第二話 灰色の世界
のり子がいなくなってから、朝日が何度昇っただろう。
アタシにはもう、そんなことを数える気力もなかった。
ただ、お腹の虫が鳴き始める頃になると、決まって玄関のドアがガチャリと開く。
やってくるのは、知らない匂いの誰かだった。
その人はアタシを一瞥するだけで、のり子のように「ノンちゃん、お腹すいたの?」なんて話しかけてはくれない。
黙ってカリカリを皿に入れ、お水を替えると、来た時と同じように静かに去っていく。その足音は、まるでここにアタシがいないみたいに、何の感情も乗せていなかった。
アタシの日課は、家の中をさまよい歩くことになった。
まずはのり子の寝室。 枕に顔をうずめ、クンクンと鼻を鳴らす。
最初は確かに残っていた、あの陽だまりの匂い。
でも、それは日に日に薄れて、今ではもうシーツの冷たい匂いしかしなくなっていた。
次にリビングのソファ。 のり子がいつも座っていた、少しだけへこんだ場所。
ここもだめ。 アタシは諦めきれずに、家中の壁や家具に体を擦り付けて歩いた。
自分の匂いを上書きして、この家がまだアタシとのり子の場所なんだと、誰に言うでもなく主張しているみたいだった。
窓を開けた風が部屋に残った最後の残り香さえも奪っていくようで、アタシは怖かった。
匂いが完全に消えてしまったら、のり子の記憶も、温かかった日々の感触も、すべてが本当に無くなってしまう気がしたのだ。
縁側から見える庭の景色も、すっかり
以前はあんなに心を躍らせた蝶のひらめきも、鳥のさえずりも、今はただの動く影と意味のない音にしか感じられない。
追いかける気力なんて、どこにも湧いてこなかった。
世界は、灰色だった。
そんなある夜、激しい嵐がやってきた。
空がピカッと白く光るたびに、アタシの黒い毛がぶるりと逆立つ。 少し遅れて、ゴロゴロゴロと空が唸るような音が家を揺さぶる。
窓に叩きつける雨の音も、まるでアタシを責めているかのようで恐ろしかった。
以前、こんな夜は、いつだってのり子が一緒だった。
「あらあら、怖い音がするわね。ノン、こっちへいらっしゃい」
そう言って、のり子は分厚い毛布でアタシごと自分をくるんでくれた。
その腕の中だけが、世界でいちばん安全な場所だった。 ゴロゴロという雷の音も、のり子の心臓の音を聞いていれば、ちっとも怖くなかったのに。
今は、隠れる場所すらない。
アタシはソファの下のいちばん暗い場所で、ただ体を丸めて震えていた。 耳を塞ぎ、目を閉じて、心の中で何度も叫んだ。
のり子、どこにいるの……のり子、怖いよ。
嵐が過ぎ去った朝、アタシの中で何かが、プッツリと切れてしまった。生きていることが、ひどく面倒に思えた。
お腹は空いているはずなのに、ご飯を食べたいと思わない。あの誰かが置いていったカリカリの皿には、もう何日も口をつけていなかった。
アタシは、のり子が編んでくれた、陽だまりの匂いが消えかけた毛布に顔をうずめた。
もういい……このまま、のり子のところへ行ってしまいたい。
そう思いながら、ぼんやりと意識を手放しかけた、その時だった。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
いつもの「誰か」とは違う。 もっとゆっくりで、どこかためらうような、静かな足音。
でも、アタシはもう顔を上げる気力もなかった。
どうせ、また黙ってご飯を置いていくだけ。
足音はリビングで止まった。
そして、アタシが丸くなっているソファの側で、誰かが屈みこむ気配がした。
ふわり、と風に乗って匂いが届く。
知らない人間の匂い。 知らないシャンプーの匂い。
でも、その奥の……奥のほうに……。
ほんの少しだけ……アタシが決して忘れるはずのない、あの懐かしい陽だまりの匂いが混じっていた。
アタシは閉じていた
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黒猫物語 ~アタシと🐾のり子と🐾それからメグ ~ 月影 流詩亜 @midorinosaru474526707
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