映らない通知

わんし

映らない通知

2025年、春の終わりを迎えた東京。


大学二年生の彩花あやかは、新年度の授業が始まったばかりの慌ただしさの中で、待ち望んでいた最新型のスマートフォンを手に入れた。


小さな箱を開けたときの高揚感、ガラスのように透き通った光沢ある画面を指先でなぞる感覚。


これまで使っていた旧型とは比べ物にならないほどの軽さと速さが、彼女の心を浮き立たせていた。


特に注目していたのは、SNSアプリ「ConnectSphere」だった。


同世代の学生たちの間で急速に流行しており、「友達と繋がる未来の形」とまで称されている。


最大の特徴は、リアルタイムで友人の位置や行動を共有できる新機能だった。


カフェで誰が近くにいるか、どの時間帯にどこへ行ったのか──すべてが一目でわかる仕組みだ。


便利で、少しだけぞっとするような仕組みでもあった。


彩花は授業終わりのカフェでその機能を試し、サークル仲間の位置を確かめてみる。


アプリの地図上に、友人たちの小さなアイコンが点在している。


数百メートル先に悠人ゆうとがいる。数駅向こうには同じゼミの真央まおがいる。


その正確さと即時性に、彼女は半ば呆れながらも「未来はもうここにある」と思った。


──その夜。


静かな自室。

新築に近いワンルームマンションはまだ真新しい匂いを残しており、白を基調とした壁とコンパクトな家具が整然と並んでいる。


ベッドに腰かけた彩花は、スマホを片手にSNSを眺めていた。


日常的な投稿、友人の食事写真、流行りの動画──何気ない情報に指先を滑らせていると、不意に画面の上部に通知が現れた。


「近くにいるよ」


一瞬、彩花は眉をひそめた。

送信者の名前欄には「不明」と表示されている。


不明?


アカウント名を登録していない人間など、アプリ上では存在しないはずだ。


「……何これ?」


気味の悪さを押し殺しつつ通知をタップする。


すると地図アプリのような画面が開き、赤いピンが表示された。


それは──彼女の住むマンションを指していた。


さらによく見てみると、赤いピンは建物の真下、つまり一階のエントランス付近を示している。


背筋が冷える。

まさか友人の悪戯か。


そう思って窓際に歩き、カーテンをそっと開く。


夜風が揺らす木々、街灯に照らされたアスファルト。人影は一つも見えない。


確かに、誰もいなかった。


「……いやだ、なにこれ……」


画面を閉じ、通知を削除しようとする。だが、消えない。


他のアプリを開いても、通知は画面の上に張り付いたまま残り続ける。


赤く光る文字が、まるで彼女をじっと見つめているようだった。


彩花はスマホを裏返し、ベッドに投げ出した。

胸の鼓動が速くなる。


「気のせいだ」「バグだ」と自分に言い聞かせる。


だが、心の奥底に広がる不安は、消えるどころかじわじわと大きくなっていった。


その夜、眠りにつくまで、彼女は何度も振り返り、窓の外を確かめずにはいられなかった。


しかし、街は不自然なほど静まり返っていた。


そしてベッドサイドに置かれたスマホは、通知を灯し続けていた。


──「近くにいるよ」


翌日の昼下がり、大学のキャンパス。

緑が多い広場のベンチに腰掛け、彩花は昨日の出来事を悠人に打ち明けていた。


悠人は同じ学部の友人で、気さくな性格と飄々とした態度から男女を問わず人気がある。


彩花にとっては気を許せる数少ない相手だった。


「……でさ、夜中にいきなり“近くにいるよ”って通知が来たの。送信者は“不明”って書いてあってさ。」

「しかも、私のマンションの下を指してるんだよ?」


彩花は言いながら自分でも馬鹿げていると感じていた。


だが悠人は眉をひそめることもなく、缶コーヒーを片手にあっさりと笑った。


「そりゃあただのバグだろ。アプリ、まだ出たばっかでしょ?きっと不具合とか山ほどあるって」

「でも、通知が消えなくて……」

「だから再インストールすりゃいいんだよ。

「ほら、俺なんて前に別のアプリで通知ループしたとき、それで直ったし」


軽く肩をすくめる悠人に、彩花は小さくため息をつく。


彼が本気で心配していないことは明らかだった。

けれど、彼の言葉に少し救われた気持ちもあった。


「そうだよね、バグだよね」と自分に言い聞かせることで、昨夜の恐怖心を和らげられるような気がしたのだ。


──夜。


彩花は悠人の言葉を信じ、スマホからConnectSphereを削除し、再インストールした。


設定をやり直し、アカウントにログインし直す。


画面は何事もなく正常に動作していた。


一時は安心感が胸を満たした。


だが、それも束の間だった。


「今、部屋の外にいるよ」


再インストールを終えた直後、再び通知が現れたのだ。


送信者は、やはり「不明」。


「……嘘でしょ」


血の気が引く。

恐る恐る玄関に近づき、覗き穴から廊下を覗き込む。


コンクリートの無機質な壁。整然と並ぶドア。

夜中の廊下は、音が吸い込まれたかのように静まり返っている。


誰もいなかった。

彩花は玄関から離れ、スマホを握りしめる。指先が震えていた。


まるで彼女の行動を覗き見しているかのようなタイミングで、通知が送られてくるのだ。偶然とは思えない。


その夜、ベッドに潜り込み、無理やり眠ろうとしたときだった。


真っ暗な部屋に、不意に光が走った。

彩花の手元に置いたはずのスマホが、勝手に起動したのだ。


黒い画面に「ConnectSphere」のロゴが浮かび上がり、次の瞬間、光が点滅を繰り返す。


まるで誰かが意図的に操作しているように。


画面に文字が浮かび上がった。


「ドアを開けて」


全身に冷たい汗が流れる。

彩花は慌ててスマホの電源ボタンを押し込む。

何度押しても反応しない。


バッテリーを切ろうとしても、裏蓋は固く閉ざされていて外れない。


画面は暗くならない。


光は点滅をやめ、再び一文を表示する。


「ドアを開けて」


震える手でスマホをベッドに投げ捨てる。

しかし、画面の光は消えず、むしろベッドの上で異様な存在感を放ち続けていた。


部屋の中は静かだった。


時計の秒針の音さえ、恐怖で耳に突き刺さるように感じられる。


彩花は布団を頭までかぶり、目を固く閉じた。

耳の奥に、幻聴のような囁きが響く。


──「ドアを開けて」


いつしか、彼女はその声と光に苛まれながら、一睡もできぬまま夜を越すことになった。


夜が明けても、彩花の疲労は取れなかった。

鏡に映る自分の顔は青白く、目の下には濃い隈が刻まれている。


まるで一晩中悪夢に追いかけられた人間のようだった。


彼女は意を決し、スマホからConnectSphereを完全に削除した。


通知どころかアプリごと消え失せれば、この異常も終わるだろうと信じて。


さらに不安を断ち切るため、スマホを初期化することにした。


データも設定もすべて消去し、まっさらな状態に戻す。


──だが、それでも終わらなかった。


初期化を終え、真新しいホーム画面を見ていた数分後。


突如として、アイコンの一つがにじむように浮かび上がった。


「……え……」


そこには消したはずのConnectSphereのロゴ。


インストールした覚えはない。だが、画面の中には確かに存在していた。


恐る恐る開くと、ただちに通知が届く。


「部屋の中だよ」


血の気が引いた。

彩花は慌てて部屋の隅々を探し回る。


クローゼットの中、ベッドの下、カーテンの裏──。


だが、どこにも人影はない。


「……いや……そんなはずない……」


放心しかけた瞬間、スマホからカシャリとシャッター音が響いた。


驚いて画面を覗き込むと、カメラアプリが勝手に起動している。


真っ暗な部屋の隅を映し出していた。


だが、その暗闇の奥で──何かが、わずかに動いた。


彩花は息を呑み、スマホを取り落とした。


「誰かいる!」そう叫ぶように心臓が脈打つ。


だが耳を澄ましても、音は何も聞こえない。


恐怖に駆られた彩花はバッグを掴み、玄関へ走る。


ドアを開けて飛び出す。

息を切らしながら階段へ向かうが──異常に気づく。


エレベーターは「故障中」のランプが赤く点滅していた。


階段のドアに手をかけると、固く閉ざされ、びくともしない。


力任せに揺さぶっても、錆びついた鉄のように重く閉じられたままだった。


「嘘……でしょ……」


彩花は息を荒らし、廊下を駆け回る。

だがどの出口も、まるで見えない力に封じられているかのように開かない。


マンション全体が、不自然なほど静まり返っていた。


生活音も足音も聞こえない。

まるで建物全体が、外の世界から切り離されてしまったかのように。


背中を汗がつたう。


逃げ場はなかった。


彩花の震える耳元で、ポケットの中のスマホが再び震えた。


取り出すと、画面にはただ一文が光っていた。


「まだ見つけてないよ」


彩花は叫び声を上げ、両手でスマホを壁に叩きつけた。


だが、砕ける音はしなかった。

むしろ、床に転がった画面は何事もなかったように光り続けていた。


そして、暗闇の奥で何かが確かに──動いた。


彩花は震える指でスマホを拾い上げた。


「まだ見つけてないよ」という文字は消え、代わりに位置情報の地図画面が表示されている。


赤いピンが示すのは、彼女の現在地──この部屋。


しかし、座標がわずかにずれている。

ピンは、彩花が立つ位置から数メートル先の空間を指していた。


まるで、彼女の「コピー」が部屋の中を別に存在しているかのように。


「いや……そんな……」


喉が乾き、声がかすれる。


彼女は意を決して部屋の隅を見回す。


だが、視覚には何も映らない。

それなのに、肌の上を這うような視線の感覚だけが、確かにそこにあった。


恐怖に駆られ、彩花は悠人にメッセージを送った。


「助けて、変なことが起きてる!」


返事はすぐに届いた。

だが、その一文に、彩花の心臓は凍りついた。


「誰?」

「……は?」


目を疑う。

友人リストを開くと、そこに並んでいたはずの悠人や真央、サークル仲間の名前がすべて消えていた。


代わりに表示されているのは、冷たい一言──「不明」


「……なんで……なんでよ……!」


混乱の中、再び通知が届いた。


「もうすぐ会えるよ」


震える手でスマホを閉じようとするが、画面は消えない。


光が強まり、まるで心臓の鼓動に合わせるように点滅を繰り返す。


部屋の空気はじわじわと重く、湿ったものに変わっていった。


彩花は耐えられず、ベランダへ駆け出した。

夜の街が広がっているはずの景色を目にした瞬間──息が止まった。


眼下に広がっていたのは、真っ黒な闇だった。

街灯もビルも道路も消え失せ、窓から覗く世界はただの空白。


まるでマンションだけが取り残され、無限の闇に浮かんでいるかのようだった。


「……嘘……」


足がすくむ。


背後でスマホが震えた。


再び画面に文字が浮かぶ。


「今、後ろにいるよ」


彩花は絶叫し、振り返った。


だが、部屋は空っぽのまま。


静寂だけが広がっていた。

胸が張り裂けそうな恐怖に押し潰されそうになりながら、彩花は必死に考える。


「これは全部アプリのせい……! 誰かに知られなきゃ……!」


スマホを握りしめ、彼女はネット検索を試みた。


「ConnectSphere 不具合」「通知 消えない」──


しかし、どんな検索もまともな結果に繋がらない。


ページはエラーを返すか、真っ白な画面が映るだけだった。


その中で、一瞬だけ掴んだ情報があった。

匿名掲示板に残されていた短い書き込み。


──「あれは位置を映してるんじゃない。模倣してるんだ」


次の瞬間、画面はノイズにまみれ、その書き込みも消えた。


静寂に包まれた部屋で、彩花はスマホを胸に抱きしめる。


鼓動と同じ速さで通知が鳴り響く。


「もうすぐ会えるよ」

「もうすぐ会えるよ」

「もうすぐ会えるよ」


同じ文が、何度も、何度も。


画面いっぱいに増殖していく。


彩花の震える目が、その隅に映った。


地図アプリの赤いピンが、彼女の立つ位置と完全に重なったのを。


彩花は必死に呼吸を整えながら、スマホを再び操作した。


「誰か……誰か助けて……!」


彼女はXを開き、検索欄に「ConnectSphere」を入力した。


最初は何も出てこなかった。だが、更新を繰り返すうちに、いくつかの投稿が断片的に浮かび上がる。


──「通知が止まらない」

──「“近くにいるよ”って出続けてる」

──「部屋の外って……どういうこと?」


その書き込みは、数分と経たずに次々と削除されていった。


削除された跡には、「この投稿は存在しません」とだけ表示される。


まるで誰かが、意図的に消しているかのように。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。


彩花はさらにスクロールを続けた。

一つだけ、長めの投稿が残っているのを見つけた。


──「アプリはあなたのデータをコピーしてる。もう一人の“あなた”が動き出す前に、スマホを壊せ」


彩花の目が大きく見開かれた。


「もう一人の……私?」


その瞬間、彼女のスマホが不意にフロントカメラへと切り替わった。


画面いっぱいに映ったのは、彼女自身の顔。

だが──何かがおかしい。


そこに映る“彩花”は、ほんのわずかに目尻が歪んでいた。


口角が不自然に持ち上がり、笑っていた。

現実の彼女の表情は恐怖に引きつっているのに、画面の中の彩花は静かに、楽しそうに微笑んでいる。


「やめて……やめてよ……!」


彩花は慌ててスマホを床に投げつける。

だが、画面は割れず、床の上でこちらを映し続けていた。


画面の中の“彩花”は、唇を動かし始める。


──「もう、すぐ」


聞こえるはずのない声が、耳の奥に直接響いた気がした。


彩花は恐怖と混乱の中でハンマーを探し、押し入れを開けた。


掃除用具の奥に置いてあった古い工具箱。その中から錆びた小型ハンマーを取り出す。


手が震えているのを無理やり抑え込み、スマホを床に置く。


「壊せば……全部、終わる……!」


彼女は渾身の力でハンマーを振り下ろした。

──ガンッ!


衝撃が手に響いた。だが、画面は割れなかった。

まるで分厚い防弾ガラスで覆われているかのように、無傷のまま光を放っている。


さらにもう一度。


三度、四度。


手のひらの皮が裂け、血がにじむ。


痛みに顔を歪めながらも振り下ろし続ける。


しかしスマホは砕けない。


逆に、振り下ろすたびに画面の中の“彩花”の笑みが大きくなっていく。


やがて通知が一斉に現れた。


「私、彩花だよ」

「私、彩花だよ」

「私、彩花だよ」


画面全体を埋め尽くす文字。


耳の奥で同じ声が囁く。


──「もう、いらないよね?」


彩花の血に濡れた指から、スマホが滑り落ちる。

その瞬間、部屋の照明が一斉に消えた。


闇の中で、スマホの画面だけが異様に明るく輝き続ける。


そこからゆっくりと、“彩花”の顔が浮かび上がってきた。


歪んだ笑みを浮かべた、もう一人の彩花が──。


暗闇の中で、スマホの画面は唯一の光を放っていた。


その中から、もう一人の彩花がゆっくりと這い出してくる。


画面の枠を無視し、液晶の向こうから現実へと滲み出るように。


「……いや……来ないで……来ないで……!」


彩花は後ずさる。


だが背中はすぐに壁にぶつかった。


逃げ場は、どこにもない。


スマホから顔が、腕が、肩が……まるで水面を破って這い上がるように現れる。


その肌は現実の彼女と同じだが、微妙に歪んでいた。


頬のラインは不自然に鋭く、目はわずかに大きく、笑みは張り付いたように崩れない。


──もう一人の「彩花」


「……やめて……私は私……!」


必死に否定する声は、恐怖にかき消される。


偽物の彩花は完全に這い出し、床に立った。


そして、本物の彼女に向かって囁いた。


「私、彩花だよ。もういらないよね?」


その声は、自分自身の声だった。

しかし、耳に届く響きは氷のように冷たく、心臓を締め上げる。


「……いや……私は……!」


彼女は叫ぼうとした。

だが偽物の彩花が一歩近づいた瞬間、喉が凍りつき、声が出なくなった。


次の瞬間、部屋中の空気が震えた。


照明が完全に落ち、電気の気配さえ消える。


深い暗闇の中、偽物の彩花の笑みだけが浮かび上がっていた。


「──返して」


その囁きとともに、偽物の手が本物の彩花の胸元に伸びた。


冷たい指先が触れた瞬間、彩花は絶叫した。


「いやああああああああああっ!!!」


悲鳴がマンション中に響き渡り、次の瞬間──ぷつり、と途切れた。


後には、圧倒的な静寂だけが残った。


……。


夜が明け、朝の光が差し込む。

しかし部屋は整然とし、血痕も争った痕跡もなかった。


机の上に置かれたスマホだけが新品同様に輝いている。


画面には、ただ一つの通知。


「「新しい友達が近くにいるよ」」


そのメッセージが淡く点滅し続けていた。

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