ゆらぎの中のわたしたち

maki

ゆらぎの中のわたしたち

「はあ。これが、はあ……」

 至極不思議そうな顔をして、上から下まで舐めまわすようにドーナツを観察する彼女は、曰く地球外から来たのだという。太陽系からウン億光年離れた銀河系の、とある恒星の周りを回転する地球型惑星に棲む、知的生命体ナントカというらしい。ナントカ、というのは、僕がその名前を上手く聞き取れなかったからだ。何度繰り返し聞いても、ついにこの「ナントカ」を聞き取ることは出来なかった。

「随分……糖分が多そうな……。おいしそうですねえ」

 彼女が持っているのは、どの店でも売っている、オーソドックスなオールドファッションであった。よく焼けたオールドファッションの穴を通して、彼女は僕を見ながら話しかけていた。ドーナツ越しでも判る彼女の目の輝きに、僕は思わず目を逸らす。

「じろじろ見てないでさ。早く食べなよ」

 僕と彼女の間には、通りかかった客が思わず二度見する量のドーナツがある。勿論その殆どが、彼女が選んだものだ。彼女は沢山のメニューのうち、穴があいているものだけ、その全てを選んで、トングでそっと僕のバットに積み重ねていった。

「それにしても……不思議な形ですねえ」

 ドーナツの奥で、彼女のオーロラ色の瞳が不思議な輝きを放つ。その彼女の目を見るたび僕は、まるで大宇宙のボイドに引き込まれそうな気分になる。そして、昔見た科学雑誌に載っていたバタフライ星雲を思い出す。

「君は、これをどうやって食べるんですか?」

 彼女はようやくドーナツを下ろし、両手で持って、僕をまっすぐに見つめる。僕は手元にある、もっちりとした食感が人気の看板メニューに視線を移す。直接触ると生地を覆うアイシングが溶けて、砂糖が指に移ってべたついてしまうので、紙ナプキンに包んでいる。このメニューなら、ぷっくりとした八つのかたまりをちぎりながら、一口ずつ食べていくのがセオリーだろうか? それとも、適当に見繕ったかたまりを一口で食べて、そこから時計回り――或いは反時計回りに、ひとかたまりずつ食べていくべきだろうか? 

 彼女が持っているオールドファッションを、僕はどうやって食べていただろうか。

「普通に……上から食べるよ。半分に割る人も居るし、フォーク使う人だって」

「ふつう?」

「その、……一般的に。大多数の一人として」

 彼女は頷きながら、オールドファッションを口に運ぶ。小さな口でかじった彼女は数度頷いて、続けて大きな二口目を食べる。

「おいしい。とてもおいしいです。しかしとても背徳的です。こんなにもハイカロリーなお菓子が、あっていいものでしょうか」

 僕は思わず笑ってしまう。宇宙人の彼女も、摂取カロリーを気にしているらしい。

「おいしいものは、大抵カロリーが高いものなんだよ」

 そんなことを言いながらも、彼女はすぐに二つ目のドーナツを手に取っている。ストロベリーチョコレートのコーティングの上に、アラザンとチョコスプレーがちりばめられている。きっと、生地には粉砂糖がふりかかっていて、中に生クリームが練り込まれているに違いない。彼女がオールドファッションの次に手に取った、彼女の目の色に似たドーナツだ。

「どうかしました?」

 僕は気づかないうちに、ドーナツを口に運ぶ彼女を見つめていたらしい。

「ああ。ごめん」

「私の顔に、何かついていましたか?」

「ううん。そうじゃないんだ」

「はい」

 彼女が、ドーナツを一つ手渡す。

「何で?」

「これで見ると良いですよ」

 目を瞬かせる僕に、彼女は口元についたアラザンを舐め取りながら話し始める。

「面白い話をしましょう」

 彼女が『面白い話』をするのはこれが初めてではなかったから、僕は何の気なしに頷く。いつも突拍子もないことだったり、人類たる僕には全く判らないことだったりするが、彼女の話がつまらなかったことなどなかった。

「この、ドーナツの丸い穴から見れば、君の見たいものを見ることが出来ます」

「なんて?」

 自信たっぷりに言った彼女は、僕に期待の目を寄せる。僕は半信半疑で、ドーナツ越しに彼女を見る。この際だから、周囲の目は気にしないことにする。しかし、そこに居るのは彼女の他にはなく、僕がいつも見ている、クリーム色のふわふわな髪にオーロラ色の瞳が輝く、ティーンエイジャーのような、人型の何かがそこに居る。

「君以外に見えない」

 強調でも何でもなく、僕は正直に見たままを伝える。すると彼女はニンマリと笑う。

「何が見えていますか?」

「……それは、僕が見えている、その……〝君〟について、説明しろってこと?」

 彼女の笑い顔はこっくりと首肯した。

「その、……」

 僕は背筋をくすぐられるような気分になる。正直に言うと、僕は彼女の顔をとても気に入っている。細面ではないふっくらとした頬に、バランスよく配置された、これも全体的に丸っこい、好奇心丸出しで豊かな感情を表現するパーツ達。思わず撫でてあげたくなるような愛嬌がある。そして、何にでも興味津々で、どこか傍若無人なところも見え隠れする彼女の行動も、まるで〝未知の種が営む生活様式を、博物館で観賞しているかのように無遠慮〟であるところが好ましいと思っている。

「……女の子が居る。明るくてやわらかそうな髪で、頬はりんごみたいだ。目は……何だかよく判らないけど色んな色に見える。姿勢が良くて、食べ方は豪快で良いと思う。興味のある方へすぐに走っていこうとするところが可愛いと思う、気になったことをすぐ人に聞く、好奇心旺盛、観察好き、後は……」

「あ、あ、もう、大丈夫です。大丈夫……」

 彼女が手をかざして僕を制した。その手はそのまま三つ目のドーナツへのびていく。次はずっしりとしたチョコレート生地のシンプルなものだ。三つ目のドーナツに添えた手とは別の手で、彼女は僕に、自分のものを食べるように促した。

「おいしいですか?」

 僕は頷く。僕は例に漏れず、このもちもちとした生地が売りの定番メニューが好きな大多数の一人だ。僕はこの八つのかたまりに分けられるドーナツを、ひとかたまりずつ食べていくことにする。

「君は、私がオンナノコに見えているのでしょうが」

 彼女のまるい顎が上下に動く。どうやら歯ごたえがしっかりしているらしく、飲み込んだ後に一息ついて、一緒に頼んだカフェラテを口に含んでいる。

「人によっては見え方が違う、というおはなしです」

「そりゃ、君の見え方なんて人ぞれぞれだよ。全員が僕と同じってわけじゃないんだから」

 彼女は頷く。

「そうです。人によって見たいものは違います。君の見たいものが、その可愛らしいオンナノコ、というだけであって、人によっては……」

 店員を呼んだ彼女は、カフェラテのおかわりを注文する。若い女性の店員は、注文をメモに書きつけている間も気もそぞろな様子で、彼女をちらちらと見ながらバックヤードへ去っていく。

「見目麗しい異性に見えたり、おしゃべりな熊に見えたり、あるいはしばらく会っていない母親、死に分かれたいとこや、段ボールを被ったエリートエージェントに見えたりするものです」

 僕は、ドーナツを半分まで食べたところで、その先に進むのを忘れてしまっている。

「もしかしたら、見たくもないものに見えているかもしれません。昨日三者面談をした担任の先生、喧嘩別れした父親、やたら喧嘩を吹っ掛けてくる会社の同僚、面倒を見ている訳アリの親戚の子供、ロイコクロリディウムに寄生されたカタツムリだったりするわけです」

 僕はやっと、六つ目のかたまりを口に入れる。頭の中で、ロイコクロリディウムに寄生されたカタツムリの触角がふりまくミラーボールの輝きのような極彩色と、彼女のバタフライ星雲のような瞳がごちゃまぜになっている。

「見る人によっては、君は一人でこのドーナツたちを、宙に向かって話しながら食べているかもしれませんね」

 ドーナツが喉に詰まりそうになって、慌てて咳き込む僕に、彼女は「わあ、しっかり」とサービスの水を渡す。

「そんなことあるかよ。君は僕のイマジナリーフレンドってこと?」

「あるいは、イマジナリーラヴァー?」

「らっ……」

 僕は熱くなった頬を擦る。三つ目のドーナツをようやく食べ終えた彼女は、次のターゲットをじっくり選びながら話を続ける。

「エイリアン・ジョークが過ぎましたね。……地球人が言う冗談はこういったことで合っていますか?」

「エイリアンでもヒューマンでもそれはダサい。今更宇宙人ぶらないでよ」

 失礼。彼女はチュロス状の細長い輪っかを選び取りながら言う。僕に言っているのか、はたまたドーナツへ言っているのか、僕にはもうよく判らない。

「判りやすく言うと、君は今さっき、私がどう見えているのか言ってくれたでしょう? そうすることで、君はこの世界において私がどういった存在なのか、定義づけをしてくれたんです。しかし、それは君が見ている世界での話で、他の人に聞けば、『アイドルみたいにかっこいい男の子』、『嫌いな母親そっくりのおばさん』、『頭をゆらゆら振っているロイコクロリディウムに寄生されたカタツムリ』だと、定義づけするということです」

「つまり……、理解力がなくてごめん、つまり、ダヴィンチのモナリザを、女性だと言う人と男性だと言う人が居るように、君は見る人によってその姿が変わるってこと?」

 まあ、そんなところです。彼女は片頬をふくらませながら三度頷く。

「――は、三次元的に言えば実体がないと言えます。魂だけの存在とも言いますか、物の本に書いてありましたが、なるほど、便利な言葉です」

 聞き取れなかった「ナントカ」が耳孔をずるずると通って脳に直接入り込んだようで、とてつもなく気持ちが悪くなる。僕は思わず耳全体をぐちゃぐちゃに揉みしだく。それから、僕は彼女をじとりと睨む。

「ドーナツの穴っていうのは、関係ないんじゃないの」

「その方が面白いと思って……。ごめんなさい」

 彼女が唇を尖らす。しかし、その口はまた悪戯っぽく弧を描いて笑った。

「でも、何だかわくわくしたでしょう?」

 彼女の言葉につられてドーナツの穴越しに彼女を見たという僕に、その言葉を否定する力はない。何も出来ずに二つ目のドーナツに手をのばすしかない僕を見て、彼女はニコニコしている。悪趣味な宇宙人だ。

「それに、そういった媒体があると言った方が、らしくないですか?」

「……信憑性の話?」

「それらしさ、っていうのは大事ですよ。様式美です。私には全く判りませんけれど」

「判らないなら、どうしてこんな話を?」

 話を少し戻しますね――彼女ははちみつでコーティングされたクルーラーを手に取ると、中にカスタードクリームが挟んであるのを見て、嬉しそうに笑った。

「さっき君はモナリザの話をしていましたね。簡単に言えばそういうことなのですが、見る人によって姿が変わるわけではないのです。乱暴な言い方をするなら、私たちにとって姿などどうでもよくて、地球に棲む生命たちが私たちを認識する上で〝かたち〟が必要だったから、実体があるように存在している、ということです。見え方が違う、というのは一つの決定的なかたちについて解釈が異なる、というわけではなく、見えているそのものが、見たいものが見える……見たいものしか見えないように、全く異なっているんです」

 彼女はクルーラーにかぶりつき、実においしそうに咀嚼しながら、唇の端についたクリームを舐める。

「魂を何らかの形でかたどるのは、人間の、その生命の根拠が肉体にあるが故に、種を識別してコンタクトを取るための唯一の方法なのでしょうね」

 僕は、二つ目のドーナツの甘さが全く感じられないまま、水で食塊を喉の奥へ流し込む。彼女の言い分によれば、人間は見たいものしか見ない、何ともわがままな生き物であるらしい。僕は若い方だが、嫌なことだって沢山見てきたし、見たくもないものと向き合って生きてきたと思っている。目の前の愛嬌のある宇宙人が、ただ自分が見たいだけの、自己満足でしかない、イマジナリーな存在であると思いたくない。確かに気に入っている、可愛らしいと思っており、一緒に居て楽しいと思わせてくれる地球外生命体が、実は自分の理想を押し付けていただけで、脳内で都合よく作り上げている存在であると信じたくなかった。

「心配事でも?」

 僕の心を見透かしたのか、彼女がそう尋ねる。

「判ってるんじゃないの、君なら?」

 思わずぶっきらぼうな口振りになって、僕はすぐに後悔する。しかし当の彼女は、何にも動じていないようで、あの大きな目を数度瞬かせた。

「判りませんよ。判ることは出来ますし、今すぐにでもそうすることは出来ますが、私はしません」

「何故?」

「つまらないんで。人の話はちゃんと聞いた方がいい。君が教えてくれました」

 彼女は微笑んだ。そのやわらかな笑みに、僕は何だか許されたような心持ちになる。僕の心がやわらかくなっていくのを、感じる。

「君に、僕の理想を押しつけているんじゃないかって。僕が君を、君自身を無視して都合よく作り上げているかもしれないって、そう思ったんだ」

 彼女は頷きながらドーナツを食べ続けている。紙ナプキンで口を拭った彼女は、「ああ、そんなことないですよ」と手を顔の前で振ってみせた。

「私、言ったじゃないですか。私たちにとって姿はどうでもいいんです。人類文化風に説明するなら、私たちが大切にしているのは魂のあり方です。確かに、私の見え方は君の理想なのかもしれませんが、私の在り方まで君の理想通りであったら、むしろたまったものではありません」

 彼女は最後のドーナツを手に取った。それから、変な気取り方をした、妙ちきりんな顔をする。

「君は私の理想だ……。頭にきます。お前の世界の中で生きているわけじゃないぞ、馬鹿者め!」

 彼女はやたらこぶしの効いた声を張り上げ、拳を突き上げる。僕は慌てて周囲を見渡す。

「と、まあ、こういうわけです。いらぬ心配をする必要はありませんよ」

 彼女がドーナツをかかげる。そしてどこから取り出したのか判らない、シェルピンクのインスタントカメラを通して僕を見た。カメラのレンズと、ドーナツの穴が重なっている。

「イエーイ。チーズ」

「はっ?」

 パチリ。無情な音がした。

「ふむふむ。見えますねえ」

 ドーナツ越しに見える彼女のオーロラ色の目と、僕の目が合う。彼女の目が笑っている。本当に楽しそうだ。

「何してんの?」

 僕は慌てて彼女のドーナツに手をのばすも、それはむなしく宙を掻く。不思議なことに、どうやっても彼女のドーナツに手が届かない。

「欲しいですか? はい、どーぞ」

 彼女はドーナツをぱっくり二つにわって、片方を僕に手渡した。

「食べましょう。甘くておいしいですよ」

 インスタントカメラから出てきたチェキが、その画をあらわにさせる。

 彼女が微笑んだ。


[newpage]

 佳斗が手を振っている。私の方へ身を乗り出して、私をすくい上げるようにして見ながら。

「おーい。生きてるー?」

 私は肩を震わせて顔を上げる。まるで夢でも見ていたような気分だ。私を現実へ引き戻した幼馴染の顔はどこか呆れていて、彼は私の前に置かれた海鮮パスタを指さした。

「冷めるぞ」

 そう言った佳斗は、自分の皿に手をつける。彼のグリルチキンは、もう半分程なくなっていた。

「ねえ佳斗」

「何だよ」

「私達、ドーナツ食べてなかった?」

「食べてねえよ。お前が太るって言うからやめたんだ」

 私はプラスチックのカトラリーからフォークとスプーンを取り出して、海鮮パスタを食べ始めようとするが、どうにも落ち着かない。

「ねえ、佳斗」

「先に食べろよ。話はその後だ」

 佳斗は鉄板に添えられているソースまみれのコーンを縁へ掻き集め、全部ひと口で食べてしまう。私はまだ、パスタをひと口食べたばかりだ。私は大人しくフォークにパスタを絡ませる。佳斗は私が食べ終わるまでの間に、自分のサラダを注文した。

「佳斗。私、変?」

 食後のコーヒーを待っている間、私の質問に佳斗は目を丸くさせた。

「お前が? 別に変じゃない」

「何か……ない? 変なとこ」

「ないよ。何だよ、急に」

 届けられたコーヒーに、テーブルの端に置いてあった陶器に入っている角砂糖を二つ入れ、彼はティースプーンでかき混ぜる。佳斗はミルクを入れない。

「そうだ」

 ミルクを入れる私に、佳斗が話しかける。

「この後どうする? 俺、ショップのリスト作ってきたんだけど」

「リスト? ……え、リスト?」

 自分が何を言われているのか判らず、私は何度も言い返す。懐から携帯を取り出した佳斗は、メモアプリの画面を見せてくれる。なるほど確かに、聞いたことのあるアパレルショップが箇条書きに並んでいる。

「どこから行く? 一応この辺にあるやつ上げたけど」

「……えっと、凄いね」

 佳斗が携帯をテーブルに置いて、「あのさあ」と私に詰め寄る。

「今日お前が誘ったんだぞ。彼氏にプレゼントを買いたいからついて来てって」

「彼氏、あっ……」

「今度は何だよ。お前やっぱり変だな、さっきから。人を呼び出して、頼んでおいてそれかよ」

 佳斗は明らかに呆れ果てている。私は後ろめたさを誤魔化すために両手を膝の上で握ったり揉んだりしながら、様子を伺うように佳斗の顔を見上げる。彼は私と目も合わさず、コーヒーを啜っていた。そして、テーブルの端の陶器を引き寄せる。

「ねえ、佳斗。ごめん、違うの」

「何が」

 角砂糖が溶けていくのを眺めながら、彼はそう言ってくれる。

「彼氏っていうのは嘘で……」

「えっ? フリーってこと?」

 佳斗と目が合い、私は思わず冷め始めたカップを握る。

「いや。居るんだけど……」

「何だよ。それで?」

 ティースプーンをいじりまわす彼の顔は、私のいたずら心を刺激した。

「何、残念?」

「そんなわけ」

 彼の、今日何度目かも判らない催促へ、私は軽く頭を下げる。

「その……あいつのためじゃなくて……」

(大切なのは魂の在り方です)

「う、……私が見たかったからなん、だけど、……」

「お前が? メンズ向けしか調べてねえよ」

 佳斗は携帯を手に取る。リストを削除しているに違いなかった。

「良い! それで良いんだってば」

 音を立てて立ち上がり、私は佳斗から携帯を奪おうとするが腕のリーチが届かず宙を搔いてしまう。バランスを崩しそうになり、思わずテーブルについた左手の先に、佳斗の口の開いたスクールバッグが見えた。

「え? チェキ?」

 物凄い勢いで突き出された携帯の画面に、私は背をのけぞらせる。その間に佳斗はバッグを席の奥へぐちゃぐちゃに押し込む。

「お前はっ」

 携帯の画面で佳斗の顔が見えない。それでも彼の持つ手が震えているのが丸わかりで、開いたままのバッグを握り締めているもう一方の手から骨が浮き出ているように見えている。

「この辺のブランドがっ、似合うと思う!」

 私は携帯を奪い取る。後にも先にも、これほど容易なことはなかった。佳斗は携帯がなくなったのに慌て、反射的に手で顔を覆う。彼のがっしりとした手指の隙間から、これ以上ない程真っ赤に染まった顔が見える。画面を確認すると、そこにはユニセックスブランドのオフィシャルサイトが映っている。

「こういう……ところから始めた方が良いと思う、……ます。俺は!」

 流行りのマスコットキャラクターのフレークシールが貼られた、あのパステルカラーのインスタントカメラは見間違いではない筈だ。私は彼の手首を掴んで無理矢理顔から引きはがす。佳斗の唇が恥ずかしさか、それとも恐れか、わなわなと震えている。

「ねえ佳斗ってさ、う……」

 私は言葉を飲み込む。今この言葉を言ってしまえば、例えあれが私が見た白昼夢で、そして妄想であったとしても彼は絶対に傷つく。私は、今やもう忘れていると思っていた、幼い頃に感じた悪意のない言葉のナイフが刺した傷を思い出す。

「いや、佳斗……。違う、くて……えっと……」

「なんだよ」

 やっとの思いで絞りだしたような佳斗のつぶれた声が、彼の口から漏れる。

「……馬鹿にしてんだろ、俺のこと」

「違う、馬鹿になんてしてない」

「おい」

「え?」

「手汗キモい」

 私は佳斗の手を放り投げ、制服のスカートで手のひらをしきりに拭う。恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔が真っ赤になっていることが、更に恥ずかしさを助長させる。佳斗は私の暴挙に顔をしかめながら、いそいそとバッグのチャックを閉めた。

「急に何なの?」

「だから手汗! 微妙に湿ってて気持ち悪いんだよ」

 佳斗が鞄を持って立ち上がる。伝票を掴み取ったのを見て、私は慌てて残りのコーヒーを喉へ流し込み、紙ナプキンで口元を乱暴に拭ってから彼の後を追う。

「待ってよ。私払うよ」

 彼は私を無視し、店員に伝票を渡して「タッチ決済で」と交通系ICカードを懐から取り出す。彼が機械へカードをかざす前に、私はすかさず自分のカードを横合いから突っ込んで支払いを済ませると、彼の腕を引っ掴んで店の外へ引き摺り出した。

「離せよ」

 佳斗が私の手を振り払ったので、私はそのまま彼の胸倉を掴んで思い切り自分の元へ引き寄せる。そして鼻と鼻がくっつきそうなくらいの距離で、目を丸くしてパチッと音が鳴っているような瞬きをするこの無礼者を睨みつける。

「佳斗ォ」

「……」

「いい? 私達は、一度、ちゃんと、腹を割って、隠し事なしに、話し合う、必要がある。判った?」

「おお、……」

「それから、話の逸らし方がへたくそ。手汗を馬鹿にしないで。私気にしてんの。あんたがニキビ気にしてんのとおんなじくらいに」

「なっ……」

「それから! あんたがリストアップしてくれた店、今日全部行くから。佳斗を言い訳にして行くから」

「人を盾にするなって、後、今日全部は……」

「だから、今度原宿行こう。私、お店調べてくる。私を言い訳にして良いから、一緒に行こう」

 生唾を飲み込んだ佳斗が、逡巡してからこっくりと頷く。私は彼を解放した。

「こっち、……とりあえず駅ビル行こう」

 彼は歪んだネクタイを整えてから、駅へ向かう道の先を手で指し示し、赤くなった耳を擦り上げて踵を返した。私は親指と人差し指で輪っかを作る。それを目元に添えて、彼の背を見る。

「なぁんだよ。馬鹿みてえ」

 振り返った佳斗が、本当に楽しそうに見えて。私はつられて笑う。

「でも、何だかわくわくするでしょ?」


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