第八章 夏の名残り

 図書館の閉館アナウンスが、静かに館内に響いた。窓の外では、夕焼けの赤がゆっくりと西の空を染めながら、夏の終わりを惜しむように広がっていく。机の向こうで立ち上がった彼女は、参考書をトートバッグにしまいながら、ふとこちらに目を向け、口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「誠一、児童をたぶらかしちゃいけないんだぞ!」


 からかうような、冗談めいた言葉。けれどその声には、どこか温かさを感じさせる響きがあった。


 相川は、ほんの少し眉を上げた後、肩をすくめて軽く笑った。


「はいはい、心得ておりますよ」


 彼女の後ろ姿を見送りながら、その何気ない一言の奥に、確かに優しさが宿っていることを感じ取った。それは、かつて小さな体で絵本を抱えていた少女が、自分の中で育ててきた何かの証でもあった。


 それからというもの、彼女はほぼ毎日のように図書館に通ってきた。腕いっぱいに参考書を抱え、自動ドアを勢いよく押し開ける。そのたびに、視線が交わると、彼女は遠くからでもはっきりとした手振りで挨拶を送ってくる。


 相川はその元気な動きに引き寄せられるように、控えめに手を挙げて返すだけ。言葉は交わさなくても、二人の間には、十一年前の夏の記憶と、今という時間が、静かに繋がっているような感覚があった。


 八月の終わりが近づくと、蝉の声は少しずつ遠くなり、空気にもひんやりとした涼しさが感じられるようになった。


 ページをめくる。


 九月の気配が近づく頃、彼女の姿はいつの間にか図書館から消えていた。


 今度は驚きも、落胆もなかった。


 相川は、読みかけの新聞を静かに畳み、窓の外に目を向けた。淡い夕陽が、どこか懐かしい夏の色をしていた。


 心の奥にしまい込んだ光は、あの日のものとは少し違っていたけれど、それでもその輝きは確かにそこにあり、今も穏やかに灯り続けている気がした。


「おしまい」

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「これ、よんで」 青月 日日 @aotuki_hibi

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