第3話 あなたは何も悪くない

 すぐ前にいたはずの車がいない。さっきは前の車のブレーキランプがまぶしくて鬱陶しく感じたが、その車はずっと先のほうに小さく見えていた。私たちの車は交差点の赤信号にひっかかり、停止線のところに止まっていた。目の前には横断歩道。


 横断歩道を行き交う傘を差した人々。私たちの車の目の前に、黄色い長靴をはいた小学生の男の子がお母さんと並んで立っている。その子はこちらの方向を指さしながら泣いていた。まるで私たち二人を見て泣き出したかのようで、ちょっと嫌な気分だ。でも、別に私たちを指さしているわけではないだろう。こっちの方向の、いったい何を指さしているのだろうか。


「いやぁね、あの子。私たちを指さして泣いているみたいで」


 私は彼に同意を求めて彼のほうを見た。彼はまるで喧嘩をする時のように顔を歪ませて子供かそのお母さんかを睨みつけていた。その形相にわたしもぞっとした。この怖い顔は私も見覚えがある。


 私が会社を辞めてからも崇行とは頻繁に会った。たいていは彼の車でドライブデートだ。会社の先輩後輩という関係から男女の関係へと進み、お互いファーストネームで呼び合うようになり、交際は順調であった。すでに違う会社で職を得た私に、あの件で彼が謝ることはなくなったけど、やはり若い男と年上の女。何かと彼が私に謝る場面もあった。でも、その都度、


「なんでも許すよ。あなたのこと、愛しているから。だから、何も心配しないで。」


 毎年会社には新しい人が入ってくる。今年の春に靖佳という名の女性が新卒で入社し、崇行と同じチームに配属された。入社四年目の彼が彼女の教育係のような立場になった。ちょうど私と彼との関係と同じだ。彼の私への接し方が変わったのはそのすぐあとからだ。靖佳と会う機会が増え、私と会う機会は減った。私が問い詰めたとき、すでに彼らは恋人同士となっていた。


「崇行、私のもとに戻ってきて。なんでも許すよ。あなたのこと、愛しているから。靖佳さんと何があったとしてもすべて不問にふすから。私はあなたについていく。あなたから離れないから。」


 でも、結局、私は「重い女」と思われるようになってしまった。


 以前ベッドの上で両手をついて上半身を支えながら私を見下ろす彼に「死んでも私を離さないと言って」と言ったとき「ああ。死んでも紗都美を離さないよ」と答えてくれた彼の澄んだ瞳をいつまでも忘れることはできなかった。


 車のドアをノックする音で私は現実に引き戻された。警察官が運転席のドアをノックしている。


 私はフロントガラスの前のほうに目をやった。さっきの男の子はまだお母さんにしがみつくようにして泣きわめいている。周りに人だかりができている。おそらくこの近くに居合わせた警察官が横断歩道のこの人だかりが何ごとかと思って来たのだろう。


 崇行が震えている。震える指でなんとかパワーウィンドウを開くと、警察官に「何でしょうか」と言った。


「あなたは何も悪いことをしてないわ。何も心配しないで。」


 私は彼に言った。今日の昼過ぎ、靖佳さんとのことでまた口論になったときも同じことを言った気がする。


 私の部屋に来てくれたのは、何日も私が電話やメールで誘ったからだ。仕方なく来たという感じの彼だったが、私は彼をもてなすための料理でテーブルを埋めた。しかし彼の口からは別れ話が飛び出した。昼過ぎ、雨がひどくなり、私の部屋の窓を激しくたたきつけた。靖佳さんのおなかに新しい命が宿ったことを聞かされた。こらえきれずにこぼれた涙が私の頬を伝った。失望の後、激しい憤りを覚えた。でも私は彼を許そうと思った。だって、ここで別れたらもう彼は戻ってこない気がしたからだ。永遠の別れとなる。だったら私のこの四年間はいったい何だったの。


「私は絶対別れないから。」


私は彼に言った。


「私はあなたから離れない。絶対、死んでも離れないから。」


彼が、顔を歪ませて目を見開いて睨みつけてきた。その鬼の形相にわたしはぞっとした。


「どうせ言っても分かってくれないと思っていたよ。」


彼はそう叫ぶなり、バッグから包丁を取り出した。


 私は、彼から逃げなかった。彼のすべてを受け止める。


「あなたを愛しているわ、崇行。あなたから離れることなんでできない。これからもずっと私たちは一緒よ。」


 自分のバッグから取り出したTシャツに着替えている彼の背中に、私はそう語りかけた。私の足下には女の死体が転がていて大量の血がカーペットに拡がっていた。


 私たちの車はハザードランプをつけて路肩に寄せていた。


「僕が紗都美を殺しました。」


 しばらくして到着したパトカーの後部座席に彼が乗り込む。私もついて行く。どこまでも。私はいつまでも崇行を見守り続けることにしたのだから。


そのとき、警察官が母親と小学生の子供にお礼を言っていたのが聞こえた。


「そんなに泣いてしまうほど、あの男の人が怖かったのかい」


と微笑みながら頭をなでる警察官に向かって、男の子が答えた。


「あの運転していた男の人が怖かったんじゃないよ。助手席に座っていた、血みどろの女の人が怖かったんだ。」



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渋滞 キャルシー @krsy

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