第三話 『潜む気配』

 ユウキが育孝に語った経緯は、こうだった。


―――


 二週間ほど前の夜。店にやって来た三人組の客の中に、ひときわ目立つ太鼓腹の中年がいた。男はヤタと名乗り、隣の席についたユウキを妙に気に入ったらしい。


 酒が進むにつれ、視線は露骨になり、手も落ち着きを失っていく。


「もー、ヤタさん。そこはダメですよ」


 太腿に伸びる手を制しながらも、ユウキは笑顔を崩さなかった。ホステスとしての習性だ。


 「失敬、失敬」と言いながら、そのままユウキの手を握りしめて離さない。脂ぎった指がなぞるように触れ、やがて手相でも眺めるふりをした。


「こりゃあ……アチャー」


 大げさに額を叩く仕草。何度か見てきた口説きの常套句だった。


「なにか、悪いんですか?」

「いやねぇ、わたしゃ手相を見るのが趣味でしてね」


 胡散臭さに呆れつつ、ユウキはおどけて尋ねる。


「じゃあ、私はどうです?」


 ちょっとした軽口が返るとばかり思っていた。だが――


「――君はね。もうじき死ぬ」


 声の調子が低く変わり、背筋に冷たいものが走る。およそ酔客の冗談ではなかった。

「やだぁ、冗談ばっかり。怖いなぁ」

「これは冗談じゃない。助からないよ」


 ヤタの視線は、ユウキの背後の闇を透かして見ているかのようだった。


「最近、妙なことはないかい?誰かの視線を感じるとか」


 ユウキは思わず息を呑んだ。過去に彼女をつけ回したストーカーの記憶が疼く。捕まったはずなのに、未だに背後に気配を感じることがある。


「……ないですよ」


 笑って否定した。けれど胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。額に汗が滲み、喉が焼けつくように乾いた。グラスの酒をあおるしかなかった。


「ところで――『ベッドの下の男』って話を知ってるかい?」


 その名を聞いた瞬間、寒気が全身を覆った。ホラー好きの彼女には当然馴染みのある都市伝説。だが、この状況で耳にすると意味が違ってくる。


「やっぱりな」


 ヤタの笑みは、不気味なほど楽しげだった。

 ユウキが席を立とうかと逡巡した時、彼は急に口調を崩す。


「――なーんてね!」


 圧迫感が霧散し、呼吸が戻る。


「大丈夫?ひどい汗だよ。ほら、新しいのを飲むといい」


 いつの間にか差し出されたグラスを受け取り、一口含んだ。

 熱い液体が喉を流れ落ち――記憶はそこで途切れてしまった。


―――


「ユウちゃん、着いたよ」


 気がつくと車の後部座席にいた。窓の外は自分のマンション。いつの間にか送迎車に乗せられていた。

 強面の運転手が心配そうにのぞき込む。


「酔い潰れて寝ちゃったみたいだね。ユウちゃんがそんなに飲むなんて珍しい」


 体は重く、頭痛と吐き気が残っている。曖昧な記憶の中で、ユウキはかすれた声を出した。


「……お客さんは?」

「満足して帰ったみたいだよ。ただ――」


 運転手は言いにくそうに口を濁した。


「帰り際にね。その人、こう言ったらしいんだ。『ベッドの下には気をつけて』って」


 ユウキの背はまた凍りついた。

 礼を言って車を降りる。夜風がドレスの布を透かし、冷えた肌を刺した。

 古びたマンションの灯りが、墓標のように重くのしかかる。

 身震いを押さえきれず、ユウキは震える指でオートロックを開けエレベーターに駆け込んだ。

 部屋に入ると玄関の照明が自動で灯る。熱いシャワーを浴び、早々にベッドへ倒れ込む。


 だが眠りは浅い。

 ふと目を覚ますと、月明かりがレースのカーテン越しに部屋を照らしていた。


 ――異常はない。そう言い聞かせる。

 それでも拭えない。ベッドの下に「何か」がいる気配が。

 確認する勇気もなく、ただ瞼を閉じて震えながら朝を待った。

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Folklore Chain 剣城龍人 @yamada9999

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