破滅フラグ監査庁 フラグは課金対象。拍手は一回。視線は靴へ
@SilentDean
第1話「本日の違反通知:ゼロ」
発光掲示板のゼロは、今日の私の献立よりも心強い。右を見ても左を見ても、誰かが運命と目を合わせ、静かに課金されていく。私は視線税を節約するため、靴紐の結び目に挨拶した。
(こんにちは、黒。今日の私も地味で安い)
白線が床をまっすぐ導く。列の先で受付の女性が言う。「次の方、視線はガイドラインに沿ってお願いします」
私は言われたとおりに床だけを見て歩く。ここは破滅フラグ監査庁。運命の出会い、宿敵宣言、決意の叫び——そういう“物語の起点”を検出して課徴する役所だ。私は今日からこの庁の新人事務員。名字は紙至(かみ・いたる)。紙と至る。名前のわりに、ほぼ至らない。
窓口の前で立ち止まる。提出書類はクリップで固定し、印鑑は水平。押印角度が斜め四十五度だと“イベント性あり”で加算されるのを、私は昨日の受験官報で暗記した。水平器も持参している。節約は準備からだ。
隣の窓口を、黒いスーツの男が通り過ぎる。背筋が真っ直ぐで、感情がどこにも載っていない。監査官のバッジ。名札には**刃田(はだ)**とある。無表情の彫刻みたいな人だ。彼がサインをして、ペンを置く。ペンは机の端から静かに落ち、私の足元で止まった。
私は拾って、差し出した。
「落としました」
天井のスピーカーが、反省のない電子音で鳴る。ピロン。
発光掲示板が一行増える。《恋愛(軽微) ¥500》
私は固まる。窓口の職員は流れるように業務を続ける。
「……ポイント、つきます?」私は一応、聞いてみた。
「対応外です」
硬い声で、きっぱり。
五百円。私は財布の小銭を数えた。五百円はおにぎり二個分、もしくは豆腐三丁分。豆腐三丁は一週間に応用が利く。余計だ。私は深く息をして、靴紐に向かって黙礼した。(油断した。運命はたいてい床の外にある)
◇
朝のオリエンテーションは会議室で行われた。壁には「拍手は一回」の張り紙がある。偶数回の拍手はイベント扱いで課金されるからだ。皆、真顔で頷く。
係長がダッシュボードを投影した。「本市は市民のフラグ状況を透明化しています。本日のランキング上位はこちら」
スクリーンには名前と数字が並ぶ。出会い、誓い、対立、約束。
私は手を挙げた。「あの、市長が表示されていません」
「広報上の都合です」係長は早口で言い、スライドを次に送った。
なるほど、都合。私の家計簿にも、似た欄がある。見てはいけない赤い数字が“都合”で消えるなら、人生はもっと安かったはずだ。
「なお、監査官は制度の外にあります」
係長が言う。皆が頷く。私は手を下ろした。制度の外。外にあるものは課税されない。そういうことだ。
◇
昼休み、私は机の上に視線税回避マニュアルを開いた。ページ一枚目、挨拶は靴紐に。二枚目、名刺は目を閉じて滑らせる。三枚目、壁越し伝言。
同僚が覗き込む。「それ、何です?」
「節約術です。人に向けると税率が跳ねるので、物に向けます」
「へえ」同僚は素直に感心して、机の下の自分の靴紐に会釈した。
気持ちが引き締まる。節約は文化。文化は反復。
午後は現場の見学だ。私は刃田と係長に連れられて、市内パトロールに同行した。監視端末は胸にぶらさがっていて、何かあると勝手に鳴る。
商店街の角で、それは鳴った。ピピ。端末の表示:〈運命の落とし物:高額〉
見れば、若い男性が財布を拾い、女性に手渡している。女性は感激している。端末はさらに鳴る。〈相互認識→高鳴り〉
「はい、課金対象です」係長が事務的に説明して、女性に軽い書面を示す。男性が目を瞬く。「拾っただけで人生が高鳴るなんて、聞いてないんですけど」
「高鳴りは自由です。課金も自由です」係長が答える。自由には、値段がつく。
「ちょっと待ってください」私は口を挟んだ。「落とし物は所有権未確定ですよね。所有者に戻って初めて——その——“帰属”される。未確定のものに“起点”は成立しません」
係長が眉を動かす。刃田は動かない。
「差し戻し、できませんか。成立要件の欠落で」
係長はしばらく端末を操作して、「……可能です。例外的に。あなた、どこでそんなの覚えたの」
「家計簿です」私は答えた。家計簿は私の大学だ。支出の名目が違えば、世界の意味も変わる。
女性はほっとして、深く頭を下げた。「助かりました。お礼、これ」
袋を渡される。開けると三角形が列を作っていた。おにぎりだ。塩むすびが、ずらり。
「すみません、こんなに」
「三角形は人を救います」と女性は真顔で言って去った。商店街ではそういうものらしい。
庁に戻ると、私の机の上におにぎりが整列していた。先ほどの袋に加えて、誰かが数を増やしている。メモはない。誰も触れない。
私は静かに一つ拝借して、胃袋に節約の説得をした。
「適切」
背後から声がした。振り向くと刃田が立っている。目は泳がない。口元も動かない。手が一度、叩かれた。パン。
拍手は一回。
私は会釈した。「ありがとうございます」
彼は頷きもせず去った。私の机の角に、風が一つ、触れた気がした。
◇
夕方、私はもう一度ダッシュボードを見に行った。市長の名前は、やはり空欄のままだ。
「ゼロより空欄の方が怖いんですよね」
隣にいた同僚が小さく笑った。「見ないふりが平和です」
見ないふり。私は財布の小銭を指で弾いた。音は安っぽい。安い音ほどよく響く。空欄には音がない。音がないのに、うるさい。
休憩室で紙コップに水を入れていると、同僚がぽつりと言った。「監査官は、制度の外、ですから」
「監査官が恋をしたら?」
水の表面が揺れた。返事はなかった。換気扇だけが喋っている。私は紙コップを持ち替えた。監査官の名前は、私の舌にとっては言いにくい。刃と田。切る場所が分かりやすい名前は、たぶん切れ味がいい。
◇
夜になって、人が引いた庁舎で残務を片づける。未決書類の引き出しを閉めようとして、私は手を止めた。
引き出しが、風で膨らんでいる。紙の束が、海みたいにうねる。私の手の甲に、紙の毛が触れた。
ラベルには『監査官関連:閲覧不可』とある。私は閉じた。閉じて、水平器をしまい、深呼吸した。未決は風を生む。風は、押印角度を変える。角度が変わると、世界が高鳴る。そういう順番なのだろう。
◇
翌朝、私はUI改善案を提出した。差し戻し申立てフォームのプルダウンを、現場で使う言葉に近づけるだけのささやかな改定。
「個人の裁量では……」係長は言いかけて、庁内チャットの通知音に遮られた。ピコン。
〈市民からの差し戻し申立て、処理速度向上〉
〈過大評価の偶発性:選択数増〉
数字が小さくなる音は聞こえないが、空気が軽くなるのは分かる。節約の風が、一番好きだ。
◇
退庁時刻。エレベーターに乗ると、すでに一人、女性が乗っていた。髪は肩で止められていて、社員証が揺れている。
「何階ですか」
「一階で」私はボタンを押す。
ピロン。天井のスピーカーが控えめに鳴った。表示盤の隅に小さな文字が点灯する。《相互認知(軽微)》
私は視線を足元に落とした。靴紐はほつれていない。
女性の社員証が揺れ、文字が読める位置に来た。名字が目に入る。刃田。名前の下に、部署名:広報室。
「あなた、ゼロにこだわる人?」彼女が言った。声は涼しい。
「安いですから」私は答えた。
エレベーターの壁に、BGMのメーターが小さく表示されている。針はほとんど動いていない。
「ゼロは安い。でも、安さは時々、騒がしい」私は独り言の大きさで付け加えた。
彼女は何も言わなかった。エレベーターが一階で開く。外の空気には夜の湿りがあり、遠くで掲示板が点滅している。
本日の違反通知:——。
空欄は、明日の文字を待っている。
私は靴紐に挨拶して、一歩を節約した。
—了—"
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