第9話9-2

「ええ。たしかに、無様と表する者もおりましたね。どうしても助けたい方がいるから、騒動を起こしても目をつぶってほしいと、当主様に頭まで下げられましたから」


気配がまったく感じられなかった。いつからそこにいたのだろう。ハンギングパラソルの影がギリギリ届く位置に、黛さんが立っていた。警戒心の強いキョウヤも少し油断していたのか、彼女の登場に目を見張る。


「ふふ、お茶をお持ちいたしました」


相変わらず聖母のような微笑みを浮かべ、黛さんは両手で持ったピクニックバスケットを軽く持ち上げる。


「黛。気配を消すな」

「あら。四之御様は気付いていらっしゃるかと。心から愛する女性とお話しているから、油断なさっていたんですか?」

「…おい、黛」


キョウヤが威圧感たっぷりに名前を呼ぶものの、黛さんの笑みは一切崩れない。まるで、虎に噛みつく猫をいなしているみたいだ。


黛さんは膝を折り、ギンガムチェックの大判バンダナを芝生に広げると、その上にピクニックバスケットを置いた。ブラックウォールナットの蓋の下には、水筒と花模様のティーカップがふたつ。蓋をテーブル代わりにして、透き通った紅色でティーカップを満たした。


「温かいうちにお召し上がりください」

「あ、はい。ありがとうございます」


カップを受け取ると、芳醇な林檎の香りが鼻腔をくすぐる。喉を滑り降りていく、紅茶と林檎の甘みを堪能しながら、おずおずと気になっていたことを口にしてみた。


「黛さん。あの…」

「はい。なんでしょう」

「さきほど仰っていた、当主様に頭を下げられた、というのはどういう…?」

「ええ、それは…」

「…ミゥカ、頼むから訊くな」


黛さんの声を遮り、キョウヤが少し前屈みになる。わたしには余程知られたくないのか、眉と眉の間に焦りも見えた。けれど、黛さんはどこ吹く風。


「あら、四之御様。ミゥカ様は知る権利があります」


有無も言わさぬ静かな圧で抑え込むと、彼女はわたしの方に膝を向けて座り直す。


「わたくしどもは、借金の返済を迫る行為を常日頃から行っております。賭場経営を任された四之御様自らが赴かれることは少ないですが、VIP相手の場合は部下の手に負えませんから、四之御様が引き受けます」

「…なるほど」

「ですが、今回のように結婚式に乗り込んだり、他種族間の争いを誘発しかねない行為は、返済を迫る行為と呼ぶにはいささか無理があります。そのため、助けたい方がいるから行うのだと、事前に当主様の許可を得るために頭を下げられたのですよ」

「…そうだったのですね」


複雑な家庭環境や十年前の後継者争いの話を聞くに、キョウヤと父親との関係は良好と言えないはず。その中でも、わたしのために頭まで下げて懇願してくれたとは。申し訳ない気持ちと感謝の思いが綯交ぜになり、なんと言葉にしたらいいか分からない。


視線を横に滑らせると、キョウヤは太ももに肘を載せ、手で目元を覆っていた。もう、おしゃべりな口を止める気力もないらしい。


「四之御様のあのお姿に、わたくしは大変感銘を受けました。これこそが、鴉の真髄だと。無様だと嘲笑う者たちは何も分かっておりません」


本人の代わりに怒りを顕にしたあと、何か思い出したのか、黛さんはフッと笑みをこぼした。


「ただ…、ふふっ。当主様は、四之御様が助けたい方は、四之御様が結婚したいと思っている相手なのだと勘違いなされて…」

「…えっ」

「そもそも、なぜ助けたいのかという点を説明していなかった四之御様にも非がありますけれど、思いきり否定するのも違いますでしょう?さらに、そこまで結婚したいなら口出しはしないと当主様が仰られたものですから…。引くに引けなくなってしまった四之御様は、ミゥカ様に契約結婚を申し出たのですよ」


次々明かされる秘密に、驚くヒマもない。契約結婚はわたしを縛りつける手段ではなく、空閑家当主の勘違いから生まれた偶然の産物に過ぎなかった。張りつめていた糸が緩むように、肩の力が抜けていく。


「ですが、ミゥカ様を騙しているようで後ろめたいと思っていらっしゃるのは確かですよ。ミゥカ様との面会を望む当主様からのお達しを、この三週間ずっと、のらりくらりとかわしておられますから」

「…黛。そこまでにしろ」


唸り声にも似たテノールが這い上がり、黛さんはわざとらしく目を見開いた。けれど引き際は心得ているのか、キョウヤの制止を素直に聞き入れる。


「かしこまりました。では、最後にひとつだけ」

「おい、黛…っ」

「ミゥカ様に御礼を申し上げてもよろしいですか」


突然の指名に肩を震わせるわたしと、話の矛先が変わったことで口をつぐまざるを得なくなったキョウヤの間で、黛さんは姿勢を正した。


「十年前、消息不明ののちに帰還された四之御様は、まるで別人のようでした。憑き物が落ちたように穏やかに笑い、よく話すようになられたんですよ。身の危険がなくなったからだと申す者もおりましたが、わたくしは、思いやりと愛にあふれた方に助けていただいたからだとすぐに分かりました」

「あの…黛さんは、わたしや両親のことを知っているんですか?」

「ええ、もちろん。四之御様も、わたくしにだけは海音寺家の皆様のことを話してくださったのですよ。わたくしが思ったとおり、思いやりと愛にあふれたご家族だったと」


黛さんは左胸に手を当て、柔らかく目を細める。唇に刻んだ三日月をそのままに、雲ひとつない青天のような清々しさで言葉を紡いだ。


「ミゥカ様。心から感謝申し上げます。いまこうして、お世話が出来て光栄です。この先も、誠心誠意お仕えいたします」

「いえっ、あの、そんな…こちらこそ、黛さんには何から何までお世話になって…っ」


純粋な感謝と真心を一直線に届けられ、ついうろたえてしまう。わたしの手には余りある綺麗な感情に戸惑っていると、視界の隅で大きな手がひらりと揺れた。


「…黛。もういいだろう。こんなところで油を売っていないで、さっさと仕事に戻れ」

「はいはい。邪魔者は退散いたしますね」


追い払うように手を振るキョウヤに、黛さんは軽やかな笑い声を返す。深く一礼すると、チャコールグレーの上衣をひるがえして去っていった。


再びふたりきりの空間が戻ってくると、妙な緊張感がお腹の底で泳ぎ出す。照れているのか、あるいは落ち込んでいるのか、キョウヤは横顔しか見せてくれない。


ふたりの間に広がる沈黙に耐えきれず、おそるおそる名前を呼んでみる。応える声の代わりに、深い夜を閉じ込めた瞳がこちらを見上げた。


「他に…わたしが知らないことは?」


あったとしても知る必要はない。そうやってバッサリ切り捨てられることも覚悟したが、エキゾチックな美貌を湛えた顔は、真摯に答えを探しているのか眉間にシワを寄せる。そして、ああ…と声がこぼれた。


「…ひとつ、きみにウソをついた」

「ウソ?」


思いがけない単語にわたしが戸惑いを見せると、キョウヤは決まりが悪そうに目を伏せた。


「ミゥカがこの家に来た日、二階のワードローブの中身は、バイヤーをしている友人からの贈り物だと言っただろう」

「はい」

「あれはウソだよ」

「…はい?」

「バイヤーの友人など存在しないし、あれはすべて私が買い揃えたものだ。きみを結婚式からさらうと決めたあと、大急ぎで用意した」


ある意味、契約結婚の真相よりも強烈な事実に、開いた口が塞がらない。誰かの所有物でもなく、友人に押し付けられたどこかの在庫なら…と、いままで気兼ねすることなく身につけられていたというのに。


それが実際は、わたしのためだけに買い揃えられたものとなれば、話は別だ。ワードローブの総額を想像しただけで、目眩がする。


「…いくらかかったんですか?」

「さあ。値段を気にして、買い物をしたことがない」

「これはれっきとした無駄遣いですよ!」

「必要経費だろう。大人になったきみの趣味は分からないんだから、あらゆる物を揃えておく必要がある」


わたしがなぜ慌てているのか本当に分からない、と言いたげな瞳に見上げられ、冷たい汗が背中を流れていく。どうやら、しがない町医者の娘と極道の跡継ぎの間には、なかなか埋められない溝が横たわっているらしい。


「わたしとキョウヤ様の金銭感覚が異なることは、十分理解しました。ですが、これから無駄遣いは許しませんからね」

「分かったよ。きみが言うなら、婚前契約の項目に書き加えようか?」

「そこまでしなくてもいいです…」


用心深いというべきか、完璧主義者と表すべきか悩ましい発言に苦笑いをこぼすと、キョウヤが突然自らの太ももを叩いた。


「そうだ、契約で思い出したが…ミゥカ。きみ、契約違反しただろう」

「契約違反?なんのことですか?」

「結婚契約書の三番目、安全のため、乙は甲の許可なしに外出しないという項目に違反したじゃないか。忘れたとは言わせないぞ」


前触れなく何を言い出すかと思いきや、わたしが勝手に家を飛び出したことを、いまだに根に持っているらしい。たしかに、キョウヤにも黛さんにも失礼なことをしてしまったし、蛇に遭遇して危険な目にも遭ったけれど、違反と言われるとなんだか腑に落ちない。


「…そもそも、契約結婚自体が無効では?ただ、当主様の意見に準じた結果なわけですし」

「それは否定しないが、契約書が存在するかぎり、私とミゥカの間で交わされた約束ということに変わりはない」

「う…っ」

「きみは自筆で署名し、私に黙って出て行ったときは契約書の効力は切れていなかった。つまり、上記項目に違反した場合、違反者にとって最も価値あるもので代償を支払う…という五番目の項目は適用される」


鋭い鉤爪で、威圧的に押さえつけられているわけではない。どちらかというと、壁際に追い込まれ、広げた翼で退路を塞がれている心地がする。空閑家の次期当主より、直々に借金の返済を迫られるVIPを疑似体験しているみたいだ。


「よし分かった。いま契約書を持ってくるから、一緒に確かめよう」


わたしの沈黙を無言の抗議と捉えたのか、キョウヤはおもむろに立ち上がった。そのまま駆けていきそうな逞しい身体に、慌てて手を伸ばす。


「分かりました…っ」


中途半端にお尻を上げた姿勢のまま、男の大きな手を捕まえる。見上げると、わずかに上がった口角が目に入った。


からかわれている気がしなくもないが、ここで受け入れないかぎり、黙って出て行ったことを許してもらえないのも確かだ。

ええい、こうなったらヤケだ…!


「わたしにとって、最も価値あるものですよね?」

「ああ」

「じゃあ、目を瞑ってください」

「…え?」

「いいから早く!」


怪訝な顔をしながらも、キョウヤはわたしの言葉に従った。目蓋の下に黒曜石が隠されたことを確認してから、彼の正面に折りたたみの椅子を移動させる。そして慎重に足を載せ、普段よりずっと高い目線に若干の恐怖を覚えつつ、目の前の肩に手を置いた。


わたしの手の感触に驚いたのか、黒曜石を隠した目蓋が少し震える。その花瞼が開く前に、踵を上げた。唇に触れた熱は、わたしの頭や頬を撫でる手のひらより、ずっと熱い。


「言っておきますが、正真正銘ファーストキスですからね。この歳でも、恋愛経験は皆無なんです」


驚きに満ちた顔を眺めるのは、少し…いや、だいぶ気分がよかった。


「最も価値あるもので、代償を支払いましたよ。これで許してもらえますか」

「本当にきみは…っ」


神様が張り切って描いた美しい顔が、不意に歪む。怒っているのか、あるいは悔しがっているのか、その感情の源を探ろうとしたときだった。力強い腕が腰に回り、ぐいっと持ち上げられる。踏み台にしていた椅子が倒れ、爪先は空を掻いた。突然宙に連れて行かれ、本能的な恐怖からキョウヤの首にしがみついた。


「な…っ、なんですか…!?」

「ファーストキスを、自分からするのは反則だろう」

「キョウヤ様が、最も価値あるものと仰ったから…」

「そういう大事なものは、私からしたかったんだが」


この男、怒っているわけでも悔しがっているわけでもない。確実に拗ねている。物言いたげな目で見つめられるが、こちらはそれどころではない。


「キョウヤ様…っ、とりあえず下ろしてください!」

「いやだ。断る。下ろさない。私も驚かされたんだから、これぐらいの仕返しはいいだろう?」

「重いでしょう!」

「いいや。羽根が生えているみたいに軽い。きみはもしかして、人魚ではなく鳥類だったのか?」

「冗談で誤魔化さないでください!もうっ」


脚をバタつかせ、もがいてみたけれど、逞しい腕はちっとも緩まない。むしろ称賛に値するほどの安定感で、わたしを宙に留めている。観念すると、キョウヤは満足そうに口角を上げ、わたしの瞳をじいっと覗き込んできた。


「なんだか…本当に、夢みたいだ」

「え…?」

「きみが私の腕の中にいることも、私の名前を呼んでくれることも、笑ったり怒ったり焦ったり…様々な表情を見せてくれることも。すべてが夢みたいだ」


ひとつひとつの言葉を噛み締めるように紡ぎ、彼はわたしの肩に額を押し当てた。柔らかいアッシュグレーの髪が、首に触れてくすぐったい。


「…最初は、バチが当たったと思っていた。強引にさらった挙げ句、契約結婚を迫ってこの家に閉じ込めたから」

「バチ?何がです?」

「ミゥカが、私を覚えていなかったことだよ」

「あ…それは、ごめんなさい」

「いいんだ。謝ることじゃない」


キョウヤは、ゆっくりと顔を上げる。


「でもきみは私を忘れていたわけでもなく、私に良い感情を抱いてくれていることも分かった。いまはむしろ、幸せすぎてバチが当たりそうだ」


幸せすぎてバチが当たりそう、なんて、映画の中にしか存在しない台詞だと思っていた。偽りのない愛情だけが覗く瞳に、自然と笑みをこぼすわたしが映っている。


「じゃあ…バチが当たる前に、お花見しましょうね。桜が満開になったらしようと約束したでしょう?」


キョウヤは一瞬面食らったのち、すぐに相好を崩した。陽だまりのような暖かく優しい声で、もちろん、と応えてくれる。


少しずつ取り戻していく過去の記憶と、これからふたりで紡いでいく幸せな未来で、きっとパズルのピースを埋めていくように、いくつもの思い出を描いていけるはず。


「春だけでなく、夏も秋も冬も一緒に思い出を作っていこう。この先もずっと、私の隣にいてくれ」

「はい。もちろん」


合わせ鏡のように微笑み合い、そしてどちらからともなく近付いた。目を閉じ、泥濘の闇に身をゆだねたところで、艶やかな吐息が唇を撫でる。


「…ミゥカ。誰よりも、きみを愛している」


重なった唇は先ほどよりもずっと熱く、愛しい鴉の腕の中はどこよりも安らぎに満ちていた。



【Fin.】

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