コーヒーに酔う
冬部 圭
コーヒーに酔う
時計は二十一時半を回った。開発フロアにはもう僕しか残っていない。もう疲れた。帰りたい。だけど明日の朝九時までに仕上げなければならない資料が出来上がらない。どう足掻いても強制退社になる二十二時までに終わらないのは理解している。「負けるとわかっていても挑まないといけないことがあるんだ」と先に帰宅する同僚に軽口を言ったのが二時間前。あれからも資料の作成は全然進んでいない。
これは駄目だ。持ち帰ろう。二時くらいまで頑張ればなんとかなるだろう。そう考えて作業中のファイルをいったん保存する。プライベートのメールアドレス宛にファイルを添付して送信。バレたら叱られるけれど資料ができてなくても叱られる。どの道叱られるのだけど、できる限りのことをやろう。
荷物をまとめて手早く帰り支度をして会社を出る。電車に乗ると睡魔が襲う。これで乗り過ごしたらいっそ楽になるだろうかなんて馬鹿なことを考えたけどそんな度胸もなく。あくびを噛み殺しながら電車の中では寝ずにやり過ごすことができた。
コンビニで軽食を買って帰宅。悲しくなるくらい作業的に食事をとる。お湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れて飲んで。よし気合が入ったぞ。
満を持してPCの電源を入れる。メーラーを開いてさっき送ったファイルをダウンロードする。
ファイルを開いてげんなりする。終わるのかな。これ。でも進めないと。
邪念を振り払って資料作成を進める。気が付くと舟を漕ぎ始めている。いけない。どうしよう。このままじゃ終わらない。いや、まず落ち着こう。もう一度お湯を沸かして濃い目のインスタントコーヒーをもう一杯。頭がすっきりする感じは全くない。冴えていないけど眠気は少し落ち着いたような気がする。これで何とかしないと。
もう一度PCに向かって無心に資料を作る。ふっと何を考えているのか分からなくなる瞬間があった気もするけれど、何とか資料ができたような気がする。ファイルを保存した後印刷する。時計を見ると一時半。大体見積もり通りの完成か。
一回休憩。シャワーを浴びる。
頭はすっきりしないけれど印刷したファイルをチェックする。駄目だ。文章はめちゃくちゃ。誤字、脱字も多い。これでは資料として提出できない。もう一回落ち着こう。三度目のお湯の準備とインスタントコーヒー。何の変化も感じられないが儀式みたいなものだと割り切って資料に向かう。鉛筆で訂正が必要な個所に書き込んでいく。文章を書くのは苦手だけど読むのは得意だ。と思わないとやっていけないくらい修正箇所が多い。仕方がない。自分で掘った穴だ。ひとつひとつチェックして直していく。修正箇所を洗いだしたら今度はファイルの修正。一箇所ずつ丁寧にを心がけて。修正が終わって時計を見ると三時を回っている。ああ、頑張った。ファイルを保存して会社のメールアドレスに送信。これで明日遅刻しなければ大丈夫。いやもう日付が変わっているのか。少し休もう。寝間着に着替えてベッドにもぐりこむ。おっと、目覚ましをかけるのを忘れていた。あぶないあぶない。目覚ましをかけて目を閉じる。少し休まないと。
あれだけ眠たかったはずなのになんかふわふわした感じで寝付けない。これはこれでまずいなと思う。居眠りの神様を追い払ったから、徹夜の神様が降臨した感じ。今度は徹夜の神様を追い払わないと。僕はもう徹夜できるほどの体力がないんだから。
羊でも数えて心を落ち着けるか。いや日本語で「羊が一匹」ってやっても効果がないって誰かが言ってたな。どうするといいって言ってたっけ。思い出せない。まあいいや。羊で。
頭の中で羊が一匹、羊が二匹とやってみる。百匹の羊が策を飛び越えて言ったけれど、眠くなる気がしない。百匹じゃ少ないのか効果がないのか分からないけれど。これ以上続けるのも気が滅入るので羊はやめることにする。こらえ性がないから寝付けないんだなんて自虐的な言葉が頭に浮かぶ。
大体、何があったんだっけ。昨日の夕方、資料作成を仰せつかったときのことを思い出す。課長は
「大体できている資料だから。少し手直ししてほしいだけだからそんなに時間はかからないだろう。よろしく頼むよ。申し訳ないけど今日は所用があるんだ」
と言って原稿のファイルをメールで僕に送ってきてそのまま帰宅した。課長がいる間にファイルを開けなかったのが失敗だった。課長が帰った後、ファイルを確認しようとしたら、ファイルが破損しているとのメッセージが出た。拡張子を変えてみたけど開けない。どうやったらこんな嫌がらせができるんだという気持ちになったけれど仕方がない。いや、まあ、課長がこんな陰湿な嫌がらせができる性格ではないことは知っている。仕方ないのでどうするか課長に相談することにして、連絡を試みる。課長には連絡がなかなかつながらない。漸く連絡出来てファイルが破損していることを伝えたら、
「一からでいいんで作ってくれ」
と無茶振りされた。一からでいいんでって、これからどのくらい時間がかかるか分からないわけではないだろうに簡単に言ってくれる。
「悪いけれどこのあと、電話には出れそうにない」
そう言い残して通話は打ち切られた。いい加減な課長にはいい加減な部下が育つ。これまでの度重なる無茶振りでなんとなくやり過ごすスキルだけは身に付けていたつもりだったけれど、さすがに今回の件は簡単にこなすことはできなかった。おかげで残業の後、久しぶりの持ち帰り。残業の抑制、持ち帰りの禁止があってから、持ち帰りをしないように適当に頑張って仕事をしていたのに。
これで資料の出来が悪いとか文句を言われたら異動願を出そう。あの課長の下で仕事をしている間さぼり方、手の抜き方を覚えただけでスキルアップなんてなかった。それは僕に向上心がなかったからか。人の所為にするのは良くないな。
そんな愚痴めいた思考に陥ると眠れる気がしない。あんまり良くないことを考えている自覚がある。こんな不毛なことは無いのでとっとと眠りにつきたい。
資料を作っている間は眠っちゃだめだと頑張って、ベッドに入ったら早く眠ろうと頑張る。勝手なものだなと自嘲する。目覚ましで時間を確認する。五時。これから寝たら起きれないかもしれない。眠っちゃいけない。
ジリリリリと目覚ましの音がする。時計を見ると六時半。眠っちゃいけないと思ったから眠れたのか。皮肉だな。
頭はまだぼんやりしている。顔を洗って着替える。髭を剃る。いつも通りの朝のルーティンをこなすことで、何とかいつもの調子を取り戻そうとするけれど、相変わらずぼんやりしたままだ。
気分は沈んでいるわけではないけれど、晴れやかと言うわけでも無く。これもコーヒーを飲みすぎた影響だろうか。そんなことを考えて朝のコーヒーはやめておく。朝のルーティンがひとつ崩れたななんてこともぼんやり考える。それでもいつも通り朝食にトーストしない食パンを齧って、いつも通りからのずれを最小限にとどめておく。
車通勤だったら危険なことこの上ないけれど、幸い電車通勤なので何とかなるはずだ。居眠りして寝過ごしたら会社まで辿り着けないけれど命に別状はないだろう。
家を出て電車に乗って。意識はしっかりしているつもりなのだけど、気が付いたら会社にいた。まるでワープしたみたいだ。
出来上がった資料を印刷して、課長にメールで原稿のファイルを送る。これでミッションコンプリート。
「助かったよ。資料をありがとう」
資料に目を通した課長が労いの言葉を掛けてくれる。まあ、これで良かったのだろう。
「原稿を送れず悪かったな。だけど、俺の資料よりずっと出来がいい」
課長の謝罪を受けて少し気分が晴れる。
気を抜くと仕事中に居眠りしてしまいそうだ。
僕は缶コーヒーで仕事を終えたことに対する祝杯をあげることにした。
コーヒーに酔う 冬部 圭 @kay_fuyube
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