終章

49

 あれから、数週間が過ぎた。


 神保町の古書店街の一角、鈴懸すずかけ並木は、すっかりと葉を落とし、冬の訪れを待つ肌寒い一日となっていた。

 古物屋ふるものや古今堂ここんどう』の店内は、いつもと変わらない、穏やかな午後の空気に満ちていた。

 埃と古い木、そして微かな香の匂いが混じり合った独特の空気。

 それが、神阪こうさか志乃しのが再び取り戻した、日常の香りであった。


 彼女はカウンターの奥で、一枚の古い伊万里いまりの小皿を、柔らかい布で丁寧に磨いていた。

 その白い指先が、染付そめつけの青い模様を優しくなぞる。

 その光景は、数週間前と何ら変わらない。

 しかし彼女自身は、もう以前のままではなかった。


(…終わったのですね)


 ふとした瞬間に、あの山頂での出来事が、遠い夢の記憶のようによみがえる。


 原初の光が闇をはらい、神代の怪異が消滅した後、志乃は丸一日眠り続けた。

 彼女が目を覚ました時、仲間たちはただ静かに、彼女の回復を待っていてくれたのだった。


 山を下りる道すがら、誰もがあの戦いについて口にすることはなかった。

 ただ、源兵衛げんべえが別れ際に「千代ちよによく似てきたな」と、別人のように優しい顔で、彼女の頭を一度だけ、無骨ぶこつな手でぽんとでた。

 それが老猟師の、最大限の愛情表現だったのだろう。


 帝都ていとに戻った後、志乃は麻布あざぶ神宮文庫じんぐうぶんこで、さらに数日を過ごした。

 それは、苦難を支え合った仲間との、暇乞いとまごいのための猶予ゆうよであった。


 八坂翁やさかおうは、いつものように書庫の奥で古文書を紐解ひもといていた。

 彼は志乃に「そなたは役目を果たした。じゃが、『しずめの乙女』としての宿命しゅくめいが、そなたから消えることはない。これからも、その清い心で世のことわりの乱れを見つめ続けなされ」と、静かに語った。


 和泉いずみは、志乃が山で使った泥だらけの登山靴を、まるで神器じんぎを扱うように、丁寧に手入れをしてくれていた。

「また、いつでもいらしてくださいね」と、はにかむように微笑んだその顔は、初めて会った時の、あの職人らしい厳しいものではなかった。


 いさおは最後まで何も言わなかった。

 ただ、志乃が屋敷の門を出る時、これまでに見たことがないほど深く、そして長い時間、頭を下げ続けていた。

 その姿が無言のままに、彼女への忠誠ちゅうせいと感謝とを語っていた。


 そして水上は、古今堂まで志乃を送り届けてくれた。

 彼は、確保した二つの神器を、神宮文庫の最も安全な場所に再び封印したと語った。

「あなたの力がなければ、我々は皆、あの山で命を落としていました。本当に、ありがとうございました」と、彼は言った。

「しばらくは何事もないでしょう。ですが、もし再びあなたの力が必要になった時は…」


「はい」志乃は、彼の言葉をさえぎるように穏やかに頷いた。「その時は、また」


 古今堂の格子戸こうしどを開けた時、帳場ちょうば算盤そろばんはじいていた父、宗一郎が顔を上げた。

 彼の顔には、驚きと、安堵と、そして積もり積もった怒りで、ぐしゃぐしゃになった。


「…しの…志乃!」


 父は、椅子から転げ落ちるように立ち上がると、娘の元へ駆け寄った。

 そして、娘の両肩を掴むと、これ以上ないというほど、こっぴどく叱りつけた。

 一人で危険な場所へ行ったこと、何日も連絡ひとつよこさなかったこと、そして、どれほど自分が心配で、夜も眠れなかったかということ。


 しかし、その怒りの言葉は次第に嗚咽おえつに変わっていった。


「…馬鹿、もんが…! よく…よく、無事で…!」


 宗一郎は、娘を、子供にするように、強く、強く抱きしめた。

 その背中が、小刻こきざみに震えている。

 志乃は、父の温かい胸の中で、ようやく自分が本当の日常へ帰ってきたのだと実感し、こらえていた涙をとめどなく流した。


——そして、今。


 志乃は、磨き上げた小皿を元の場所へと戻した。

 父は帳場で、相変わらず難しい顔で、仕入れたばかりの掛軸かけじく検分けんぶんしている。

 いつもの古今堂の午後だ。


 だが志乃には、もう世界が以前と同じには見えていなかった。


 彼女の目には、店に並ぶ品々が放つ、微かな『気』が見えるようになっていた。

 長い年月を経てきた品が持つ、穏やかな光。

 持ち主の情念じょうねんが染み付いた品が放つ、よどんだ影。

 彼女の『鎮めの力』は、もはや神器に対してだけでなく、この世の全てのモノが持つ、声なき声を聞くための力となっていた。


 からん、と。

 店の格子戸が開き、一人の客が入ってきた。


「ごめんください。少し、変わったものを買い取っていただきたいのですが…」


 志乃は、布巾を置くと、静かに立ち上がった。


「はい、いらっしゃいませ」


 彼女の穏やかな微笑みは、以前と何も変わらない。

 しかし、その瞳の奥には、どんな珍品奇品ちんぴんきひんが持ち込まれようとも、決してどうじることのない、巫女としての、深く、静かな輝きが宿っていた。


 神阪志乃の、不思議な物語は、まだ始まったばかりである。






 毎日新聞社の編集局は、インクと煙草、そしてひといきれの匂いで満ちていた。

 鳴り響く電話のベル、けたたましいタイプライターの打鍵音だけんおん、そして怒号どごうに近い編集者たちの声。

 岸馬きしばすすむは、その喧騒けんそう只中ただなかにある自分の席で、山と積まれた資料と、吸い殻で溢れた灰皿を前に、一本の万年筆を握りしめていた。

 彼の目の前には、数日かけて書き上げた原稿の束があった。

 タイトルは、『帝都の闇にうごめく影、日鎮ヶ岳ひずめがたけに消ゆ』。


 それは、記者生命を賭けても余りある、あまりにも荒唐無稽こうとうむけいな物語であった。

 古物屋に持ち込まれた一つの石。

 謎の考古学者と、国粋主義の秘密結社『玄洋会げんようかい』。

 神代の昔から続くという巫女の血筋。

 そして、長野県の山頂で起きた、人ならざるモノとの死闘しとうと、奇跡。

 水上と、そして古今堂の神阪親子から聞かされた話を、彼は一つの記事としてまとめ上げたのだ。


「…馬鹿げてる、か」


 岸馬は自嘲気味じちょうぎみに呟くと、その原稿を手に編集長室の扉を叩いた。


 編集長の長谷川は、岸馬の原稿に目を通すうちに、そのしかめ面をますます険しいものにしていった。

 やがて原稿を机の上に放り出すと、心底呆れ果てたという口調で言った。


「岸馬、お前、少し休みを取れ。疲れてるんだ」


「ですが長谷川さん、これは…」


「にべもないが、公表は出来ん内容だな」長谷川は、岸馬の言葉を遮った。「確かに、オカルトや心霊学は今の流行りだ。だが、『ヨモツシコメ』だぁ? これは新聞記事じゃねえ、三文小説さんもんしょうせつだ。それに陸軍が絡んでるだと? こんな記事を出してみろ。明日には俺もお前も、帝都から消えてなくなるぞ」


 正論であった。

 岸馬は、ぐうの音も出ずに編集長室を後にした。


 自席に戻り、再び煙草に火をつける。

 記事にすることは、初めから無理だと分かっていた。

 だが、書かずにはいられなかった。

 あの少女が、そして友人が巻き込まれた事件の、あまりに巨大な真相を、自分一人で抱え込むには荷が重すぎたのだ。


 彼の脳裏に、水上から伝え聞いた、あの山頂での出来事が蘇る。

 彼が最も引っかかっていたのは、あの黒い怪異が、最後に告げたという言葉であった。


『その器、我らが主に捧げよ!』


『器』とは、志乃のことだろう。

 だが、『我らが主』とは、一体誰を指すのか。

 ヨモツシコメですら、誰かに仕える下僕げぼくに過ぎなかったというのか。


 海龍光太郎という柱を失い、手勢も瓦解がかいした。

 だが、玄洋会という組織そのものが、完全に消滅したわけではない。

 そしてその背後には、ヨモツシコメですら『主』と呼ぶ、さらに巨大な、得体の知れない何かが、今もなお帝都の闇に潜んでいる。

 全ては、まだ何も終わってはいない。


 岸馬は、書き上げた原稿の束を、丁寧に引き出しの奥にしまい込むと、鍵をかけた。

 これは、いつか来るべき時のために、自分が残しておくべき真実の記録だ。


 彼は、新しい紙をタイプライターに差し込むと、煙草の煙を吐き出しながら、別の、もっとありふれた事件の記事を書き始めた。

 帝都の喧騒は変わらない。

 人々の日常は続いていく。

 今はまだ、それでいい。


 だが、岸馬は知っていた。

 この平和な日常の、ほんの薄皮一枚下で、神代の昔から続く巨大な闇が、再び動き出すのを静かに待ち続けているということを。


<了>

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古今堂怪異綺譚 一宮九葉 @1miya9you

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