「誰よりも、きみを愛している」

第9話

目が飛び出るほどのゼロを並べた借金。屈辱のベールを添えたウェディングドレス。蛇の濁音混じりの呻き声。そこら中に引っかき傷をつけてまわった人魚の喚き。地獄絵図のように混沌としていた昨夜がウソのように、鴉の庭園には穏やかな時間が流れている。


柔らかな温もりに満ちた風が頬を撫で、濃厚な春の香りが鼻腔をくすぐった。自然と上がる口角をそのままに、キャンバスに向き直る。大型のハンギングパラソルが作り出す日陰の下、わたしは印象派の画家になった気分で色を載せた。


庭でひときわ存在感を放つ桜の木は、ひと足先に春を堪能する世界に追いつこうと、数輪の花を咲かせている。ほんの数日前は、蕾ばかりだったというのに。一瞬で駆け抜けていく春の裾を捕まえるには、懸命に絵筆を滑らせないといけない。


それは分かっている。でもさっきからずっと、わたしの左頬を焼く視線が気になって、まったく集中出来ない。


「あの…空閑様」

「なんだ?」

「そんなに見つめられていると集中出来ません…」

「私のことは気にするな。庭のオブジェだとでも思ってくれ」

「不可能だから申し上げているんですっ」


折りたたみの椅子に座るわたしの左側で、空閑が仰向けに寝転がっている。木製のイーゼルを立てた頃にふらっとやって来て、芝生に背中を預けたと思ったら、それからずっと何も言わないまま、こちらを見つめ続けていたのだ。


十年前の話を聞く前から、庭でスケッチをするわたしの傍で寝転がってはいたけれど、視線を感じたことはなかった。だから、気にしないという方が無理に決まっている。


「悪いな。こんなに近くで、きみの顔を見ていられるのが嬉しくて、視線を逸らせないんだ」

「…これまでも近くで過ごされていたでしょう」

「いや、心の距離がまったく違う」


人魚と蛇を主とした一連の騒動が収束に向かい、肩の荷が下りたのか、空閑の纏う雰囲気は少し柔らかくなった気がする。


もしかしたら、騒動がきっかけではなく、十年前からわたしたちは知り合いだと打ち明けてスッキリしたからかもしれないけれど。


「心の距離が近付いたついでに言いたいんだが、私を下の名前で呼んでくれないか。十年前と同じように」

「え…あの、でも…」


わたしの記憶はまだ穴だらけで、空閑の名前はなかなか唇に馴染まない。少し恥ずかしくて躊躇っていると、子どもが親に物をねだるような甘えた目で見上げられる。初めて見る黒曜石の姿に、胸がときめいたことは隠しようがない。


「家ではずっと、四之御と呼ばれていた。父親も腹違いの兄弟たちも、黛のような昔から仕えてくれる者たちも皆、私を“空閑家の四番目の息子”としか呼ばないんだ」

「……」

「二十八年の人生の中で、私を下の名前で呼んでくれたのは海音寺家の面々だけだ。だから頼む。きみが呼んでくれないと、私の名前は消えていくしかない」


自分の名前に、特別な思いを抱いたことはない。ミゥカと呼ばれるのは、わたしにとって単なる日常の一部に過ぎないから。けれど目の前の男にとっては、自身の名前そのものが非日常であり、埃をかぶってしまった宝石なのだろう。


「…キョウヤ様」


おずおずとその名を口にすると、艶やかな紅が差す唇に三日月が刻まれる。空閑…あ、違う、キョウヤは勢いをつけて起き上がると、胡座をかいてこちらに身体の正面を向けた。


「もう一度呼んでくれ」

「キョウヤ様」

「もう一度…」

「キョウヤ様」


キョウヤは隠しきれない笑みで口元を緩ませ、宝物を抱きしめる子どものように目を輝かせる。名前を呼んだだけで、喜色満面の笑みが見られるとは思わなかった。


美しい男は、少しばかりの愛らしさを浮かべたまま、満足そうにごろりと寝転がる。夜を閉じ込めた瞳はハンギングパラソルと向かい合い、もうわたしを映さない。


彼としては、わたしの邪魔をしないように気を遣ってくれたのかもしれないけれど、予告もなしに断ち切られてしまうと一抹の寂しさを覚えてしまう。わたしは絵筆を置き、爪先をキョウヤの方に向けた。衣擦れの音で気付いたのか、黒曜石がわたしを見上げる。


「どうした。絵は描かないのか?」

「退屈を持て余している方が隣にいるのに、わたしだけ趣味に没頭するのは如何なものかなぁ…と」

「退屈か…。別に退屈なわけではないんだが、きみが相手をしてくれるなら、より楽しいだろうな」


キョウヤは素早く背中を浮かせると、再びわたしの真正面で胡座をかいた。


「それで、人魚姫のお望みは?」

「話を」

「話?なんの?」

「先日話してくださった、十年前の話の続きが聞きたいです」

「海音寺家を出て行ってからの話か?」


大きく頷くと、キョウヤは少し困ったように笑った。言いたくなくて誤魔化しているわけではなく、どこからどこまで話したらいいのか迷っているらしい。


話の大皿に何を載せるかしばらく考えたのち、重要な場面だけを揃えた一品をわたしに披露してくれる。


「死んだと思われていた四男が突然帰ってきたから、それはもう大騒ぎだった。直系の息子が全員消えたから、ここぞとばかりに次期当主の座を狙っていた親戚一同は怒り、それぞれの兄弟の部下たちは憎しみを顕にした。私の帰還を喜んだのは、私の部下たちと父親だけだったよ」


育った環境が複雑とはいえ、あのとき彼はまだ十代の青年だった。大人と子どもの狭間で揺れる未熟な魂に、寄ってたかって泥を浴びせるなんて、良心の欠片もない。


「片翼を失ってまで生きているとは…と罵られるかと思ったが、父親は私を見るなり泣いたんだ。生きていてくれてよかった、と、顔をぐしゃぐしゃにして。父親の涙を見たのは、後にも先にもあの日だけだ」

「我が家で療養するにしても、お父様に連絡するべきでしたね…。とても不安だったでしょうし」

「もとより、三男が生きているかぎり帰れなかったからそれはいいんだ。気にしないでくれ」


温かく大きな手が、なだめるようにわたしの膝を軽く叩く。


「そのあとどうにか周囲のざわめきを抑え、正式な後継者として忙しい毎日を送っていたが、海音寺家を忘れたことはなかった。何度か手紙や荷物を送ったが…ミゥカは覚えていないよな?」


父宛てのお礼の品なら、数え切れないほど届いた。お腹に消えていく物から、金額を想像するだけで頭がクラクラするほど高価な物まで。そのすべてを端から端まで覚えているわけではないけれど、ただひとつ、あまりに強烈で忘れたくても忘れられない品がある。


「まさか…、箱いっぱいに現金を詰めて送ってきたのは、キョウヤ様ではないですよね?」


そんなわけないだろう、と、笑み混じりの否定が返ってくると思ったのに、目の前の整った顔は複雑な心の内を顕にする。


「…私との記憶は封印したのに、私が送った荷物は覚えているのか」

「え…っ!?」


思ったより大きな声が喉からこぼれ、慌てて口元を手で覆う。驚きを隠せないわたしを前に、キョウヤは唇を尖らせた。どうやら、子どものように拗ねてしまったらしい。ふいっと顔を背け、手当たり次第に芝生を引きちぎって、風に流していく。


「あのっ、すみません…!現金が送られてきたのは初めてだったからよく覚えているだけで、他意はないんです…っ」


機嫌を直してほしくて懸命に言葉を引っ張り出すと、鼻梁の高さが窺える美しい横顔に笑みが差す。いたずらっぽく揺れる漆黒の瞳が、焦りに駆られるわたしの顔を捉えた。


「悪い。少し拗ねてみただけだ」

「…からかったんですね」

「拗ねたのは本当だ。でもきみを困らせるつもりはない」


キョウヤは子どものような表情を引っ込め、大人の余裕で微笑んだ。口角を上げたまま目を伏せたと思ったら、沈黙の更地に転がってしまう。おそらく、話の主軸を戻すつもりだが、言葉にするのを躊躇っているだけ。


わたしを気遣っていると分かるから、むやみに先を促さない。どこからか飛んできた雀が芝生で遊び、また大空に帰っていく頃、キョウヤはようやく口を開いた。


「…しばらくして、アサイ医師とソネさんが不慮の事故に遭ったと聞いた。実は、葬式にも行ったんだ」

「え…」

「だが、葬儀場から溢れかえるほどの参列者を見て、少なからずショックを受けた。私は三週間も世話になったから、海音寺家にとって特別な存在だと自惚れていたんだ。夫妻に救われ、恩義を感じているかつての患者は、私だけではないと分かっていたはずなのに」


美しい鴉は、何かを耐えるように眉間にシワを寄せ、自虐めいた息をこぼした。


「だから、ミゥカにも声をかけられなかった。きみが私を空閑キョウヤとして覚えておらず、父親がかつて助けた患者のひとりとしか見なかったら…と思うと怖かったんだ」

「でも実際、わたしはキョウヤ様との記憶を封印していましたし、声をかけていただいていたら傷付けていました」

「…いや。突然両親を失った少女の痛みに比べれば、そんなものは痛みと呼ぶ資格はない。勝手に落ち込もうが、あのとき声をかけるべきだった。多くの参列者に囲まれ、気丈に振る舞うきみの傍にいるべきだったんだ」


すまない、と頭を下げられ、こちらの目が飛び出しそうになる。彼が謝る必要はどこにもなかった。そもそも、両親の葬式に来てくれていたという事実だけで、わたしには十分だった。


突然の不幸だったにも関わらず、全国から駆けつけてくれたかつての患者たちに、わたしがどれほど救われたことか。両親は多くの者たちに愛され、そしてこの先も覚えていてもらえるという事実が、深い悲しみに沈むわたしを優しく包んでくれたのだから。


「頭を上げてください。キョウヤ様」


躊躇いがちに肩を叩くと、アッシュグレーの髪が横に揺れる。キョウヤは芝生を見つめたまま、ぽつりとこぼした。


「あのとき、もし私が声をかけていたら、その先のきみの人生は違っていただろうか」


圧倒的なオーラで他者を統べる男とは思えないほど、弱々しい声が鼓膜を撫でる。どんなに支配者と恐れられていても、他の者たちと同じように弱い部分を持っていると思うと、親近感というより母性にも似た感情がこみ上げてくる。だからわたしは、口先だけの慰めでも同情でもなく、きっぱりと言い切った。


「きっと、変わらなかったと思います。裕福な親戚の家に引き取られ、我儘なひとり娘の身代わりに蛇へ嫁ぐことになっていましたよ。それから、美しい鴉にさらわれることも決まっていたはずです」


風にさらわれていく言葉の裾を掴むように、キョウヤが勢いよく顔を上げる。見開かれた目が、わたしを映しながら、じわじわと細められていった。そうだな…と噛みしめるように呟いたのち、美しい鴉は話の続きを紡ぐ。


「ミゥカが幸せなら、それでいいと思っていた。たとえ隣にいられなくても、きみが笑う姿を遠くから見守るだけで構わないと。この家を建てておいて信じてもらえないかもしれないが、それもまた、紛れもない私の本心だったんだよ」

「キョウヤ様…」

「だが、しきたりのせいで蛇に嫁がされると聞いて、いてもたってもいられなくなった。ミゥカが望んだ結婚ではないなら、どんな手段を使っても阻止する。姑息だ卑劣だなんだと罵られようが、蛇を罠に嵌めて、きみを連れ去ることにしたんだ」


揺るがない決意が光る瞳に見つめられ、胸の高鳴りを覚えたときだった。

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