薄氷の雪槽 ~ウスライノニクスリウム~

性癖のサラダボウル

─《薄氷の雪槽》─

 重く冷えたガラス扉を押し退けて、柔らかいシーリングライトの光に満ちた空間に足を踏み入れる。

 肩に積もった雪を払い除け、コーヒー味の紙の匂いに息をついた。


 再び歩みだす体、足裏からコルクフローリングの軽く沈み込むような感触が伝わってくる。

 連なった本棚の群れからたまたま目についた文庫本の数冊を抜き出し、俺は読書スペースの一角に腰を下ろした。


 

 街外れにあるこの小さな図書館。

 その中で、俺はここ半年の休日のほぼすべてを過ごしている。


 今では家にいるより、この図書館で本を読んでいる時の方が落ち着いた気持ちになるぐらいだ。


 俺はいつも通り、机に積んだ本達の上から一冊を手に取って読み始めた。


 凪のように静かな時間が過ぎる。


 ペラリという乾いた紙の唸りがじんわりと進んでいく時の流れを数えてくれた。


 それは丁度、二冊と『132』。

 目の疲れを感じた俺は本から視線を外し、窓の方へと目をやった。


 壁一面のガラスウォールから白銀の雪景色がこちらを覗きこんでいる。


 しだれた街路樹の枯れ枝、灰色に染まった空、命を感じさせない雪白の絨毯。

 それら全てが背筋を凍らすようなおぞましさと共に、宝石の欠片をまぶしかけられたような輝きを放っていた。


 そんな世界そのものが鈍色のアルミサッシの内側に押し込められている。



 ……これをなんて呼べば良いのだろうか。


 スノードーム。いや 、そんな片手に収まるようなものでは無いだろう。


 見渡すほど大きくて、まさしく世界そのものを閉じ込めたかのように壮大な。


「アクアリウム、いや、これじゃ“水槽”だな、えっとラテン語で雪は……。」


 口元に手のひらを持っていき、俯いたまま思考を深める。あともう少しで記憶の引き出しが開きそうなその時、予兆もなく静かな気配が背後に迫った。 


「──ニクスリウム雪槽。」


 若い女性の声だった。

 

 自然と顔をあげ、その声の方を仰ぎ見る。


「どうです? お気に召しましたか?」

 

 そこにはここ半年ですっかり見慣れた、冷たい仏頂面が控えていた。


 栗毛色の髪を後ろ手で一房に。

 長身でスラッとした印象の彼女は白いシャツに藍色のジーンズ、ベージュ色のエプロンといういかにも司書々々シショシショしい恰好をしている。

 無論、首にぶら下げたネックストラップには、【〇〇町立図書館司書】の文字がある。


「はい。……というか、よく私の考えていることがわかりましたね、薄氷ウスライさん。」

「いえ、思い切り口にでていらっしゃったので。」


 彼女は微笑むこともなく、何事もない様子で今まで俺が読んでいた本を覗き込んだ。


「今日はどんな本を読まれているんですか?」

「ありきたりな青春小説です。毎日を無為に過ごす男子高校生が、バレー部に入部した事をきっかけに自分の人生と向き合っていく……、と言った感じの。」

「面白いですか?」

「まあ……、まだ読み切っていないので何とも言えませんが、今の所はそれなりに。」

「そうですか。」


 会話が途切れ、薄氷さんは前のめりになっていた姿勢を戻した。

 特に何か言い添える訳でもなく彼女は俺に背を向けて歩き去る。



 そして近くの椅子を持ってきた彼女は、自然な振る舞いで俺の向かいに座った。


「…………。」

「こちらの本、もうお読みなら一冊お貸ししていただけませんか?」

「……いいですよ。どちらにしますか? これは日記体のホラーサスペンス、こっちのほうはSF風味の恋愛小説。どちらも面白かったですよ。」

「ではそちらの……、えっと、SF風味の方で。」

「はい、どうぞ。」


 差し出した本にそっと静けさをもって触れる指先。

 彼女の落ち着いた雰囲気に馴染むアークスクエアの瑞々しいクリアネイルにふと目が移ろう。


 ──ネイルか、こういうことをする印象はなかったな。


 頭によぎる。


 紅い、赤いネイルが頬を撫でる感触。


 鋭く、日常生活にはそぐわないアーモンド形の爪先がぐいと頬に食い込んで……。


「どうかなさいましたか?」


 気づけば頬を手でさすっていた俺を、薄氷さんは小首を傾げて不思議がっていた。


「いえ、お気になさらず。」


 そう言って手元の本へと視線を移した。


「……今更ですが、司書の仕事はいいんですか?」

「ええ、鍵をかけましたから。」


 営業時間であるにも関わらず飄々と彼女はのたまう。

 

「冗談ですね。」

「はい、冗談です。 元よりこの図書館にあまり人は来ませんから。万が一に備えて呼び鈴もおいています。」


 ふふんっと、いつもの無表情ながら僅かに胸を張る気配。


 こういう小さな機微や、濃淡の無い声音から発せられる冗談に気づけるようになったのはここ半年の積み重ねだろう。


 

 彼女と初めて会ったのは、それはもう暑い八月の日のことだった。


 うだる様な日差しと立ち込める熱気。


 その頃は俺がだいぶ追い詰められていたということもあって、おぼつかない足取りのまま逃げ込むように図書館へと足を踏み入れた。


 壁一面のグラスウォールを薄灰色の垂れ衣が遮り、どこか薄暗い印象を受ける図書館内はヒヤリと穏やかな静謐に包まれていて。


 シーリングライトが織りなす優麗な幾何学模様。


 それが浮かんだ薄灰のスクリーンを一望に望める”この場所”に座って、ただただ安心していた。


 本を取る訳でもなく、何かを考える訳でもなく。


 垂れ衣の隙間から差し込む眩い光に目を眇め、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。



「…………さい。」


「……てください。もう閉館時間です。」


 凛と鳴る冷厳な声音に目を覚ます。


 天を仰ぐように眠っていた俺を迎えたのは、その頃には見慣れぬ女のあまりに冷たい視線だった。


「……ぁあ、ご迷惑おかけしました。……今、出ます。」

「…………。」


 今度は寝ぼけていたせいか、また足取りはおぼつかなかった。


 のろのろと歩く俺の少し後ろをついて追うとげとげしい気配。早く出てけと急かされているのだと感じられて、まぁ実際にそうだったのだろう。

 

「──お客様。」


 木目調の開き戸に手をかけ、あとはそれをくぐるのみ。夕焼けに照らされた一本道に足を踏み入れようとしたその寸前にて、彼女は俺を呼び止めた。


「今後は、当施設のあのような利用はご控えください。」


 冷たい視線だった。


「ここは図書館です。居眠りをする場でも、避暑の場でもありません。本を読むための場所です。」

 

 薄く鋭く。


 握れば容易く砕け、されど一条の傷を残す鋭利な氷刃ヒョウジンのようなソレだった。


「ご理解とご協力のほど、どうかよろしくお願いします。」


 そう言って深々と頭を下げた彼女に、何を言えばよいのか分からなく、ただ呆気に取られていた気がする。


 それから覚えていることは多くない。


 ぼんやりとした中、彼女の方を見ていった言葉であったのかも分からないが、


「また来ます。 ……その、今度は本を読みに。」


 それだけを言い残して、その日は図書館を去った。


 帰り際にふと振り返ったとき、まるで見送るように扉の奥に立っていた彼女。


 肩口より少し上の場所で切りそろえられた栗毛色の髪の女、その名前が薄氷ウスライであるというのを知るのは、それからさして日の経たぬうちのことだった。

 


「……。」


 手元の本から視線を反らし、正面に座る彼女の様子を伺った。


 ほんのりと化粧ののった唇、耳には普段の印象を崩さない上品なシャンパンゴールドに縁どられた耳飾り。


 あの頃に比べて伸びた彼女の髪も、普段は気にしてみることはないがやはりきちんと撫でつけられているようで。

 緩やかなカーブを纏った後ろ髪が呼吸に合わせて微かに揺れている。


 髪、半年前に比べてかなり伸びましたね? なんて聞こうとして、これが今何かと話題のセクハラというヤツなのではないかと思い至る。


 そうでなくても、読書中にこんな些細なことで声をかけでもすればあの頃の──氷の刃のような彼女に戻ってしまうかもしれない。


 こんなことで数少ない、いや、唯一の読友を失ってたまるか。




 ……友達、だよな?


 図書館にいれば絶対に話すし、今の様に一緒に本を読むことも多い、その後も必ずと言っていいほど感想を語りあったりする。


 図書館以外で会う事はないけど大人だし、学生の頃とは違うからな。


 でも連絡先すら持ってないのはさすがに……。


「…………。」

「……? どうかなさいましたか?」

「い、いえ、不躾にすみません。初めてお会いした頃に比べて印象がかなり変わったなと思ったもので。ほら、髪も長くなりましたし。」

「そうですか。」


 薄氷さんはスッと目を細め、しなやかに伸びる繊手の先で栗毛の一束を掬い遊ぶ。


「そうですね、伸ばしていますから。」

 

 あの頃と同じ、暖色系のシーリングライトが毛先でキラキラと光を舞わせる。それを見つめる薄氷さんの目も仄かな温かみを帯びているように見えた。


「どなたか素敵なお相手でも?」

「……え。」


 珍しく呆気にとられた様子で声を漏らす彼女に、俺は落ち着いて付け加える。


「私の妻も元は髪が短かったのですが、結婚の話をぽつぽつと話し出すようになってから髪を伸ばし始めたんです。聞けば結婚式のときにしたい髪型があるのだと。」


 思えば懐かしい。こうやって笑って語れるのも積み重ねなのだろうな。

 

「……ご結婚されていたのですか?」


 普段通りの静けさを伴った視線が俺の左手をなぞる。こそばゆさに任せて左手の薬指、


 ──何の装飾品もない指の背を掻いた。


「ええ、ただの一年だけですが。」

「…………。」


 薄氷さんは相槌も無く、ただ静かに耳を傾けている。『沈黙は金』、なるほど彼女らしい言葉だな。


 

「よくある離婚です。夫に愛想をつかした妻の浮気。


 あの頃は自分に悪い所があったのだと財産分与は彼女の要望にできる限り応じましたが……、流石に私の婚約指輪を無断で持ち去られた時にはイラっときましたね。」


 

 ──思い返してみれば、俺の妻であった女はもともと問題の多い人間だった。

 しかし、付き合っていただけの頃はそれも可愛く見えていたのだ。


 束縛も幼い情緒も。

 

 日増しに悪化するソレにだんだんと心を擦り減らすようになり、気づけばくたびれた玩具のようにして捨てられていた。


 他人がいなければ生きていけない癖に、誰よりも人を傷つけて蔑ろにする女だった。


「……子供がいなかったことだけが幸いでした。おかげで今は身軽で、生き心地が良い。」


 心底そう思う。 


 冷たいベッドの感触、五月蠅く鳴かないスマホ、ガラリと空いたウッドテーブルの空白の何もかもが心地よい。


 ──『雪槽ニクスリウム』。

 

 丁度今、ふと横に視線を反らせば飛び込んでくる一面の銀世界と同じく。


 まるで冬の季節の一幕をそのまま切り取ったかのような、酷薄なまでの静謐さが心地よくして仕方がない。


 安心する。


 命の気配がしない世界は、誰かを傷つける人のいない世界だ。そこにいればきっともう傷つけられることはない。


 なら、俺はずっとそこにいたい。


 たとえそこが誰の命も許さない冷酷な世界であったとしても。


「……すみません。これからっていう方にするお話ではありませんでしたね。忘れてください。」

「いえ、別に交際している相手もいませんのでお気になさらず。」


 彼女は机においた本にしなやかな繊手を重ね置き、幽玄な仕草を伴って続ける。

 

「私が髪をのばしている理由、気になりますか?」

「え? まあ、それなりには……。」

「いざという時のためです。髪が長ければ短くできますが、咄嗟に長くすることはできませんから。」

「なるほど。」


 ”いざという時”というのを濁された感じがするが、まあお察しか。


 交際している相手が”今は”いない。いずれ意中の相手から好みを聞き出す心づもりだろう。なんともいじらしい話だ。


 俺は少しばかり顔が緩んでしまうのを堪えきれずに、ふっと笑みをこぼした。


 それに気づいた薄氷さんは少しだけ戸惑ったような表情を見せると、やがて意を決したように俺の目を見て口を開いた。

  

「…………つかぬことをお聞きしますが、」

「?、はい。」

「その、お好みの女性の髪形などあれば、お伺いしてもよろしいでしょうか?」


それは……、


「……つかぬことですか?」

「はい、つかぬことです。」


 凛と言い切った彼女にそれ以上何かを言うこともできないので、素直につかぬこととして。


──これはあれか、恋愛的なアドバイスを男性視点から聞いてみたいという話か。


 しかし参ったな。俺は髪型に詳しいわけではないし、そもそも髪の好みなんて千差万別、ケースバイケース。一概に語れる話ではないだろう。


 下手に短い髪を勧めてバッサリと切られてしまえば取り返しがつかない。かと言ってだから長い髪をすすめるというのも不誠実だ……。

 いや、別に髪の長さにこだわった話でもなかったか。


 ここは一つ、建設的ではないが素直な感想でも言っておこう。

 

「まあ、そうですね……。 特段、髪に対してこだわりがあるわけではありませんが……、薄氷さんの今の髪形はよく似合ってて良いと思いますよ。」

「そうですか。」


 ポツリと、いつもの平坦な口調で彼女は相槌を打つ。

 

「……そうですか。」

 

 二言目、噛み締めるように呟く彼女の耳がほんの少し紅く染まっているように見えた。



 またしばらくの時間が経って、お互いが読書に集中していたころ。ふと我に返った薄氷さんは腕時計を覗き、そっと手元の本をテーブルに置いた。


「もう閉館時間ですので、わたしは片づけに戻ります。もしお手持ちの本を借覧する場合は今のうちにお願いします。」

「わかりました。では一冊お借りさせてください。」


 読み終わった文庫本を道中で棚に戻し、カウンター越しに移った彼女へ一冊の本と貸出し券を手渡す。


 テキパキとそれぞれのコードを読み取り、傍らのコンピュータに目を通す。ビビーッと音を出して吐き出された返却期限入りのシールを本の背に張り付けた。


 俺は差し出された本を受け取り、羽織ったコートのうちに入れる。


「今日はありがとうございました。お話しできて楽しかったです。」

「はい、こちらこそ。またのご利用をお待ちしております。」 


 小さく礼をした彼女に自分も同じように礼を返し、背を向けて出口へと歩いた。


 木目調の開き戸に手をかけ、あとはそれをくぐるのみ。


 茫漠の夜の闇の中、街灯の光に浮かび上がる一本道に足を踏み入れる。


「──あのっ。」


 その寸前にて、凛と鳴る声が俺を呼び止めた。


「突然呼びとめてすみません。そっその……、もし、差し支えなければでよろしいのですが……、」


 振り返り見れば遠くのカウンターを挟んだ人影が揺らぐ。


 それはまるで分厚かった氷が解け、滴る水がその先を揺らして見せるように。


 どこか頼りなく縮こまった背筋、両手で持った『SF風味の恋愛小説』に口元を隠して伏し目がちに、揺れる声音は続く。


「連絡先を交換しませんか……?」


 冷艶なまでの真白の一面を淡い朱が染めたままに、彼女は絞り出すようにそれを綴った。

 

 


──帰り道。ぼんやりと照らされた街路を歩きながら、俺は先刻の事を思い返す。


 まるで生娘のように顔を真っ赤にしていた彼女の事を。


「……ああいう印象は今まで無かったな。」


 スラリと高い立ち姿、何事にも動じぬ面立ち、ピンっと張り詰められた隙の無い所作。


 氷刃のようであった彼女の名前を──ソレを初めて聞いた時の俺は、正しくその印象に相応しいと思った。


 そして半年が経ち、その名前の本当の意味と新たな彼女の一面を知った俺もまた、同様にソレを相応しいと思う。

 


──氷が入る単語はこの世界に数多く存在する。そしてその大半が冬の季節の言葉だ。


 そうでなくても氷が入る以上、連想されるのはやはり冷たさや酷薄さなのだ。


 しかし中にはそれに当てはまらない言葉もある。


 ソレが連想させるのは淡くはかない温もり。



 薄氷ウスライとは新たな春を告げる、紛れもない初春の季語だ。

 

 

 ~薄氷ウスライ雪槽ニクスリウム、終~

 

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