第二夜:生きるに価はあり
「星霊界へようこそ、調律者さま!」
星霊ウサギはにこにこと、実に愛らしく柔らかな笑顔で言った。
「星霊界……異世界?」
尹月は周囲を見回しながら、一歩後ずさった。まさか本当にこんな場所に来てしまうとは思ってもみなかった。
ここはもう、彼女が慣れ親しんだ寝室ではない。
ベッドも窓も、日常の品々も一切存在しない。見渡す限りの夜空に、無数の星が浮かんでいた。
光と闇の境目は曖昧で、時間すら止まってしまったような感覚。
足元に何かがあるような、いや宙に浮いているような…その不確かさが、より異様さを際立たせていた。
ハルとミミ、ふたりの可愛い猫もまた、尹月とともに浮かんでいる。どうやら、自分たちの「新しい姿」にまだ慣れていない様子だった。
「うん、まあ、異世界って言ってもいいかもね!」
星霊ウサギは首を傾げながら、あっけらかんと言った。
尹月はこの奇妙なウサギとどう会話すればいいか分からず、すでに強く殴りたい衝動に駆られていた。
「……それで、結局なにを手伝えばいいの?」
彼女が自ら「手伝う」という言葉を口にした瞬間、星霊ウサギの瞳がキラッと輝いた。
「それそれっ……!」
星霊ウサギは尹月の手を取って、星空をふわふわと散歩するように駆け出した。
「調律者さま、あれ見て!」
尹月が“調律者”という呼び名に戸惑う間もなく、次の瞬間、空間がわずかに震えた。
「……あれは……なに?」
少し離れた場所に、ぼんやりとした影の塊が浮かんでいた。小さな動物のように丸くなって漂っているが、全身を黒い霧が包んでおり、耳や目などの輪郭はまったく見えなかった。
最初は静かに浮かんでいるだけだったが、彼らが近づいた瞬間、わずかに身震いし、それをきっかけに黒い霧が一気に広がり始めた。
「あれが、今日助けてもらいたい“対象”なんだよ!」
星霊ウサギは黒く膨れ上がるそれを指さして言った。
「このままだと、夢魘になっちゃうんだ!」
「ゆ、夢魘!?」
尹月は本能的にその黒い塊に危機を感じ、後ろへ一歩引いた。
「……悪夢ってこと?……なにそれ、は?」
「もう説明してる時間はないよ~!行くよっ!」
星霊ウサギは尹月の手をぐいっと引っ張ると、そのまま黒い霧の中へ飛び込んだ。
尹月が引き込まれるのを見て、二匹の猫も慌てて後を追い、次の瞬間、三人と一匹は黒霧に呑まれた。
-
景色が突然切り替わった。
星空と銀河は消え、そこは教室だった。
壁には賞状がびっしりと貼られ、机の上には書き込みで真っ黒になった教科書。
教壇には大人の姿が立っているが、その顔はぼやけて見えない。
『97点で満足してるの?他の子は満点だったのよ。恥ずかしいと思わないの?』
『もっと努力できなかったの?』
遠くから低く重たい声が響いた。
押し殺された疲労と失望が混じったような声音。
あまりの状況に、尹月は声すら小さくなった。
「これは……?」
「夢の中だよ。」
星霊ウサギが淡々と答え、前方の小さな影を指さした。
「あれが彼の夢。」
「誰にだって、受け入れられない記憶ってあるでしょ?
それを放っておくと、こうして夢魘になってしまうんだ。」
星霊ウサギの言葉はどこか上滑りで、核心を語っているようでいて、どこか遠回しだった。
尹月は二歩進もうとした。だが、足元はまるで深い水の中のようで、重くて遅い。
まるでこの夢に、自分までもが飲み込まれそうだった。
すぐに景色は変わった。
今度は冷えきった空気のリビング。
『どうして三位なの?』
『努力が足りないんじゃないの?』
『努力しないと社会に出ても生きていけないよ?』
『弟や妹は一位だったのに、どうしてあなただけ?』
『○○さんの娘さんは医学部に受かったってよ?』
『あなたには本当に失望した。』
子どもの影は俯き、手に持った紙をぎゅっと握っていた。
周囲の大人たちは容赦なく、次々に言葉を浴びせてくる。
「……でも……でも、僕、頑張ったんだよ……社会は百点だったんだ……」
小さな声でそう言った彼に対し、大人たちは逆に怒りを爆発させた。
『一教科だけ百点で満足?全部満点じゃなきゃ意味ないでしょ!』
『一位じゃないのは、努力が足りない証拠よ!』
空間はまるで録音されたように、何度も何度も、同じ責める声が繰り返された。
尹月は怒りで拳を握りしめ、今にも飛び出しそうだったが、場面は再び変わる。
今度は清潔で明るいオフィス。彼の姿は大人になっていた。
だが、変わらないのは、責める声。
『こんな簡単な仕事もできないで、努力したって言えるの?』
『残業しても終わらないのは、お前の能力不足だろ?』
『なんでもう少し自分の無能を自覚しないんだ?』
『そんな程度で昇進なんて笑わせるな。どこ行っても邪魔者だよ、お前は。』
彼のデスクには感謝状がいくつも積まれているのに、彼はただ、何度も何度も「すみません」と繰り返すだけだった。
辺りに漂う黒い霧はどんどん濃くなり、空間が崩れ始めた。
二匹の猫は怯えて星霊ウサギの後ろに隠れ、ウサギ自身も尹月の足にしがみついて震えている。
空間が歪み、ヒビが入りはじめたその時、あの黒い影が再び現れた。
地面に縮こまり、何度も繰り返し呟いていた。
「努力しない僕が悪い…僕は無能だ…努力しない…僕なんか…」
その周囲には無数の人影が取り囲み、同じ言葉を延々と浴びせていた。
「やばいっ……!彼が……!」
星霊ウサギが声を上げかけた時——
「もういい!!」
怒声が空間を切り裂いた。夢が揺れ、ガラスのように震えた。
「なんで見えないの!?彼はこんなに努力してるのに!なんで失敗しか見ないのよ!彼がどれだけ抱えてきたか、わかってんの?!」
沈黙——空気が沈んだ。
「百点?一位?成績?成果?……人の価値って、なんでそんなクソみたいな数字で測らなきゃいけないのよ!?」
一歩一歩、尹月は小さな影に近づいていく。
「彼はロボットじゃない。あなたたちの比較対象でもない!」
「一言、褒めるのがそんなに難しいの?!
『よくやったね』って言うだけで、なにか損するの?!?」
「ずっと黙って、一人で、誰にも頼らず、彼はここまで頑張ってきた。
誰がそれを見てた?誰が、彼に拍手したの?!」
「彼はなにも望んでなかった……
ただ一度だけでいい、誰かに、こう言ってほしかっただけなんだ——『君は、本当に頑張った。』」
その言葉と同時に、周囲の影が火に包まれ、音もなく灰へと変わっていった。
黒く縮こまっていた影が、ゆっくりと顔を上げ、尹月を見つめる。
「君は、本当に頑張った。最後まで、ちゃんと自分の足で、生き抜いたんだ。」
ドリームチューナー @YinYue
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