エピローグ 今日の私へ

朝の匂いが変わった。

冬の乾いた冷たさの底に、ほんのわずか、湿った土の匂いが混じる。ベランダの鉢の土を指でほぐすと、細い根が一本、陽の方へ向かって白く伸びていた。

結衣は霧吹きを二度。葉の先に丸い水滴が並び、部屋の中の光を小さな点にして返す。


机の上には、いつものノート。

上に「空」、下に「地面」。右の欄には、これまで通りの「問いと返事」。

今朝は、ページのいちばん上に新しい行を作り、静かに宛名を書いた。


――今日の私へ。


インクが紙に吸い込まれ、線の端に小さな濃淡をつくる。

宛先を決めた瞬間、部屋の空気が少しだけ整列した気がした。

彼へ宛てた届かない手紙は、形を変える。

届かない場所に投げていた言葉を、今日は自分の足元に置いてみる。


――今日はね、カーテンを少し開けておくことにしたよ。

――午前の光が床をゆっくり移動して、鉢の葉の色が時間ごとに変わるのを見る。

――昼すぎ、近所の文具店で、封筒を買うつもり。自分宛てに、同じ住所を書いて投函してみる。数日後の私へ届くように。


封をするための糊の匂い、紙の繊維の手触り、ポストの金属の冷たさ――これから出会う具体を、先に書いておく。

書くことは、心の輪郭に目印を立てる作業だ。

目印があると、行きと帰りの道が同じでなくても、迷いにくい。


玄関でローファーを履き、鍵の重みを掌に確かめる。

「行ってきます」

廊下に伸びた声は、以前より少しだけ高い位置で返ってきた。

戸を閉めると、階段室のひんやりした空気が頬に触れ、金属の手すりに朝の光が細い帯をつくっていた。


神社の前を通り、丘へ向かう角を曲がる。

鳥居の赤はまだ湿っていて、石段の霜は薄い。

上りきった広場には、見慣れた背中が二つ。

犬を連れた年配の男性が、今日も空に向かってゆっくり腕を上げている。

彼は結衣を見つけると、軽く会釈して言う。

「今日は南風ですね」

結衣も空を見る。

雲の縁が少し緩く、色の混ざり方が柔らかい。

「はい。背中が温かいです」

それだけのやり取り。十分だった。


ベンチに腰かけ、背を伸ばす。

肩の内側に、朝の熱が静かに灯る。

ポケットから薄い封筒を取り出し、宛先を書く。

自分の名前、自分の住所。

文字は、少し緊張していた。

切手を貼る指先がわずかに震え、絵柄の四隅をそっと押さえる。

封筒を胸の前で一度だけ抱え、深呼吸。

この紙切れが、数日後の部屋のポストで、今の自分の手に戻る。

戻ってきたとき、その手は今日と同じではない。

同じではない誰かに会いに行くのだと考えると、胸の奥に小さな灯が増えた。


帰り道、パン屋の前の黒板に「本日のスープ 新玉ねぎ」とチョークの字。

扉を開けると、バターと小麦の匂いが朝の空気と混ざり、やわらかい層を作る。

「スープをひとつと、丸パンを」

注文の声が、自分の喉の内側で軽く跳ね返る。

席に着いてスプーンを入れると、表面の薄い膜が音なく割れて、湯気が目の前の空気に新しい温度を足した。

口に運ぶ。

「うまい」

心の中だけで言うつもりが、かすかに声になった。

カウンターの奥で、店主が気づいたように微笑んだ。

誰かの小さな笑いは、遠くの鐘の音みたいに遅れて胸に届く。


ポストに封筒を落とす。

金属に紙が触れる、短い音。

音はすぐに消えたが、消えた直後の静けさの方が長く残った。

ポストの赤は、鳥居の赤より乾いていて、今日の空の青の隣でよく目立った。

「行ってらっしゃい」

声に出して言ってみる。

行くのは封筒で、帰ってくるのは数日後の自分。

その往復を想像すると、足取りが少しだけ弾んだ。


午後の部屋は、洗いたてのカーテン越しに、淡い金色の粉を含んでいた。

壁には、朝の写真とトレーシングペーパーの言葉。

結衣はピンの位置を少しだけ変える。

水平線を一センチ下げ、帽子の楕円を左へ。

配置を変えるたび、光の当たり方が変わり、言葉の影が細く伸びる。

同じ材料で、別の午後を作れる。

それが、生活の手触りの面白さだ。


ノートを開き、上に書く。

――空:南の風。雲、緩む。

下に書く。

――地面:ポストの金属。封筒の紙。

右の欄に、小さく。

――返事:行ってらっしゃい/おかえりなさい(まだ途中)

「まだ途中」という言葉を括弧に入れた。

返事は、いつも完全な形で来るわけではない。

途中のままの返事が、体を前に進めることもある。


夕方、壁に貼った写真の下へ、小さな棚をひとつ置いた。

そこに湯呑みを一客、ノートを一冊、鉛筆を一本。

小さな「机」を壁の前に増やすと、部屋の中に新しい座り方が生まれた。

座る場所が増えると、ものの見え方が増える。

見え方が増えると、息の仕方が増える。

息が増えると、夜が怖くない。


インターホンが短く鳴った。

ドアを開けると、丘で帽子を追いかけていた親子が立っていた。

母親は紙袋を差し出す。

「この前はありがとうございました。息子の好きなクッキーなんですけど、もし良かったら」

男の子が、少し照れたように言う。

「ぼうし、ありがとう」

結衣は受け取り、頭を下げる。

「こちらこそ、またどこかで」

袋は軽く、焼き菓子の甘い匂いがほんのり透き通ってきた。

ドアを閉めると、部屋の空気の密度がほんの少し上がった。

誰かの気配は、甘い匂いのかたちで留まることがある。


夜。

ランプを灯し、ノートの上に封筒用の便箋を広げる。

宛先は、朝と同じ「今日の私へ」。

でも今度は、明日の自分に読むために書く。

――今日、あなたは封筒を投函した。南風で、空は少し緩んでいた。

――帰ってから、写真の配置を少し変えた。

――クッキーを受け取ったとき、嬉しくて、泣かなかった。

――泣かなかったのは、強さじゃない。甘さが胸の手前で止まって、涙に変わる前に温度になったから。

――明日のあなたは、朝の光でこの手紙を読む。読んだら、ベランダの鉢に水をやって、それから外へ出て。


行き先は書かない。

余白を残す。

余白があると、明日の自分が現在地を選べる。

選ぶ権利を、今夜の自分が明日の自分に渡す。

便箋を折りたたみ、封筒に入れ、封をする。

封の縁を指で撫でると、紙同士が馴染む小さな音がした。


ランプの明かりを少し落とし、窓を細く開ける。

遠くで電車が通り、街の灯りが低い位置で星のように瞬く。

カーテンの裾が静かに揺れ、部屋の空気が出入りする。

結衣は胸に手を置いて、声に出さずに言う。

——おかえり。

言葉は、今日の自分に向ける挨拶だ。

体の内側で、鼓動が一拍、二拍と返す。

それが返事。


壁の写真は、夜の薄い青に沈みながら、輪郭だけを残す。

輪郭は、今日の記録であり、明日の地図でもある。

彼と過ごした日々は、その地図の中に薄く敷かれた地層のようにあり、足場を作る。

地層は動かない。けれど、その上で息をする者は動く。

動くたびに、空は染まり、部屋は染まり、言葉は更新される。


ランプを消す前に、明日の自分へ小さな追伸を書く。

――朝、空が曇っていても大丈夫。曇りの白にも、温度がある。

――パンが「惜しい」日があっても、笑える。

――伸ばす手は、空にも、目の前の帽子にも。どちらも同じ「届き方」だから。


ペン先を拭き、キャップを閉める。

明かりを落とすと、部屋の中の物音が一段と細くなり、秒針の音が柔らかく広がった。

暗闇の中で、封筒の白がわずかに浮かぶ。

それは、小さな灯台みたいだった。

灯台は、自分のために立てればいい。

そこへ戻ってくるのも、自分だ。


「おやすみ」

結衣は、今日の自分に向けて言う。

返事は、胸の下の温かさとして確かにあった。

窓の向こう、空はゆっくりと深くなり、目には見えない色で部屋を染め続ける。

その染まり方は、静かで、優しく、途切れない。


そして、明日の朝へ。

手紙は、もう届いている。

宛名は、今日の私。

差出人も、今日の私。

その往復のなかで、結衣は、今を生きていく。



完。

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『空に染る』 稲佐オサム @INASAOSAMU

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