第四章 伸ばす手


まだ目覚ましが鳴る前の暗さだった。

結衣は枕元の古い銀の時計を手探りで確認し、秒針が規則正しく刻む音の下で、そっと体を起こす。

喉の奥に少し乾きを覚え、コップの水を一口。冷たさが、胃の入り口で小さく灯る。

ランプは点けない。窓辺のカーテンを指先で少しだけ開けると、外気が細い糸のように室内に触れ、頬に冬の匂いを置いていった。


机の上、昨夜のノート。

ページの上半分には「空」、下半分には「地面」と鉛筆で薄く書いてある。

右欄の小さな項目に、昨夜の自分が残した三つの言葉――「早起き」「丘」「深呼吸」。

結衣は頷く代わりに、毛糸のマフラーを首に巻き、ポットに湯を落として小さなボトルに注ぐ。

ふたを閉めると、掌にじんわり熱が移り、その温度が決心の形をしているように思えた。


玄関でローファーに足を入れ、鍵を回す。

廊下は夜の余韻を残し、エレベーターの鏡はまだ眠たそうに光を返す。

外へ一歩。

空気が、肺の内側まで澄んだ刃のように入ってくる。

息を吐くと、白がほどけて消える。消える早さで、今朝の冷たさを測る。


街は、誰かの一日が始まる手前の音でうっすら満たされていた。

パン屋の奥から金属の天板が触れ合う乾いた音。

新聞配達のバイクが角を曲がるたびに置いていく、インクと紙の匂い。

自販機の低い唸りが、無人の歩道に水平に伸びていく。

信号は、まだ車の少ない交差点で律儀に色を換え、結衣は青の点滅に足を少し速める。

靴底がアスファルトを叩く音が、体の内側のリズムに添ってくる。

歩幅は昨夜決めておいたほどには大きくならなかったが、戻りもしなかった。


丘の入り口は、小さな神社の脇にある。

鳥居の赤は朝の暗さの中で鈍く、石段に霜が薄く張って、踏むたびに「サク」と乾いた音を立てた。

階段を上りきる頃には、体の中心にゆっくりとした熱が灯っている。

手すりの木は冷たく、指の腹の皮膚が僅かにきしむ。

境内を抜け、さらに細い山道へ。

土の匂い。落ち葉の層に雨が抜けた後の、少し甘い湿り。

鳥の声が一本、背後から伸び、別の一本が斜めから重なって、音の枝ぶりをつくる。


視界が開けると、丘の上の広場。

柵に囲まれた見晴らしの端に、古い木のベンチが二つ。

ベンチの板は冬の朝特有の硬さを湛えていて、座ると太腿の筋がきゅっと縮む。

結衣は立ったまま、最初の深呼吸をする。

吸う四拍、止める四拍、吐く四拍。

冷たい空気が胸の一番奥に触れ、そこから背筋に沿って透明な糸が下りていく。

吐くとき、肩甲骨の間が少しだけ開くのを感じた。


東の端が、ゆっくり明るくなる。

初めは鉛筆で引いたような淡い線。

線は次第に幅を持ち、橙と薄桃が混ざり合いながら、雲の裏側に火を入れていく。

空の色は、誰にも止められない速さで変わっていく。

変化の速度は、いつも思っているより少し速く、少し遅い。

その “少し” の幅のなかに、今朝の自分の居場所がある。


結衣は、試すように右手を上に伸ばした。

指先を揃え、肩から肘、手首、一本の線として空へ。

届かない、と知っている。

知っているのに、伸ばす。

肩の関節が沈み、二の腕の内側に血が集まってくる。

背骨が一本ずつ起き上がり、腹の奥が薄く引き締まる。

「届かない」という言葉が、少しだけ別の重さを帯びる。

届かないから、体が動く。

動いた体が、内側に小さな道をつくる。

道は、外の景色より先に自分の中を変える。


左手も上げる。

指を組み、空に向けてゆっくりと背伸びをする。

足の裏の四隅で地面を押し、踵に体重を少し預け、膝の裏を伸ばす。

耳の横を腕が通るとき、世界の音がほんのわずか籠る。

自分の鼓動が一拍、強くなる。

伸ばし切って、三拍止め、吐きながら腕を下ろす。

腕が下りてくる軌道の途中に、朝の光が触れ、皮膚の上で温度と明るさが交差した。


「おはようございます」

背後で、小さな声。

振り返ると、犬と一緒の年配の男性がストレッチをしている。

犬は短い毛並みで、吐く息を白く弾ませ、前足を揃えてこちらをじっと見る。

結衣は会釈した。

男性は脚を伸ばした姿勢のまま、空を見上げて言う。

「背伸びは、体にも気持ちにも効くんですよ」

「そうですね」

それ以外に言葉は続かず、互いに空を見て、各自の朝に戻る。

会話らしい会話はなかったが、「この時間にここにいる」という事実が、十分な交わりを用意してくれた。


風が少し出た。

柵の向こう、斜面を下りていく遊歩道に、赤いものが転がっていくのが見えた。

毛糸の帽子だ。

小走りで追いかける小さな影――幼い男の子が、半分泣きそうな顔で手を伸ばしている。

結衣の足は、思考より先に動いた。

斜面の端まで駆け寄り、風の向きを読んで、転がる軌道に手を差し出す。

帽子は草の上で一瞬ふわりと跳ね、結衣の掌に収まった。

掌に残る毛糸の温度。

その重さは、思っていたより軽く、触れた瞬間、急に「現実」がはっきりする。


「ありがとう」

追いついた男の子が、息を切らしながら言う。

その後ろから、若い母親が小走りでやってきて頭を下げた。

「助かりました」

「いえ」

結衣は帽子の内側の折れた縁を指で直し、わずかに湿った毛糸の感触を確かめてから、男の子の手に戻す。

男の子は帽子を抱えるように被り、母親の指に手をすべり込ませる。

親子は礼をもう一度重ね、足早に遊歩道へ戻っていった。

去っていく背中の小さな揺れが、朝の光を跳ね返し、斜面に小さな色の粒をいくつも残した。


掌を見る。

毛糸の編み目の跡が、薄く皮膚に刻まれている。

そこにさっきの温度が残っている。

「伸ばす手」は、空だけに向けるものじゃない。

届くものに向けて伸ばすとき、体は勝手に動くのだと、今朝の自分が教えてくれた。

結衣は、ゆっくりと肩を回す。

関節の内側で、小さな音のようなものが鳴り、血が円を描いて巡り直す。


ベンチに戻り、ボトルの蓋を開ける。

湯気が白く立ち上り、鼻腔に薄い茶葉の香りが広がった。

一口。

熱は、喉から胸へ、胸から腹へ移り、体の内側の寒さの隅を追い出していく。

ノートを膝に開き、鉛筆を持つ。

上の欄――空。

「水平の細い橙。雲の縁に金の糸。風、北から。空、広いのに静か」

下の欄――地面。

「霜の音“サク”。斜面の草、湿り。毛糸の帽子、掌の跡」

書きながら、鉛筆の芯が紙の粒に当たって微かな音を立てる。

音は、さっきの足音や、帽子の軽さや、犬の吐息と混ざって、ページの上でひとつの朝になる。


ページの真ん中に、短い線を一本引く。

「空と地面を結ぶ線」――そう心の中で呼んでから、線の横に小さく書く。

――今朝の返事:伸ばした手の重さ。

「返事」はいつも、どこかから来るものだと思っていた。

けれど今朝は、自分の側から先に動いて、そこに “返ってきた形” を見ている。

返事の出どころは、外と内の境界で、毎回少しずつ違う場所に現れるらしい。


視界の端で、陽が地平から顔を出した。

柵の金属の角、ベンチのネジ、砂利の一粒一粒が、光の点をつけられたように瞬く。

街の向こう、煙突から上がる白い煙が、まっすぐ立ち上がり、途中から東へ折れる。

寒さはまだ引かないが、皮膚の表面に細いレースのような温度が張り付き、風に合わせて微かに揺れた。

結衣は、もう一度だけ、空に向かって手を伸ばす。

今度は、届かないことを確かめるためではなく、体の内側の道筋をなぞるために。

手の甲に陽が触れ、薄い血管が透ける。

その青さが、空の淡い青に溶けていく気がした。


丘を下りる頃、神社の境内は通学の子どもたちで少しだけ賑やかになっていた。

ランドセルの金具が小さく鳴り、石段の霜は朝日で薄く水に変わる。

鳥居をくぐるとき、結衣は小さく頭を下げる。

誰に、というのではない。

今朝、自分が受け取った「返事」への礼の角度だ。

角を曲がると、パン屋の前に焼きたての匂いが漂い、店先に丸いパンが並び始めている。

結衣は一つ買い、紙袋の口から立つ湯気に顔を近づけた。

柔らかな熱が鼻の下を撫でる。

歩きながらちぎって口に入れると、バターの塩気と小麦の甘みがほどけた。

「うまい」か「惜しい」か――あの二択が頭をよぎり、ふっと笑ってしまう。

今朝は、前者だ。


帰宅してコートを脱ぐ。

靴を脱いだ足の裏が床板に触れ、室内の温度にゆっくり馴染む。

台所に立ち、やかんの水を入れ替え、火にかける。

内側の熱と、外側の熱が、同じ台所で交差する。

湯が立つのを待つ間に、ノートを机に開く。

右欄に「丘」「帽子」「ありがとう」とだけ書き、付箋を一枚。

「伸ばした手」

付箋の角を丁寧に押さえ、表紙を閉じる。

紙の繊維が指に触れる触感が、さっきの毛糸の感触と静かに重なる。


やかんが鳴く。

火を止め、カップに湯を注ぎながら、結衣は窓辺へ歩く。

朝の光が、部屋の輪郭を薄く縁取っている。

鉢植えの葉の先に残った水滴が、今朝の太陽を受けて小さく光った。

それは、丘の上で見た「点たち」の親戚みたいに見える。

見え方は、移動するたびに更新される。

同じ光でも、立つ場所が違えば、別の返事になる。


湯気の向こう、窓に映る自分の顔は、昨夜より少しだけ血の気を持っていた。

頬の薄い赤み。唇の乾きの減り。

それらは大した変化ではない。

けれど、こうした小さな変化のほうが、長く効く。

結衣は掌を胸に置いて、そっと押す。

鼓動が、手のひらに一拍、二拍と返ってくる。

今朝、空には届かなかった手が、確かにここには届いている。


「行ってきます」

今度は、玄関の方を向いて言った。

声は昨日より少しだけ明るい帯域を持ち、廊下の壁に当たって柔らかく返ってくる。

返って来た音は、空に投げた言葉とは違う重さで、足元にまとわりつく。

それをまとったまま、結衣はコートを羽織り、鍵を確かめる。

外の光に目を細め、ひと呼吸。

体は、もう“始める体勢”を越えて、始めに入っていた。


ドアを閉める直前、もう一度だけ窓の方へ視線をやる。

空は、さっきより少し青に寄り、雲の縁はまだ薄く火を含んでいる。

伸ばした手の感触が、肩の奥に残っている。

届かなかった空は、相変わらず遠い。

けれど、遠さは測れた。

測れたものは、いつか追いつくかもしれないし、追いつかないままでも一緒に歩ける。

そのどちらでも、今日はいい。


結衣は、靴音を一歩目に合わせた。

朝は、もうはっきりと始まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る