキャッチャーのミットの背後に、あのライブハウスでライトを浴びていた七海結衣の姿が浮かぶのだった。
『次は、今日よりもっといい歌を歌うね』
彼女のその言葉を思い出すと、不思議と力が湧いてきた。自分も負けていられない。俺だって次に会う時には少しでも前に進んだ自分でいたい。そう思うだけで指先にかかるボールの感覚が、ほんの少しだがいつもより鋭敏になる気がした。
「おい陸、なんか最近吹っ切れた顔してんな。いい球投げるようになってきたじゃねえか」
ピッチングを受けてくれていた先輩捕手が、マスクを上げてニヤリと笑った。
「ホントですか!? あ、ありがとうございます!」
「何かいいことでもあったか?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
陸は口ごもった。神谷に「惚れたか?」と茶化されたことを思い出し顔が熱くなった。
「それに悪いクセもずいぶん改善したよな。全力で投げてもコントロールが乱れなくなってきた。と言うよりも全力だけど全力に見えないような、良い意味で力が抜けてきたんじゃないか?」
それは陸自身も気がついていた。今までは速い球を投げよう、抑えようという気持ちでマウンドに立っていたのだが、どうもそれは体に余計な力を入れているだけだったように思えてきたのだ。
「七海さんの歌を思い出してると、いい感じで力が抜けるんだよなぁ」
それによって同じ球速を出しながらもコントロールが乱れず、体への負担も減るようになり良いことずくめだ。理由はわからないが、陸がまたひとつステップアップしたのは誰の目にも明らかだった。
一方の七海結衣もまた、自分の音楽に変化が訪れているのを感じていた。これまで彼女が書いてきた歌詞は、どこか独りよがりな痛みを綴ったものが多かった。決して意識しているわけではなく、今現在の心情が自然とそういった歌詞になっていっただけだった。
だが今は違う。あの日、たった一人だけれど自分の歌を真剣に聴いてくれる人がいたのだ。その事実が彼女の世界を内側から明るく照らし始めていた。たとえそれがほんの僅かな明かりであったとしても。
『真っすぐだった』
彼がくれた言葉。不器用で、けれど何より嬉しい言葉。胸の中で反芻するたびに新しいメロディが、言葉が、イメージが、伝えたい事が泉のように湧き上がってくるのだった。
(あの人の心に真っすぐ届くような歌を……)
次に彼が来てくれるのはいつだろう。約束はしたけれど、社交辞令だったのかもしれない。そんな不安がよぎることもあったが、それでも結衣はあの真剣な眼差しを信じていた。
数週間後の金曜の夜。陸は再びあのライブハウスの扉を開けていた。今度は誘われたのではなく自分の意思で。そして自分一人で。約束をしたから――理由はただそれだけだ。練習の疲れも、心に積もる焦りも、ここに来る足を止める理由にはならなかった。
ステージに立つ結衣は前回よりもずっと堂々として見えた。照明に照らされて歌う姿は決して完璧ではないかもしれないけれど、その歌声はやはり真っすぐに陸の胸へと届く。
(やっぱり自分と同じだ)
どれだけ不安でも、それでも夢を諦められない。きっと彼女も自分と同じなのだ。陸は拳を膝に置き、気づけば息を呑んで結衣の歌に聞きほれていた。
歌い終えた結衣は客席を見渡す。そして陸の姿を見つけると一瞬だけ驚いたように目を見開き、ふわりと微笑んだ。その笑顔に陸の心臓がまた大きく跳ねる。その笑顔が自分だけに向けられたものだと錯覚する。
その日の彼女の歌は、前回とは明らかに違っていた。なんというか、声に芯が通っているような気がした。表情には自信が満ちているようだし、何より歌そのものに聴く者を引き込むような温かい力が宿っていた。客席の反応も前回よりずっと良いように陸には思えた。
終演後、出口で人の流れに乗って歩いていると、ふいに後ろから自分の名を呼ぶ声がした。
「来てくれたんだね」
振り向けば、汗を拭きながら息を弾ませる結衣が立っていた。少しだけ頬を染めているように見えた。
「……約束、したから」
陸は不器用にうなづき、そう言った。結衣は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。今日の歌、ちゃんと届いたかな?」
「……ええ、届きました」
短い言葉。けれど、それだけで結衣の顔はふわっと明るくなった。人混みのざわめきの中で、二人だけの小さな会話が始まっていた。
「今日の歌、前よりもっと……すごかったです」
「本当? よかった……」
結衣は心底ほっとしたように胸を撫でおろした。
「実は、新曲だったんです。あなたが『真っすぐだった』って言ってくれたから、そんな歌を作りたくて」
「俺が……ですか?」
「うん。私の歌、聴いてくれる人がちゃんといるんだって思ったらなんだか嬉しくて、自然に書けたの」
照れくさそうに笑う彼女を見て、陸はたまらない気持ちになった。自分の存在が彼女の力になっている。その事実が自分のことのように嬉しかった。
「あのさ、もしよかったらなんだけど……連絡先、交換しない?」
女の子に対して自分からこんな申し出をしたことなど一度もない。しかし思い切って口にしたその言葉は、自分でも驚くほどすんなりと出てきた。結衣は目をパチクリと瞬かせた後、満面の笑みで頷いた。
「うん、嬉しい!」
それから他愛もないメッセージのやり取りが始まった。年齢が同じだったこともあって二人の仲は急速に親しくなっていき、練習がキツかったこと、新しい曲のフレーズが浮かんだこと。お互いの他愛のない日常を報告し合う時間は彼と彼女にとって厳しい現実の中でのささやかな癒しとなった。
そしてある日、陸はメッセージを送った。
『今度の日曜、二軍の試合が地元であるんだ。俺が投げるかどうかわからないけど、もしよかったら見に来ない?』
それは陸にとって大きな賭けだった。試合に出られる保証すらない。ブルペンで投げるだけで終わるかもしれない。いや、もしかしたらそれすら無いかもしれない。そんな惨めな姿を見せることになるかもしれないのだ。
だが陸は見て欲しかった。自分が命を懸けているこの場所を、必死にもがいているその姿を、自分が彼女のステージを見たように彼女にも自分がいるこの世界を見て欲しかった。
『行く! 絶対に行くね!』
すぐに結衣からそう返事が来た。その短いメッセージに添えられた力強いスタンプを見て、陸は強く拳を握りしめた。日曜の空が晴れることを願っていた。
<3>
日曜日。雲ひとつない爽やかな青空が広がり、絶好の野球日和となった。二軍の練習試合が行われる球場はどこも一軍の華やかなスタジアムとは違い質素で古く、観客席は簡素で観客もまばらだ。それでも、陸にとってはここが世界の中心だった。
スタンドでキョロキョロと辺りを見回している結衣の姿を、陸はベンチから目ざとく見つけた。普段のライブハウスで見る服装とは違う女性らしい服装に身を包み、少しだけ戸惑ったような表情で佇む彼女を見て陸は思わず頬が緩むのを感じた。
(本当に、来てくれたんだ)
出られるかわからないと、出ても打たれるかもしれないと、そう予防線をこっそり張った陸だったけれど、それでも彼女は来てくれた。その事実だけで、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
結衣は空いている席にそっと腰を下ろした。彼女は野球のルールをほとんど知らない。けれどグラウンドで必死に白球を追いかける選手たちの姿、響き渡る打球音、土埃の匂い、そのすべてが新鮮であり彼女の心を躍らせた。
(これが、陸くんの世界……)
やがて陸がブルペンへと姿を現した。試合はすでに中盤を迎えている。彼の出番はあるだろうか。結衣はいつの間にか膝の上でギュッと拳を握りしめていた。
この球場のブルペンは内野スタンドから見えるところにある。マウンドよりも少し低い場所にあるそこは、まるでステージの袖のようだ、と結衣は思った。ブルペンで黙々と投球練習を続ける陸の背中を見つめる。出番を待つ緊張感と、内に秘めた闘志が遠くからでも伝わってくる。真剣な眼差しでミットを見据えるその横顔は、ライブハウスで自分を真っすぐに見てくれていた彼と重なった。
試合は味方が点を取られて劣勢の展開が続いていた。陸の心臓は期待と不安で大きく波打っていた。
(今日は、出番なしかもしれないな……)
そんな弱気が頭をよぎった瞬間だった。ベンチからコーチの声が飛んだ。
「朝倉! 最終回に行くぞ!」
その声に、陸は弾かれたように顔を上げた。隣にいた先輩捕手が「チャンスだぞ、しっかりな」と背中を叩いてくれた。陸は大きく頷くと、これまで以上の集中力でボールを投げ込み始めた。
スタンドから見ていた結衣の目にも、陸の動きが変わったのがハッキリと分かった。ウォーミングアップとは明らかに違う、本番のピリついた空気が彼を包んでいる。
そして最終回、ついにその時が来た。
「ピッチャー、朝倉」
場内にアナウンスが響き渡る。陸は二度三度と大きく深呼吸をしてからマウンドへと駆け出した。送られるまばらな拍手。チラリとスタンドに目をやると結衣が拍手をしている姿があった。
マウンドの上は想像以上に孤独だ。だが不思議と怖くはない。陸は、ライトに照らされたステージで、たった一人で歌っていた結衣の姿を思い出す。あの場所で、彼女は自分の歌を客席に届けようと懸命だった。ならば自分もこの場所で、今の自分が持つ総てをボールに込めるだけだ。
「試合で投げるのは久しぶりだから緊張するかもしれんが、最近のオマエは以前とは違ってきている。難しいことも細かいことも今は何も考えず、キャッチャーミット目がけて全力で投げ込め。今のオマエならそれで抑えられるはずだから」
マウンド上でコーチがそう言った。以前とは違い今なら全力で投げてもコントロールを大きく乱すことはないだろうと。陸は少し緊張した面持ちでコクリと頷いた。
「コーチの言った通りだぜ。最近のオマエは変わってきてる。迷わずドーンと投げてこい。もともとオマエのストレートならそれで抑えられるんだから」
キャッチャーの神谷にそう言われ、ようやく陸は肩の力が抜けてきたことを感じた。
(そうさ、カッコイイところを見せられなくてもいい。俺は俺のピッチングを迷わずすればいいんだ)
審判がプレイ再開のコールをすると、陸はおもむろにキャッチャー神谷のサインを頷き込んだ。サインはストレート。大きく振りかぶった陸は、コーチの言ったそのままにキャッチャーミット目がけて全力で投げ込んだ。
ズバン! と乾いた気持ちの良いミットの音が球場内に響く。渾身のストレート。球速表示は、この日投げた両チームのピッチャー達の中で最速を記録していた。
「ナイスボール!」
キャッチャー神谷からの声が結衣のいるスタンドまで届く。結衣は胸の前で両手を合わせながら、固唾を飲んでグラウンドを見つめていた。一瞬たりとも目を離してはいけないと、直感的にそう思った。
陸の投球は、今までのそれとは明らかに違っていた。コントロールはやはり甘いし荒々しさは残るが、それでもそのボールには確かな力が宿っていた。打者のバットがことごとく空を切る。ピンチの場面でも、彼は臆することなく思い切り腕を振った。
『真っすぐだった』
自分が結衣に贈ったその言葉が、まるでブーメランのように自分に返ってくる。小手先の技巧じゃない。今の自分に出せる最高のストレートを、ただ真っすぐに投げ込む。それだけだった。
その回を無失点に抑えるとベンチからは歓声が上がった。陸は帽子のつばに手をやり、小さく息をつきながらスタンドの結衣に目を向けた。視線に気づいた結衣は満面の笑みで力強く頷いていた。その笑顔が陸にとっては何よりのご褒美だった。
結局、試合は負けてしまった。だが、陸の心には確かな手応えが残っていた。首脳陣からの評価も「今日の朝倉は、なにか吹っ切れたような良いボールを投げていた」と上々だった。今まで陸はスピードとコントロールのバランスに悩み、小手先でかわそうとしては自滅していた。けれど今日はそんな危うさが全く感じられなかった。
「やっとプロらしくなったな」
コーチからそう言われ、陸は初めてこの世界で手応えを感じることが出来た。
試合後、陸は着替えもそこそこに通用口で待っている結衣のもとへ急いだ。
「ごめん、待たせた。それと、負けちまった」
少し照れくさそうに頭をかく陸に、結衣はぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、すごかった! マウンドに立ってる陸くん、すごく……キラキラしてた。ステージで歌う時、私もあんなふうに見えてるのかなって思った」
その言葉に、陸は胸がジーンと熱くなるのを感じた。自分がこの世界で戦っている姿を、彼女はちゃんと見て感じてくれたのだ。
「ありがとう。結衣ちゃんが見ててくれたから、なんか、いつもより力が出た気がする」
「私もだよ。陸くんが頑張ってる姿を見たら、私ももっと頑張らなきゃって思った。新しい曲、できそうだよ」
二人はお互いに顔を見合わせて、はにかむように笑った。静寂さを取り戻した夕暮れの球場を背に、二つの影が並んで伸びていく。まだ何者でもない、それぞれの夢の途中にいる二人。けれど互いの存在が道標となり、暗闇を照らす光となっていることを彼らは確かに感じ合っていた。この日のマウンドとスタンドの記憶は、これから続くそれぞれの厳しい戦いを支えるかけがえのない宝物になるだろう。そんな気すらしたのだった。
<4>
初めて結衣を招待し、その目の前で好投したあの日、マウンドから見た結衣の笑顔と試合後にコーチから掛けられた「プロらしい顔つきになった」という言葉。それは陸の中で固く詰まっていた何かを確かに溶かしてくれた。
その手応えは本物で、それ以降の投球は登板するたびに安定していった。以前のような「打たれたくない」という恐怖心からくる逃げの投球ではなく、どうすればいいのかと迷いを見せることもなく、時には打者の内角を強気に突き「打てるものなら打ってみろ」という気迫すら見せるようになっていた。今まで投げ切れなかった厳しい内角攻めを出来るようになったことが、どうやら彼のピッチングの幅を広げたようだ。
「陸、最近いいじゃないか。球に魂がこもってる、マジで目を見張るぞ」
ピッチングを受けてくれた神谷が、マスクを外して笑顔を見せながらそう語りかけた。
「お前のおかげだよ。あの時、迷わず行けって言ってくれたから」
「バーカ、俺じゃねえだろ。スタンドにいたあの子のおかげだろ?」
ニヤニヤする神谷に図星を突かれ、陸は返す言葉もなく帽子のつばを下げて表情を隠した。話したことはないのに神谷はなぜ結衣のことを気づいているのだろうか。
「おまえなぁ、バレてないとでも思ってたのか? 俺は、あのライブハウスで彼女と話し込んだ後のおまえの顔を見てピンときたぜ。もうわかりやすいくらいわかりやすかったからな」
神谷はからかうような口調でそう言った。
「しかしなぁ、あの時の女の子がまさかオマエとねぇ。世の中わかんねぇもんだな」
「言っとくけど、俺と彼女は別に何もないぞ?」
そうだ。陸と結衣は今のところ別にお互い彼氏でも彼女でもない。しいて言うなら仲のいい友達、良く言えば親友のポジションだろうか。いずれにしろ男女の関係ではないし、今のところそうなる予定もない。
「マジで? 付き合ってるんじゃねーの?」
神谷は驚いたが、陸には返す言葉がなかった。女の子を好きになったことが無いわけではないが、その時の感情と結衣に対する感情はなにか違う気がするし、そもそも今の自分は色恋沙汰にうつつを抜かしていていい立場ではない。
「二年目の育成枠に恋愛してる余裕なんてあるもんか。ヘタすりゃ今年でクビかもしんねぇのに」
「いやぁ、そりゃまあそうだけどさ、今のオマエだったら大丈夫だろ。支配下登録だって余裕で狙えると俺は思うけどな」
神谷はそう言ってくれたが、実は陸自身も同じ事を考えてはいた。あの日以来試合では常に結果を出し続けている。手応えはある。今すぐは無理にしても、育成から支配下への登録期限である7月31日までには間に合うんじゃないかと、密かにそう期待してもいた。
支配下登録選手になれば名実ともにプロ野球選手と言える、年俸も上がる、背番号も今の三桁から二桁に変わる、二軍の試合はもちろん一軍の試合にだって出られる。育成枠のままでは一軍の試合には出られないのだ。
「そうかな……そうだったらいいんだけど……」
「大丈夫だって。まあでも、オマエがやらなきゃならないことは今までと何も変わらないけどな」
陸がやらなければならないこと、それは結果を出し続けることだ。それでこそ球団首脳の目に留まる唯一の方法なのだから。
一方、結衣にも変化が訪れていた。陸があの試合で見せてくれたマウンドでの姿。ミットの中心だけを目指して一点の曇りもない白球を投じるその姿に強く心を打たれた結衣は、すぐさま新しい曲を書き上げていた。
「なんだろう、今まで思いつかなかったようなフレーズが出てくるようになったよね。不思議だなぁ」
完成したその曲は、陸の姿とそれを応援する自分の気持ちを素直に重ねた、力強いけれど心温まるバラードだった。
『あなたの背中が私の道しるべ、孤独なマウンド(ステージ)に 差し込む光』
ライブでその新曲を披露すると、客席の反応は今までとは明らかに違った。
「今の曲、すごく心に響いたな」
「なんだか、泣きそうになった」
「歌ってた女の子は誰?」
誰が広めたのかSNSでも徐々に話題になり、結衣のライブには少しずつではあるが客が増え始めていた。それも彼女の歌を目当てにした客が、だ。
「そうなんだ、すごいじゃん」
「うん、私の歌を聞きたくて来てくれるなんて、ホントに嬉しくって」
「俺もライブで聞いたけど、マジですごく良い曲だと思うよ」
「……どんなところが良いって思ってくれたの?」
「そうだなぁ……えっと結衣ちゃんらしいって思ったんだよね。なんつーか、やっぱり真っすぐだな、って」
「真っすぐ?」
「うん。初めてライブで聞いた時からさ、結衣ちゃんの歌は真っすぐ俺の胸に突き刺さってきたのよ。純粋っていうかさ。自分の想いを一生懸命聞いてる人に伝えようとしているのがすごく伝わってきて……それであの曲も同じように感じたんだ。だから結衣ちゃんらしい曲だなって」
私らしさ、それは聞き手に対してウソ偽りなくありったけの想いを伝えること。それを真っすぐと、純粋と陸は言っている。彼にはちゃんと伝わっていた。それが結衣には何よりも嬉しかった。
「じゃあ、これからもそうでいないとね」
「それでいいと思う。少なくとも俺は今のままでいて欲しいな。俺は結衣ちゃんの曲、好きだよ」
好きだよ。もちろんそれは結衣の曲に対しての言葉だ。それはわかっているのに、わかっているはずなのに、どうしてこんなに胸がドキドキするのだろう。好きだよというたった一言に、どうしてこんなに心揺れてしまうのだろう。女子校育ちで男性に免疫のない、恋愛経験のない彼女にはわからないことばかりだった。
<5>
ある日、結衣はライブハウスのオーナーから一人の男性を紹介された。
「七海さんだね。僕は音楽プロデューサーをしている我那覇という者です」
名刺を差し出した我那覇と名乗るその男は、柔和な笑顔でそう言った。
「君の歌を聴かせてもらったよ。特に、あの新曲だ……あの曲には人を惹きつける『真っすぐさ』がある。一度、うちでキチンとした話をさせてもらえないかな?」
それは結衣が夢見ていた世界への初めての扉だった。とうとう自分にもチャンスが巡ってきた。この胸の高鳴りをどう表現すればいいのか。そうだ、高揚感、これは高揚感だ。
七月に入ると、陸は二軍試合で抑えいわゆるクローザーとして起用されるようになった。僅差の最終回というプレッシャーのかかる場面で試合の最後を締めくくる。それがクローザーだ。
クローザーに求められる資質はもちろん幾つかあるが、その中のひとつに三振を奪えることが挙げられる。ゴロやフライは前に打たれたらエラーが有り得るし、外野まで飛ばされれば犠牲フライで失点するケースもある。しかし三振にはそれが無い。極端なことを言えば打者三人を総て三振させてしまえば何の心配もいらないわけだ。そしてその為に不可欠なものが決め球となる。
決め球と一言に言ってもそれはピッチャーによって様々だ。落差の大きいフォークボール、切れ味鋭いスライダーなど枚挙にいとまがない。優れたクローザーの数だけ決め球があるのだ。
陸にとっての決め球はストレート、直球だった。彼は自分のストレートを信じて腕を振り、結果を出し続けた。そしてその姿は首脳陣の目に留まり、夏も盛りを過ぎた頃ついにその吉報がもたらされた。
「朝倉、支配下登録だ。おめでとう」
球団事務所に呼ばれ、そう告げられた瞬間、陸は耳を疑った。
「……はい!ありがとうございます!」
血の滲むような一年と数カ月。クビ寸前とも思われた自分が、ついに育成枠から抜け出す日が来た。三桁だった背番号は、二桁の「68」に変わり、年俸も最低保障額が異なるため200万円もアップする。名実ともに「プロ野球選手」としてのスタートラインに立ったのだ。
もちろん陸は真っ先に結衣へ電話をかけた。親でもなく、友人でもなく、結衣にだった。
「結衣ちゃん、俺……支配下になった! やっと、プロになれたよ!」
受話器の向こうで、結衣が息をのむ気配がした。
『陸くん、すごい! すごいよ! 本当におめでとう!』
自分のことのように喜んでくれるその声に、陸の胸は熱くなった。
「結衣ちゃんが、あの時見に来てくれたからだよ。ありがとう」
『私こそ、陸くんが頑張ってるから、私も頑張れてるんだよ』
電話越しに笑い合う二人の時間は、何物にも代えがたいものだった。
「実はね、まだ言ってなかったけど、私も報告があるんだ」
結衣は先日あった我那覇とのやり取りを陸に話した。
「マジで? 結衣ちゃんスゴイじゃん。プロデューサーが付くって、それもうプロじゃん」
「最初は嬉しかったけど、でもやっぱり信じられなくって、もし騙されてたら恥ずかしいから黙ってたの」
「アハハハ、気持ちはわかるけど」
「でもね、今日初めて事務所へ挨拶に行ってウソじゃないってわかったの。ホントにチャンスだったみたい」
「よかったじゃん。応援してるよ。上手くいくといいね」
一抹の寂しさが無いと言えばウソになるが、結衣の夢が叶おうとしているのは素直に嬉しい。いや、むしろ絶対に叶って欲しい。その気持ちにウソは無い。絶対に無い。
支配下登録された陸は新たな壁にぶつかっていた。初めて呼ばれた一軍の練習。テレビで見ていたスター選手たちと並んで受けるノック、フリーバッティングでの打球音。何もかも総てが二軍とは別次元だった。
(俺のストレートは、この人たちに通用するのか……?)
二軍では抑えられていたけれど、一軍の選手たちは微妙なコースをキッチリと見極め、怪しいコースはファウルで粘ってくる。
(実力も経験も雲泥の差ってか。こりゃキツいなぁ)
その差はすぐに埋めようがない。けれど埋めない限りこの先のステージへは進めない。早く一軍に上がりたい、結果を出したい。その焦りが、再び陸のピッチングに影を落とし始めていた。だが、そのことに本人は気づかない。
お互いに新しいステージに進んだことで、二人の時間は確実に減っていった。陸は遠征が増え、結衣は事務所との打ち合わせやボイストレーニングに追われる日々。メッセージのやり取りも途切れがちになり、たまに電話をしても、お互いの疲れた声だけが響く。
「一軍の練習に参加したんでしょ? 大変そうだね。どうだった?」
「ああ……ちょっと参加しただけなのに、正直レベルが違いすぎてさ、ちょっと、いや、だいぶへこんでる」
陸が弱音を吐くと、結衣は一瞬黙り込んだ。実は彼女も今悩んでいる。だが「私なんかの悩みで、陸くんの負担を増やしたくない」という想いが口を閉じさせた。
『……陸くんなら大丈夫だよ。あの時のピッチング、すごかったもん』
そう言って励ます結衣の声は、けれどどこか無理をしているように陸には聞こえた。
(結衣ちゃんも、何か悩んでるんじゃないか……?)
そう思いながらも陸は、その核心に踏み込むことができなかった。相手も頑張っているのに、自分の弱音を吐いてはいけない。お互いを思いやるその遠慮が、いつしか二人の間に薄い壁を作り始めていた。
八月に入ったある夜、久しぶりに電話が繋がった。だが電話の向こうの相手はひどく忙しそうだった。
「ごめん、今、打ち合わせ終わって……」
疲れ切った結衣の声に、陸は初めて苛立ちを覚えてしまった。最近いつもそうだ。ラインのやり取りもそっけないし電話もなかなか繋がらない。
もちろんそれで腹を立てるほど子供ではないが、結衣の意識が自分の方に全く向いていないことを感じて一抹の寂しさを感じるのも事実だ。そんなことが何度も続き、やがて陸の中で黒い感情が芽生えた。そんな悪いタイミングで久しぶりに電話が繋がってしまった。
「……なんか、最近ずっと忙しそうだね。俺との電話、迷惑だった?」
カッとなったわけではないが、自然とこんな言葉が口をついて出た。
『え……? なんで、そんなこと言うの』
「いや、だって……。俺が支配下になった時、あんなに喜んでくれたのに、最近、全然楽しそうじゃないからさ」
少しばかりイヤミっぽいその言葉は、最悪のタイミングで結衣の心を抉った。
『……陸くんに、何がわかるの!』
結衣の悲鳴のような声。それは陸が初めて聞く声だった。真っすぐに伝わるけれど、それはいつもの励ます声じゃない。彼女自らの悲しみを泣き叫ぶような、そんな声に聞こえた。
「私だって、頑張ってるんだよ……陸くんだけが大変なわけじゃない!」
「……ごめん」
陸はそれしか言えなかった。
『……もう、切るね』
一方的に切られた通話音を聞きながら、陸はその場に立ち尽くした。どうしてあんなことを軽はずみに言ってしまったのか。なぜあんなイヤミっぽい言い方をしてしまったのか。冷静に考えれば彼女は何ひとつ悪くないのに。
初めての大きなすれ違い。それぞれの夢に向かって一歩を踏み出し始めたはずの二人は、その夢の重さに押しつぶされそうになりながら、互いを見失いかけていた。
結衣は悩んでいた。我那覇がプロデュースを申し出てくれたことは有難かったし嬉しかった。調べてみると我那覇はそれなりに実績のある人物で、彼がプロデュースを手がけた者の中には、結衣が知っている名前も何人かいた。こんな人物が自分に目をかけてくれるなんて、それは新しい扉を開けるステップに違いない。そう思えた。
「でも、やっぱり何か違うよね」
その扉の先は結衣が想像していたものとは少しばかり違っていた。
「君の才能は本物だ。だが、このままじゃ売れない」
事務所で打ち合わせを重ねるうち、我那覇の要求は具体的になっていった。
「この新曲はいい。でもアレンジが地味すぎる。サビの歌詞も、もっとキャッチーな言葉に変えよう」
「それと、ライブハウスならいいが、世に出るならもっと華やかさが必要だ。衣装もメイクも、全部変えるぞ」
陸が「真っすぐでいい」「そのままでいて欲しい」そう言ってくれた自分の歌。自分の姿。それを根底から否定されるような提案に結衣の心は揺れた。
(これが、プロになるってことなの……?)
自分の夢を叶えるチャンス、けれどそれは自分らしさを殺してしまわないと掴めないものだろうか。それでいいのだろうか。いや、それはやはり違うと思う。
「七海さん、僕はね、才能を埋もれさせたくないんだよ。それは音楽業界における罪とすら思っているんだ」
「罪……ですか」
「そう、だから僕は見つけた才能はどんなことをしてでも世に送り出したい。それが自分の存在意義だと思っているし、自分を育ててくれたこの業界への恩返しだと思っているんだ」
我那覇は自らの想いを結衣にそう伝えた。
「僕もね、長くこの業界で仕事をしているから、そりゃたくさんの才能を見てきたよ。でもその総てが日の目を見たわけじゃないんだ。むしろ消えていった者たちの方がはるかに多い。その為にツライ思いも苦い思いも味わってきた。彼らは決してダメだったんじゃない、自分を上手く売り込めなかっただけなんだ。だから僕はどんな方法でもいいから担当したミュージシャンを世の中に売り出したい。それだけなんだよ」
決して私利私欲のためではないのだと彼は懸命に訴えながら、それでも結衣の意見を尊重すべく話し合いを重ねてくれた。だが、二人にとって一番根底の部分でのすり合わせは、なかなか出来なかった。
プロデュースを断って総てをチャラにしてしまえば問題は解決するかもしれないが、そうすれば大きな機会を自ら捨てることになる。もう一度チャンスは来るだろうか。もし来なかったら……。
そんな時、久しぶりに陸と電話で話すことが出来た。もちろん嬉しかった、けれど悩みが頭から離れはしない。我那覇との話し合いが思うように進まずイライラしていたのかもしれない。もちろんそんなつもりは毛頭なかったけれど、陸に対して何かぞんざいな態度をとっていたのかもしれない。そうでなければ陸はあんなことを言いはしない。どうしよう、どうしたらいいのか。わからない。今の彼女にはわからなかった。
<6>
電話が切れた後の静寂が、陸の心を深く抉った。自分が吐き出した言葉の棘が、自分の一番大切な人を傷つけてしまった。その事実に打ちのめされ、陸は練習に身が入らなくなった。焦りと後悔が投球フォームを微妙に狂わせ、あんなに自信を取り戻したはずのストレートは、再びその輝きを失いかけていた。
ピッチャーはよく精密機械と例えられる。ほんの些細なことで調子を崩すからだ。一般人にとっては些細なことでもピッチャーにとってはそうでない。今の今まで素晴らしいピッチングをしていたのに、ちょっとしたきっかけで突如調子を崩してしまうのがピッチャーという人種なのだ。
そんな状態の陸に、皮肉にもこのタイミングでチャンスが巡ってきた。一軍のリリーフ投手陣に故障者が出て、急遽一軍昇格の白羽の矢が立ったのだ。
「チャンスだぞ、朝倉。思い切ってやってこい」
二軍監督の励ましも、今の陸には重圧となってのしかかるだけだった。結衣に連絡することもできず、重い足取りで一軍のスタジアムへと向かった。そして、その日はすぐにやってきた。やってきてしまった。
チームが一点リードで迎えた八回裏、ランナーは一塁。緊迫した場面で、ブルペンに声がかかった。
「ピッチャー、朝倉!」
数万人の大観衆がどよめく中、陸はマウンドに上がった。だが、その足は震えていた。なにがなんだかわからない。頭の中は結衣との電話のやり取りで未だにぐちゃぐちゃで、キャッチャーのサインすら霞んで見える。
(しっかりしろ……ここで抑えなきゃ……!)
焦りだけが空回りし、投じた初球のストレートは、甘く真ん中に入った。甲高い金属音を残した白球は夜空に高々と舞い上がり、無情にもレフトスタンド上段へと吸い込まれていった。逆転ツーランホームラン。球場を揺るがす大歓声が、まるで自分への罵声のように聞こえた。たった一球。その一球で、陸の初めての一軍登板は終わった。翌日、彼は二軍降格を告げられた。
二軍のグラウンドに戻ってきた陸は、まるで抜け殻のようだった。神谷が心配して声をかけても「放っておいてくれ」と突き放すだけだった。
(俺はここまでなのか……これで終わりなのか)
たった一球で味わったプロの世界の厳しさと、大切な人を傷つけてしまった罪悪感が彼の心を完全にへし折ってしまっていた。
一方、結衣もまた、苦しみの淵にいた。陸を傷つけてしまった自己嫌悪と、思うように進まない音楽活動。プロデューサーの要求通りにアレンジされたデモ音源を聴いても、そこに自分の心はなかった。歌うことが、あんなに好きだった歌が、今はただ苦しいだけだった。
なのに結果だけが出る皮肉。アイドル要素を強めに押し出し、SNSで今まで以上に情報を発信し、マスメディアにもどんどん売り込んでいく。CDデビューも決まった。結衣は少しずつだが確実に知名度を上げていく。それは我那覇のプロデュース方針が誤りでないことの証明だが、しかしこれは結衣が本来望んでいた形ではない。
アイドルのようなルックスと言われるのは一人の女の子としては嬉しいが、自分はアイドルになりたかったわけではない。歌手になりたかったのだ。この売り出し方は決して本意ではない。
結衣の苦悩は増すばかりだった。こんなはずじゃなかった。自分の描いていた夢はこうではなかったはずだ。だが結果の出ている今の状況では、我那覇にそんなことを言えるわけもなかった。
結衣は久しぶりに練習場へと足を運んだ。陸にはもう随分会っていないし、前回失敗してしまってから電話で話すのも心がひるんでしまう。出来れば会って面と向かって顔を見て直接話したい。
だが練習場に陸の姿は無かった。スタンドでキョロキョロとしている彼女に誰かが声をかけた。声の主は陸の同僚である神谷だった。
「あのさ! 七海さんだよね! そうでしょ!? 朝倉のことで、ちょっと話があるんだ!」
「どうして私のことを?」
「キミのことなら知ってるさ。陸がキミと初めて会ったライブハウス、あれは俺がアイツを誘って一緒に行ったんだから」
神谷から聞かされた陸の現状は、結衣の想像を越えるものだった。たった一球で二軍に落ち、すっかり調子を崩し、練習にもあまり身が入らず、練習の時以外は部屋に引きこもっているという。
「アイツがあんなになるなんて、よっぽどのことなんだ。確かに一軍でのあの出来事はショックだったろうけど、それであんなになるほどアイツは弱いヤツじゃない。キミと何かあったんだろ? 違うかい?」
答えられなかった。結衣は神谷のその問いに答えることが出来なかった。
帰宅した結衣は鏡に映る自分を見つめた。派手なメイクを研究し、流行りの服を着て、自分ではない誰かになろうとしている。総てはプロデューサーである我那覇の方針に沿ってのことだ。そして不本意ながらも自分はそれを結局受け入れたのだった。
それは決して失敗ではない。現に知名度は大きく上がったしCDデビューも出来た。だが……。
(私は、誰のために歌ってるの……?)
自分が歌う原点は何なのか? 答えは分かりきっていた。たった一人でも、真剣に聴いてくれる人がいる。その人の心に向けて真っすぐに歌を届けたい。それが自分の原点だったはずだ。間違いなくそうだったし、そんな自分の歌を好きだと、そのままでいて欲しいとハッキリ言ってくれた人がいたではないか。
結衣は決意した。翌日、彼女は我那覇に会いに行き、深々と頭を下げた。
「今までありがとうございました。でも、もう私には歌えません」
驚く我那覇に結衣は続けた。
「今の私では、誰の心にも響く歌は歌えません。私には、どうしても歌わなければいけない歌が、一番最初に届けなければいけない人がいるんです。それがやっとわかったんです」
我那覇は引き止めなかった。おそらく今までの話し合いの中で、遅かれ早かれこうなると予感していたのだろうと結衣は思った。彼のポリシーは理解出来るし、自分も売れたいという想いがあったからこそ彼にプロデュースをお願いしたのだが、自分にとってそれは誤りだったと気づいた。
もちろん我那覇が悪いわけではない、彼は実績もあるし、現に彼のプロデュースのおかげで自分の知名度は大幅にアップしている。だがそれは自分には合わない。それだけだ。
事務所を後にした結衣はスマホを手に取った。陸にメッセージを送る。
『話したいことがあります。今夜、あのライブハウスで待っています』
返信はなかった。勝手に予定を決められても陸が来られるかどうかわかりはしない。それでも結衣は二人が初めて出会ったライブハウスへと向かった。その日は定休日だったのだが、オーナーに事情を話し、無理を言ってステージに立たせてもらうことにした。陸が来るかどうかはわからない。わからないけれど、彼は必ず来てくれる、そう結衣は信じていた。
<7>
夜になり、陸は重い体を引きずるようにライブハウスの扉を開けた。来るべきか迷った。だが、このまま終わらせてはいけないという想いが彼の背中を押したのだ。
客席には誰もいない。定休日のはずだからそれも当然だろう。ただステージの上だけがぼんやりと照らされていた。そこに、一本のマイクの前に立つ結衣の姿があった。
「来てくれて、ありがとう」
結衣は静かに言うと、目を閉じた。そして、歌い始めた。それは、陸を想って作った、あの曲だった。派手なアレンジも、バンドの演奏もない。ただ、彼女の声と、アコースティックギターの音だけ。
『あなたの背中が 私の道しるべ、孤独なマウンド(ステージ)に 差し込む光』
飾り気のない、ありのままの「真っすぐ」な歌声。その歌声が、陸の閉ざされた心の扉をゆっくりとこじ開けていく。彼は初めてこの場所で彼女の歌を聴いた時の、胸を突き刺すような衝撃を思い出していた。そして野球が大好きで、ただがむしゃらにボールを追いかけていた少年時代の自分を思い出していた。そうだ、あの頃の自分はただただ野球をするのが楽しくて楽しくて仕方なかったのだ。それが自分の原点じゃないか。いつから余計なことをあれやこれや考えるようになってしまったのか。
『迷子の私を導いてくれた、その眼差しが教えてくれたから、私はここでずっと歌い続けると誓うよ』
気づけば、陸の頬を涙が伝っていた。迷子だったのは俺だ、導かれたのも俺じゃないか。彼女の歌が俺を今まで導いてくれていたんだ。歌を聞いて涙を流すなど初めてだったが、自分でもどうしようもなかった。とにかく結衣の歌を聞いていて涙が止まらないのだから。
歌い終えた結衣は、ステージから降りると陸の隣にそっと座った。
「ごめんね……。私、陸くんが一番辛い時に、支えになってあげられなかったね」
結衣はそう言って謝った。
「違う……俺の方こそ、ごめん。自分のことばかりで、結衣ちゃんの苦しみに気づいてやれなかった」
二人は、どちらからともなく言葉を交わし、お互いの悩みを、弱さを、包み隠さず総て正直に打ち明けた。
「俺、もうダメかもしれない。一軍のレベルには、全然届かないって思い知らされた」
「ううん、そんなことない。私は知ってる。陸くんのボールが、どれだけすごいか。あの日のマウンド、今も目に焼き付いてるよ。今はちょっとだけ自信を失ってるの。それだけだよ」
結衣の言葉が、乾ききった陸の心に染み渡っていく。
「私ね、我那覇さんのプロデュース、お断りすることにしたの」
「えっ!? どうして」
「我那覇さんのおかげで結果は出ているけど、でもそれは私がなりたかった私じゃなかったの。我那覇さんには感謝しているけど、でももうこれ以上自分にはウソをつけないなって思って」
その決断をするために彼女はどれほど悩んだかは想像に難くない。だが、自分はそんな彼女の力になれなかった。
「……ねえ陸くん。私は陸くんがいたから自分の歌を取り戻せたの。だから今度は、私の歌が陸くんの力になりたい。陸くんの為に歌いたいの」
その温かい感触に、陸は顔を上げた。目の前の結衣の瞳は、涙で濡れながらも、初めて会った時と同じ、強い光を宿していた。
「……ああ」
陸は、力強く頷いた。
「私ね、マウンドに立つ陸くんがいるから歌えるんだと思うの」
「俺は結衣ちゃんの歌があるから頑張れる」
二人は顔を見合わせて、お互いに力強く頷き合った。
「陸くん、もう一度マウンドに立って。私も、もう一度私のステージで戦うから」
「ああ、約束する。約束するよ」
「陸くんの投げるボールは真っすぐだよね。それは初めて試合で投げるのを見たあの時からずっと変わらない。でも私はそれでいいと思うの。だってそれが一番陸くんらしいもん。だからね、ずっとそのままでいてね」
二人は互いの存在が、夢を追う上で、そして生きていく上で、不可欠なものであることを再確認した。暗闇の底で、2つの光は再び交わり、以前よりもっと強く、確かな絆で結ばれたのだった。
<8>
ライブハウスでの誓いの夜が明けた。世界が昨日と何も変わらないように見えても、陸と結衣の心の中の世界だけは生まれ変わったかのように澄み渡っていた。
二軍グラウンドに戻った陸の姿に、チームメイトたちは驚きを隠せなかった。抜け殻のようだった昨日までとは別人のように、その目には再び闘志の炎が宿っていたからだ。
「吹っ切れたみたいだな」
キャッチャーの神谷が、防具をつけながら声をかけた。
「……ああ。俺、勘違いしてた。プロだからとか、一軍だからとか、そんなもののために野球やってたんじゃなかった。ただ、最高のボールを投げたい。それだけだったんだ。それでよかったんだって」
陸はスパイクの紐を固く結びながら、穏やかに言った。その横顔にはもう迷いはなかった。
それからの陸は、まるで野球を始めたばかりの少年のように、貪欲に練習に打ち込んだ。一球一球、指先にかかるボールの感触を確かめるように。キャッチャーミットに突き刺さる音を楽しむように。結衣の「真っすぐ」な歌声が、彼の心の中で最高の応援歌として鳴り響いていた。
一方、結衣もまた、自分の原点に立ち返っていた。我那覇との契約を解消したことで、彼女を取り巻く環境も変わらざるを得なかった。
だが、結衣の心は不思議なほど晴れやかだった。
「これでいいんだ」
誰のためでもない、自分自身の心から溢れ出る言葉とメロディを紡ぐ。それは決して派手ではないけれど、確かな熱を持った歌だった。そして、数は少なくとも、その歌に真剣に耳を傾け涙ぐむ人がいる。その一人一人の顔が、彼女の何よりの支えとなった。それこそが彼女の原点なのだと気づくことが出来たのだ。
『陸くん、今日の練習どうだった?』
『結衣ちゃんこそ、今日のライブ、うまくいった?』
会えない日々が続いても、二人は短いメッセージを送り合い、互いの健闘を祈った。それぞれの場所で戦っている。その事実が、二人を孤独から守っていた。
世の中はわからないもので、季節が秋を迎えるころ結衣に再び転機が訪れた。結衣のライブに足繁く通う一人の男性が彼女に声をかけたのだ。小さなインディーズレーベルを主宰する男だった。
「あなたの歌には魂がある。派手さはないかもしれないが、人の心を直接揺さぶる力がある。僕はそんなあなたの歌に惹かれました」
自分が結衣を知った時には、もう我那覇と契約した後だったのだと彼は言った。
「僕は七海さんを見つけるのが少し遅かったんですね。すでにプロデュース契約を結んだ後だと知った時は、そりゃあ残念でしたけれど、それでもずっと七海さんのことは一人のファンとして注目していたんですよ。我那覇さんとの契約は打ち切ったと聞きました。それならば、是非うちからCDを出しませんか? 僕らは決して大きな会社じゃない。けれど、だからこそあなたの音楽を、あなたの『真っすぐ』さを変えることなく、あなた自身の想いをそのまま世の中に送り出すことが出来るんです。話を聞いた限りでは、それはあなたの希望ともマッチすると思うのですが」
それは、まさに結衣が心から待ち望んでいた言葉だった。彼女は深々と頭を下げ、その申し出を受けることにした。
「ホントに? すごいな、よかったじゃん」
電話の向こうで陸が自分のことのように喜んでいるのがハッキリと伝わった。
「やっぱり見る人は見てるってことだね。ホントよかった、俺も嬉しいよ」
弾むその声を聞いていると、それだけで結衣の喜びは何倍にも増幅される気がした。今度は間違えない、自分の歌を本当に伝えたい人へ届けたい。自分の想いを余さず伝えたい。あらためて結衣はそう心に誓うのだった。
<9>
季節は夏から秋へと移り、ペナントレースも最終盤に差し掛かっていた。陸は二軍で抑えとして完璧な結果を残し続けていた。もうかつてのような荒々しさは鳴りを潜め、気迫と自信に満ちたそのストレートは、打者を寄せ付けなかった。
だが、なかなか一軍への声はかからなかった。チームは今3位を争っている真っ最中で、3位になればクライマックスシリーズへの出場権を手に入れられる。クライマックスシリーズ、略してCSに出場するということは、そのシーズンがまだ終わらないということだ。より多くの試合をすることになればファンは喜ぶし球団も潤う。回りまわって自分たちの年俸に還元されるかもしれない。そんな大事な時に大失敗したピッチャーを試す余裕などないのだろう。返す返すもあの不用意な一球が悔やまれるところだ。
そんなある日、二軍監督室に呼ばれた陸は、監督からこう告げられた。
「朝倉、明日から一軍へ行ってもらう」
シーズンも残すところ3試合ほどになったところで、ついに一軍からお呼びがかかった。
「前回は悔しい思いをしたが、今のオマエなら大丈夫だろう。お前の『真っすぐ』で、チームの勝利に貢献してこい」
監督の言葉に、陸は帽子のつばを深くかぶり、声を震わせながら答えた。
「……はい!」
その足で、陸は電話をかけた。メールやラインではなく、どうしても自分の声で、直接伝えたかったのだ。
「もしもし、結衣ちゃん? 明日から一軍に呼ばれたよ」
受話器の向こうで、結衣が息をのむのが分かった。
『……うん。信じてた』
多くを語らずとも、その一言にすべての想いが込められているのが分かった。
「今度こそやるよ。出番があるかわからないけど、もし投げることがあったら、その時は見ててくれ。俺のピッチングを」
『うん。見てる。ずっと見てるよ』
電話を切った後、陸は夕暮れの空を見上げた。逆転ホームランを浴びてたった一球で終わった悪夢のようなあの日。だが今は不思議と不安も恐怖もなかった。あの時は孤独だったマウンドに、今は彼女の光が差し込んでいる、そう、もう彼は一人じゃないのだから。
<10>
一軍のロッカールームは、やはり独特の緊張感に包まれていた。ましてやシーズン終盤でもありCS出場権を争っている真っ只中なのだから、それは殺気立っていると言う方が正しいのかもしれない。
だが、前回足を踏み入れた時のような萎縮は今の陸にはなかった。テレビで見ていたスター選手たちの顔ぶれも、今は倒すべき相手として、そして共に戦う仲間として、はっきりと見据えることができた。
「気後れしてるか?」
神谷がそう声をかけてきた。
「バカ言え。俺はもうあん時とは違うんだよ。気後れなんてするもんかよ」
「おうおう、ずいぶん逞しくなったもんだなぁ」
神谷はそう言ってケラケラと愉快そうに笑った。
「正直残り三試合しかねえけど、どっかで必ず出番はあると思うんだよ。ウチは今リリーフ陣が不安定だしさ。それに、CSに出ればそこで投げるってことも有り得るし、だからさ、まあ、頑張れ」
「励まし下手かよ」
2人はお互いの顔を見合いながら大笑いした。陸にとって神谷は相性の良い相手だ。結衣とは違う意味で自分の支えになっている男なのかもしれない。そんな気がした。
<11>
そして、運命の日がやってきた。
シーズン最終戦。この試合に勝てばチームはクライマックスシリーズへの進出が決まるという、まさに天王山だった。結衣はデビューシングルのジャケットデザインの打ち合わせを終えると、急いで電車に飛び乗り、陸が立つはずのスタジアムへと向かった。
この状況であればチケットなど、発売したと同時に完売となるに決まっている、だが絶対に陸がマウンドに立つと信じている結衣は、様々な伝手を懸命に頼ってこのプラチナチケットを確保したのだ。
試合は息詰まる投手戦となり、1対0、チームの1点リードで最終回を迎えた。勝利の女神が微笑みかけたと思った、その矢先だった。守護神として最後の締めを任されてマウンドに上がったベテラン投手が突如捕まり、逃げ場のないノーアウト満塁という絶体絶命のピンチを招いてしまった。球場全体が希望から一転、地鳴りのような悲鳴とため息に包まれる。誰もがサヨナラ負けの悪夢を脳裏に描いた、その時だった。監督が冷静な足取りで球審に告げた。
「ピッチャー、朝倉」
そのアナウンスに数万人の観衆は「誰だ?」と戸惑いの声を上げた。さきほどまでとは全く違う意味でスタンドはどよめいていた。この土壇場で、実績のない若手を送るのか、と。だが、そんな観客たちとは別世界の人間が、一人だけこのスタジアムに存在した。スタンドの片隅で、結衣は祈るように両手を固く握りしめていた。ブルペンからマウンドへ向かう背番号「68」に向けて、ただただひたすら彼女は祈っていた。
マウンド上には、コーチではなく監督自らが待っていた。野手たちも不安と期待が入り混じった表情で陸を囲んでいる。
「どうだ、朝倉。緊張してるか?」
「いえ、あの日に比べれば、全然です」
そう答える陸の瞳に、監督は確かな光を見た。
「多くは言わん。俺たちは勝ちたい。その上でここは三振が欲しい。野手陣を信頼していないわけじゃないが、ゴロやフライでは何が起こるか分からんからな。ウチで今、一番三振を奪えるのはオマエだ。だからこの場面にお前を送った。……絶対に1点もやるな。以上だ。長かったか?」
最後の『長かったか?』は、陸の緊張をほぐすためだったのだろうか。
しかし冷静に考えれば、監督の要求は三者連続三y振に切って取れというに等しい、あまりにも過酷な指令だった。マウンド上で投球練習を終えた陸の元へ、キャッチャーの神谷が駆け寄る。
「おい、最高の舞台じゃねえか。震えてる場合かよ」
「……震えてねえし」
「嘘つけ。だがな、その震えは恐怖じゃねえぞ。武者震いだ。思い出せ。お前が何のために、誰のために腕を振るのか。俺のミットだけ見てろ。いいか、俺のミットだけを見て投げ込め。お前の最高の球、俺が全部受け止めてやる」
神谷はミットで陸の胸をドン、と叩くと、ホームベースへと戻っていった。
陸はロージンバッグを手に取り、ゆっくりと深呼吸をした。
(誰のために腕を振るのかだって? そんなの決まってるだろ、神谷)
そうだ、何も考えるな。ただ、ミットの中心に、自分の全てを投げ込むだけだ。そして、その姿をスタンドにいるはずの彼女に見てもらうのだ。それだけを考えろ。
最初のバッターは、いやらしい粘り打ちが身上の巧打者。神谷のサインに、陸は頷く。
初球。力みからか、ボールは高めに大きく外れた。ボール。球場のざわめきが大きくなる。この場面で初球がボールなら当然の反応だ。
二球目。低めのストライクゾーンを狙ったが僅かにボール。
一進一退の攻防はあっという間で、カウントは3ボール1ストライク。絶体絶命のカウントとなってしまった。
陸はスタンドの光の中に結衣の姿を探した。いた。彼女は今にも泣きそうな顔で、それでもその視線は力強く自分を見つめている。その事実が陸にどれほどの勇気と力を与えてくれることか。
(そんな顔するなよ……見ていてくれ、ここからだから)
陸は神谷のサインに頷いた。ミットの中心だけを見据えて腕を振る。ズバン!と乾いた音が響き、高めのストレートに打者のバットが空を切った。空振り! そして次の投球は外角低めに糸を引くようなストレート。見逃し三振! ワンアウト。 獄の淵からひとつ這い上がった。
割れるような大歓声にスタンドが揺れる。電光掲示板に表示された「155キロ」の数字にどよめきが起こり、陸に対する期待の高まりが肌で感じられた。
続くバッターは百戦錬磨のベテラン。神谷はあえて変化球のサインを出すが、陸は静かに首を振る。俺は俺の「真っすぐ」で勝負する。その覚悟が、神谷にも伝わった。
初球。渾身のストレート。しかし、百戦錬磨の打者はそれを完璧に読んでいた。甲高い金属音! ファウル! タイミングは合っていた。陸の背筋を冷たい汗が伝う。これが一軍なのだ。誰一人として簡単に打ち取れやしない。
だが、神谷は冷静だった。「今のを見せ球にするぞ」と陸に目で合図を送る。そして彼はもう一度変化球のサインを出した。1人目はストレートで押して打ち取り、2人目は緩急織り交ぜて打ち取る。これによって因縁の3人目のバッターが的を絞りにくくするの狙いだ。
だが陸はこのサインに首を振った。慌ててタイムを取った神谷はマウンドに走り寄った。
「オマエ、何考えてんだ。全球ストレート勝負でもするつもりか?」
そう言うやいなや陸の頭をミットで思い切り叩いた。
「冷静なフリしてアツくなってんじゃねーよ。オマエの決め球がストレートだからって、全球それで抑えられるわけねーだろ。彼女に良いトコ見せたくねーのかよ」
「いや、だから、別に彼女とかじゃ」
「あー、うっせえ、そーゆー話じゃねーんだよ」
神谷は半ばキレ気味に自分の狙いを伝えた。
「リベンジしてーだろ? それもストレートで三振を奪ってリベンジしてーよな?」
「それは、まあ、たしかに」
「だったら落ち着け。160キロのストレートだって、それしか投げなきゃ簡単に打たれるのがプロの世界なんだから」
緩急なんて基本中の基本だろ、と神谷は言った。
「遅い球を使うことでストレートがより速く見える。そうすりゃ三振を奪える確率が上がる。落ち着け」
どうやら陸は知らず知らずのうちにアツくなりすぎていたようだった。だが神谷のこの喝でそれを自覚することが出来た。
「悪かった。自分では冷静なつもりだったんだけど、ちょっとイレ込み過ぎてたみたいだな。でもおかげで目が覚めたよ。もう大丈夫だ。お前のサインに、全部任せる」
それを聞いた神谷は力強く頷く。
「任せろ。おまえの最高の球を引き出すのが俺の仕事なんだから。二人でバシッと抑えようじゃねーのよ」
ポジションに戻った神谷は、もう一度頭の中で配球を組み立て直す。緩急をつけて巧みにカウントを整え打者を追い込んでいく。陸も神谷のサインにキッチリと応えていた。しかし打者の方も懸命に粘る。
カウントはワンボール、ツーストライク。ここで神谷は胸元へのストレートを要求する。球速は再び155キロを記録したが、これはわずかに外れてボール。打者は見極めていたのか手を出さなかった。一球ごとに繰り返される緊張と緩和。球場内のボルテージは敵味方関係なしに否が応でも高まっていく。
次で決まるかと観客たちが固唾をのんで見守る中、陸が投じたのは再びストレート。今度は外角低めへと見事にコントロールされたストレートだった。先ほどとは異なり、打者は明らかに手が出なかったという表情でこれを見逃した。これで決まったか?
「ボール!」
しかし審判のコールは無情にもボール。場内のどよめきはまだまだ続く。そんな中でキャッチャーの神谷は内心で一人ほくそ笑んでいた。
カウントはこれでスリーボール、ツーストライクのフルカウント。一点差で満塁なので、次の投球がもしもボールならフォアボールで押し出し。同点になってしまう。しかし陸にも神谷にも動揺など微塵もない。
打者は変化球などの遅い球にタイミングを合わせると速い球に対応できない。しかしその逆なら僅かばかりだが対応する余地が生まれる。したがって、この場面では陸のストレートに狙いを絞るのがセオリーだ。陸が今まで投じたストレートの威力がその考えに拍車をかけている。
このバッテリーは、ここまでストレート続けて勝負を決めにきている。この投手の決め球をストレートだ。ならばこの場面で次に投じられるのは……海千山千のベテラン打者は狙いを一本に絞った。
球場全体が、息を呑む音だけを残して静まり返った。フルカウント。次の一球がチームの運命を、そして陸自身の運命をも左右するかもしれない。
打者の瞳には、一点の曇りもない決意が宿っていた。「ストレート一本待ち」。その気迫はマウンド上の陸にもビリビリと伝わってくる。
神谷はミットの中で静かに指を動かした。サインを見た陸は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに深く、そして静かに頷いた。恐怖も迷いもない。むしろ、これから起こるであろう結末を陸は楽しんでいるようにも見えた。
ゆっくりとセットポジションに入る。これまでで最も深く、大きく息を吸い込んだ。観客も、両チームの選手たちも、そしてテレビの前の誰もが自己最速を更新するであろう一球を待っていた。陸の全身が、先ほどまでと同じように大きくしなり始める。剛速球を生み出す、あのフォームだ。
しかし――。
振り下ろされるはずの腕は、まるでスローモーション映像のように、ふわりと空を切った。指先からすっぽ抜けたかのように放たれた白球は、重力に逆らうことをやめたかのように、大きな、あまりにも大きな山なりの軌道を描いてホームベースへと向かっていく。
一瞬だが、確かに時が止まった。
打者は、脳が理解することを拒否したかのように凍り付いていた。彼が待っていたのは時速160キロに迫る光の筋なのに、投じられたのはまるで少年野球のキャッチボールのような、時速100キロにも満たないであろう緩やかな球。そのあまりのギャップに身体が反応しない。
白球はゆっくりと、しかし正確にホームベース上を通過し、まるで「お待たせ」とでも言うように神谷のミットに**「ぱすんっ」**と、気の抜けたような音を立てて収まった。
一瞬の静寂。その静寂を切り裂いたのは、球審の右手が天高く突き上げられる音と、ワンテンポ遅れて響き渡った、魂のコールだった。
「ストライクッ!! バッターアウト!!」
その瞬間、球場は戸惑いから、信じられないものを見たという驚愕、そしてやがて割れんばかりの大歓声へと爆発的に変わっていった。
「どうよ」
そう言いたげな顔で神谷はマウンドの陸を見た。
「これでいいんだろ?」
陸はいかにもそう言いたげな顔で神谷を見ていた。
これでツーアウト。あと一人打ち取ればゲームセットだ、陸はバッターボックスで呆然と立ち尽くす百戦錬磨の打者を見つめていた。
それは決して力と力がぶつかり合う勝負ではなかったが、自分の「真っすぐ」を信じ抜いた者だけが辿り着ける究極の駆け引きだった。もし打者の頭にわずかでもカーブがあったなら簡単に打ち返されていたかもしれない。予期していればスローカーブなど打ちごろの球でしかないが、恐怖心を乗り越えてそれを投げた。相手の魂の裏をかいたバッテリーの完全な精神的勝利だった
目論見通り二人の打者を三振に仕留めたが、まだ一人残っている。ゆっくりとバッターボックスに向かってくる次の打者は、陸にとって忘れようにも忘れられない男だ。
陸の一軍初登板をたった一球で終わらせた男。球界を代表する、あの強打者だった。スタジアムDJが「因縁の対決です!」と叫び、観客のボルテージは最高潮に達する。
打者は陸を一瞥すると、不敵に口の端を吊り上げた。まるで悪夢の再現を予告するように。陸の脳裏に、夜空に消えた白球の残像とファンからの罵声、そして二軍へ落ちた日の屈辱が鮮明に蘇る。
その瞬間、神谷がミットをパンッ!と力強く叩いた。その音に、陸は我に返った。
(違う。俺はもう、あの時の俺じゃない)
陸はふと目を閉じた。地鳴りのような歓声が遠のき、静寂の中であの夜の歌声だけが鮮明に聞こえてくる。
『あなたの背中が 私の道しるべ、孤独なマウンド(ステージ)に 差し込む光』
ゆっくりと目を開けた。その瞳が映すのは憎い宿敵ではない。ただ一点、ホームベースの奥で自分を信じて待つ相棒のミットだけだった。
神谷がサインを出す。ストレート。 陸は投げる直前にスタンドの結衣をチラッと見てから小さく頷いた。
初球。またも155キロのストレート。しかしこれを打者は捉えた。快音を残してレフトスタンドに向かって飛ぶ打球。
「切れろお!!!」
陸は振り返ってレフト方向を見やりながら思わず叫んだ。
「ファール」
線審のコールが響くと球場が揺れた。打球は飛ぶほどに左方向へ切れていってファールとなったが飛距離は十分すぎる。ほんの少しタイミングが違っていればスタンド上段に叩き込まれていただろう。
「ふーっ、あっぶねぇ」
決して甘い球ではなかったが捉えられた。さすがにリーグを代表するレベルの強打者だ。全力で抑え込みに行かないと決して打ち取れないだろう。
二球目。神谷の要求はカーブ。しかし先ほどのものとは違い、明らかなボールとなるカーブだった。三球目もカーブ。これもボールとなった。
四球目、外角のストレート。これはファウルチップとなりバックネットに突き刺さった。
「タイム」
神谷が突然タイムをかけ、マウンドへと小走りに駆け出した。
「どうしたんだ?」
「ストレートを待ってるぞ。タイミングも合ってる。どうする?」
「どうするって、ストレートで打ち取るに決まってるだろ」
「だろうな、なら今までのストレートじゃダメだ。さらにギアを上げないと」
「なかなか難しい注文だな」
「出来るよ、今のおまえなら」
神谷はマスクをかぶり直しながら戻っていった。
スタンドから陸を注視する結衣は気が気ではなかった。本当に心臓が口から飛び出てきそうな、自分でステージに立っている時とは全く違う緊張感が彼女を強く包む。
「こんなにたくさんの人に注目されながら投げるのって、いったいどんな気持ちなんだろう」
マウンド上に立つ陸は、いつもの陸とはまるで違って見える。凛々しく、逞しく、力強い、そしてなにより楽しそうだ。躍動感あふれるその姿に、結衣はすっかり心奪われていた。
「陸くん、あと一人だよ。頑張って」
自分には祈ることしか出来ない。ならば祈ろう。そして陸の勝利の瞬間をこの目に焼き付けよう。結衣はそう心に決めた。
五球目、神谷のサインはストレート。陸はそのサインに力強く頷いた。外角に投じられたその一球は、さらに回転数を増した火の出るようなストレート。それでもしつこくバットに捉え続けファールで粘る打者。中継の解説者からも「タイミングは合っていますね」という言葉が出る。
球場の誰もが、次のボールを予感していた。陸も、神谷も、打者も、スタンドの結衣も、そしておそらくテレビ観戦をしている多くの視聴者も。
「小細工はいらない。ただ、最高のボールを神谷のミットに投げるだけだ」
陸は大きく振りかぶった。
「見ててくれよ。これが俺だ」
しなる体。極限の集中の中、時間の流れが引き伸ばされる。ムチのように腕を振り、その指先から放たれた白球は一本の光の筋となってミットへと突き進んでいった。
ズゥゥゥゥバァァァァンッッ!!!
球場全体を切り裂くような、魂のミット音。打者のバットは、ボールのはるか下を虚しく回った。一瞬の静寂。審判の右手が、天高く突き上げられる。
「ストライクッ! バッターアウト!!」
そのコールが響き渡った瞬間、スタジアムは爆発したような大歓声に包まれた。158キロを記録したそのストレートは、陸自身の暗い過去を見事に払拭するものだった。
「っしゃぁぁぁぁぁ! どうだぁぁぁぁ!」
陸は思わず雄叫びをあげていた。野手たちが一斉にマウンドへ駆け寄る。その中心で神谷に抱きとめられながら、陸は空に向かって力強く拳を突き上げた。もみくちゃにされながら見上げたスタンドの片隅で結衣が涙を流しながら、満面の笑みで拍手を送っているのが見えた。
<エンディング>
試合後のヒーローインタビュー。勝利に導いた選手の一人としてお立ち台に上がった陸は、少し照れくさそうに、しかしはっきりとした口調で語った。
「正直言って、初登板の時はショックでした。落ち込んだし、一度は自分のボールを見失いました。でも……『あなたのボールは真っすぐだ。それでいいんだ、そのままでいてくれ』と言って奮い立たせてくれた人がいました。僕の投げるボールを信じ続けて、待っていてくれた人がいました。その人の声が、僕をもう一度このマウンドに立たせてくれたんです」
その言葉が誰に向けられたものなのか、結衣には痛いほど分かった。
通用口で待っていた結衣の前に、ユニフォームを着替えた陸が現れた。二人は何も言わず、ただ顔を見合わせて微笑んだ。
「すごかった……本当に、すごかったよ、陸くん」
「ああ。結衣ちゃんが、見ててくれたからな」
二人は夜の街をゆっくりと歩き、あの始まりの場所、小さなライブハウスの前で足を止めた。
「見て見て。今日ね、出来上がってきたんだ」
結衣はそう言って、カバンから一枚の紙を取り出した。それは彼女の再デビューともいうべきシングルCDの、出来上がったばかりのジャケットデザインだった。シンプルなデザインの中央には、マイクを握りしめて真っすぐに前を見つめる彼女の写真が使われていた。
「これがアルバムのジャケットになるんだね」
「うん、今度のCDは本当に私の想いを詰め込んだの。誰かに作られたものじゃなくって、私が想いを届けたい人の為に作って歌った曲。やっと作りたかったものが出来たの」
「おめでとう。……本当に、おめでとう」
陸は心からそう言った。そして、一つ息を吸い込むと、結衣の目を真っすぐに見て続けた。
「なあ、結衣ちゃん。俺、結衣ちゃんの歌が大好きだ。でも、それだけじゃない。どんな時も前を向いて、自分の信じた道を真っすぐに進もうとする……そんな七海結衣っていう人間が、好きなんだ。俺と、付き合ってくれないか」
それは、彼のストレートと同じくらい不器用で、けれど心のこもった告白だった。結衣は、瞬きも忘れて陸を見つめ、やがて、満開の花が咲くように微笑んだ。
「……はい。私も、陸くんが大好きです」
陸は、そっと結衣の手を取った。初めて触れるその手はマイクを握りしめてきたからなのか思ったより硬くて、でも温かくて、そして少しだけ震えていた。
まだ何者でもなかった二人が出会った、あの五月の夕暮れから、季節は巡った。
夢の途中で、何度も膝をつき、涙を流した。けれど、そのたびに互いの存在が光となり、道を照らしてくれた。
孤独なマウンドと、孤独なステージ。そこはもう、一人で戦う場所じゃない。
プロ野球選手・朝倉陸と、シンガーソングライター・七海結衣。二人の物語は、ここでようやく重なり合い、輝かしい未来へと、確かな一歩を踏み出した。
握りしめた手の温もりだけが、それが夢ではないことを、静かに告げていた。
<終>
キミを照らすため、ここにいる スパイシーライフ @noreason145285
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