第三章 声なき会話
夜、部屋の明かりをほとんど落として、机の上の小さなランプだけを灯す。
電球色の円が、木の天板にあたって淡い輪をつくる。輪の外、部屋はおだやかな影になり、生活の輪郭が一段柔らぐ。
結衣は深呼吸をして、ペンのキャップを外した。インクは群青。瓶の蓋を開けたとき、わずかな金属と甘い樹脂の匂いが立つ。ペン先を軽く拭き、紙の角を指で押さえる。紙は薄くざらつき、指の腹にやわらかな抵抗を返す。
日付を書き入れる。
二行、三行。
最初の言葉はいつも同じように迷う。「あなたへ」か「きみへ」か、それとも名前をそのまま呼ぶか。
呼べば近づく気がする。けれど、近づきすぎると、消えてしまいそうでもある。
今夜は、名前を呼ばずに始めた。
――今日はね、洗濯物がよく乾いた。タオルの端が、陽に当たると少し硬くなる。指でほぐしながら畳んだよ。
――台所で玉ねぎを切ったら、やっぱり涙が出た。玉ねぎのせいにした。半分はそれで合ってる。
ペン先が紙の繊維の谷間を拾うたび、サラサラと小さな音がする。
書きながら、結衣は時々、ランプの光から顔を上げる。
黙っている部屋はレコーダーみたいだ、と最近思うようになった。
言葉を口に出せば、壁やカーテンや本の表紙に、薄い層となって残る。
翌朝、カーテンを開けると、光と一緒にその層が浮き上がって、また耳に戻ってくる。
それは「返事」と呼ぶにはあまりに静かだが、沈黙とは違う密度を持っている。
一度、思い切って声にして読んでみた。
机の前で背を伸ばし、書いたばかりの言葉を、息の速さに合わせてたどる。
自分の声が、自分の耳の内側で少し震えて、どこにもぶつからずに消える。
消えたところで、彼の言い回しが、ふと頭に浮かぶ。
「玉ねぎはね、ゆっくり炒めるほど甘くなるんだよ」
記憶の中の声は、たった今の空気に乗って、少しだけ質量を得る。
それは幻聴ではない。結衣はそう決めた。
過去が、現在の口ぶりを借りて話しかけてくるとき、人はそれを「思い出した」と言うのだ、と。
それから、ノートの書き方を少し変えた。
ページの左側に自分の文、右側に余白。
右には、問いを書く。
――明日の朝、何を作ろう?
――外に出るなら、どこへ行こう?
――寒い夜の眠り方を、もう一度教えて。
問いには答えを書かない。
翌朝、答えのような手つきや選び方を、自分がしていたら、それを右の欄に記す。
「温かいスープ」「最寄りの公園で陽に当たる」「足を湯たんぽに乗せる」
それは、返事の断片だ。
声ではなく、行為で届く返事。
右の欄は、日ごとに薄い鉛筆の字で埋まっていき、消しゴムに弱い暮らしの知恵のノートになっていった。
ある晩、机の引き出しに眠っていた封筒を見つけた。
無地の白。角が少し丸くなっている。
衝動的に、書き終えたページのコピーを取って、手紙のように封筒に入れた。
宛先は書かない。切手も貼らない。
翌朝、ポストの前まで歩き、投函口の銀の縁に指をかけて、そのまま閉じた。
投げない、という選択を、ここに置いておくために。
投げない手紙は、宛先を持たないまま、持ち主のところに居続ける。
居続けるものだけが、見えてくる形がある。
日中、ノートを読み返す場所を変えてみた。
窓辺、ソファ、台所の椅子。
公園のベンチにも座ってみる。
小さな子どもが赤い風船を持って走り、風が気まぐれにページをめくる。
一枚がふわりと舞って、地面に落ちる前に、隣のベンチの年配の女性が拾った。
「ごめんなさい」
結衣が受け取ろうとすると、女性はページの端を指で押さえ、文字を読むふりをして言った。
「風さん、いたずら好きね」
それだけ言って、微笑み、指を離す。
ページは戻り、結衣は頷いた。
誰に見られても困るような秘密は書いていない。
秘密にするほどのことは、もう秘密では守れないのだと分かったから。
夜、再びランプを灯す。
インクの減りが早くなってきた。瓶の底が、光を集めて深い井戸のように見える。
書く前に、手をこする。掌の温度でペンを温めると、ペン先の走りが良くなる。
今夜は、少しだけ昔の口調をまねて書いてみる。
彼の言い回し、彼のリズム。
――あのさ、今日の空は、きれいに澄ましてた。
――それにしても君は、よく歩いたね。
書きながら、笑ってしまう。
上手に似せられない。似せられないところが、自分の現在地だとわかる。
似せようとする手前で、彼の口調が今の自分に混ざって、新しい響きが生まれる。
その響きは、少しだけ明るい。
「声に出してみる?」
自分に向けて問いかける。
頷く代わりに、喉を軽く鳴らす。
今夜のページを上から読み上げる。
声を出すと、行間に隠れていた呼吸の長さが露わになる。
彼がいた頃、口論になりかけた時に、彼はよく「一回水飲も」と言った。
今、読み上げの途中で、結衣は自分からコップの水を飲む。
水が食道を落ちていく冷たさが、言葉の熱をちょうどよく整える。
調律というのは、こういうことだろうか。
弦は目に見えないのに、音色だけが確かに変わっていく。
ノートは一冊目の後半に差し掛かった。
ページの端に付けた小さな付箋が、色とりどりに増える。
「よく眠れた日」「外に出られた日」「泣いた日」
分類するためではなく、後で手元をたどるための目印だ。
ある付箋には「笑えた」と書かれている。
そのページには、たわいない失敗談が短く記されていた。
スーパーで牛乳をひとつ買うつもりが、ぼんやりして二つ買い、帰って冷蔵庫の前で「誰が飲むの?」と口に出してしまった話。
結衣はそこで、自分で笑ってしまったらしい。字が少し踊っていた。
週末、紙の店に行った。
手触りの違うノートが並ぶ棚の前で、指先を走らせる。
方眼、横罫、無地、ドット。
結衣は、ドット方眼のものを選んだ。
自由に書けるのに、まっすぐも引ける。
今の自分にちょうどいい妥協だと思えた。
レジで店員が「インクは滲みにくい紙ですよ」と言った。
それは、涙にも強いのかもしれない、と少しだけ思う。
帰り道、袋からノートを出して、背の部分を親指で軽く押し、開き癖をつける。
ページの真ん中を境に、上を「空」、下を「地面」と呼ぶことにした。
上には、その日見上げた空のことを書く。
下には、その日踏んだ地面のことを書く。
空と地面が同じページに同居すると、言葉が安定する気がした。
ある晩、机の上に小さなラジオを置いた。
音は出さない。代わりに、同じ場所に砂時計を置く。
三分の砂。
砂が落ちきるまでは、言い訳を考えない。
落ちたら、水を飲む。
砂の落ちる音はしない。
けれど、落ちている最中は、自分の思考が余計な方向へ行きにくい。
短い儀式は、心に「ここからここまで」という枠をつくる。
枠があると、悲しみがこぼれにくい。
夜更け、窓の外から猫の足音が聞こえた。
ベランダの手すりに、すばやい影がよぎる。
ランプを少し弱めて、ページに向き直る。
――あなたは今、どこで眠っているの。
書いた瞬間、ペン先がわずかに止まる。
どこにも眠っていない、という答えが、あまりにも真っ直ぐに過ぎていくから。
結衣は、その行の上に、ゆっくりともう一行重ねる。
――私は今、ここで眠るよ。
返事は、いつも自分の側に書けばいい。
そのことを、やっと受け入れられそうになっている。
翌朝、右の欄に「ベランダの鉢に水」とだけ書かれていた。
昨夜の猫のことも、夜の質問も、書かれていない。
行動だけが記録されている。
水やりを終えて部屋に戻ると、葉の先に小さな水滴が残り、光を弾いた。
光は何かの返事みたいに見える。
返事は、しばしばこちらが気づく順番でやって来る。
午後、昔の携帯の留守電を久しぶりに開いた。
保存期限の切れたメッセージはほとんど残っていない。
一件だけ、短い音声が再生された。
「スーパー行くけど、何かいる?」
それだけ。
用件は完結していて、今や答えようがない。
けれど、その問いかけの調子を、結衣はノートに写した。
――行くけど、何かいる?
その下に、自分の返事を書く。
――卵、四つ。今日はプリンを作るよ。
プリンの作り方を、右の欄に簡単に書く。
牛乳、卵、砂糖、バニラエッセンス。
蒸し器に布を敷いて、弱火でゆっくり。
台所に移ると、手元がさっきの字をなぞるみたいに動いた。
蒸し器の蓋に溜まった水滴を布で拭い、音を聞く。
ふつふつ、という小さな音。
固まりすぎないように、火を止める。
冷蔵庫で冷やすあいだに、ノートのページに付箋を一枚貼る。
「食べる喜びの記録」
書いてから、照れくさくなって付箋に小さく丸を付けた。
夜、プリンをひとつ取り出す。
スプーンが入るときの抵抗は、指先に伝わる小さな手応えだ。
カラメルが少し苦く、卵の味がやさしい。
彼は、こういう味にうるさかった。
「うまい」か「惜しい」か、その二択。
今夜はたぶん、前者だ。
口の中で確かめるように味わう。
味は、今ここにある返事だ。
過去に向けて作ったのに、未来の自分が食べる。
そのねじれは、思ったほどつらくない。
ランプの明かりが、瓶のインクを残り一センチにした。
結衣はキャップを閉め、ノートを閉じ、掌で表紙をひと撫でして、胸に当てる。
鼓動が、紙越しに小さく跳ねる。
言葉は、今日もここまで届いた。
届いたところが、今夜の終点であり、明日の始発でもある。
窓の外では、遠くで最終電車の音が細く伸びて、やがて切れた。
切れた直後の静けさが、部屋に入ってくる。
静けさは、空白ではない。
空に染まる前の色だ。
その色に目を慣らしながら、結衣はランプを消した。
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