真っ白な鼓動

俐月

真っ白な鼓動




「どうして?」



 幼いころからよく知っている言葉。それでも私に向けて言われるのはあまりにも聞きなれなくて、咄嗟に言葉は見つからなかった。



 女性のように美しい顔立ち。普段は崩すことのないそれを崩し、悲壮感漂よわせながら真剣に尋ねてきた彼の表情に見惚れてしまったなんて言えない。



 どうして。


 その言葉がもう一度頭の中で踊り出すまでに随分の時間がかかった。

 次に続く言葉はない。

 何を聞いているのかもわからない。



 眉を寄せた表情も綺麗だなぁ。私にはもったいない。

 どうしてって何だっけ。何を意味する言葉だっけ。

 だって言われたことなんてなかったんだもん。



「どうして、貴方はそうやって自分を傷つけようとするんだ」



 綺麗な口から痛みを堪えるように絞り出された低い声。

 顔に似合わず声は低いんだよなぁ。



 彼の視線が私の手に落ちて、ようやく何を示しているのか理解した。

 そうか、私。自分の手首を切ったんだった。



 丁度切ろうとした時に来る予定のなかった彼がやってきて、びっくりしていつもより深く切ってしまった。


 剃刀だし、いつもはちょっと血が滲むくらいにしておくのに。


 応答のない私を心配して、許可なく家に入ってきたあと、状況を見て彼が言ったのが「どうして」だった気がする。


 小首を傾げたい気分だった。



 彼がこれを見るのは初めてじゃない。記憶は曖昧だけど、何度からは目の前で切ったこともあるはずだった。



 けれど彼はそれに対して無関心で、心配も怒りもしなくて、それが余計に腹が立って……



 どうして? それをを問いたいのは私の方だった。


 手首を切っても何の反応もない。綺麗すぎる顔でこちらを見てくるからもっと冷たく感じて。

 ああ、この人は私が何をしても響かないんだな、と思った。


 どんなに暴れても、泣いても、好きと伝えても、表情を崩さない。

 私とは正反対の理性主義者。


 そんな彼が私の側にいるのがずっと不思議で仕方なかった。



「どうして?」



 でもやっぱりわからなくて、首を傾げた。

 問い返した途端、彼は悲しそうに私の手首へと視線を落とした。


 釣られて見ると、血は止まっているけどやっぱり傷が深い。でも痛くない。



 そういえば、私はどうして手首を切るんだろう。

 いつからやり出したのか覚えてない。最初は興味本位だった気がする。


 感情のぶつけどころがなくて、でも手首を切ったら、スッと落ち着く感じがあった。


 傷が増えることなんて今更気にしなかったし、誰も止めなかった。



 周りの大人は「どうして?」なんて聞かなかった。

 私が何をしても頭ごなしで怒るだけで、理由なんて聞こうとしなかった。


 だから私は私がおかしいんだ、私が悪いんだ。でももう、何が何だかわからなくてやめることは出来ない。


 これは病気で、一生治ることなんてない。

 四方八方から体を押さえつけられるような苦しみは、死ぬまで続く。


 それでも生きていかなきゃいけなんだから、どうにか自分というものを保っていかなきゃいけないんだからしょうがない。



 前の彼が静かに立ち上がった。


 ああ、離れていっちゃうのかな。嫌だな。


 向けられた背を見ても、私はどこか遠くからそれを見ているようで、何かを言葉にすることは出来ずにいた。

 でも予想に反して、奥の棚から何かを引き出したあと、彼はすぐにこちらへと戻ってきた。



 その手には消毒液とガーゼとテーピング。

 私はそんなものを買って、棚に仕舞った覚えはない。

 そもそもあの棚に何を仕舞っていたのかも覚えていない。



 彼は何も言わずに、やたら慣れた手つきで私の手首の消毒を始めた。


 消毒液が傷口に染みたとき初めて痛みを感じた。

 血で滲んでいたそこか綺麗になっていくのを見て、「あれ?」と声に出していた。



 そういえば彼の前で何度か手首を切って、不貞腐れるように眠る度に、手首がこんな風に綺麗になっていた気がする。



 切った傷口なんて気にも留めなかったから、ちゃんとは覚えていないけど、もしかして……



 私は空いた右手で消毒液を持ち上げてみた。ゆっくり揺らすと中身はあまり残っていない。



「私も私なりに勉強したんだ」



 そんな声が聞こえて顔をあげると、視線を落としたままの彼はまだ小さく眉を寄せていた。



「自傷行為の原因は人それぞれで、貴方を見ながらどうしてこれをするのか考えてた。

 貴方は感情をぶつけてようやく自分の気持ちを言葉に出来る。

 普段の貴方は自分が何を思っていて、何をしたいのかわかっていないのかもしれない。そう考えるようになった」



 少しだけ険しい表情をしている癖に、口調はどこまでも冷静で淡々と。それを聞いて思い当たることがあった。



「あー」



 そういえば一時期を境に、彼がやたらを尋ねてくるようになった。



 貴方はどうしたいんだ?


 本当に些細なことでも、何かを決めようとするたびに聞いてくるものだから、ノイローゼになりそうだった。



「本当は」彼は続けようとして、躊躇うように口を閉じた。

「本当は?」珍しくよく喋る彼の言葉の続きを待った。



「本当は止めたかったし、心配で仕方なかった。貴方が隣で切るのを見るたびに、気が気じゃなかった」


「え?」



 にわかには信じられなかった。

 嘘でしょ。まるで観察するみたいに冷静に私を見てたでしょ?


 そんな反駁もやっぱり口からは出ていかない。



「もしこれが愛情確認行為だとしたら、心配したり怒ったりしたらもっとエスカレートするんじゃないかと怖かったんだ」



 止まっていた手が動き出して、手首にあてたガーゼがテーピングで止められるまでの短い沈黙。

 その間に彼の言葉を反芻していた。



 愛情確認行為?

 初めて聞いた言葉の意味を探して彼を見ると、彼もこちらを見ていた。


 寄せられていた眉は下げられていて、そこには諦めに似たような何かと、小さな愛情のような何かが混在しているように見えた。


 口元は僅かにだけ微笑まれていて、眼差しは温かい。


 頭の中にふんわりと、真綿を押し付けられたようなーー

 その一瞬は、あまりにも久しく、忘れていた穏やかな風が胸に流れ込んだ感覚がした。



 途端、わけのわからない感情が湧き上がってきて、止められなかった。



 わからない、わからない、わからない。


 悲しい、怖い、辛い、でも嬉しく温かい。



 いつの間にか落ちた視線には綺麗に手当てされた手首。まるでずっと私が求めていた何かに見えた。



 消えないだろう傷跡をそっと覆い隠してくれる真っ白なガーゼ。

 そこにぽたり、と水滴が落ちるのが見えた。



「え……」



 視界がぼやけて初めて自分が泣いていることに気が付いた。



 吸い込んだ息を呑んで、顔をあげる。

 彼の顔はよく見えないけど、何故か今まで見たことのないような表情をしている気がした。



「おいで」



 その声に導かれるように、彼に飛び込んでいた。



 女性のように美しい彼の肩はしっかりしていて、私が飛び込んだくらいじゃビクともしなくて、温かくて、力強かった。


 その時私は数年ぶりに泣いた。子供みたいに大きな声をあげて。



 手首に溜まった痛みを全身から吐き出すように。

 それに反して手首はどんどん痛みを増していって、それが私の心に更に火をつけることになった。



 彼は何も言わなかった。


 ただただ背中に優しい鼓動を刻んでくれる中で、「どうして?」という彼の言葉が胸の奥に沈み込む。



 その答えを私は探したいと思った。


 ガーゼの下の傷は消えない。



 それでもそれを抱えたまま、真っ白なガーゼのように――


 最初から始めたい。強くそう思った。






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真っ白な鼓動 俐月 @ri_tsuki

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