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 いさお志乃しのかばうように一歩前に進み出たが、そこまでだった。

 誰も動けない。

 目の前の存在が、自分たちの知るいかなる生き物のことわりをも超えていることを、本能で理解していたからだ。


 その凍りついたような沈黙を破ったのは、水上の、かすれたつぶやきであった。


「…まさか…」


 彼は、目の前の怪物が放つ圧倒的なプレッシャーに当てられながら、学者としての冷静さを失い、恐怖に染まる顔で、ぶつぶつと言葉をつむぎ始めた。


「…神宮文庫じんぐうぶんこの、最奥さいおうに封印されていた一冊の禁書きんしょ…。八坂翁やさかおきなの許しを得て、ただ一度だけ、そのぺーじをめくったことがある。そこに描かれていた、禁忌きんきの存在…。このことだったのか…!」


 人の形を失い、どろりとした影となり、邪気じゃきを放つ存在。

 彼の脳裏に、禁書に描かれていた、名状めいじょうしがたい存在の絵と、それに添えられた記述がよみがえる。

 それが目の前の光景と、恐ろしいほどに一致したのだ。

 水上は、こみ上げてくる恐怖によって全身が麻痺まひさせられていた。


(…ヨモツシコメ…。あれは、真実だったのか。だとしたら…だとしたら、我々に、打つ手など…)


 その時であった。


 ダァン!


 静寂を破り、轟音ごうおん閃光せんこう炸裂さくれつした。


 社の屋根の上で見張りに立っていた源兵衛げんべえは、社の中から響いた海龍かいりゅうの人間離れした叫びを聞いていた。

 何かが起きた。

 それも尋常じんじょうならざる何かが。

 彼は、音もなく屋根の傾斜けいしゃを滑り降りると、社の入口側の地面に、猫のように軽やかに着地した。

 そこで彼が見たのは、人ならざる黒い影であった。

 それが何であるかは分からない。

 だが、それが許されざる絶対の悪であることだけは瞬時に理解した。

 そして本能のままに猟銃りょうじゅうを向け、反射的に引き金を引いたのである。


 弾丸は、ぬめりとした黒い身体に、何の手応えもなく吸い込まれて消えた。

 まるで、何の痛痒つうようも感じていないようだ。


 だが、その轟音と閃光は、その怪異の注意を、ほんの一瞬だけらすには十分であった。

 そしてその一瞬の空白は、恐怖で麻痺していた水上の思考を、強引に現実へと引き戻した。


(そうだ…!)


 彼の脳裏に、ある一節が閃光のように蘇った。


(…ヨモツシコメは、黄泉よみけがれそのもの。これを滅するには、ただの力にあらず。の光を宿す神器じんぎと、龍脈りゅうみゃくの力を増幅ぞうふくする神器、その二つを、しずめの巫女みこが一つにする時、穢れをはら原初げんしょの光が生まれる…)


 陽の光を宿す神器…それは、今まさに自分が手にしている『陽霊ようれいの玉』。


 龍脈の力を増幅する神器…それは、床に転がっている『しずめの石』。


 そして鎮めの巫女…『志乃さん』。


 これしかない。

 水上は腹をくくった。


 猟銃が放った轟音と閃光。

 今その瞬間、怪異の注意が、入口に現れた源兵衛へと向けられていた。


 その千載一遇せんざいいちぐう好機こうきを、水上は見逃さなかった。


 水上は、勢いよく飛び出し、社の床に転がっていた『鎮めの石』を、鬼気迫ききせま形相ぎょうそうで拾い上げた。


「志乃さん!」


 水上は絶叫した。

 その声に、膝をついたまま動けずにいた志乃が、はっと顔を上げる。


「二つの神器を一つに!」


 水上は、右手に持った『鎮めの石』と、左手で布に包んだままの『陽霊の玉』を、社の中心にいる志乃に向かって、力任せに投げ渡した。

 二つの神器は、放物線を描き、志乃の胸元へと吸い込まれるように飛んでいく。


「させるか!」


 ヨモツシコメは水上の意図を察し、その黒い腕を伸ばした。

 しかし、それよりも早く巌の脇をすり抜けて、二つの神器は、志乃の胸元で一つになった。


 その瞬間、世界から音が消えた。


 志乃が、無意識のうちに二つの神器を胸に抱きしめた、その刹那せつな


 燦爛さんらん


 社の内部から、もはや光という言葉ではなまぬるい、純粋なエネルギーの奔流ほんりゅうが、爆発的に溢れ出した。

 それは、ご来光らいこうの輝きを千も万も束ねたかのような、圧倒的な金色の光。

 世界が、ただ光だけで満たされた。


 その光の中心にいる志乃の身体は、もはや人の形をとどめてはいなかった。

 彼女は、光そのものと化していた。

 彼女の内に流れる斎部いんべの血が、陽の光を宿す『陽霊の玉』と、龍脈の力を増幅する『鎮めの石』、二つの相反する巨大な力を媒介ばいかいとし、神代かみよの昔にのみ存在したという、原初の光を、この世に顕現けんげんさせたのだ。


「——あああああああああああああ!」


 光の中で、ヨモツシコメの絶叫が響き渡った。

 それはもはや声ではない。

 闇が光に焼かれる、断末魔だんまつまの叫びであった。

 黄泉の国より来たりし穢れのかたまりであるその存在にとって、この原初の光は、存在そのものを否定する猛毒もうどくであった。

 その黒い影の身体は、光に触れたはしから音を立てて蒸発し、消滅していく。


 水上と巌、そして入口にいた源兵衛は、そのあまりに強大な光の奔流に吹き飛ばされる。

 目を開けることすらできない状況だが、じりじりと肌を焼くような感覚は不思議と不快ではない。

 それは神々こうごうしい何かの熱を肌で感じるだけだった。


 やがて全てを浄化じょうかする光が、ゆっくりとその輝きを収束しゅうそくさせていく。

 光は社の中心、二つの神器を抱きしめる志乃の身体へと、吸い込まれるように戻っていった。


 そして、完全な静寂が山頂を支配した。


 男たちが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


 社の中心には、志乃が穏やかな表情で、気を失って倒れていた。

 その両の手には、『陽霊の玉』と『鎮めの石』が、まるで元から一つであったかのように、ぴったりと寄り添い、今はもう何の力も放たず、ただの美しい石として静かに握られている。


 そして、ヨモツシコメがいた場所には、もはや何も残ってはいなかった。

 どろりとした黒い液体も、アスファルトのような異臭いしゅうも、全てが跡形あとかたもなくせていた。

 ただ、その場所の床だけが、まるで雷に打たれたかのように、黒く焼け焦げていた。


 神代の怪異は、完全に消滅したのだ。


「…あれを見ろ」


 源兵衛が、社の外をあごで示した。

 結界の外で同士討ちをしたり、うめき声を上げていた玄洋会げんようかいの残党が、怪異の消滅と共に、その呪縛じゅばくから解放されていた。

 彼らは、目の前で起きた人の理を超えた奇跡と、あるじの消滅を前に、ただ茫然自失ぼうぜんじしつして立ち尽くしている。

 その目からは、憎悪ぞうおも、焦りも、全ての感情が抜け落ちていた。


 やがて一人が、ふらりと、まるで夢遊病者むゆうびょうしゃのように山を下り始めた。

 それに続くように、また一人、もう一人と、誰ともうわせたわけでもなく、無言で山頂に背を向けた。

 その足取りには、もはや何の脅威も感じられなかった。

 こうして、海龍光太郎の手勢はその主を失い、戦う意味そのものを完全に喪失そうしつしたのだった。

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