破滅フラグ監査庁 — 第2話「空欄は課税対象です」



朝、庁舎前の大型ビジョンが湿った光を放っていた。

「本日の市民フラグ数ランキング」

名前と数字が雨粒みたいに並ぶ。私は一番下まで指で追って、そこで止まる。市長の欄は、今日も空欄だった。ゼロではない。棒線の一本すらない。空白のために、専用のフォントが用意されている気がする。贅沢だ。


出勤の打刻をして、靴紐にだけ挨拶する。靴紐はいつも黙っている。沈黙が安くて助かる。


オープンフロアでは係長がブリーフィングを始めていた。

「今週末は議会の監査報告だ。……で、静かにやろう。突っつくな、ゼロを稼げ」

ゼロは稼ぐもの。言葉の新しい用法が、胸のポケットで転がる。私は手を挙げない。代わりに、心の中の家計簿にメモした。“静かなゼロ”は、往々にして高くつく。


隣の席に、あの女性が立った。広報室の社員証、名字は刃田。刃田の、妹。

「おはようございます」

「おはようございます」私は靴紐に言ってから、顔を上げる。エレベーターでの相互認知は“軽微”のまま沈殿している。

「掲示、見ました?」彼女は自然な口調で言う。「市長の件は広報案件です。演出旗は市政活動なので——」

「演出は偶然を免れる魔法ですか」私は割って入るつもりはなかったが、言葉が先にいった。

「名前を付けておけば、世界は落ち着きます」

落ち着き。私は頷いた。名前がつくと勘定科目も増える。科目が増えると、小さな費目が迷子になる。迷子は、たいてい高い。


午前の市民相談に、屋台の店主が来た。

「“再会フェア”ってので、偶然会ったら高額課金になりましてね。あれ、偶然なんですか?」

手元の明細には、太字で《運命の再会(特設演出)》。私は印字の濃さを指でこすっても、薄くならないのを確認した。

「フェアのチラシには“出会い率向上”と書いてある。上げたのは確率であって、偶然性ではない……という説明が公式です」係長が答える。

「偶然の“演出”は、偶然ではないのかもしれません」私は言った。

店主は黙った。黙ると、私の机の上の塩むすびの列が、ほんの少し誇らしげに見える。


「現場見に行くか」

係長の一言で、私は広報室への回覧書を抱えて庁舎を出た。外は湿気。空欄のにおいがする。



市役所本館の玄関には、握手ロボが立っている。右手を差し出し、光る目で見つめてくる。

ガシッ。

《友情フラグ:軽微》

鳴り終わる前に、通行人は皆、手をふりほどいて通り過ぎる。誰も驚かない。驚きは課金対象だから。


広報室はポスターでいっぱいだ。笑顔、青空、起承転結の矢印。壁際で刃田の妹が、資料の山から必要な紙だけをスッと抜いた。

「回覧、どうぞ」

私は書類を差し出す。水平器を添えて、押印角度をゼロにする。

「角度にこだわるんですね」

「“イベント性”が混じると高いので」

「こちらは“演出”です。免責のほう」

笑っていない笑顔だった。私は書類の端に指をそろえ、視線を外した。視線税は秒で溜まる。


「“再会フェア”の演出台本、閲覧できますか」

「公開情報なら」

彼女は慣れた手つきで棚からファイルを取り出す。表紙に『市政広報:演出指針(暫定)』。ページをめくると、そこにはきれいな文字が並んでいた。〈視線の交差を促す動線〉〈落とし物の提供〉〈BGMの高鳴りタイミング〉。

「……これは偶然を整理しているだけでは」

「そうです。整理しているだけ」彼女は静かに言う。「整理された偶然は、市政活動です」

言い切りは安くない。彼女の声は、そういう値段だった。


部屋を辞して資料のコピーを抱えたとき、廊下の端に彼が立っていた。監査官、刃田。感情はどこにも載っていない。

「名称の問題ではない。制度の定義だ」

私が口を開くより先に、彼は言っていた。

「呼び名を変えても、起点は起点。検出されるものは検出される」

「でも、ダッシュボードには——」

「仕様」

その一言で、廊下の空気がきっちり畳まれた。彼は去った。残ったのは、紙の匂いと、水平器の気泡が動く音だけ。



午後、私は契約文書の閲覧許可を取り、調達課のカウンターに座った。書類の束は高層建築より重い。指先で紙をめくりながら、文字の間にある“おしゃべり”を聴く。

免責条項があった。〈当該演出は市政広報活動であり、物語起点の検出対象から除外〉

私は鉛筆で端に小さく書く。除外の名前が、起点の税率を変える。名前は財布だ。


「それ、どこまでやるの」

係長が書類の隙間から顔を出した。

「“監査官タッチ案件”について、市民側から第三者監査を自動起動できるようにしたいんです。差し戻しの拡張」

「前例が——」

係長の声が終わる前に、彼自身の手がパンと一度、鳴った。

拍手は一回。私は小さく頷いた。制度内で勝つのは、安い。けれど、安い勝利は、だいたい静かだ。



審査会は会議室を少しだけ厳しくした空気で行われた。机の角がいつもより尖っている気がする。

審査官が議事を読み上げる。「広報演出の免責と、市民の予見可能性について」

私は立つ。広報室の列には、刃田の妹。監査官の列には、彼。私は足もとを見てから、口を開く。


「偶然は消えません。名前を付けられても、残ります。ただ、名前が付くと、見え方が変わる。見え方が変わると、備えが変わる。備えができなかった市民には、手数料が高すぎます」

審査官が首を傾げる。「予見不能があったと?」

「はい。“再会フェア”の動線図には、屋台横の“落とし物提供位置”が設定されています。しかし、BGMの高鳴りタイミングが現場では五分早められていました。チラシにはない。これは市民に予見不能です」

「証拠は」

「BGM操作ログと、屋台主のスマホ動画を——」

言い終える前に、会議室の引き戸が少し開いて、紙がサラサラと滑り出した。未決書類の匂い。風が入り込む。

私は見る。誰も触らない。風が、紙をめくる。表紙が返り、市長の婚約発表台本の文字が覗いた。

空気が一瞬、値上がりする。誰も値札を見ない。


「休憩にしましょう」審査官が言った。

拍手は一回で終わった。私は座り、水平器で自分の心を測った。泡は左右に揺れる。未決の風が、どこかで増えている。



休憩時間、私は廊下で刃田に声をかけた。

「押印角度の仕様、変えられますか」

「仕様は仕様だ」

「“演出押印”が斜め四十五度のときだけ有効、という内部ルール。水平に統一すれば、演出認定の要件から外せます」

彼は黙る。沈黙は、誰の財布にも入る。

「UI改定案を添えます。現場で角度を選べないように」

「——」

彼は視線を落として、私の水平器を見た。泡が中央できれいに止まっている。

「仕様にない」

「では、仕様にします」

言い切りは高いが、必要な支出だ。私は改定案のファイル名を“押印角度:水平”にして、送信した。



審査会が再開した。私は先ほどのログを提出し、屋台主のスマホ画面を再生する。油のはねる音、笑い声、BGMが五分早い。

審査官が小さく頷いた。

「広報演出であっても、市民の予見可能性がない場合、フラグ課金対象とする」

決定の瞬間、室内の温度が一円ぶん、下がった気がした。私は胸の中で豆腐一丁ぶんの節約をする。

刃田の妹がこちらを見た。目は静かで、波は表に出ない。「了解しました」とだけ言って、書類に押印する。印面は水平だった。進行が早い。どこからどこまでが“演出”で、どこからが“制度”か。境界線は、今日も真顔だ。


会議が終わると、ダッシュボードに小さな変化が起きていた。

——

市長の欄に、薄い点滅。棒線一本が明滅している。数字ではない。ただの存在の電圧。

私は立ち尽くす。同僚が横で囁く。「見ないふりが平和ですよ」

「空欄のほうがうるさいです」私は言う。

点滅は、息みたいだった。吸って、吐いて。料金は、これから決められる。



庁舎に戻ると、風が強くなっていた。未決フラグの引き出しが、さっきより膨らんでいる。ラベルは同じ——『監査官関連:閲覧不可』。

指先を近づけると、紙が静電気で頬を撫でた。すぐに手を引っ込める。触れると、課金の音がしそうで怖い。

机の上には、またおにぎり。誰かが足していったのだろう。私の一日の勝利は、炭水化物で数えると実感が出る。


広報室の彼女が、ドアに立っていた。

「おめでとうございます」

「何にでしょう」

「空欄に点が灯りました」

「……高い点ですね」

「高い点です」

彼女の声は、さっきより少し柔らかい。

「あなた、ゼロを守る人」

「ゼロは安いから」

「空欄は?」

「高い」

ふたりで同じ言葉を言った。拍手は、しない。すると課金される。


帰り際、エレベーターの中のBGMメーターが、今日に限ってほんの少し揺れた。針の動きは“軽微”だ。

「明日、“再会フェア”の動線を公開します」彼女が言う。「予見できるように」

「ありがとうございます」

「演出も、節約できるといいですね」

「できると思います。角度から」

エレベーターが一階に着く。扉が開いて、湿気の中に出る。掲示板は相変わらず騒がしい。

本日の違反通知:各自。

私は靴紐に挨拶して、一歩を節約した。背中で、未決の風が紙を鳴らす。音は、まだ値付けされていない。


—了—"

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

破滅フラグ監査庁 フラグは課金対象。拍手は一回。視線は靴へ @SilentDean

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ