第十二章 再会

まぶしい光で目が覚めた。カーテンのすき間から差し込む朝の白い帯が、机の上のラジオとスケッチブックを照らしている。しばらくぼんやりと天井を見つめていた美咲は、枕元に置いていた都市伝説の本に手を伸ばした。ページをめくると、紙の擦れる音と少し古びた匂いが広がり、現実の朝なのに不思議と昨夜の出来事が続いているように感じられた。

「昨日の続き……」小さくつぶやきながら目を走らせる。あの赤い月と閉ざされた扉の伝説。読み返すほどに、頭の中で昨夜の景色が鮮明になっていく。夢だったのか、それとも本当に――そんな考えが胸の奥でぐるぐると渦を巻く。

やがて、ベッドの上で本を閉じた。体を起こすと、まだ少しだけ筋肉が重い。けれど夜よりはずっとましだ。右手の包帯をそっと触り、昨夜の痛みがたしかにここにあると感じる。深呼吸をひとつしてベッドから足をおろした。床の感触がいつもどおりで、胸の奥がふっと軽くなる。

階段の下から母の声がした。

「美咲、起きた?顔洗っておいで」

いつもの朝の調子だ。洗面所の鏡に映る自分は、目の下にうすいクマがあるけれど、もう昨日の汚れはない。水で頬をぱしゃっとぬらし、タオルで押さえる。髪を結び直し、部屋に戻ってパジャマから服へ着替えた。

リビングに入ると、台所からはトーストが焼ける香ばしい匂いが漂っているはず……なのに、静かだった。キッチンに母の姿は見えない。

「お母さん?」

声をかけても返事はない。首をかしげながらリビングに入ると、誰もいなかった。

「どこ?」

小さくつぶやきながら、背後に気配を感じて振り返った瞬間

「美咲、誕生日おめでとう!」

大きな声とともに、母が後ろから飛び出してきた。

「わっ!」

美咲は驚きでよろめき、倒れそうになったが、ギリギリ踏ん張って踏みとどまった。胸がバクバクして、心臓が飛び出しそうだ。

「び、びっくりした~!急に脅かさないでよ!」

思わず声を荒げると、母はいたずらっ子のように口元を上げて笑った。

「ごめん、ごめん。でも一度やってみたかったのよ」

息を整えながら美咲は母を睨み、しかしその表情もすぐに緩む。こうして驚かされている自分が、どこか懐かしく、そして幸せに思えた。

「それとね、お友達も来ているのだけど……」

母がわざと含みを持たせるように言うと、美咲は目を丸くして声を上げた。

「それを先に言ってよ~!」

母は肩をすくめ、楽しそうに微笑む。

リビングのドアが開き、明るい声が飛び込んできた。

「おじゃまします」

「おはよう」

足音が弾む。明菜と和樹と拓斗が、順番に頭を下げながら入ってきたのだ。三人とも私服で、手には小さな袋や包みを持っている。

「おばさん、昨日はありがとうございました」

拓斗が礼儀正しく言い、母はにこにこと応える。

「いえいえ、こちらこそ。さあ、どうぞ」

三人はリビングに入ると、同時にこっちを見て笑った。

「誕生日おめでとう」

「おめでとう」

声が重なって、胸の奥がじんと熱くなる。

「座って座って」

母がカップを並べ、麦茶を注ぐ。氷がからんと鳴って、夏の音がする。和樹が腰に手を当てて

「いたた」

とつぶやき、明菜と目が合って二人で笑った。

美咲は三人を見回し、首をかしげる。

「ちょっと待って……なんで今日が私の誕生日だって知ってるの?」

問いかけると、三人の目が同時に美咲の母に向けられた。母はいたずらをした子どものようににやりと笑い、腕を組んだ。

「ふふ、私が前々から連絡してたのよ。昨日はいろいろ大変だったでしょう?そのお礼もしたっかったしね」

「えっ……お母さんが?」

美咲の声は少し裏返った。昨日の出来事が、ほんの一言で「いろいろ大変」で片付けられることに驚き、そして少しだけおかしくなった。

すると明菜が小さくうなずいて、続けた。

「そうそう。それにね、私たちのほうもちゃんとお礼を言いたかったんだよ。だって、もし美咲ちゃんがいなかったら……私、本当に怖くて動けなかったと思う」

真剣な目で言う明菜に、美咲の胸がじんと熱くなった。思い出したくない赤い月の光や、ノイズのざわめき。それを一緒に越えてきた仲間が、こうして目の前にいる。

「明菜ちゃん……」

思わず名前を呼ぶと、明菜は照れくさそうに笑って目を伏せた。

「はいはい、それじゃ話は後で。お腹すいてるでしょ?」

母が手を叩くように言うと、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。トースターのチンという軽い音と一緒に、バターを塗ったパンの匂いが広がっていく。

「わぁ……いい匂い」

明菜が鼻をひくつかせ、和樹が思わずお腹を押さえた。

「昨日からまともに食べてなかったからな。おなかが鳴りっぱなしだ」

「じゃあ遠慮しないで食べてね」

母は次々と皿を並べた。トーストにスクランブルエッグ、ハムとレタスのサラダ、そして冷たい麦茶。氷がからんと鳴って、夏の朝らしい音が響いた。

「いただきます!」

四人の声が重なり、食卓が一気に明るくなる。

和樹はトーストを手に取り、大きくかぶりついた。

「うまっ!外はカリカリで中ふわふわだ!」

口の端にパンくずをつけながら感想を言う姿に、明菜が笑う。

「和樹ってほんと食べるとき幸せそうだよね」

拓斗は丁寧にナイフでバターを塗りながら小さくうなずいた。

「本当においしいです。僕、朝はあまり食欲ないんですけど、これは食べられます」

その真面目な言葉に母は嬉しそうに

「よかったわ」

と頷いた。

美咲はスクランブルエッグを一口食べて、目を細める。

わいわいと食卓を囲むうちに、昨日の恐怖がどこか遠い出来事のように思えてくる。けれど、美咲の右手の包帯と、仲間たちが腰をさすりながら笑っている姿が、それが夢ではなかったことを静かに教えていた。


朝食後、和樹が大きな声を出した。

「よーし!じゃあ、ここからが本番だな」

勢いよく立ち上がり、小さな紙袋をテーブルに置く。

「俺から!美咲、誕生日おめでとう!」

袋を差し出す和樹の顔は、いつもより少し赤い。

美咲はおそるおそる袋を受け取り、中を覗いた。

「わあ……色鉛筆だ!」

箱の中には、虹のように並んだ色鮮やかな色鉛筆。握った瞬間、木のぬくもりが手に伝わった。

「前に、スケッチしてたとき鉛筆一本で描いてただろ?だからさ、これでカラフルに描けると思ってたんだよね」

和樹が得意げに言うと、母も

「なるほどね」

と感心したように頷いた。

「ありがとう、和樹。すっごく嬉しい!」

美咲が笑うと、和樹は耳の後ろをかきながら

「へへっ」

と笑った。

次に、拓斗が四角い包みを差し出した。

「僕からはこれ。観察用の道具。月とか星とか、もっと詳しく見られるはずだよ」

「わあ……」

包みを開くと、簡易な観察キットが現れた。レンズや小さなノートまでセットになっていて、持ち歩きにも便利そうだ。

「拓斗君らしいね。いいの?もらっちゃって。ありがとう!」

美咲が言うと、拓斗は眼鏡を押し上げて、少し照れくさそうに笑った。

そして最後に、明菜が両手で袋を差し出した。

「私からは……これ」

中には、手のひらサイズの可愛い小物入れと、小さなぬいぐるみ。小物入れは淡いピンク色で、耳の部分に小さなリボンがついている。ぬいぐるみは小さな猫だ。

「かわいい!ありがとう、明菜ちゃん」

美咲が抱きしめると、明菜はぱっと顔を明るくして

「よかった」

と呟いた。

母がその様子をにこにこと見ていた。

「みんな、本当に考えて選んでくれたのね」

三人は顔を見合わせ、同時に笑った。

「当たり前だろ」

「うん、だって美咲の誕生日だもん」

美咲は一人一人の顔を見つめた。色鉛筆、観察道具、小物入れとぬいぐるみ。どれもすてきな贈り物で、昨夜の恐怖を忘れさせてくれる温かな光のように思えた。

「ありがとう……ほんとに、ありがとう」

胸の奥が熱くなり、目頭がじんわりとした。

和樹がその空気を少しだけ軽くしようと、からかうように言った。

「泣くなよなー。」

「泣いてないし!」

美咲は慌てて顔を上げると、三人がそろって笑った。

母がグラスに注いだ麦茶を差し出す。氷がからんと鳴り、夏の朝らしい涼やかな音が広がった。冷たい飲み物を喉に流し込むと、体の奥から少しずつ落ち着いていく。

「昨日は怖いことばっかりだったけど……でも、こうしてみんながいてくれるから、全部頑張れたんだと思う」

自然と口から出た言葉に、三人がまた頷いた。

その時、不意にリビングの隅から小さな音がした。

「にゃ……」

美咲は思わず振り返った。

誰もいない。ただ、テーブルの上に置かれた明菜からのぬいぐるみが柔らかな影を落としているだけ。

一瞬の静けさの中で、美咲の胸が高鳴った。昨夜、暗闇を照らしてくれた猫の瞳が脳裏によみがえる。

「……また会える気がする」

小さくつぶやき、ぬいぐるみをそっと抱きしめた。その言葉に三人は顔を見合わせ、優しく笑った。

母が手を叩いた。

「さて、ここで私からもサプライズがあります」

三人が一斉に顔を上げる。母はエプロンのポケットからスマホを取り出し、画面を軽くタップした。

「お父さんからのメール。読み上げるね」

父は出張中で、しばらく会えていない。

「美咲へ。お誕生日おめでとう。そばにいられなくてごめん。でも、君が昨夜とてもがんばったって聞いて、父さんはすごく誇らしい。怖いことがあっても、仲間を大切にして、帰ってきた。それだけで十分だ。ひとつ相談がある。君がよければ、家族を一人増やしたい。もちろん命だから、ちゃんと世話をする約束ができるなら。答えは美咲が決めて。お母さんあとはよろしく。お父さんより」

読み終えると、部屋の空気が静かに震えたように感じた。和樹がぽりぽり頭をかき、

「家族を一人って…まさか弟?」

と冗談を言って、明菜と拓斗に同時に小突かれた。

「いたっ、冗談だって!」

母は笑いながら立ち上がった。

「じゃあ、持ってくるね。重いから気をつけて、って書いてあったから」

廊下に出ていった母の足音が遠ざかり、やがて戻ってくる。両腕には編み目の大きな柳のかご。上には薄い生成りの布がかけられていて、角が小さくぴくりと動いた。空気がふわっと変わる。温かい、息のような気配が近づいてくる。

「はいどうぞ。誕生日おめでとう。赤ちゃんだから気をつけてね」

母がそっとテーブルに置く。かごの底が木の天板に触れて、こつんと小さな音がした。美咲は両手で縁をつかむ。編み目の感触が指にやさしく返る。中から微かな吐息のような温もりが伝わってきて、胸の鼓動が早まる。明菜が身を乗り出した。

ゆっくりと布の端をつまむ。和樹が思わず言った。

「まさか爆弾」

「言うな」

拓斗が小声で止め、三人で小さく笑った。その笑いが、これから出会うものを迎える合図みたいに思えた。布をめくる。やわらかい影のくぼみ。その真ん中で、小さな黒い塊が丸まっている。耳がちょこんと立って、細いひげがぴくりと震えた。小さな鼻がふんわり動いて、かすかな鳴き声がこぼれる。

「にゃ」

言葉にならない息が漏れた。世界が一瞬だけゆっくりになる。黒い子猫が、まぶたを重たそうに上げた。そこには緑色に光る瞳があった。光を嫌がるように細めた目で眠そうにあくびをして、前足を伸ばし、丸めていた体を少しだけほどく。耳の内側が薄いピンク色で、毛はすべすべの黒。喉の奥で小さくころころと音が鳴った。

「まさか…あの黒猫さん?」

美咲の声は自然と震えた。

愛らしい子猫に明菜が口元を押さえる。

「別世界であったあの子だよね」

和樹は思わず身を乗り出す。

「偶然なのか?」

「奇跡だ…いや、落ち着いて。まずは驚かせないように」

拓斗も落ち着かない様子だ。

美咲はかごの縁に両手を添えて、できるだけゆっくりと顔を近づけた。子猫が鼻先を近づけてきて、くん、と一度だけ匂いを確かめるように息を吸う。次の瞬間、柔らかな額が指先にふれる。びっくりして固まると、小さな舌がちょんと触れた。

「…っ」

胸の奥で何かがほどけた。あの夜、暗闇の中で背中を押してくれた温度。こわくても進めた理由。言葉のない合図。それが違う形で、いま手の中に戻ってきた気がした。

「なんで…お母さん、お父さんに何か伝えた?」

かろうじて声が出る。母はスマホを持ち直し、穏やかな目をした。

「ううん。出張先の近くで、保護ボランティアさんに黒い子猫がいて、美咲が寂しくないようにどうかなってメールが来てね。昨日の夜、あなたが賽銭箱の横に置いたという手紙がポストに届いてたでしょう?紙は少し湿ってて、でも文字ははっきりしてた。『黒猫さんが導いてくれる』って書いてあった。お母さん、読んだ瞬間に何かを受け取った気がして。それで連絡をして、今朝一番にこの子を迎えに行ったの」

母の言葉が、ゆっくりと胸に染みていく。言葉は届く。昨夜そう思いたくて紙に書いた言葉が、本当に誰かに届いて、世界を動かした。信じたい、と思ったことが、こうして現実に形を持って目の前にいる。

母は声を少しだけ引き締めた。

「命だから、約束がいるわ。あなたも責任を持つ。守れる?」

美咲は子猫を見た。布の上で小さく丸くなっている。手を伸ばすと、ちいさな手がちょいと出て、指をつかまえた。驚くほど軽くて、あたたかい。

「守る。ちゃんとお世話もやる」

言った瞬間、喉の奥が熱くなって、少しだけ声が詰まった。母の顔がゆるむ。

「じゃあ、うちの家族だね」

和樹がぱっと明るい声を出す。

「名前、決めようぜ!」

明菜が

「かわいい名前にしよう」

と頬を染め、

拓斗が

「意味があるといい」

と提案する。

美咲は子猫の背をそっと撫でた。黒い毛並みは驚くほどなめらかで、撫でるたびに喉がころころ鳴る。目を閉じると、夜明け前の空が浮かんだ。暗さの奥から、少しずつ色が戻ってくる時の青。怖さの先にある、静かな確かさ。

「…あお」

気づけば、口が勝手にその言葉をこぼしていた。

「この子の名前、『あお』がいい」

三人が一瞬だけ黙って、それから同時に笑った。

「いい」

「似合う」

「帰ってこれた日の色だ」

母もゆっくりと頷く。

「素敵ね」

美咲はもう一度、かごの中の子猫――あおを見た。「あお」呼ぶと、細いしっぽがぴん、と一度だけ揺れた。まるで返事みたいで、思わず笑ってしまうあおを布ごとそっと持ち上げると、指先の上で小さな心臓がとくとくと動いた。こわさではなく、命の音。床に下ろすと、あおは慎重に前足を出し、次に後ろ足を出し、短い探検を始めた。テーブルの脚の匂いを確かめ、角で顔をこすり、振り返ってこちらを見る。「あお」呼ぶと、とてとて戻ってくる。小さな頭が膝にこつんと当たって、ころんと横になる。喉がころころ、少し大きく鳴った。涙が勝手にこぼれそうになる。慌てて瞬きをして、笑いに変える。

「ようこそ、あお。うちへ」

小さな体温が、指先から腕、胸の奥へとひろがっていく。昨日の恐怖や不安は、消えはしない。けれど、それだけでは終わらないこともわかった。

言葉は届く。

もう一度会える。その証拠がいま腕の中にいる。母がスマホを掲げた。

「お父さんに送る写真、撮ろう。『無事に家族になりました』って」

四人で小さく寄り、あおを真ん中に。

シャッター音が小さく鳴った。写真の中で、あおはきょとんとこちらを見ている。世界はもう、昨夜と同じではない。けれど、確かに続いている。美咲はそっとあおの背を撫で、心の中でゆっくりと言った。ありがとう。これから、よろしくね。

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赤い月 ひなた @sunny-green

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