選んだのは君
彩原 聖
第1話
蝉の声が昼の輪郭を溶かしていた。青い空はあまりに鮮やかで、まるで現実の色を少しだけ借りた夢のようだった。
佐伯遥は祖母の家の縁側に座り、麦茶の入ったガラスコップを手に持つ。氷が小さく音を立てて溶け、扇風機の羽が単調に回る音が、蝉の合唱に重なる。夏休みという時間が、音と光の間に滲んでいる。
白いカーテンが風に揺れ、時間はどこか遠くで、別の世界でだけ正確に進んでいるように感じられた。八月の田舎に時計はいらない。朝は陽が昇り、昼は蝉が鳴き、夕暮れは空が茜色に染まる。それだけで人が生きるリズムは十分だった。
だが、今年の夏はどこか違っていた。
遥は目を閉じると、胸の奥に浮かぶ奇妙な感覚に気づいた。
──この夏をどこかで知っている。
祖母の家、木の床のひんやりとした感触、冷蔵庫の低い唸り。すべてが懐かしいのに、なぜか遠い。まるで夢の中で何度も歩いた場所の記憶のようだ。
「ねえ、遥。なんであの蔵に入ったの?」
祖母の声が、鼻緒を直す下駄の音に混じって響いた。遥は一瞬、言葉の意味を掴めず、祖母を見た。
「蔵? 入ってないよ」
口ではそう答えたが、喉に何か引っかかるような感覚があった。
──そういえば、夢の中で蔵を見た。
暗くて、埃っぽい、なのにどこか懐かしい匂いがした。そこには何かがあった。名前も顔もわからない「誰か」が、遥の名前を呼んだ気がした。それは夢だったのか、それともまだ訪れていない未来だったのか。彼女にはわからなかった。
「わからない…」
遥はそう呟き、祖母の遠い目を見ないようにして自室に戻った。蝉の声が一瞬遠ざかり、風が止まる。部屋の中は静かで、時間が止まったかのようだった。
ふと、棚の上の古びたノートに目が留まった。見覚えのある、しかしどこか異質な表紙。手に取ると、最初のページに自分の名前が書かれていた。
『佐伯遥/この物語の主人公』
心臓が小さく跳ねた。ページをめくると、古い紙とインクの香りが鼻をつく。そこには、こう書かれていた。
『八月九日、遥は下駄で自転車に乗り、転んで鼻緒が切れる』
昨日、確かに起こったことだった。些細な出来事。誰にも話すようなことではないのに、ノートには克明に記されていた。遥は思わずノートを閉じ、ざらりとした紙の感触が指先に残った。掌の中で、ノートの重さが膨らむような錯覚があった。
まるで、この紙の束の中に何かが潜んでいて、彼女をじっと見つめているようだった。
ページをめくるのが怖い。けれど、めくらずにはいられなかった。
『八月十日、遥は運命的な出会いをする。その少年、月島蓮に、彼女は心を奪われる。』
(は? そんなわけない)
田舎に越してくる人などいない。恋なんて、なおさらありえない。月島蓮ってだれよ! 遥がそう思った瞬間、インターホンが鳴った。
慌てて玄関に出ると見知らぬ少年が立っていた。
「君が、遥かい?」
その声は、どこかで聞いたことがあるような、既視感に満ちていた。
白いシャツ、濃紺のズボンで、汗ばむ陽射しの中でも涼しげであった。鼻筋はすっと通り、黒い髪は風に軽く揺れている。笑うでもなく、ただ静かにそこにいる。
「誰…ですか?」
声がワンテンポ遅れて自分の耳に届いた。
頭の中で警報が鳴る。
「君に会いに来た。佐伯遥をずっと探していたんだ」
その言葉は、まるで古い小説の一節のようだった。いや、さっきノートで読んだ言葉に似ている。感覚が先にそう告げていた。少年はゆっくり歩み寄り、私の目の前に立つ。
「急に来てごめん。話がしたくて。僕、月島蓮、君のいとこだよ」
(私にいとこがいたなんて聞いたことがない…)
遥は無意識にノートを見た。閉じていたはずのページが、なぜか開いている。そこには新たな一行。
『月島蓮と名乗る少年。彼は“物語の外”から来た』
(物語の外?)
冷たい風が頭の中を吹き抜けた。蓮の声が続く。
「初めて会う気がしない。君も、そうだろ?」
その言葉に、遥は答えることができなかった。初めてのはずなのに、懐かしい。知らないのに、知っている。このノートに書かれたことが、すべて現実になる──。
「ねえ、そのノート、僕にも見せてくれる?」
彼の声に、遥は確信した。彼はこのノートのことを知っている。
「いいよ」と答え、ノートを差し出す。蓮はページをめくり、静かに呟いた。
「やっぱり…。八月二七日、僕は死ぬ。絶対に」
その言葉は、蝉の声が一瞬途切れたかのように、部屋を静寂で満たした。遥の視線が蓮の瞳に絡まる。深い湖の底のような、冷たく儚い光が揺れていた。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
声が震えた。もし未来が決まっているなら、自分に何ができるのか。蓮はふっと微笑んだが、その笑みは遠い星の光のように、すぐに消えてしまいそうだった。
「君が書く物語が、僕の未来を変えるかもしれないんだ」
彼の指がページをめくるたび、躊躇いが滲む。遥はノートを見つめ、黒い文字が運命の刻印のように見えた。
「物語って、なに?」
彼女の声に、蝉の声が遠くから戻ってくる。
「書かれたことが現実になるなら、私たちはただの登場人物なの?」
蓮は静かに息をついた。
「だからこそ、君が書けば、その枠を壊せるかもしれない。君は僕の物語の作者なんだ、遥」
その言葉に、遥の心に小さな炎が灯った。時間はまだ動いている。夏の午後は熱を帯び、蝉の声が輪郭を取り戻す。
ノートで気がかりなのは、この行。
『遥はその少年に惚れてしまう』
なぜか蓮の笑顔を見るたび、胸がざわつく。優しい声、落ち着いた瞳。初めて会ったはずなのに、何度も知っているような錯覚。
(これが私の本心? それともノートの呪縛?)
試しに、遥はペンを取り出し、「惚れてしまう」という文字を線で消した。
蓮が何か言いたげな表情を浮かべるが、彼女は構わず強く消す。
「どう? まだ僕に惚れてる?」
遥は彼の瞳を見つめた。心臓が鼓膜より近くで鳴る。
「信じられないくらい惹かれてるよ、バカ」
心の奥で囁く言葉は、彼女の意志とは裏腹に響いた。消したはずなのに、感情は消えない。ノートの力か、自分の本心か、境目が曖昧だった。
「これじゃあ、月島くんが二七日に死ぬってのも消せないんじゃない?」
声が震える。蓮の視線が一瞬、窓の外の茜色の空へ泳いだ。
「わからないよ、遥。物語は生き物だ。君が書くことで、息を吹き込むことも、止めることもできるかもしれない」
ノートにはこう書かれていた。
『八月二七日、月島蓮は死ぬ』
その一行は、まるで石に刻まれたように動かなかった。
「じゃあ、私が書けばいい?」
遥はペンを握り、震える指で紙に押し当てる。
『八月二七日、月島蓮は生きる。遥と一緒に、夏の続きを見届ける』
インクが滲むように言葉が生まれた。だが、書いた瞬間、胸に冷たい風が吹き抜けた。書かれた言葉は現実になるのか。それとも、運命を変える力は彼女の手にはないのか。
遥は彼の瞳を見た。そこには、彼女の知らない物語の断片が宿っているようだった。
「わからないよ。好きかもしれない。でも、それが私の気持ちなのか、ノートのせいなのか…。」
蓮は縁側へ歩み、夕陽が彼の背を金色に染めた。まるで彼がこの世界の外から来た存在であることを示すように。
「なら、試してみな。ノートを信じるか、君自身を信じるか」
蝉の声が再び響き、時間が動き出す。遥はノートを閉じ、ペンを置いた。
八月の田舎に時計はいらない。だが、彼女はこの物語の登場人物で終わるつもりはなかった。
「ねえ、蓮。一緒に、夏の終わりを見に行こう」
声は小さく、しかし確かな力を持っていた。
蓮は振り返り、彼女を見つめた。瞳には、初めて出会ったはずの懐かしさが宿っていた。
「いいよ、遥。どんな物語になるか、楽しみだ」
二人は縁側を離れ、茜色の空の下、畦道を歩き始めた。ノートは遥の手の中で軽くなり、新しいページが開かれるのを待っているようだった。
蝉の声が、遠く、近く、響き合い、夏の輪郭を再び描き出す。
物語はまだ終わらない。いや、始まったばかりだ。
ーーー
空は、夕暮れの蒼と茜の境界を漂っていた。遠くで雷のような雲の鳴き声が聞こえる。蓮は縁側の柱にもたれながら、ノートの表紙をじっと見ていた。
「このノートさ……いつから持ってた?」
遥は問いかけられていることに一瞬気づけず、麦茶の氷がカランと音を立てるのを聞いてからようやく口を開いた。
「昔、蔵の中で見つけた。小さい頃。……でも、それを覚えてたわけじゃないの。夢で見て、思い出した」
「蔵か。やっぱり」
蓮はノートのページを指でなぞり、ある箇所で止まった。そこには、こう書かれていた。
『五年前、佐伯遥は一人で蔵に入り、"作者のノート"を手にする。だが、その記憶は封じられる。』
──作者のノート。
遥の目が大きく見開かれる。
「待って、私が“作者”? じゃあ、私は……」
蓮は軽く首を横に振った。
「違うよ。今の君は“物語の中の登場人物”でもあり、“作者候補”でもある。ただし、ノートを完全に扱えるようになるには、いくつかの条件が必要なんだ」
「条件?」
「うん。『書かれている運命を変えること』。それが一つ目。そして二つ目が、『自分の意志で未来を選ぶこと』」
遥は再びノートを見つめた。そこには確かに書かれている。
『月島蓮、八月二七日、死ぬ。』
「これ、変えられる?」
「さあ。君が書いた“生きる”って一文、効いてるかどうかはわからない。でも、たぶん……“気持ち”がないとダメなんだ」
「気持ち……?」
「書くだけじゃ、ダメなんだ。信じて、選んで、それを望まないと、言葉は力にならない」
遥は自分の胸に手を当てた。
信じているか? この少年が死ぬ未来を。
信じたいか? 彼が生き残る未来を。
ノートの次のページをそっとめくると、そこにはまだ何も書かれていなかった。だがその空白は、単なる「白紙」ではなかった。触れると、微かに鼓動を打っているようにさえ感じられた。
翌日、遥は意を決して、祖母に蔵のことを聞いた。
「おばあちゃん、私、昔蔵に入ったことあるよね?」
祖母は静かに頷いた。
「ええ。でも、あれは本当は入っちゃいけない場所だったの。代々、“記憶を刻むもの”が封印されてるって言い伝えがあってね」
“記憶を刻むもの”──ノートのことだ。
「月島くん、本当はいとこじゃないでしょ?」
祖母は驚いた顔で彼女を見たが、次の瞬間、諦めたように口を開いた。
「……そう。でも、彼は確かにあなたに関わる“誰か”よ。おばあちゃんにも正体はわからないの。けれど、どこかで会った気がする。ずっと昔に」
“どこかで会った誰か”。
遥の記憶の中で、あの夢の蔵の中、埃と古い木の匂いの中から現れた「誰か」の影が、蓮の姿と重なっていった。
八月二七日が近づいてくる。蝉の声がどこか、短くなってきた。空の色も、少しだけ透明度を失っている。
蓮はノートを見つめながら言った。
「今日、全部書き換えよう。八月二七日の運命も。それが成功したら、君はきっと“作者”になれる」
遥はペンを取り、深く息を吸った。そして、震えながらも確かな筆致で、こう書いた。
『八月二七日。月島蓮は死ぬはずだったが、遥の意志により、それは回避される。彼は存在の輪郭を取り戻し、現実に戻る』
書いた瞬間、部屋の空気が一変した。紙の上の文字が滲み、まるで生きているように蠢いた。
「……成功?」
「まだ、わからない。試されてるんだよ、きっと」
「誰に?」
「君自身に。……本当に僕を“生かしたい”と思ってるかって」
八月二七日。午後三時。
蓮は姿を消した。
遥はノートを何度も開いたが、そこには蓮の名前も、彼の存在も、一文字も残っていなかった。ただ、空白のページの中央に、細く小さな字がひとつだけ。
『選んだのは、君』
遥は縁側でひとり、蝉の声を聞いた。
蓮はどこにいるのか。そもそも本当に存在していたのか──。
そのとき、風がカーテンを揺らし、ページが一枚めくれた。そこには新しい一文が浮かび上がる。
『八月二八日。佐伯遥は、もう一度“再会”を果たす』
遥は立ち上がった。縁側の先には、昨日より少しだけ秋に近づいた空。
ノートは軽くなり、次のページが、ゆっくりと開こうとしていた。
選んだのは君 彩原 聖 @hijiri0827
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