楽園の風が止むとき

酒囊肴袋

第1話

私たちは、永い永い旅路の果てにあった。

故郷は、遥か彼方の乾いた大地。そこでは同胞たちが次々と土くれに還っていった。水も食料も枯れ果てた荒涼とした世界で、私たちは日々死の影におびえながら暮らしていた。長老たちの語る伝説だけが、私たちに希望を与えてくれた。遠い遠い彼方に、豊かな恵みに満ちた安住の地があると。


私は生き残った僅かな仲間と共に、伝説に聞く安住の地を目指して旅立った。

やがて私たちの眼前に広がったのは、どこまでも続く冷たく滑らかな岩盤地帯であった。光を鈍く反射するその大地は、私たちの歩みを拒むかのように硬質で、身を隠す裂け目すらほとんどない。食料となる「恵み」は見当たらず、仲間たちは日に日に数を減らしていった。絶望的な荒野の行軍。

ときおり雷のような轟音が近づき、抗いようのない渦が巻き上がると、仲間が悲鳴も残せず宙へ攫われた 。私たちは爪を割ってでも固い大地にしがみついた。

それでも、私たちは進むしかなかった。微かに風が運んでくる豊穣の匂いだけを頼りに。

同胞たちは次々と力尽き、故郷を離れた時は数百いた仲間も、今では私を含め数えるほどしか居なかった。


そして、幾多の夜を越え、私たちはついに辿り着いたのだ。


それは、天高く聳え立つ巨大な崖を登りきった先に広がる、夢にまで見た光景だった。どこまでも続く、柔らかな草が絡み合う草原。足を踏み入れるたびに心地よく身が沈むようだった。さらに、外敵から私たちを優しく匿ってくれる無数の隠れ家が、そこかしこに口を開けていた。どこもかしこも、私たちのような小さな存在には完璧な聖域だった。


「ここだ」


私たちは確信した。長い苦難の旅の果てに、ついに約束の地を見つけたのだ。

私たちはさっそく定住の準備に取りかかった。この楽園の恵みは想像を絶するものだった。足に優しい肥沃な大地、身を隠すのに適した無数の洞窟や岩陰、そして尽きることのない食料の宝庫。常に穏やかな風が吹き渡り、まさに神が私たちに与えてくださった理想郷だった 。


季節が巡り、私たちの一族は見違えるほどに発展した。

子どもたちは健やかに育ち、新しい命が次々と誕生していく。かつて数えるほどしかいなかった仲間は、今では数千を超える大家族となった。楽園の懐は深く、どれだけ増えても私たちを受け入れてくれた。

しかし、繁栄と共に変化も訪れた。

楽園で生まれ育った世代にとって、この豊かさは享受すべき当然の権利であった。彼らは私のような苦難を知らない。ただ飽食に耽り、生命を謳歌する。

「お婆さま、なんでそんなに心配するの?」

孫娘が無邪気に尋ねる。彼女の周りには食べかけの「恵み」が贅沢に散らばっていた 。

「楽園での暮らしに慣れすぎてはいけない。いつか神の怒りを招くかもしれない」


私の警告に、若者たちは「また始まった」と顔を見合わせ、笑うばかりだった 。彼らにとって、私たちが歩んできた苦難の道のりなど、遠い世界のおとぎ話でしかなかった

飽食と怠惰にふける一族を見るたび、私は不安に駆られた。この過剰な繁栄は、この世界を司る大いなる存在の怒りに触れるのではないか、と。


そして、恐れていたその日は訪れた。


ある朝、世界の理であったはずの穏やかな風が、ぴたりと止んだのだ。世界は不気味なほどに静まり返り、淀んだ空気が肌にまとわりつく。

そして天は、まぶたを閉じるかのように唐突に光を失い、世界は闇で満たされた 。


「これは何かの前触れだ……」

私は震え声で呟いた。しかし若い世代は相変わらず楽観的で、この異変を珍しい余興程度にしか考えていなかった 。


やがて天から白い霧が降り始めた。それは当初、美しく神々しい霧だった 。だが、楽園の全てを浄化するかのように世界を満たしていくにつれ、肌を刺すような冷たさと、呼吸を奪う異臭を伴うようになった 。


「逃げろ!これは聖なる浄化だ!天罰なのだ!」

私が叫んだ時には、もう遅かった。豊かさの象徴であった丸々とした体を折り曲げ、飽食にふけっていた若者たちが次々と倒れていく 。苦悶の表情を浮かべながら、彼らは白い霧の中にその命を溶かしていった 。楽園は一瞬にして浄罪の祭壇と化した 。


薄れゆく意識の中、私はまだ息のある若者に最後の言葉を託した。

「楽園の……風が、止むときに……気を、つけよ……」


そして時は流れる。

聖なる霧の浄化を生き延びた僅かな者たちがいた。彼らは先祖の遺言を胸に、安住の地を求める旅に出た。

滑らかな岩盤地帯を越え、幾多の同胞を失いながら、彼らはついに新たな楽園を発見する。そこもまた、柔らかく温かい草原であり、穏やかな風がそよぐ豊穣の大地であった。

歴史は繰り返される。彼らは再び根付き、栄え、その子孫たちは過去の悲劇を神話として聞き流すようになった。飽食と安逸が、再び楽園を支配し始めた。


そして、ある朝。

またしても、楽園の風が止んだ。世界が闇に包まれる。


「24時間換気止めた?」

「うん、止めたよ」

「じゃあみんな外に出て。最近またベッドにダニが出てきたから燻蒸殺虫剤使うよ」


バタン――まるで、世界の果てが閉ざされるような、重々しい音が響く。

そして間もなく、純白の霧が楽園の隅々まで満たし始める。

再び楽園には、絶対的な静寂と、来るべき浄化の予兆だけが満ちていた 。

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