第五章 空に染まる
外に出た瞬間、光の粒が目の表面で跳ねた。
朝の青さはもう少し濃く、道路の白線が新しい紙のように見える。
結衣は駅前のバス停まで歩きながら、掌の中の紙袋の温度を確かめた。パン屋で買った丸パンの湯気はもう消えたが、袋の内側にはバターの香りが薄く残っている。
バスが近づくと、背後のガラス壁に赤い車体が歪んで映り、タイヤがゆっくり縁石を削る音がした。
車内は半分ほどの乗客。
窓側の席に座ると、ガラス越しに街が一定の速さで後ろへ流れていく。
信号で止まるたび、窓の下のゴムの枠がわずかに軋んで、規則的な合図のように響いた。
結衣は鞄からノートを取り出す。ページの上段——「空」。
今朝の丘の橙を、色鉛筆で探る。
手持ちの色では出ない橙だった。朱と黄の間に、薄い白が混ざったような、名前のない色。
色を混ぜても混ぜても、紙の上では別の橙になる。
「いい」か「惜しい」かの二択が頭をよぎり、今朝のパンの味と一緒に小さく笑う。
惜しい色にも、居場所はある。
惜しいままの色を、いくつも並べておくと、今朝の橙に少しずつ近づく気がした。
終点近くで降り、文具店へ入る。
棚の奥に、写真用紙とトレーシングペーパーが並んでいる。
光を通す紙の手触りは、指の腹に薄い冷たさを残した。
「滲みにくいインクはどれですか」
店員の女性が、細いペン先のコーナーを指す。
「このあたりだと、乾きも早いです」
結衣は黒と、柔らかい灰色を一本ずつ選び、会計を済ませた。
袋を受け取るとき、店員が「今日は空がきれいですね」と言った。
「はい」
その一言で、今朝の橙が胸の奥で少しだけ温度を上げる。
隣の写真店で、スマートフォンの写真をいくつかプリントする。
丘の端、手すりの影、帽子を掬った掌、霜の「サク」。
機械の中で紙が走る音が連続して、やがて小さなトレイに光沢紙が滑り出す。
指先で端を持ち上げると、紙はまだほんの少し温かい。
光と熱が、紙に定着したばかりの状態。
「定着」という言葉が、体のどこかを落ち着かせる。
昼時、通りの小さな喫茶店へ。
木の扉を開けると、コーヒーとバターの匂いが混ざって、柔らかい影の層みたいに漂っている。
窓際の席に座り、プリントをテーブルに並べる。
写真の上にトレーシングペーパーを重ね、右の欄で続けている「返事」の形式を真似るように、紙の上に薄い字で書く。
——空:水平の橙。
——地面:掌の跡。
——返事:伸びた肩の熱。
透けて見える写真の上に、薄い線で言葉が乗る。
光と文字が、互いの重さを邪魔しない。
紙をめくるたび、空が「空のまま」存在し、文字が「文字のまま」そこに居る。
混ざりきらないものを、そのまま重ねて置いておくことで、はじめて現れる調和があるのだと知る。
運ばれてきたランチプレートの湯気が、写真の縁を温めた。
スープの表面に小さな油の輪がいくつも浮かび、静かに寄り合って一枚の薄い膜になる。
スプーンを入れると、膜は音もなく割れて、金属の縁が器の側面に触れる。
食べる。
口の中に広がる塩気と野菜の甘味が、朝の丘の空気の残りをちょうどよく置き換える。
ここにいること、という現実の密度が、体に戻ってくる。
「うまい」か「惜しい」か——前者だ。
誰に向けるでもない感想を、小さく心の中で言葉にする。
食後、隣の席の年配の男性が新聞を畳む音が聞こえた。
「今日は洗濯物がよく乾くな」
独り言のように言い、コーヒーを飲み干す。
結衣はその言葉を、ノートの片隅にメモした。
——洗濯物、よく乾く日。
帰ったら、カーテンを洗おう。
太陽で乾かした布は、夕方に独特の匂いを持つ。
その匂いが、今日の色のひとつになる気がした。
午後、部屋に戻る。
カーテンを外すと、窓枠の蝶番が細く鳴った。
浴室で布を水に沈めると、水面がふわりと膨らみ、指の間をやわらかい重さがすり抜けていく。
洗剤を溶かし、布を押し洗いする。
布の繊維が指先にほどける感触は、ひとつひとつの記憶の繊維に似ている。
強くこすれば傷む。
ゆっくり押せば、汚れは自分から離れていく。
湯に替え、すすぐ。
水が透明になる頃には、午後の光が浴室の窓から薄く入り、しずくひとつひとつの縁に小さな光の輪ができる。
ベランダにロープを渡し、カーテンを広げて留める。
布は風を孕み、ゆっくりと膨らんだりしぼんだりして、部屋の中に淡い影を落とす。
影の色が、時間とともに変わる。
昼の白から、午後の金へ。
布は空の色を借りて、部屋を染める。
それを見ていると、「空に染まる」という言葉が、反対向きの矢印で「部屋が空に染められる」ことも意味していると気づく。
外と内を隔てているはずの布が、むしろ二つを繋いでいる。
写真とトレーシングペーパーを、壁に仮留めする。
水平、斜め、垂直。
手すりの影は左下から右上へ走り、帽子を掬った掌は中央に小さな楕円を作る。
その上から、透明なテープで細い糸を引くように、今日の言葉を配置していく。
——点(光)
——線(手すり・風)
——面(布)
ノートの枠組みが、壁の上で立体になっていく。
「空」と「地面」の間の線に、今日の自分の立ち位置が描かれていく。
立ち位置は、いつでも少し曖昧で、いつでも少しはっきりしている。
その「少し」の幅が、人が生きられる余白なのだと感じる。
夕方、窓の外の音が変わる。
子どもたちの声がいったん高くなり、やがて引いていく。
遠くの工事現場の金属音が止み、代わりに台所から皿の触れ合う音が漏れ始める。
太陽が傾く角度で、ベランダのロープに止まった小さな影が、鳥かどうかを判別できるようになる。
カーテンはすっかり乾いた。
布を外すと、指に冷たさではなく、陽に焼けた微かなぬくもりが移った。
カーテンを元のレールに通し、ひだを整える。
生乾きの匂いではなく、太陽の粉のような匂いが部屋に広がった。
そのまま窓辺に座り、壁に貼った写真を見る。
朝の橙は、今の光の下でまた別の色になっている。
同じ写真なのに、部屋の色と混ざって、違う言葉を喋る。
結衣はトレーシングペーパーに、もう一枚言葉を重ねた。
——同じものは、同じではない。
その下に、小さく付け足す。
——それで、いい。
スマートフォンが震えた。
友人からの短いメッセージ。「元気?」
結衣は、窓の外の夕焼けを一枚撮ってから、「今日は洗濯日和だったよ」と返した。
それだけ。
しばらくして、「よかったね」という返信。
やり取りは、ここで止まる。
止まったところで、温度が残る。
受け渡しの完璧さより、残る温度の方が長く効く。
日が沈む直前、部屋の壁が一瞬だけ深い桃色に染まった。
写真の上の文字も、手すりの影も、帽子の楕円も、その色を借りる。
結衣は立ち上がって、カーテンを半分閉め、半分だけ開けた。
内と外、どちらの色も入るように。
テーブルへ行き、プリンの残りを取り出す。
スプーンを入れると、朝より少し固くなっている。
味は、今日の光をひとすくい分だけ吸って、わずかに違う。
それを「惜しい」とは呼ばない。
「変わった」と呼ぶ。
変わったものを、変わったまま美味しいと感じることが、今日の進捗だと気づく。
夜、ランプを灯す。
机の上にノートを開き、ページの上半分に大きく書く。
——空:染まりやすいもの
下半分に、ゆっくり書く。
——地面:染まりにくいもの
その間に、一本の細い線。
——今日の返事:染まることで、残る
線の横に、小さく丸を付ける。
丸は、朝掬い上げた帽子の楕円に似ている。
結衣はそれを指でなぞり、指先に残った鉛筆の粉を払う。
ペンを置き、壁の写真に目をやる。
写真の上の言葉は、ここに居続けるだろう。
でも、明日の光の下では、また別の意味を喋り始めるだろう。
意味が動くことを、怖いと思っていた時期がある。
今は、動くからこそ、意味は生き物だと思える。
生き物と一緒に暮らしているのだ。
空も、記憶も、自分も。
窓を少し開ける。
夜の気配が薄く入り、遠くの電車の音が細く伸びる。
結衣は掌を胸に当て、声にせず言う。
——ありがとう。
誰に向けたのかは、今は決めない。
決めないことが、今日のやさしさだ。
ランプの明かりを少し落とし、椅子の背にもたれる。
壁の写真が、暗がりの中で輪郭だけを残す。
その輪郭は、今日という日が確かにあった証明書のように見えた。
証明は、誰に見せるでもない。
自分に見せればそれでいい。
胸の下で、鼓動が穏やかに続いている。
そのリズムに合わせて、部屋の空気がほんの少しだけ上下する。
「おやすみ」
結衣は小さく言った。
返事は、壁からも、空からも、来ない。
けれど、壁も空も、今日の色を確かに残している。
それが返事だと呼べることを、体が知り始めている。
窓の外の空は、ゆっくりと夜の青に染まりきっていく。
部屋の中の空気も、それに合わせて深くなり、静かさが柔らかい毛布のように降りてくる。
結衣はノートを閉じ、ランプを消した。
暗闇の中で、空は——今日も彼女を抱きしめるように、静かに染まっていった。
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