墨と刃

Rin

墨と刃

ゆらーりゆらり。のらーりくらり。


日々は単調に過ぎてゆく。刺激のない毎日に、自分という人間はすっかり渇ききっていた。彫りたいデザインが思い浮かばない、墨に対する欲望が枯渇していく日々を静かに過ごし、何か自分を奮い立たせるような出来事は起きないかと、夜の繁華街をふらついた。街はネオンが輝き、どこかのキャバレーから派手な音楽が外に漏れていた。


そんな浮かれた街からひとつ裏の路地に入ると、世界は一変する。この繁華街の裏の顔。金になるこの街は、ヤクザ共の格好の餌食だった。そんなヤクザの縄張り争いは、今日もまた繰り広げられている。


見慣れた光景なはずだが、私はある男に釘付けになった。サテンの黒シャツには金の牡丹と唐獅子が描かれており、胸元はざっくりと開いている。その胸元にも、捲られた腕にも、墨は一切見当たらない。背中にはあるのかもしれないが、なんとなく、真っさらな気がした。墨やバッジは見当たらないが、どう見ても極道だ。男はどうやら、後ろにいる年配の男の為に命を張っているらしい。年配の男にぴたりと体を寄せるもうひとりの若い男に目配せすると、男は拳を握った。



「おやっさん、ここは俺に任せて行って下さい。上谷、おやっさんを頼む」



「は、はい!」



ぎらついた目をして、年配の男を守る男に興味が湧いた。多勢に無勢、敵は五人いてドスまで持ってる。素手の男に勝ち目はないように思えたが、おやっさんと呼ばれる組長らしい年配の男と若いのを逃し、自ら盾になろうとする男の姿に片眉が上がった。


頬に赤い血飛沫を飛ばし、厚い胸板も赤く染める。殴られノされた敵の人間は、この街を長年支配していた強欲ヤクザの幹部と、その下っ端で、私は良い気味だと心の中で拍手した。なんとも惚れるような身のこなしと、義理堅い姿。ドスを構える相手に立ち向かえる肝の据わり方。良い男だ。


どうやらこの街に、新しい勢力がやって来た。私の追手ではなさそうだし、強欲ヤクザを潰してくれるらしい。圧倒的な強さを見せつける黒シャツの大男を見ながら、私は久しぶりに活力が湧いてくるのを感じていた。


男の黒く鋭い瞳と、鮮やかな赤い血と、滑らかな褐色肌。全てに喉が鳴る。この男の肌にこそ、私が夢見ていたあの地獄の一幕を描きたい。この男こそ、私が求めていた男だ。


男の肌が欲しい。


私は男の喧嘩を見つめながら頬を染めた。


………

……


今日もまた暇を持て余し、墨の下絵を片手に二階の窓から路地裏を眺めていた。変わり映えのない毎日に飽き飽きする。


あの男は今頃、街を走り回っているのだろうな。上手くいけば出世しそうな男だが、あーいう良い男は短命だ。私は男について調べていたが、行方までは掴めておらず、いつかここに立ち寄ってくれないかと夢見ていた。そうすりゃぁタダで入れてやるのになぁ。


その時、路地裏にひとりの男が逃げ込んできた。深い夜空に真紅を混ぜたような男の血は、真っ白なシャツをじんわりと赤く染め上げる。体温を奪うような冷たい雨が降りしきり、シャツに馴染んだ血が静かに流れて地面を赤くした。男の顔がちらりと見えた瞬間、心臓が跳ね上がった。


あの男だ。


うちの店と隣の中華屋の間にある細い路地裏、男はそこに逃げ込んで来たのだ。息を切らしながら、中華屋の大きなゴミ箱にずるりと力なく持たれ掛かった。力が抜けたようにそのまま座り込むと、必死に息を整えようとしている。肩で息をするその男が、疲れ果てている事は一目で分かった。腹部と左の二の腕から血が出ているようで、男は止血しようと二の腕の傷を押さえ、来た道を忙しなく眺めては、人影がない事に少しだけ安堵したようだ。


束の間の休息、というにはあまりにも酷い状況だろう。雨も冷たく、風も少し出てきた。男の二の腕の傷はかなり深そうで血は止まらない様子だし、腹部の傷だって軽くはないようだ。かなり体力は削られているらしく、今にも気を失いそうである。


手に入れるなら、今、だろうなぁ。私は顎を撫でた。


窓から離れて部屋を出ると、耳障りな軋み音を立てて古い木製の階段を下りる。玄関でビニール傘を手に取って、裏口から外へ出た。男は視界に私を捉えると、敵かと体を起こそうとするが、疲弊し切った体は言うことを聞かないらしい。ゴミ箱に寄りかかりながら、ゆっくりと立ち上がる事が精一杯だった。


頭の先からつま先までびしょ濡れのその男。白いシャツは肌に張り付き、健康的で美しい肌を透けさせていた。そしてやはり、背中にも墨は入っていない。男の前に立ち、傘を差す。男の怪訝な顔を見下ろした。



「あんたの肌、私にくれないか」



「……あ?」



「くれたらあんたを助けてやっても良い。傷の手当てもしてやるし、温かい風呂も用意してやる。美味い飯も鱈腹食わせてやるし、あんたが落ち着くまで匿ってやる。文句ない提案をしてると思うけど、どうする?」



「…何者だ」



「何者でもないさ。でもあんたを助ける理由はある」



「……肌、か?」



「あぁ。今はどこにも逃げ場なんてないだろう? この街はあんたを殺す事に躍起になってるようだからね」



男は眉間に皺を寄せるが、このままここにいるわけにもいかないと頭ではしっかりと理解しているらしい。だとするなら、肌をくれと言い出す男に頼るのが最善かと、考えている事だろう。



「肌、って何すりゃぁ良いんだよ。肌を削がれちゃ堪らねぇからな」



「削ぐ? そんな事するわけないだろう。あんたは寝てりゃぁ良い。ま、痛みで眠る事は出来ないかもしれないがな」



「…寝てりゃぁ良いのに、痛みで眠れない?」



「あんた、背中に何も入ってないンだろう?」



そこで男はようやく私の正体が分かったらしい。安堵したように溜息を漏らすと、頬を緩めながら俺を見つめた。



「そういう事か。お前さん、彫師かい」



「あぁ。四代目彫敷流、湊太郎。真っさらな体に、一生モンの覚悟、背負ってみないかい。あんたが頷けば、あんたの肌は私のもの。その代わり、あんたは好きなだけ私のとこにいて良い。どうする? 九条 景臣さん」



男の名前を伝えると、男の目は動揺の色を映して揺れる。



「なんで、名前を…」



「あんたが霧山一家の一員だって事も知ってる。だから手助けしてやろうって言ってんだ。どうする。早く決めてくれ。風邪、引きたくないんでね」



男はふらりと立ち上がると、「分かった、宜しく頼む」そう言って肩を並べた。


雨足は強まり、どこかで雷の轟音が鳴り響く。秋雨の冷たさにぶるりと身震いをしながら、男は私の店へと足を進めた。





消えた彫師に再会したのは、ひと仕事を終えた後だった。二年という年月が過ぎていたが、その彫師はまるで何もなかったかのように俺の目の前に突然現れた。


冷たい雨が降り、人っ子ひとりいない暗い夜の繁華街の路地裏。まるで、俺がそいつに助けられたあの日のようだった。



「あんたの肌、私にくれないか」



その彫師、湊太郎はゆるりと頬を緩め、熱を帯びた瞳を俺に向けて、そう言った。出会った日と同じ言葉を再び言われ、熱を含んだ瞳を向けられる。嬉しさと怒りが一度に込み上げ、混乱した頭と、どうしようもなく苦しくなる胸に、俺は深い溜息を吐いていた。


馬鹿野郎。急に消えやがって。どれだけ心配したと、どれだけ探したと思ってんだ。そう怒鳴り散らしたかったが、怒鳴る事なんて出来やしなかった。頭を掻きながら、一歩湊太郎に近付いて、傘を差してやる。風邪引くからと、濡れるのを嫌がっていたくせに、びしょ濡れじゃねぇか。



「さっさと続き、彫ってくれ」



たった一言、そう呟いた。湊太郎はその一言で俺の感情を読み取って、ふっと屈託なく笑った。


繁華街の外れにひっそりと店を構える腕利きの彫師、俺が心底惚れた男は二年もの間消えていたが、何ひとつ変わってはいなかった。


二年前、抗争真っ只中、腹と腕に傷を負った俺を、湊太郎は手当てしてくれた。真っ黒な切れ長の瞳はやけに涼しげだった。黒髪の前髪が艶やかに頬に掛かり、それをうざったそうに後ろに軽く流す仕草が、なんとも色香が漂う、そんな男だった。



「手当てしてくれたんだ、きちんと金は払わせてもらうぜ」



そう伝えたが、湊太郎は無表情に俺の目を見つめて言った。



「言ったはずだ。あんたの肌を私にくれないか、って。金は要らねぇから、肌を寄越しな」



あの日、そう妖艶に口角を上げた男を、一風変わった魅力のある男だなと思った。


湊太郎は俺の背中に何も入っていない事を知っていた。何故、今まで入れてなかったのかと理由を訊ねられ、俺は、一生モンの墨を何にすべきか、長い事決めかねていたからだと伝えた。湊太郎はへぇと顎を撫でる。だから俺は言葉を加えた。



「彫師を探してたんだよ。俺ァさ、惚れた男に彫ってもらいてぇんだ。腕が良いだけじゃ駄目だね。惚れた男に全てを託してぇ。全てを任せてぇ、そう思って探し続けてたら、今まで何も背負ってない、半端者の背中になっちまったって事よ」



湊太郎は、畳の上に道具を広げて準備をしながら俺を見上げる。



「なら、私で良かったな」



「やけに自信があるんだな」



「そうだね。あんたが惚れ込む程度には」



自信家な湊太郎に、俺は心を鷲掴まれた。長い事、真っさらな体だったのは、惚れ込むような彫師と出会わなかったからだ。なのに、何も知らない男に体を託したのは、敵ばかりのこの街で俺を助けてくれた恩からか、それとも男の態度に心を奪われたからか。男に惚れた、と言うには早計すぎるだろうか。この男になら、そう思った事に変わりはなかった。



「そりゃぁ楽しみだ。で、どうすりゃぁ良い?」



「濡れた服、全部脱いでこっち来な」



手招きされ、俺はベルトを外してスラックスも脱ぐ。下着一枚でどうすんだ、と目で訴えながら湊太郎の顔を見ると、「それも脱ぐんだよ」と表情変えずに言葉を吐かれる。言われた通り下着も脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿で布団にうつ伏せになった。布団からは甘い香の香りがした。湊太郎は、静かに俺の背中を指先で撫でている。どうやら肌を確認しているようだが、なんだか妙な心地になってしまう。



「良い肌だ」



湊太郎は傍に道具を並べると、下絵を確認し、背中に手早く写していった。背中を撫でる細筆の感覚が、くすぐったくも心地良い。



「あんたを探してたんだ」



ぽつりと吐かれた言葉に、俺は眉根を寄せた。



「俺を?」



「あぁ。覚悟を決めて、この世界で散る事を望んだ男だ。義理と人情を今の世でも貫き、肝の据わった良い男。今の世の中じゃぁ、そんな男、どこを探したってなかなか見つからない」



「へぇ。…俺とは昔、どこかで会ってたりすんのかい?」



「さぁ、どうだろうね?」



「何だよ、それ」



「そんなあんたが、まさかあんな汚くて細い路地裏で野垂れ死にそうになってるなんて、思いもしなかった。あんたほどの良い男が、今、地獄に連れて行かれるのは勿体無いだろう」



良い男、か。言われてつい頬が緩んでしまう。



「…へぇ、そうかい」



ぶっきらぼうに答えると、背中に絵を写し終えた湊太郎が、そっと俺の肩に手を置いて顔を覗き込んだ。視線が交わると、湊太郎は首を傾ける。



「さて、良いかい?」



「お前さんに全て託したんだ。いつでも構わねぇよ」



肌に刺さる針、皮膚に入り込む墨、溢れる血と墨を拭き取りながら、湊太郎は没頭した。何度も肌を刺す針に、体が強張るような慣れない痛みを感じる。平然を装うが、眉間にはどうしたって皺が刻まれる。


それでも真剣な顔をして彫り進める男の顔を見ると、この男の手で刻まれる事が嬉しく思えて仕方がなかった。針が肌を刺す度、その想いは強くなっていくようで不思議だった。


数日間に渡り筋彫りを完成させ、それから一週間、背中を休ませろと、何もせずただ居候の身になった。そうしてその一週間後、一部にようやく色が入る。鮮やかだった。雄々しくも甘美で、圧倒される鮮やかな色彩美だ。


一家の連中とは連絡を取りつつ、敵対組織がいまだに俺を探している事から、まだ隠れていろと指示を出される。どうやら自宅にも敵が張り込んでいると報告があり、俺は湊太郎に感謝しつつ、万が一を考えるようになっていた。もし俺を匿ってると連中が知ってしまったら、湊太郎だってタダじゃ済まねぇ。だから俺は背中に色を入れていた湊太郎に全てを吐き出した。なのに湊太郎は、手を止める事なく、まるで危機感も興味もないように言葉だけを淡々と吐いた。



「あんたの肌が欲しいからここに置いてンだ。私の仕事が終わるまでは、ここを出たいって言っても出してやる事は出来ねぇよ。だから出て行く、なんて勝手な事は言わないでほしい」



「けどなぁ、相手は武闘派なんだ。最悪、嬲られて弾かれる事だってあんだ。やっぱり俺ァ、一旦どこか別の場所に…」



「しつけぇよ。さ、細かい所に取り掛かるから、あんたも集中しとくれ」



一蹴された。俺もここがバレると思えなくて、今は一旦湊太郎の厄介になろうと口を歪めながら考えていた。


湊太郎は相変わらず真剣な顔して仕事をした。鈍く重い痛みも、慣れると妙な感覚を覚えていく。男の影を痛みと共に刻まれているようで、胸がトンッと跳ね上がるような妖しい感覚だ。



「良い顔するようになったな」



ある日、背中に色を入れながら、突然そう言われる。瞬間、あぁ、そういう事なのかもしれねぇなと、口角を上げて湊太郎を見上げた。



「お前さんの手で刻まれる墨は、なんだか妙な心地になるもんだ。心地良さすら感じンだ。不思議だよ」



「……あんた、この痛みが心地良いのか」



湊太郎の熱っぽい笑みを見て、充てられた気がした。否定したい気持ちがある一方、流されたい気持ちもある。参ったな。参ったが、禁断の果実ほど美味いもんだ。



「そうだなぁ。お前さんだからだろうな」



施術を終えた後、湊太郎はそっと俺の首筋を撫でた。



「なぁ、あんた。私のもんになる気はないか」



湊太郎の低い声に腹の底が疼いた。そっと上体を起こして、湊太郎を煽るように片眉を上げて上目に見つめる。



「良いぜ。でも、生ぬるいのは嫌いなんだ」



その日から毎日毎日、繰り返す。互いに発情期の動物かのように求め合っては、熱をぶつけあった。合間合間に墨は増え、背中に刻まれた地獄の炎と閻魔大王に色がつき、完成した。その迫力たるや、圧巻、の一言である。俺は鏡越しでしばらく見入ってしまっていた。



「良い出来だ」



湊太郎自身も、かなりの力作だったらしい。満足そうに口角を上げた。


腕と腹の傷も癒え、背中の刺青は完成する。出会いから二ヶ月ほどが経っていた。一家から落ち着いたから戻って来いと報告を受け、俺は改めて湊太郎に礼を言った。湊太郎は俺の髪をすきながら、優しく口角を上げる。



「あんたのこれはまだ終わっちゃいない。いつか首からその足首まで、全部私に刻ませてほしい」



「総身彫か」



「あぁ」



「分かった、良いぜ」



「即答するんだな」



「俺の肌はもうあんたのもんなんだ。好きにしてくれ」



「ふふ、そうか。気ぃ付けろよ」



「お前さんもな。ここら辺の治安は終わってんだ」



湊太郎はふっと優しく微笑むと、手をひらりと振って俺を見送った。


そして突然、湊太郎は俺の前から消えたのだ。


組事で何だかんだと慌ただしい毎日を送り、落ち着いたなと、ようやく湊太郎のもとを訪れると、あの建物には違う男が住んでいた。別れた日からはまだ一ヶ月しか経っていないと言うのに、その建物には知らない男が雑貨屋を経営し、二階の居住フロアもそのまま男の住処となっていた。


狐につままれた気分だった。どうしたものかと、その知らない男に、彫師がいたはずなんだが、と訊ねるが、前の住人については何も知らない、と言いやがる。いつから住んでるのか、と訊ねると、もう一ヶ月近く住んでる、と答えが返ってくる。一ヶ月前なんて、俺達が別れてすぐに手放した、という事だろう。何があった? どうして。隣の中華屋に聞くも、知らないなと肩をすくめられ、湊太郎の手掛かりになるような情報は一切なかった。


背中の地獄と閻魔大王が、確かに湊太郎という男は存在していたと証明するだけで、どこを探しても男の行方はさっぱり分からなかった。


それから二年。どうした事か。今、その男が目の前にいる。



「で、言い訳は考えて来たのか」



目を細めて男に言うと、男は肩をすくめた。



「何のだろうか」



「何のだろうかって、突然俺の前から消えた事に対してだろ」



「あんたに声を掛けるべきだったのか?」



「あ?」



「私達は別に恋人同士だったわけではないだろ? 互いに深く干渉しなかった。それは確かだと思うけど?」



確かに愛だの恋だの、この男も俺も言った事はないが、どう見たってあれは知人という関係ではないし、こいつの行為全てが執着の現れだった。二年も消えていたくせに、謝罪のひとつもないなんて腹が立つ。



「自分のものになれと言ったのは、そっちじゃなかったのか」



「そうだね。あんたは私のものだよ。あの時からずっと。そうだろ?」



さも当たり前かのように言いやがる。俺は頭を掻いた。



「お前さんなぁ…」



「でも、律儀に私を待っていなくたって良かったんだよ」



それが出来ないと分かっている顔だった。



「一発、殴ってやろうか」



舌打ちを鳴らして睨むと、湊太郎はふっと笑い、一度笑うと何かが決壊したように肩を震わせて大きく笑い出した。



「やめとくれ。痛いのは嫌いなんだ」



まったく。なんなんだ、この男。



「…もう二度と、消えんじゃねぇぞ」



そう湊太郎に釘を刺すと、湊太郎はそっと肩を並べて俺を見上げた。



「消えた理由、聞かないのか」



「聞いて、素直に答えてくれるとは思えねぇからな。今は聞かないよ。言いたくなったら、お前さんは自分の口から言ってくれると信じてる」



「へぇ、そうか」



「でも、これだけは約束しろ」



「何だい」



「もう二度と消えるな。何があっても、俺の前から突然消えるな。良いな?」



「分かったよ。悪かった。もう消えたりしないよ」



湊太郎はふふっと口元を手で隠して笑った。


湊太郎という男は不思議な男だ。だから、もう消えたりしない、と言いながらまた突然消えてしまう事もあり得るのだ。何を考えているか分からない男の瞳を見ながら、俺は考えていた。少し、湊太郎という身勝手な男を試してやろうか。少し揶揄ったってバチは当たらないだろう。


湊太郎は二年前と同じあの建物に戻って行く。まるで何もなかったかのように、鍵を開け、中へと俺を招いた。中はまだ荷物が散乱していたが、前の利用者が綺麗に使ってくれたらしかった。施術室の畳は多少古くなっているが、目立った綻びはない。布団を敷くと、真っ白なシーツを被せ、前と同じように道具を並べる。



「服、脱いでこっちに来な」



あの日と同じように湊太郎は声をかけると布団をポンと叩いた。ジャケットとスラックスをハンガーに掛け、シャツを脱ぎ、下着も脱ぎ捨てる。一矢纏わぬ姿でうつ伏せに体を寝かせた。



「この二年で色々と変わったんだぜ?」



背中を見せながらそう口にする。湊太郎は彫る場所を決めているのだろう。臀部から太腿に掛けて消毒し、肌を確かめながら、「例えば何が?」と興味なさそうに訊ねた。俺はにやりと笑って答える。



「結婚したんだよ、俺」



湊太郎の手が案の定止まる。そして数秒、俺の顔をじっと見たあと、目を細め、苛立った顔を向けた。



「いけねぇな。そういう嘘は、タチが悪い」



「嘘って何で分かンだよ」



「結婚指輪してないだろ」



「しない夫婦だっているぜ」



「じゃぁ、どこの誰と結婚したんだよ」



「教えねぇよ。お前さんが二年もの間、俺を放ったらかしたのがいけねぇんだろ」



わざとらしく拗ねて見せるが、頬の緩みはどうしたって戻らない。湊太郎の手が伸び、影が落ちる。冷たく鋭い瞳が俺を捉え、俺はさすがに視線を逸らした。すると頬を鷲掴まれ、無理矢理に視線を戻された。



「どこの女だ、そいつ」



ドスの利いた低い声。極道の俺ですら肝を冷やすような声色だった。でも同時に、そんなに腹が立つ事なのかと、笑みが溢れて仕方がない。



「さてね。悩みまくって頭ン中を焦がしちまえよ」



「…何だと?」



怪訝に苛立った湊太郎の顔を見ながら、俺は体勢を変えた。仰向けになり、湊太郎に腕を伸ばす。



「どこの女だったろうかなぁ」



そっと湊太郎の髪に触れた。



「黒髪が頬に掛かるのが色っぽくてよ、」



次に首筋を指の背で撫でる。



「雪みたいに真っ白な肌に映える釈迦如来は圧巻でよ、」



そしてじっと煽るように上目に見つめた。



「切れ長の熱っぽい瞳に見つめられたら、何も考えずに、ただただ流されちまいてぇ、そう思わせるような上玉だ」



そこまで言うと、湊太郎は片眉を上げた。



「へぇ、そうか。上玉か」



「とんでもねぇ上玉よ」



俺がケタケタと笑うと、湊太郎は深く溜息を吐いた。



「…結婚が、嘘だと分かっていても焦るものだな」



「あ? 本当かもしれねぇぞ」



「あんたの周辺でそれに該当するような女、見た事ねぇよ」



「いるかもしれないだろ?」



「いてたまるかよ」



嫉妬するくらいなら、最初っからいなくなんなよ。そう口をついて言いそうになったが、こくんと飲み込んで、そっと顔を近付けた。



「でも、お前さんがいなかった二年間、それなりに遊んだよ。良い女もいっぱいいたなぁ。女は良いよ。柔らけぇし、優しいもんな」



煽ると、湊太郎の睨むような視線が俺を捉える。良いな、その目。そうやって睨むくらいなんだ。俺の事、まだちゃんと執着してんだろ。



「お前さんとのまぐわいなんて、忘れちまったかもなぁ」



途端、ぷつりと何かが切れたのが目に見えて分かった。そのまま気付けば俺は天井を見つめていたが、俺の上を取った湊太郎の乱れた髪が、またいやらしく頬に張り付き、俺はにやりと笑って、その髪を横に流した。湊太郎は苛立ちを顔に出していたが、俺が咄嗟に髪に触れて笑みを溢していたからだろう、苛立ってる事に呆れて笑い出した。俺のその手を取って軽くキスを落とし、首を傾ける。キザな男だ。



「焦る必要なんてなかったな」



「何?」



「あんた、もう女抱けねぇだろう」



面と向かってそう断言される。嫌な男だ。



「余裕取り戻したお前さんの顔、腹が立つなぁ」



「けど、焦ったのは事実だ。結婚という言葉に、心臓が凍り付いた。二度とそんな嘘は吐かないでくれ」



「ふふ、…やぁだね。お前さんが消えたから吐いた嘘だろうが。お前さんが消えなきゃ、そんな嘘も吐かねぇさ」



「そうか、…そうだな」



湊太郎はそう言って頬を緩めると、そっと指と指を絡め、頭上で縫い留めた。じっとりと甘く視線を交わすと、深く、深く、互いの熱を感じでは唇を重ねた。二年という空白の時間を埋めるように激しく、互いを求め、脳みそを快楽に溶かし続けた。



「そのまま寝落ちるなよ」



散々まぐわっても、湊太郎はけろりとしている。けろりどころか、早く墨を入れたいと半ば興奮しているようだった。シャワーを浴びた後、うつ伏せに寝かされ、欠伸をひとつする俺を横目に、湊太郎は臀部から太腿までの筋彫りを進めていく。重く鈍い、懐かしい痛み。彫り終わると、湊太郎はじっと俺を見ていた。



「何?」



訊ねると、湊太郎は「いや」と否定しながら道具を片している。否定しつつも体は素直だ。散々まぐわった後だからと、気を使ってくれてるらしい。阿呆だな。


腕を伸ばして雪崩れるように体を重る。空が白くなる頃、俺はシャツを手に取って着直した。



「帰るのか」



「あぁ。一家の警護を固めにな」



「あんた、またここに住めよ」



「へぇ、嬉しいね。有難い誘いだ。でも、今はできねぇ。本家と揉めちまってさ。ちょっと厄介な状況にいるんだ。…だから、俺があんま出入りしてっと、あんたにも迷惑掛かる」



「前も似たような状況があったな。そんなの関係ねぇよとあんたを家に置いていたが、今回は本家か。私が無理矢理にあんたに住めと言ったところで、あんたは住まないんだろうな」



「悪い。外道な連中がチラホラ出て来やがってサ。本家と揉めてる今、いつどこで、誰の家族が狙われるかも分からねぇ。だから、もし俺とお前さんの関係が知れたら、騒がれた挙句、お前さんに危害が加えられるかもしれねぇから。それだけは避けてぇんだ」



「…そうか。あまり我儘を通すべきじゃぁねぇな」



「あ、でも、絶対に消えんなよ。また少し間が空くかもしれねぇけど、次来た時に、知らないやつがここに住んでたら、その時は本気でお前さんを許さねぇからな」



「ふふ、分かったよ。今度は私が待つ番だね?」



「お前さんみたいに二年も間空かねぇよ。来週にはまた顔を出す」



「分かった。気を付けろよ、景臣」



「おう、またな、湊太郎」



そうして、誰にも見られないようにコソコソと湊太郎に会いに行き、墨を増やしては、空が明るくなるまで交わり続け、明け方にまた一家に戻る。


だが淡々と状況は悪化し、どこかで銃声が響くようになった。劣勢を変えるには、誰かが敵陣に突っ込み、その命と引き換えに、敵の親玉を討ち取るしかなかった。俺は深く息を吸って、深く吐く。ここで恩を返すしかない。おやっさんの為に散る、それが俺の宿命だ。


最後くらいは格好つけさせてもらおうか。


俺は、おやっさんに直々に申し出た。その場には若頭も同席していた。若頭は俺の提案に眉根を寄せるが、すぐにいつもの表情に戻った。



「無事に戻って来ればお前にちゃんと褒美をやろう。そうだな、若頭補佐のポストはどうだ。なぁ? 弥永、どう思う? お前の補佐役、長い事つけてなかったろ」



「はい」



「よし、決まりだ。頼んだぜ、九条」



「ありがとうございます」



頭を深く下げ、昔の恩を噛み締めながら、俺は組を後にする。事務所を出てすぐ、電信柱の影から男が現れた。



「本当に、行くんだな?」



湊太郎という男は本当に不思議な男だ。まるで俺がどこに行こうとして、何をしようとしているのか、全て分かっているような言葉を吐くのだから。



「あぁ」



「そうか」



でも引き留めるわけでもなく、悲しそうにするわけでもない。そうか、と呟いただけだった。そうしてそっと、肌蹴たシャツの隙間から、冷たい手を滑り込ませると、トンと軽く胸の筋彫りを指の背で撫でた。



「私は惚れた男しか彫らないって決めてンだ。彫ったら何があっても最後まで完成させる。だから死ぬなんて許さねぇよ」



「あぁ、死なねぇよ。あんたには、首から足首まで、彫ってもらわなきゃならねぇもんな」



死が怖くない、と言ったら嘘になる。


しかし己を奮い立たせなければ、前には進めなかった。怒号と悲鳴と銃声と、鼻をつく硝煙の匂い。自分を鼓舞させて突き進むしかなかった。握っていた銃の引き金を引き続け、弾が切れればドスに持ち替える。ドスを振り回し、血を浴び、頭の中が真っ白に。気付けば辺り一面が真っ赤だった。これが、地獄か。閻魔の世界。


帰らなきゃ。帰らなきゃ。あいつに会って、体の地獄を完成させなきゃ。


頭の片隅で考えながら、一歩、一歩と、静まり返ったその場所を後にする。運転を当てがわれた日野谷という若い男は、俺が車に乗り込むと、アクセルを踏み抜き、急いでその場を後にした。


だがわたわたと忙しなく、次第に俺より顔面蒼白になっていった。俺は静かに呼吸を整え、腹に手を当てながら外をぼうっと眺めていた。



「あ、兄貴、しっかり! しっかりして下さい!」



「うるせぇよ。これくらい平気だ、馬鹿野郎」



だらだらと真っ赤な血がシートを濡らしていく。コツンと窓ガラスに頭を預け、あまりの疲労に目を閉じる。


湊太郎との約束、守れなかったなぁ。あいつ、怒るだろうか。悲しむだろうか。……あいつと一緒に平穏な暮らしってのを、送ってみたかったな。また一緒に寝起きして、どうでも良い事ばかりを喋って、そんで…。



「あ、兄貴! びょ、病院すぐそこですから! 兄貴、ダメっすよ! 兄貴! 兄貴!」



ぷつりと意識を手離した。


だがゆるりと釈迦如来が蜘蛛の糸を垂らした。…ってのは、悲劇的な結末だったろうか。なら俺は素行が良かったんだろう。糸に縋り付いて這い上がれたらしい。


ふっと、目の前が明るくなった。何が起きたのか、一瞬分からなかったが、しばらく白い天井を眺めた後、視線を左右に動かして理解する。一家が抱えている病院だと理解するのに、時間は掛からなかった。俺をこの世に戻した男は、俺の手を握りながら突っ伏して眠っていて、俺はゆっくりと呼吸をしながら、そっと男の髪を撫でた。



「湊太郎、」



その声に、湊太郎はふと顔を上げる。俺を見ると、驚いたように目を見開き、体を硬直させていた。数秒、「何、死の淵に立たされてンだ」そう呟くと、手を強く握り締めて目を赤くする。



「悪かった」



「遅ぇお目覚めだな」



「ふふ、地獄にはまだ行けねぇってよ」



「馬鹿野郎」



安堵し切った湊太郎の顔を見ながら、俺の心の中にはある決意が固まっていた。死を覚悟した最後の瞬間、心底思った事だ。決意を固め、意志を強く持ち、俺は退院と同時におやっさんの元へ行き、土下座した。



「一家を、抜けさせてくれませんか」



おやっさんは着物から長い足を滑らせて足を組むと、葉巻に火を点けて、深く煙を吹き付けた。



「頭ァ、上げな。一家の為に命張ったお前ぇの望み、聞かねぇやつなんていねぇよ。だが、あと一週間、くれねぇか。一件仕事を任せたい」



「仕事ですか…、分かりました」



やはり簡単には足を洗わせてはくれないのだろう。指も詰めない、金もない、これでは話にならないという事なのだろうか。そう思っていたが、その仕事内容を聞かされて、そんな季節だったなと、つい笑みが溢れた。


仕事当日、おやっさんは浴衣姿でそっと俺の隣に立った。



「これが終わったらお前はもう堅気だ。俺の子じゃぁなくなるが、健康に幸せに過ごせよ」



「おやっさん……」



「所帯、持つんだろ?」



「え?」



世帯を持つ、なんて言ったろうか。首を傾げていると、おやっさんは豪快に笑った。



「弥永が言ってたぜ? お前がすっかり惚れ込んでるってな」



カシラが? なぜ…。俺が所帯を持つから辞めるだなんて、どこから出た噂だろうか。



「守るもんができたんだ。お前は立派な男よ。幸せにやれよ、じゃぁな」



おやっさんが去った後、俺はひとり考えていた。俺が所帯を持つと、カシラは何故考えたのか、そう頭を傾けて考えていた俺に、その悩みの種が「よう、」と目の前に現れた。


ガタッと勢いよくパイプ椅子から立ち上がり、「ご苦労様です」と頭を下げる。



「ちょっと飯、付き合え」



「は、はい!」



丁度良い機会だなと、俺は若衆にその場を任せて、そのままカシラと共に小さな居酒屋に入った。カシラがケツモチしているその店で、奥の個室に通される。酒を少しだけ貰い、労いの言葉を受けた後、カシラは話の要を据えた。



「いよいよだな」



「は、はい。カシラには本当に世話になりました」



「…なぁ、九条。お前、彫師の湊太郎とはデキてんだろ」



え……。カシラから言われるとは思わず、面食らって固まってると、カシラは「図星だな」とにやりと笑う。



「何年前だったか、お前、湊太郎に匿われて命拾いしたろ。そん時からか?」



「…は、はい」



「そう叱られた犬みたいな顔すんな。おやっさんには、お前の相手が男だって事は言ってねぇよ。あの人、ちょーっとそういう所は堅いからサ。でも所帯持つつもりらしいから、近いうちに組抜けたいって言う可能性があるって予め伝えてたンだ」



「そう、だったンすね。だから自分が話した時、スムーズに承諾してくれたンすね」



「まぁ、俺が言った時も、渋らなかったぜ? お前みたいな芯のある男がいなくなるのは痛手だが、お前の幸せを壊す権利は誰にもないってよ。ま、お前は命張ってこの霧山一家を助けたんだ。おやっさんも功労者であるお前の願い、拒否できねぇだろうよ」



「あの、カシラはどうして湊太郎の事を?」



「とんでもなく腕の良い彫師で、客を選ぶってんで有名だってのがひとつ。それと、あいつの古巣とちょっと関係あってな」



「古巣…ですか」



「そ。古巣だ。お前を呼び出したのも、あいつの事を知っておいた方が良いと思ってな。余計なお世話だと言われるかもしれねぇが、お前だっていつかは知る事になるだろ。そん時に、知らなかっただの、何だのと、あいつから離れる理由になってほしくないんでね」



「カシラと湊太郎は、関係が深いンすね」



「深くはねぇよ。ただ、長ぇだけだ。あいつの育ての親、知ってるか」



「い、いえ」



「東雲組って老舗博徒の親分でね。実父は名の知れた彫師だったが、病気で若くして亡くなった。母親はあいつを産んだ時に亡くなっちまってね、父親がひとりで育てていたが、病には敵わなかった。で、実父の大親友だった男、その親分が、湊太郎を育て上げたってわけだ」



「東雲組って、あいつ、そんな有名な所にいたンすね…」



「まぁ、でもあの親分との間に何かあったらしい」



「問題、という事すか」



「親分は、湊太郎に妙に執着してたんだ。絶対に手離さないって、異常なほどの執着だったし、彼を見る目が他とは随分違った。息子として育てていたわけだし、可愛いかったのだろうと思ったが、何だか少し違うような気がしてね。とは言え、湊太郎は何も言わなかった。しばらくは組のお抱え彫師として組にいたし、表立った問題はないように思えた。が、ある時、彼は夜逃げのようにその屋敷からも、街からも出て行って戻らなかったんだ」



「え、……それじゃぁ今の今まであいつは…」



「まぁ、最後まで聞け。お前が危惧するように、彼には追手がいた。とはいえ、彼に危害を加えようとする連中じゃねぇ。組に戻ってもらうよう、説得する連中だが、親分と何かがあって組を出た彼からすりゃぁ、鬱陶しかったろうし、鬼の手先とでも思ってたかもな」



「……そう、だったんすね。でも今の店、結構古そうですよね? バレずに、あそこにずっといたンすか」



「組出てから色んなところを転々としたらしいが、すぐに今の店に落ち着いたらしい。あそこは元々、敷彫流の名の知れた彫師のじぃさんがいて、昔は別の組があの一体牛耳ってたからな。そのじぃさんもお抱えだったから、他の組の人間は街にすら入れなかったんだ。だから東雲組ですら街を探せなかったんだろう」



「なるほど。賢い、すね」



「あぁ。んで、彼はあの場所で着々と名を上げた。あの親分も、最初は必死になって部下を使って探させたが、見つからず、時は経ち、湊太郎が彫師として有名になった頃には、ただただ、アイツに会いたいと言うだけの老人になっちまってた。それで、もう最期だろうってなった時に、組の人間が彼の元に行ったんだ。街を仕切る組も随分と変わっちまって、東雲の連中も踏み込みやすかったろう。店に直接来て、彼に頼み込んだらしい。彼は随分と躊躇い、悩んでたが、何かが彼の気を変えた。結局は義理堅い男だった、ってだけかもしれねぇが、彼は育てた親を看病して最期はしっかりと看取った。しがらみも何もない、追手が来るかもしれないと怯える事もない。彼はしっかり筋を通して、再びこの街に戻って来た。… 湊太郎には、そんな背景があるんだ。それを、お前には分かっていてほしい」



「はい」



俺は深く頷いた。何があろうと、どんな過去を背負ってようと、俺が湊太郎に抱く感情は何ひとつ変わらない。ただ、ひとつ気になった。



「…あの、ひとつ聞いて良いすか」



「何だ」



「湊太郎は俺の前から二年くらい姿を消して、今年になってふらっと現れたんです。……つまり、この二年間はずっと、その東雲組にいて、その親分の看病をしていたという事でしょうか。無事に看取った、って事なんでしょうか」



「あぁ。お前に何も言わなかったのは、探られたくなかったんだろうな」



「親分との間に、何があったか、ですか」



「あいつにとってあの組は、忘れたい過去でもあるだろうから。とは言え、俺も深くは知らねぇんだ。俺があそこにいた時は、随分な若造だったからよ」



「俺は、どんな過去があろうと、あいつの側にいるって決めました。…あいつが俺を求める限りは、ずっと支えていくつもりです」



「そうか」



カシラは優しく微笑むと、安堵したようにタバコに火を点けて、ゆっくりと吐き出した。



「で、あの…カシラは元々、東雲組にいたンすか」



「あー、言ってなかったな。俺の古巣、実は東雲組なんだ。随分と昔の話になるけどな」



「そ、そうだったんすか…」



だから付き合いが深くはないが、長いのか。



「湊太郎は組にいる時から惚れたやつしか彫らないって言い張ってさ、一丁前な事言って、何度か親分に殴られてたよ。ふふ、でも人として惚れ込むような男には真剣な顔をして向き合ってた。組にいた時は、たった三人しかいなかったが、その三人は確かに良い男だったよ。でも、そういうやつはやっぱり短命でさ。あいつは、人の死ってのも間近で見過ぎたのかも知れねぇな」



「………そう、でしたか」



「話しは以上だ。さて、俺はそろそろ出なきゃならねンだが…」



そう言って時計を確認しては落ち着きをなくすカシラに、何事だろうかと首を傾けていると、トントンとドアがノックされる。「入れ」とカシラに言われて顔を出したのは、なんと湊太郎だった。



「湊太郎!」



目を見開く俺に、湊太郎は俺ではなくカシラを見つめた。



「……どういうつもりなんです、弥永さん」



「どうもこうもありませんよ。飯食って、互いに色々と話したい事でもあるかと思いまして」



カシラが敬語だという事に驚いた。そうか、湊太郎は本当にずっと組の中で育ってきて、その時からカシラと繋がりがあったのか。湊太郎は頭を掻くと、席を立ったカシラと入れ替わりで席に腰を下ろした。



「あ、そうだ、九条」



カシラは部屋を出ようとして、何かを思い出したように声を掛ける。



「最後の仕事、明日で最終日だろ? 手ェ抜くなよ。田上さんとこの坊ちゃん、明日来るらしいからよ。今年こそはって息巻いてやがるらしいから、頼んだよ」



「は、はい!」



頷くと、カシラはふっと笑みを落とした。そしてポンと湊太郎の肩に手を置くと、見た事のない優しい顔を見せる。



「薫さん、幸せになって下さい。それじゃぁ」



カシラは去り、俺は頭を深々と下げ、ドアが閉まる音が聞こえた後で顔を上げる。湊太郎は眉を寄せたまま、静かに深呼吸をひとつだけした。



「まったく…」



「……薫、ってお前さんの事か」



空のお猪口に徳利で日本酒を注ぎ、湊太郎に渡しながら訊ねると、湊太郎は「あぁ」と呟いて、日本酒をくいっと飲み干した。そして俺の目を見つめる。



「本名言ってなかったな。朝比奈 薫ってんだ。女みたいな名前だろ? 好きじゃねぇんだ」



「朝比奈 薫、か。綺麗な名前だと思うが、お前さんが嫌なら、俺はお前さんを湊太郎って呼ぶ事にするよ」



そう伝えると、湊太郎は深い溜息を再び吐いた。何か気に障ったろうかと思うが、そうじゃないのだろう。



「なんだよ」



「いや、あんたは私の過去なんて気にもしないんだなと思ってね」



「気にならねぇ、…と言ったら嘘になるぜ? けど、言いたくねぇなら言わなくて良い。何かがあって、あんたは意を決して東雲組なんてデケェ組織を飛び出したんだろ。我慢ならねぇ事があったんだって事くらいは、想像つくからさ」



「弥永さんから、聞いたんだな」



「あぁ」



ぽつりと吐いた後、湊太郎はくっと日本酒を搔っ食らうように二杯ほど一気に飲み干した。そして口を開く。



「育ての親、その東雲組の親分は大変態のクソジジイでさ」



やっぱり、そういう事か。ならこいつは、子供だった頃にそのクソジジイの餌食になっちまって、事だろうか。胸糞悪いなと、想像しては手が震える。



「私の名前が薫だってのと、子供の頃の私は随分と中性的な容姿だってので、あの人は私を女みたいに扱ってた」



奥歯をぎりりと噛み締める。最後まで話を聞こうとするが、胸糞が悪くて吐き気を覚える。目の前にいる湊太郎が平然と、淡々と話している事も、かえって俺の気持ちを波立たせるようだ。



「何かにつけて、可愛いね、美しいね、綺麗だね。お母さん似だね、俊之助…、父の名なんだが、俊之助に似なくて良かったね、ずーっと繰り返してた。挙句にフランスから取り寄せたらしいフリルのついたドレスを着せて、女の子が欲しかったと、笑顔で話すイカれぶり。最新のカメラを買ったと喜んで、一日中撮りまくる始末よ。イカれてるだろ」



ん…?

いや、まさか女の格好させて、こいつに手を出したって嫌な展開があるのかもしれない。しかも撮影までされたとなりゃぁ、トラウマだ。笑い話じゃねぇ。



「あの人には息子がふたりいるんだが、どっちとも柔道部で厳つい男らしい男なんだ。…ふふ、私は良い男だと思ったが、娘が欲しかったらしいあの人からすりゃぁ、涙ものだったろう。で、来る日も来る日も、可愛い服着せて愛でてきやがってよ。な? 気持ち悪いだろ」



「………あ、え? 終わり?」



「あぁ。気持ちの悪い話しして、悪かったよ」



「……す、すまねぇ、どの辺が? あ、いや、女の格好させられて、もしかして襲われたり…」



「襲われる? 誰が、誰に」



「いやいや、俺ァ、てっきりお前さんが暴力を振るわれて……」



「何言ってんだ、あんた」



呆れたな、と顔に書いてある湊太郎を見ていると、ふつりふつりと笑いが込み上げてきた。



「いや、でもまぁ、女装させられてたのか。ふふ、俺も見たかったな。チャイナドレスとかよ、似合いそうじゃねぇの」



「殴ろうか」



「悪かったって。お前さんにとっては、思い出したくない過去だったんだよな?」



「気持ち悪いだろ。マリーアントワネットみたいなドレスを着せられて、写真を撮られるんだぞ。殺意を覚えた」



想像したら、どうしても可笑しくて肩が震えた。緊張と緩和というやつだろう。こいつが、育ての親の暴力の餌食にならなくて良かったと、心底安堵したし、マリーアントワネットみたいなフリフリふわふわなドレスを着せられるこいつを想像しては、腹が千切れそうになる。



「弥永さんに言っておけよ。多分、俺と同じように勘違いしてると思うから」



「誰がこんな恥ずかしい事を言えるかよ。あんたは軽く考えてるだろうがな、良いかい、隙あらば女物の服を着せられて、可愛い、綺麗を連呼され、愛でられ、写真を撮られるんだぞ」



「ふふ、そうだな、お前さんはそれが嫌だったんだもんな?」



「何だよ、その言い方。誰でも嫌だろうが」



「ふふ、悪い。笑うつもりはねぇんだけどよ。可愛いくてよ」



「あ?」



「見た目がとかじゃなくて、なんか想像しちまって。可愛い服着せられて、無愛想な顔して突っ立って、老舗博徒の大親分に写真撮られまくって、それを長年嫌がって家出したお前さんがさ」



「突っ立って、って言うけどな、ポージングもさせられるんだぞ。日傘とか持たせられて、笑えって。着物なんか100万くらいのを買い与えられてよ、どうすれってんだよ。怖いんだぜ、あのクソジジイ。イカれてんだよ」



腹が痛い。笑いすぎて頬も引き攣りそうだ。こいつが嫌がれば嫌がるほど、どうしようもなくおかしい。



「ポージングしてやったのかよ」



「そりゃぁな。女が見るような雑誌わざわざ買って、一通りのポージングはしてやったよ」



「雑誌買ってポージングの勉強してんなら、乗り気じゃねぇかよ」



「乗り気じゃねぇよ。勘弁しろって。ただ上手くポーズ取ってやりゃぁ早く済むから」



ダメだ、腹が痛い。涙まで溢れ出て、テーブルに突っ伏して肩を震わせてしまう。我慢しようとすればするほど、笑いは止まらないのだ。困ったもんだ。



「親分さん、どうしても女の子が欲しかったんだな?」



「だろうなぁ。俺を薫ちゃんって死ぬまで呼んでたからな」



「じゃぁ、お前さんの体見たら、どう思うんだろうな? 今のお前さんは、男らしい体に、惚れ惚れする墨を入れてよ、そこら辺の極道者よりそれらしい見た目だぜ?」



「あー、それに関しちゃ笑っちまうよ。16の時にはもう今と体型変わってないからさ、当時から男らしく見られるはずだったんだ。墨も背中に入れ始めていたからな。女らしいのが好きなら、白けさせるように、って鍛えて、墨まで入れて、あの人に上裸見せたらさ、あの人、いやぁ立派だ、美しい、美しい、って私の釈迦如来の筋彫りに拝み始めちまってさ。話しになんねぇんだ」



まったく、と湊太郎は頭を掻いているが、俺はそんな湊太郎の顔を眺めながら、心底安堵していた。湊太郎自身はとんでもなく自尊心を傷付けられて、腹が立って家を出たんだろうが、きっと親分さんはただただ湊太郎が可愛くて仕方なかったんだろう。もちろん、中性的な容姿もあるだろうが、子として愛さずにはいられなかったのだ。


そしてこいつも、結局は親として認めてたんだ。



「良い最期にしてやったかよ」



訊ねると、湊太郎はふっと優しく微笑んでから、こくりと頷いた。



「良い最期だったと思う。あの人の子だった、今じゃ大看板背負ってる組のトップが何人も来て、最後はワイワイ枕元で昔話に花を咲かせてる最中に、眠るように逝ったんだからよ。ふふ、息子ふたりはさ、片方は私と同じ歳なんだが、三歳になる子供を膝に抱えてよ、亡くなった瞬間、何かを悟ったみたいに、じぃじーって叫ばれてさ。孫もいて、たっくさんの子もいて。幸せに違いねぇよ」



「ふふ、そこにお前さんもいたんだからな?」



「まぁ、そうだな。最後の二年は、ずっと私が看てたから、嬉しくないわけがねぇだろうな?」



「違いねぇ」



「……死んだら死んだで、寂しいもんだな。イカれたクソジジイでもさ」



湊太郎は呟いた後、何かに思いを馳せるようだった。そしてぽつりと口を開く。



「断るつもりでいたんだ。組の連中が来た時、あの人がずっと私に会いたがってるって言った時、二度と顔なんて出すもんかと、断るつもりだったんだ。でも、なんでかな。あんたにとって、私は恥じない人間でありたかった。だから過去は水に流して、清算してやろうって。清算したら、あんたの元に戻ろうって。だから、組に戻って、あの人を看取った。…あんたの事も、つい、漏らしちまってさ。良い人がいるんだ、って。そしたらあの人、泣いて喜びやがったよ。………落ち着いたら、墓参り、行くか?」



「おう。挨拶しねぇとな。ブチギレられそうな気もするけどよ」



「ふふ、男だってのは言ってねぇからな」



湊太郎は白い歯を剥き出して笑った。綺麗な優しい笑みの傍らに、寂しそうに悲しみがちらついた。何を言ったって、親と子だったって事らしい。看取るなんて、皆んなが皆んな出来る事じゃねぇ。俺は心の底から胸が温かくなって、緩んだ頬が戻りそうになかった。



「さて、私の話しは終いだ。あんたの話しとしようじゃないか。新しい仕事が入ったって言ってたな? またしばらく会えなくなるってんなら、あまり喜べるような事じゃねぇが…」



湊太郎はそう言って不安そうに顔を顰める。だから俺はふふっと笑ってしまった。



「仕事ね」



「田上さんの坊ちゃんとか言ってたろ」



「坊ちゃんって、お前さんが想像するような坊ちゃんじゃねぇよ。そこの、八百屋の田上さんのご子息よ。今、そこの神社で祭りしてんの、知ってたか? 街を仕切るようになってからよ、うちも出店出してんのよ。所謂、テキ屋よ、テキ屋。健全なテキ屋」



「ふは、ハハハ、祭りか」



湊太郎の表情は一気に安堵したように緩まった。



「そ、祭りだ。田上さんの坊ちゃん、今年で7歳。可愛いんだ。いつも鼻垂らしててよ。射的で毎年毎年一個も当たらねぇの。明日はひとつ、的を大きくしてやろうかな」



「ふふ、射的か」



湊太郎は柔らかく目を細めて笑った後、徳利で酒を注ぐと一口飲む。その姿を見ながら、俺は口を開いた。



「で、それが終わったら、一緒に暮らそうか」



「……え?」



それが意味する事を、湊太郎は一瞬にして理解したろう。



「何だよ、気が変わったとか言うなよ。……一家をよ、抜けんだ。堅気になったらあんたの隣に、気兼ねなくいれるからサ」



「そ、うか。…そうか」



湊太郎の驚きに見開かれた瞳は次第に細くなり、目尻が下がる。「なら、」と口を開いた。



「どこか田舎にでも引っ越そうか」



「引っ越す? 彫師の仕事は?」



「まぁ、続けはするが、拘らねぇよ。田舎で力仕事でも良い。この街に固執する事ももうないんだ。どこか遠くへ行こう。私はそれで良い。いや、それが良い」



「そうだな。お前さんが言うなら、何処か行った事のねぇ街に行ってみようか」



「あぁ。しばらくは色々な街を見て回ろう」



「良いなぁ、賛成だ。車はボロいが古い型の車があるんだ。ボストンバッグに荷物詰めて、色々な所に行ってみようぜ」



「あんたとなら、何処へでも」



祭りの最終日、祭りの終わり頃に花火が上がる。湊太郎は浴衣姿で射的屋のパイプ椅子に腰を掛けながら、「良いな」と夏の夜空に咲く大輪に微笑んだ。こうして花火を大切な人と共に見られるなんて、俺は今、どれほど贅沢な人間なんだ。この世で最も、幸せな人間だ。


後片付けを終えると、若衆のひとりが違う露店からすっ飛んで来た。行かないでくれと、やたらとベタベタ抱き付いては鼻を啜る。これが最後の仕事だと、聞きつけたのだ。はてさて、嫉妬深い男の前でまぁまぁなスキンシップだ。こいつは誰にでもこうなのだが、湊太郎はそれを知らない。


だから湊太郎の嫉妬を掻き立ててやろうかと、ちょっとした悪戯心に火が点いた。俺は横目で湊太郎を確認しながら、若衆と敢えて距離を近付けながら話してみせた。


しかし湊太郎は興味無さそうに、片付けの手伝いを進めている。もうひとりの若衆に、景品はどこに仕舞えば良いのかと聞いているほど、興味が無いらしい。つまらない。嫉妬する姿を久々に見たい気分だったが、湊太郎の表情にも言動にも変化はない。嫉妬や執着も、歳を重ねれば変わるものか。


だが若衆と別れた後だった。湊太郎に腕を引かれ、人のいない境内の裏に連れ込まれる。無表情だった顔が、少し苛立ったような、怒りを孕んだ表情に変わっていた。



「楽しかったか?」



ほう。ちゃんと嫉妬していやがった。



「あぁ、楽しかったよ」



わざとそう言ってやると、湊太郎の苛立ちが顕著に現れ、素直にその熱をぶつけてくる。するりと片足が腿を割って、シャツの中に手が滑り、首筋に歯を立てられる。



「…痛っ」



あまりの痛さに体を反応させると、湊太郎はにやりと笑っていた。



「嫉妬深いって知ってて煽りやがって。あんた、わざとだろ」



「ま、わざとだな」



湊太郎の腰に手を回して頬に軽くキスを落とすと、湊太郎はくっと笑いながら首元に顔を埋める。



「いくつになっても嫉妬深さは変わらないもんだな。あんたに触れて良いのは私だけだと、ガキみたいな嫉妬を未だにしてしまう。すまない」



キュッと心臓が止まった。何て愛らしい事を言うんだ。俺は咄嗟に湊太郎の腕を掴むと、神社裏の林の小道を歩いていた。



「お前さん家に帰るか」



「組はもう良いのかよ」



「あぁ、カシラにもおやっさんにも挨拶は済ませたから。それにその気にさせたのはお前さんだろ。今夜はお前さんが勃たなくなるまで相手してやるよ」



「ふふ、覚悟しろよ?」



その獲物を狙うような視線に、こくりと生唾を飲み込んでは頬が緩んだ。この男に喰われる瞬間が、何よりも心地の良い瞬間なのだ。


湊太郎はそっと俺の腕に触れると、やたら妖艶に甘く笑みを溢す。俺の欲なんて、きっと俺以上に理解してる証拠だった。



「手首まで、色が入ったな?」



「お前さんが隙あらば彫るからな」



「今日は内腿、始めようか」



「まずは墨かよ」



「ふふ、前戯だろ」



「……前戯って言うな」



「前戯だろう? 最近のあんた、皮膚の薄い箇所に墨を入れると、やたら色っぽい顔をすんだ。気付いてねぇの?」



「知らねぇよ、そんなの」



「内腿は結構痛いぜ? だから臀部と太腿だけ終わらせて、内腿は避けてきたんだが、入れてみねぇか? 泣くかもしれないな」



「……泣かねぇよ」



「我慢出来ねぇだろ」



「馬鹿。さっさと帰るぜ」



「ふはは、あんたは顔に出るよな? 分かりにくいボンタンズボンで良かったな?」



「うるせぇ」



部屋に着けば、すぐに布団寝そべり、右の太腿の内側を消毒される。その痛みを想像しては熱っぽい息を吐いた。こくりと生唾を飲み込むと、細く束になった針がくつりと内腿に突き刺さる。一回、二回、三回、あまりにも痛みが酷く、脂汗が流れる。血が流れ、慣れた手つきで止血を繰り返し、また規則的に針が皮膚に墨を入れる。


小一時間ほどだろう、ようやく右の内腿に筋彫りが入った。湊太郎を見上げると、湊太郎は興奮気味に服を脱ぐ。甘く唇を重ね、体を寄せ合い、熱を交わした。


湊太郎の過剰な執着心に支配されるその瞬間が、何もかも満たされて心地良い。


白く太陽が昇り始めた空を、ぼうっと眺めた後、寝息を立てる湊太郎を眺めた。顔に掛かる髪を横に流しながら、そっと呟く。起きていたら決して言えないような、小っ恥ずかしい事を。



「湊太郎、愛してる。お前さんの与える過激な痛みも、刻まれる絵図も、全て、愛してる。…お前さんの隣にいる事ができて、俺ァ幸せだぜ」



言い合えると、ふっと湊太郎の口角が上がった。



「私もあんたの事、愛してるよ」



「起きてたのか。悪い男だな」



「ふふ、あんな事を言われちまったら、眠気だって吹き飛ぶさ」



湊太郎は笑うとパチリと目を開き、俺の方に体を向けると、柔らかく微笑んだ。



「起きたらいよいよ、次の家探しだ」



「そうだな。まずは西からか」



「そうしよう」



「新天地へ、旅立ちよ。これからも宜しく頼むぜ、湊太郎」



「あぁ、宜しく頼む、景臣」



妖艶で刺激的な男の横で、ひとつ、ひとつと墨を増やしていく。首から足首まで、こいつが納得するような総身彫が完成する時にはきっと、俺達は良い年かもしれない。その時には、ようやく完成だなと、互いに皺の増えた顔で笑い合おう。


さて、明日にはどんな墨が増えるのだろうか……。






「墨と刃」

END

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墨と刃 Rin @Rin-Lily-Rin

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