秋の始まりに
浅野じゅんぺい
秋の始まりに
夜の静けさが、部屋を包んでいた。
カーテン越しの街灯が、波のように揺れ、壁や床に長い影を落とす。
紗希は小瓶のふたを開け、筆先に淡い色を含ませた。
派手さのない、肌に寄り添う色。それだけで、日常の断片までも大切にすくい取れる気がした。
「……綺麗だよ」
不意に背後から落ちた声に、筆が小さく震える。振り返ると、悠人の瞳が夜の明かりを受け、静かに光っていた。
「褒めないで」
その声は、自分でも驚くほど脆く、頼りなかった。胸の奥で、熱とざわめきが広がる。
悠人はそっと紗希の指先を包み込んだ。
掌は軽く、触れているのに体温の境界が曖昧だった。
次の瞬間、彼の声がその違和感を溶かしていく。
「人ってさ、そんなに単純じゃないよな」
低く落ち着いた声。その奥のわずかな揺れが、紗希の胸を真っ直ぐに叩いた。
「でも……君がどんな色を選んでも、俺は好きだよ」
胸がきゅっと締めつけられる。
「じゃあ、今は?」
問いかけたつもりだったが、見つめられると声にならず、紗希は小さくうなずいた。
唇が重なる。
触れるだけの短い口づけ。
その一瞬で、世界は凍りついたように静まり返った。
頬の熱が彼の存在を証明していた。なのに、その確かさが紗希には怖かった。
窓の外で葉が揺れ、時計の針が夜を刻む。
朝が訪れると光が影を溶かしていった。
紗希の手には、もう冷たい空気しか残っていない。
それでも胸の奥には、夜に交わした鼓動の余韻が、かすかに灯り続けている。
「……行かなくちゃ」
小さく息を吐き、紗希は窓辺を見つめた。
届かない名前を胸の奥でそっと呼びながら。
新しい一日の始まりは、幻の温もりを抱きしめるようにやって来る。
それが幻だと知っていても、まだ続きがある気がして──紗希は微かな希望に、静かに縋った。
秋の始まりに 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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