バッグ・クロージャー

鈴女亜生《スズメアオ》

バッグ・クロージャー

 嵐は昼休みにやってきた。我が物顔で教室に足を踏み入れてくると、すぐさまテーブルの前に立ち、松山まつやま衣吹希いぶきに驚く暇を与えることもなく、力強く両手をテーブルに突き立てていた。


「イブちゃん、ちょっとがあるんだけど」


 真剣な眼差しと口調で話しかけてくる姉、松山日比希ひびきを見上げて、衣吹希は僅かに表情を曇らせた。重要であることを強調するような振る舞いを見せているが、その実、それは決して大した話ではないことくらい、衣吹希には分かり切っていたのだ。


 姉と言っても、日比希は衣吹希と年が変わらない。所謂、双子だ。一卵性ではなく、二卵性なので、思考が似ているとは言わないが、これまでに同じ時間を長く共有していることもあって、その思考くらいは簡単に読み取れた。


 日比希がこういう振る舞いを見せて、それが実際に大事な話だったことはこれまでに一度もない。大概がどうでもいいことを深刻そうに抱えているだけで、真面目に相手しようものなら、後に悔やむことが決まっているのだ。

 本当に深刻な話は寧ろ、さっき野良猫を見つけたくらいのテンションで言ってくるので、そういうものを取りこぼさない方が大変なくらいだ。


 これほどまでに振り被っているということは、それほどに大した話ではない。聞き流してもいいくらいだが、どうしようかと衣吹希は悩みながら、日比希の顔を冷めた目で見つめていた。


「どうしたの、ヒビちゃん?」


 流石に無視するのも可哀相かと、一応は聞いてみるが、日比希は衣吹希の問いかけにも勿体ぶって、僅かにかぶりを振るだけで答えることはなかった。


「ちょっと、ここでは人が多くて話せないから、また放課後ね。二人きりで話したいんだ」


 尚も真剣な表情と口調で、日比希はそう言ってくる。その様子に、本当に碌でもないことだろうなと衣吹希は察していたが、それを言っても話が拗れるだけだろうと思ったので、分かったと当たり障りのない返答をしていた。


 そのことで満足したのか、姉という嵐は教室から去っていく。同学年ではあるが、衣吹希と日比希は違うクラスだ。もう慣れた光景のためか、誰も何とも言っていないが、あそこまで遠慮なく、違うクラスに入れるものだろうかと衣吹希は今更ながらに思う。


 もう何度も通っているなら、それもそうだろうと納得できるかもしれないが、日比希の場合は最初から、あの様子だった。

 言ってしまえば、日比希とはそういう人物なのだ。そのことをおかしいと感じる程度には、衣吹希と日比希の価値観は双子であっても違っていた。



   🍞   🍞   🍞



 放課後、衣吹希の在籍する二年E組の教室から人がいなくなり、それでも日比希が姿を見せないことに衣吹希が忘れて帰ったのかと不安を覚え始めた頃、ようやく日比希が教室に姿を現していた。


 昼休みには微塵も見せなかったコソコソとした様子で、衣吹希の待つ教室の中を確認すると、虫のような動きと素早さで、衣吹希の前に駆け寄ってくる。


「え……? ヒビちゃん……? どうした……?」


 流石の日比希の振る舞いに衣吹希が引いていると、日比希は衣吹希一人しか教室にいないことにようやく安堵したのか、表情を和らげて何かをテーブルの上に置いた。


「良かった、イブちゃん一人で。ようやく隠さなくて済むよ」

「隠す? これは何?」


 テーブルの上に日比希が置いた物を指差し、衣吹希は怪訝な顔をする。それはコンビニの袋であるが、厳重に縛られていて中に何か入っているのか、入っていたとして、それが何なのかは確認できない。


 すると、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、日比希は前のめりになって、衣吹希に顔を近づけてきた。


を拾ったんだよ」

「大変な物? 何を拾ったの?」


 きっと碌でもないことだろう。昼休みの段階で、衣吹希はそう断じていたので、日比希が大変な物と強調しても、それを特に深く考えることはなかった。

 その衣吹希の耳元に口を近づけて、日比希が言う。


だよ」

「…………はあ?」


 日比希が口にした言葉を入念に噛み砕き、深く味わってから、衣吹希は思わず声を上げていた。テーブルの上に置かれたビニール袋を見つめ、それがそうなのかと確認するように指差し、日比希を見つめる。日比希はそうであると肯定するように頷き、衣吹希はゆっくりと視線をビニール袋に戻して、静かに深呼吸をした。


「えーと……どれくらい?」

「ざっと数えて、百はあると思う」

「百!?」


 日比希から告げられた事実に、衣吹希の頭の中では一気にゼロが膨らみ、唐突な眩暈に襲われていた。見たことも、聞いたこともない額が頭の中に思い浮かび、それがそこにあるという現実感の湧かない事実に倒れそうになる。


 それから、いや待てと衣吹希は冷静になる。


 衣吹希は今、百という数字を聞いて、勝手に頭の中で一万円札を思い浮かべていたが、日比希なら、何も一万円でなくても大袈裟に言ってくるかもしれない。

 流石にテーブルの上に置いた時の様子から、小銭の類ではないので、お札だとは思うのだが、もしかしたらゼロが一つ少なく、千円札が入っているのかもしれない。


 それなら――と思いそうになってから、衣吹希はかぶりを振った。そうだとしても、百枚も集まれば十万円になる。高校生からすれば、かなりの大金だ。


「これ、どうすればいいのかな?」

「落ちついて、ヒビちゃん。それを拾ったんだよね?」

「うん。焼却炉の近くに落ちていて、ゴミかと思ったけど、一応、中身を確認してみたら、もう驚いて」

「なら、ちゃんと届けよう。学校の敷地内なら学校か、もしくは警察に直接届けてもいいと思うよ」


 額が額だ。それだけの金額の札束がビニール袋に入っていたことも考えたら、衣吹希は警察に届ける方がいいのではないかと考えていた。

 流石に管理が杜撰過ぎるので、真面なお金でない可能性がある。それを学校に届けて、持ち主に拾ったことを知られる可能性があるくらいなら、警察に直接届けた方が安全のはずだ。


 そう衣吹希は思ったのだが、そのことを聞いた途端、日比希の表情は曇り、ガタガタと小さく震え始めていた。


「け、警察……?」


 何かに怯えるように呟いて、日比希は目を逸らす。明らかに何かをしてしまった人の反応だが、衣吹希は日比希という人物を良く知っている。


 日比希に犯罪を行うほどの知能はない。


「ヒビちゃん? どうしたの?」

「警察はダメだよ。だって、私が捕まっちゃうかもしれないし」

「いや、ヒビちゃんは落とし物を拾っただけなんだよね? それなら、捕まることはないよ」

「いや、そのことじゃなくて、その……」

「何かしたの?」


 尚も怯えた様子を見せ続ける日比希の様子に、衣吹希が追及するように問いかけると、日比希は観念したように項垂れ、罪を告白し始めた。


「昨日の晩……」

「うん」

「冷蔵庫にあった……」

「う、ん……?」

「イブちゃんの……」

「ん?」

「抹茶プリンを……」

「食べたの、やっぱりヒビちゃんだったの!?」


 それは昨晩のことだった。衣吹希が大切に取っておいた抹茶プリンが冷蔵庫の中から忽然と消え去り、松山家では一騒ぎになっていたのだ。

 当然のように日比希も疑われていたのだが、その時の日比希は見事にしらばっくれ、最終的に二人の父親が犯罪者のように扱われることとなっていた。


 その犯人が今更ながらに分かり、衣吹希は父親に申し訳ないことをしたという気持ちと、それが日比希の中に強い罪の意識を生んでいるのかという理解を得ていた。


「ご、ごめん!」


 日比希はその場に泣き崩れ、強い後悔に襲われているようだった。衣吹希はその様子に怒りよりも困惑が勝り、どうしようかと頭を掻く。


 流石に抹茶プリンを食べたくらいで捕まるわけがないと言ってあげたいが、昨日の惨状を見ていたら、きっと日比希は信じないことだろう。日比希を説得するための言葉としては物足りないと言わざるを得ない。


 もう少し違うアプローチで落ちつかせる必要がある。そう思った衣吹希はそっと日比希に手を伸ばし、その手を優しく握り締めていた。


「大丈夫。安心して、ヒビちゃん。抹茶プリンのことが罪になることはないから」

「で、でも……!」

「大丈夫。被害者の私が被害届を出さなかったら、それでヒビちゃんが罪に問われることはないから」

「イブちゃんは許してくれるの……?」

「もちろん。だって、私とヒビちゃんはたった二人の姉妹なんだよ?」

「イブちゃん!」


 日比希が衣吹希に抱きつき、衣吹希は日比希の頭を優しく撫でる。衣吹希の説明で日比希は納得してくれたようで、泣き濡れた顔には少しずつ明るさが戻りつつあった。


「そういうことだから、これはちゃんと警察に届けよう」


 そう言って、衣吹希はテーブルの上に置かれていたビニール袋を持ち上げた。そのまま立ち上がろうとしたところで、衣吹希の動きが止まる。


(あれ? 何か、?)


 衣吹希は持ち上げたビニール袋を見つめて疑問に思う。札束とはいえ、百枚も入っていたら、それなりの重量にはなるはずだ。重くはないだろうが、それなりの重さは感じるだろう。


 しかし、このビニール袋は何も入っていないように軽かった。ただ空気が入っているようにしか感じられないほどの重さだ。とてもじゃないが、百枚の札束が入っているようには思えない。


 何かがおかしい。そう思った衣吹希は縛られたビニール袋の持ち手に手を伸ばし、それを解いていく。本当に札束が入っているのかと思いながら、衣吹希はその中を覗き込む。


 そこで衣吹希は大量の、を目撃したのだった。


「えっ……? ヒビちゃん……? これは何……?」

「何って、お金の山だよ」

「どこが!? ただパンの袋を留めるアレが大量に入っているだけじゃん!?」


 袋の中に手を突っ込み、衣吹希がパンの袋を留めるアレを日比希に見せつけるように持ち上げると、日比希はさも当然のように頷いて、真剣な表情と口調で言ってきた。


「これだけあれば、何でも買い放題だよ!」

「無理だよ!? これがこんだけあっても、駄菓子一つも買えないよ!?」

「いや、確かに、このままでは無理かもしれないけど、換金所で換金したら、家だって……」

「買えないよ!? ていうか、換金所とかないよ!? 何でパンを食べたら、現金が手に入るんだよ!?」

「え? でも、パンをたくさん食べたら、お皿とか手に入るって……」

「それはそういうキャンペーン! あと百歩譲って、その場合でも、集める物はこれじゃなくて、シール!」


 納得できないと言わんばかりに首を傾げる日比希の前で、衣吹希は荒々しく呼吸を繰り返していた。分かり切っていたことのはずだが、今回は衣吹希の想像を遥かに超えたことだった。そこまであるのかと衣吹希は思いながら、日比希の話していたことを思い出す。


「焼却炉の近くに落ちていて、ゴミかと思ったけど、一応、中身を確認してみたら、もう驚いて」


 その言葉を思い返し、衣吹希は驚くのはこちらの方だと思う。


 これは紛う方なきゴミだ。誰かが処分しようとして処分し損ねたゴミでしかない。このようなゴミのために呼び出され、放課後まで残ることになったのかと衣吹希は愕然としていた。


「えっ? だとしたら、それはどうするの?」

「どうするって、普通にゴミだから、捨てに行くよ」

「いやいや、だって、それだけ集まっているんだよ? 誰かが落として、困っているかもしれないよ?」

「困るって……」


 確かにビニール袋一杯に、パンの袋を留めるアレが集められていることは事実だが、これを落としたところで何かに困るとは考えづらい。

 もちろん、何かを作ろうとして集めて、それをなくしたという可能性も考えられるので、可能性がないとは言えないのかもしれないが、そうだとしても、焼却炉の近くで落とすとは考えづらい。捨て損ねた可能性の方が遥かに高いだろう。


「勝手に捨てたら、その人が困っちゃうよ!」


 日比希はそう言い出し、衣吹希は溜め息をつく。そんなことはあり得ないと思うのだが、そのあり得ないという考えを伝えるためには、また日比希が納得するだけの説明を衣吹希が用意しないといけない。


 しかし、既に日比希に振り回された後の衣吹希には、そのための体力が残っていなかった。ここから説明を考えても、説得が夜までかかる可能性を考えたら、非常に馬鹿馬鹿しく思えてくる。


 これはもう日比希に譲歩して、納得する方法を用意すればいいだろう。そう結論を出した衣吹希は再びビニール袋の口を縛り、日比希に手渡していた。


「なら、落とし物として学校に届けよう。それなら、いいでしょう?」


 衣吹希がそう言うと、きょとんとしていた日比希もビニール袋を受け取って、嬉しそうな笑顔で頷いている。


 ようやく話がまとまった。そう思った衣吹希がどっと疲れた身体を引き摺って、教室を出ようとしたところで、後からついてきた日比希が嬉しそうに声を出す。


「でも、良かった。問題がも片づいて」

「…………ん? 二つ?」


 一つはパンの袋を留めるアレのそれだとして、もう一つは何かと衣吹希が思いながら聞くと、日比希は満面の笑みで頷いて、衣吹希の頭を打ちつけるように言ってきた。


「うん。これと

「…………。それは話が違う!」


 さっきは別に事情があったから許したが、今は前提条件が変わったのだ。警察に行く必要がないのなら、日比希を許す必要がない。


「楽しみにしてたんだから、抹茶プリンは絶対に帰りに買ってもらうから!」

「ええ!? でも、さっきは許すって!?」

「買ってくれないなら、場合によっては被害届も出すからね!」

「ええ!? 待ってよ、イブちゃん!?」


 慌てふためく日比希に、問答無用と言わんばかりに顔を背ける衣吹希。


 それはあまり似ていないが、やっぱりどこか近しい、私立ンジャメナ学園に通う双子の賑やかな日常の光景だった。

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