共感覚(シナスタジア)の君が聴く世界は、ノイズまみれの謎解きと、囁きに満ちた恋の音。【ボイスドラマ】【G’sこえけん】
☆ほしい
第1話
SE:静かな図書館の環境音。ページをめくる音、遠くで椅子を引く音、かすかな空調の音。
俺、影山響(かげやまひびき)は、分厚い音響工学の専門書から顔を上げた。理由は、視界の端で奇妙な動きを繰り返す女子生徒のせいだ。
窓から差し込む西日が、埃を金色に照らしている。そんな静寂の中、彼女――確か、二年の調辺音葉(しらべおとは)先輩――は、時折ビクッと肩を震わせ、眉をひそめて耳を塞ぐような仕草をする。
だが、図書館は静かだ。俺の耳には、心地よい環境音しか届いていない。
好奇心と、少しの苛立ち。俺は本を閉じ、音を立てないように彼女の席へ近づいた。
響「あの、先輩」
音葉「……っ」
俺の声に、彼女は今度こそ明確に飛び上がった。大きな瞳が怯えたように俺を捉える。その手には、クロッキー帳と鉛筆が握られていた。
響「大丈夫ですか? さっきから、何か気にしてるみたいですけど」
音葉「……あなたの声は……深い藍色。角の取れた、四角形……」
響「は?」
意味が分からない。俺は思わず間抜けな声を出した。
音葉「ごめんなさい。なんでもないです」
そう言って俯く彼女のクロッキー帳が、偶然開いて床に落ちた。拾い上げようとして、俺はその中身を見てしまう。
そこには、幾何学的な図形や、抽象画のような色彩の渦が、いくつも描かれていた。まるで、何かの設計図か、あるいは現代アートのようだ。
響「これ……先輩が描いてるんですか」
音葉「(小声で)……見ないで」
響「すみません。でも、すごいですね。何かのデザインとか?」
音葉「……音の、かたち」
響「音の、かたち?」
音葉「聞こえるもの、すべてに色と形があるから。それを、写してるだけ」
彼女は静かに、だがはっきりとそう言った。共感覚(シナスタジア)。知識としては知っている。音に色を感じたり、文字に味を感じたりする、特殊な知覚のあり方。
まさか、本物に会うなんて。
響「へえ……じゃあ、さっき先輩が気にしてたのも、何か『見えた』んですか」
音葉「……うん。ずっと、聞こえてる。黒くて、ギザギザで……ガラスを引っ掻くみたいな、醜い音。それが、時々、大きく……鋭くなる」
彼女はそう言って、再び肩をすくめた。俺は耳を澄ます。だが、聞こえるのは変わらぬ静寂だけだ。
響「俺には何も聞こえませんけど。ただの気のせいじゃ……」
音葉「(少し強い口調で)気のせいじゃない。それは、ここだけじゃなくて、校内の色々な場所で聞こえる。……聞いていると、頭が痛くなる、悪い音」
彼女の瞳は真剣だった。非科学的だ、と切り捨てられない何かがそこにはあった。
最近、生徒の間で囁かれている噂を思い出す。原因不明の頭痛や倦怠感。特に静かな場所にいると悪化する、とか。
まさか、その原因が、彼女にしか「見えない」音だというのか?
音葉「……ごめんなさい、変なこと言って。忘れてください」
SE:音葉が慌ててクロッキー帳を拾い集める紙の音。
彼女は逃げるように立ち上がり、図書館の出口へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、俺の頭の中では、好奇心という名のノイズが鳴り始めていた。
「黒くて、ギザギザの音」。
放送部で音響機材にしか興味がなかった俺にとって、それは解読不能な、しかし妙に魅力的な謎に聞こえた。
***
SE:放送室のドアが開く音。機材の立ち上がるかすかなファンノイズ。
翌日の放課後。俺は、昨日の言葉が忘れられず、調辺先輩を探し出した。半ば強引に、放送室まで連れてきてしまった。
響「ここなら、学校中のどんな微弱な音でも拾えます。先輩が言ってた『悪い音』、本当に存在するなら、こいつらが証明してくれるはずです」
俺は誇らしげに、ミキサー卓に並んだ機材を指し示した。コンデンサーマイク、指向性マイク、パラボラ集音器まである。俺の趣味と、部の予算の結晶だ。
音葉「……すごい。機械がたくさん。みんな、違う色をしてる」
彼女は目を輝かせ、機材のひとつにそっと指で触れた。
SE:指が金属の筐体に触れる、かすかな音。
響「(少し呆れて)色じゃなくて、性能で見てくださいよ。で、どうです? ここでも聞こえますか、そのノイズ」
音葉「……うん。昨日よりは、小さいけど。でも、いる。壁の向こうから……低く、ずっと」
彼女は部屋の隅を指差す。その先は、旧校舎に繋がる廊下だ。
俺は早速、最も感度の高いコンデンサーマイクを準備し、ヘッドホンを装着した。
響「よし……。ゲインを最大に……」
SE:ミキサーのツマミを回す音。ヘッドホンから聞こえるホワイトノイズが徐々に大きくなる。
響「(ヘッドホン越しの声で)……ダメだ。空調の音と、廊下を歩く誰かの足音くらいしか……」
音葉「……違う。もっと、奥。……もっと、低いところ」
彼女は俺の隣に歩み寄り、ヘッドホンを指差した。
音葉「……貸して」
響「え? あ、はい」
俺がヘッドホンを外して渡すと、彼女はそれを着け、すぐに顔をしかめた。
音葉「……だめ。音が、全部混ざって、色がぐちゃぐちゃになる。……これじゃ、分からない」
響「じゃあ、どうすれば……」
音葉「……あなたの耳は、どう? 音を、聞き分けられる?」
響「まあ、人よりは。絶対音感はないですけど、周波数の違いとか、音の定位とかは得意です」
音葉「じゃあ……」
彼女は逡巡したあと、意を決したように俺の右隣にぴったりと立った。そして、俺の右耳に、彼女の唇が触れるか触れないかの距離まで顔を寄せた。
SE:衣擦れの音。すぐ耳元で、彼女のかすかな息遣いが聞こえる。
音葉「(右耳への囁き声で)……もう一度、ヘッドホンを着けて。私が、言うから。……私が『見る』色を、あなたが『聴く』音で、探して」
心臓が、ドクンと跳ねた。耳元で囁かれる彼女の声は、温かくて、柔らかい。まるで上質なシルクのような質感だ。
俺は言われるがまま、再びヘッドホンを着ける。
SE:ヘッドホンを装着する音。再びホワイトノイズ。
音葉「(ASMR・囁き)……今、聞こえる音は、薄い灰色の四角。それは、空調の音。無視して。……遠くで聞こえる、黄色い線の連続は、たぶん吹奏楽部のトランペット。……それも、違う」
彼女の囁きが、直接脳に響くようだ。彼女の指示に従って、俺は意識を集中させる。
音葉「(ASMR・囁き)……もっと、下。床を這うような……黒い、点。……見えた。……そっちじゃない。マイクを、もう少し、左に……」
俺は言われるまま、マイクスタンドをゆっくりと動かす。彼女の細い指が、俺の腕にそっと触れて、動きを導く。
SE:マイクスタンドが床を擦る、低い音。
響「(小声で)こっちか……?」
音葉「(ASMR・囁き)……そう。……色が、濃くなった。……黒い棘が、はっきり見える。……この、方向」
彼女が指差したのは、やはり旧校舎に繋がる廊下の、その先だった。
俺はヘッドホンのボリュームをさらに上げた。すると――。
SE:微弱だが、耳障りな高周波と低周波が混じったような、不快なデジタルノイズが聞こえる。キーンという音とブーンという音が不規則に混ざる感じ。
響「……! 聞こえた……。なんだこれ、デジタルノイズ? でも、不規則すぎる……。何かの機材が壊れてるのか?」
音葉「……見つけた」
耳元で、彼女が安堵したように息を吐いた。その息が耳にかかって、背筋がぞくっとする。
俺は慌ててヘッドホンを外し、彼女から距離を取った。顔が熱い。
響「……と、とにかく、方向は分かりました。旧校舎のほうですね。行ってみましょう」
音葉「……うん」
彼女はこくりと頷いた。その横顔が、少しだけ嬉しそうに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
放送室を出て、薄暗い廊下を二人で歩く。俺たちの間には、まだぎこちない沈黙が流れていた。
***
SE:古い廊下を歩く二人の足音。少し響く。
旧校舎は、ほとんど使われていない。ひんやりとした空気が漂い、俺たちの足音だけがやけに大きく聞こえた。
音葉「……こっち。色が、どんどん濃くなる」
彼女は迷いなく進んでいく。俺はその後ろを、パラボラ集音器を手に持ってついていく。
やがて、彼女は一つの扉の前で立ち止まった。
『第三音楽室』。
プレートにはそう書かれている。今は倉庫代わりに使われている、と聞いたことがある。
響「ここか……」
俺は集音器をドアに向け、ヘッドホンで音を確認する。
響「……間違いありません。ノイズの発生源は、この中です」
音葉「……開けられる?」
響「鍵がかかってますね。……職員室で鍵、借りてきます」
SE:響が走り去る足音。
数分後。俺は息を切らしながら戻ってきた。用務員の先生から、あっさりと鍵を借りることができた。
響「開けますよ」
SE:古びた鍵が錠前に差し込まれ、回る音。ギ、と重い音を立ててドアが開く。
部屋の中は、埃っぽく、カビと古い木の匂いがした。窓から差し込む最後の光が、空気中を舞う無数の塵を照らし出している。
部屋の中央には、大きな白い布がかけられた、グランドピアノらしきものがあった。
音葉「……あそこ」
彼女が指差したのは、そのピアノだった。
音葉「(囁き声で)……あの布の下から、黒い棘が、滲み出てる」
俺はゴクリと唾を飲んだ。意を決してピアノに近づき、白い布の端を掴む。
響「……せーのっ」
SE:バサッ、と布がめくられ、床に落ちる音。
布の下から現れたのは、黒く艶やかなグランドピアノだった。鍵盤の蓋は閉じられている。見たところ、何もおかしな点はない。
響「ピアノ……だよな? これ自体が音を出してるとは思えないけど……」
俺はピアノの周りをぐるりと回り、中を覗き込もうと、重い天板に手をかけた。
SE:ピアノの天板を開ける、重々しい音。
ピアノの内部。そこには、複雑に張り巡らされた弦とハンマーがあった。そして――その弦の間に、何か小さな機械が落ちているのが見えた。
響「……なんだ、これ」
手を伸ばして拾い上げる。それは、一昔前に流行った、小さなデジタルオーディオプレーヤーだった。傷だらけで、液晶は割れている。
音葉「……それ。……それだよ。黒い色の、源」
彼女の声は震えていた。
俺がプレーヤーを手に取った瞬間、ヘッドホンの中のノイズが最大になった。
SE:耳をつんざくような、激しいデジタルノイズ。
響「うわっ!」
思わずヘッドホンを投げ捨てる。プレーヤーからは、耳を澄まさないと聞こえないほどの微かな音しか出ていない。だが、それが増幅され、校内に響き渡っていたのだ。
俺はプレーヤーの再生停止ボタンを、見つからないので、電源ボタンを長押しした。
SE:ノイズが、プツン、と途切れる。
完全な静寂が、音楽室を支配した。
音葉「……消えた」
彼女は、呆然と呟いた。
音葉「……黒い色が、消えた……」
その目から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
***
SE:屋上の風の音。遠くで部活動の声。
旧音楽室を出た後、俺たちはどちらからともなく、屋上へ向かっていた。
フェンスに寄りかかり、沈みゆく夕日を眺める。空は、オレンジと紫のグラデーションに染まっていた。
響「結局、あのプレーヤーが原因でしたね。たぶん、誰かがピアノの練習中に落として、そのまま忘れちゃったんでしょう。で、何かの拍子に電源が入って、壊れた回路がずっとノイズを出し続けてた、と」
音葉「……うん」
響「でも、なんであんなものが……」
俺は、プレーヤーをもう一度見てみた。裏側に、テプラで小さな文字が貼られているのに気づく。
『卒業記念 3-B 桜井』
響「……卒業生のもの、か。何かの、思い出の曲でも入ってたのかな」
俺は放送室から持ってきた変換ケーブルで、プレーヤーを自分のスマホに繋いでみた。破損したデータでも、読み込めるかもしれない。
SE:ケーブルを繋ぐ音。スマホを操作するタップ音。
いくつかのエラー表示の後、一つの音声ファイルが再生された。
SE:ピアノの、優しく、そして少し切ないメロディーが流れ始める。有名なクラシック曲のアレンジバージョン。
美しい曲だった。だが、ところどころデータが破損しているのか、時々、あの不快なノイズが混じる。
音葉「……きれいな、音」
彼女は、うっとりとメロディーに聴き入っていた。
音葉「……水色と、薄いピンク色が、ゆっくり流れていくみたい。……でも、時々、黒い棘が刺さる」
響「……これが、あのノイズの正体だったんですね。こんなに綺麗な曲が、壊れて……」
俺は再生を止め、彼女に向き直った。
響「先輩。……ずっと、辛かったでしょう。誰も分かってくれない世界で、一人で、醜い音と戦って」
彼女は、何も言わずに首を横に振った。その瞳は、夕焼けを映して潤んでいる。
音葉「……孤独、だった。私の世界は、他の人とは違うから。……綺麗な音も、醜い音も、全部一人で見るしかなかった。……誰かに話しても、変な顔をされるだけだって、分かってたから」
響「……」
音葉「でも……」
彼女は俺をまっすぐに見つめた。
音葉「響くんが、一緒に探してくれた。私の『見える』ものを、信じてくれようとした。……それが、どれだけ嬉しかったか……」
声が、震えている。
音葉「……ありがとう。私の世界に、入ってきてくれて」
夕日が、彼女の輪郭を黄金色に縁取る。その瞬間、俺は、自分が今まで追い求めてきたどんなクリアな音源よりも、目の前の、この不器用で、切実な声に心を奪われていることに気づいた。
響「……先輩」
音葉「なに?」
響「俺、もっと知りたいです。先輩が見てる世界のこと。……だから、これからも、一緒に、世界で一番美しい音、探しに行きませんか」
それは、ほとんど告白に近かった。
彼女は驚いたように目を丸くして、それから、ふわりと、花が咲くように笑った。
音葉「……うん。……喜んで」
その笑顔は、どんな音よりも鮮やかで、俺の世界をすっかり塗り替えてしまった。
***
SE:文化祭の賑やかなガヤ。模擬店の呼び込み、バンドの演奏、生徒たちの笑い声が混ざり合う。
数週間後。季節は秋。学園は文化祭の熱気に包まれていた。
俺と音葉先輩は、たくさんの生徒でごった返す校庭を、並んで歩いていた。
音葉「……すごい。色と、形が、いっぱい」
彼女は目をきらきらさせながら、周りを見渡している。
響「うるさくないですか?」
音葉「平気。一つ一つは、綺麗な色だから。……焼きそばのソースが焦げる音は、茶色くて香ばしい形。……あっちのバンドのギターは、銀色の稲妻みたい。……みんなの笑い声は、暖色系の、丸いシャボン玉になって、たくさん飛んでる」
彼女がそう言うと、ただの喧騒が、まるで一つの壮大な交響曲のように聞こえてくるから不思議だ。
響「俺、今、その音、録音してるんですよ。放送部の企画で、『文化祭の音』っていうドキュメンタリー作るんです」
俺は首から下げたレコーダーを指差した。高性能なバイノーラルマイクが、周囲の音を立体的に拾っている。
音葉「……私たちの音も、入ってる?」
響「もちろん。先輩の声も、俺の声も、足音も。全部」
俺たちが話していると、彼女がふと立ち止まり、俺のレコーダーに顔を寄せた。
音葉「(ASMR・囁き)……ねえ、響くん」
響「な、なんですか、急に」
音葉「今ね、すごく、綺麗な音が見える」
響「……どんな音です?」
音葉「(ASMR・囁き)……私の心臓の音と、響くんの心臓の音。……少しだけテンポの違う、二つの赤い光が、重なったり、離れたりしてる。……今まで見た、どんな音よりも、暖かくて、優しい色」
耳元で囁かれる、秘密の共有。
バイノーラルマイクが、彼女の息遣い、唇のかすかな動き、その全てを拾っていく。
響「……」
俺は、何も言えなくなった。
ただ、レコーダーの録音ボタンが、赤い光を灯し続けているのを、見つめていた。
音葉「(ASMR・囁き)……響くん。私にとって、世界で一番美しい音はね……」
彼女は少しだけ間を置いて、続けた。
音葉「……私の見る世界を、響くんがその声で『本当だ』って言ってくれる、その音だよ」
その言葉は、マイクを通して、俺の鼓膜を、そして心を、直接揺さぶった。
ああ、そうか。
俺が探していた「最高の音」は、とっくの昔に見つかっていたんだ。
それは、機材のスペックでも、周波数特性でもない。
ただ、隣にいる君の声。
君だけが見る世界を、俺に教えてくれる、その声。
俺はレコーダーをそっと止め、彼女の手を握った。
賑やかな文化祭の喧騒の中で、俺たちの周りだけ、時間が止まったような気がした。
***
あれから、いくつかの季節が巡った。
俺、影山響は、工学部のキャンパスにいた。高校時代、あれほど夢中になった放送室の機材たちは、今や俺の研究室にある、より専門的で複雑な機械たちの基礎となっている。専攻は音響工学。あの頃は漠然とした憧れだったものが、今は明確な目標となり、俺の日常を形作っていた。
隣の芸術学部には、調辺音葉先輩――今はもう、先輩、と呼ぶのは少し照れくさいが――音葉がいる。彼女は、あの頃と変わらずクロッキー帳を片手に、世界の音を色と形で捉え、それを巨大なキャンバスへと昇華させる日々を送っていた。彼女の描く絵は、ただの抽象画ではなかった。それは、音の楽譜であり、感情の地図だった。風の囁きが描く柔らかな曲線、雨音が奏でる無数の青い点描、そして、人々の笑い声が弾ける暖かい色彩の飛沫。彼女のフィルターを通して表現される世界は、多くの人の心を掴み、いくつかのコンクールで賞を受賞するまでになっていた。
俺たちの関係は、穏やかに、だが確かに深まっていた。彼女の見る特異な世界は、俺たちの間ではごく自然な共通言語となっていた。俺は、彼女が見るその美しい世界を、どうすれば他の人にも伝えられるか、そればかりを考えていた。音を可視化するプログラム。触覚で音を感じるデバイス。研究のすべては、彼女の世界を翻訳するためにあった。
彼女の孤独は、もうない。俺が隣にいるから。
そして、俺が追い求める「最高の音」は、いつだって彼女の隣にあった。
SE:大学のキャンパスの穏やかな環境音。遠くで聞こえるチャイム、学生たちの話し声、木々の葉が揺れる音。
その異変に、最初に気づいたのは、やはり音葉だった。
それは、ある晴れた日の午後、二人で中庭のベンチに座って昼食をとっていた時のことだ。
音葉「……ねえ」
彼女は、サンドイッチを口に運びながら、ふと動きを止めて空を見上げた。
音葉「……最近、聞こえるんだ。とても、静かで……優しい音が」
俺は耳を澄ませる。だが、俺の耳に届くのは、いつもと変わらないキャンパスの昼下がりの音だけだ。噴水の水音、談笑する学生たちの声、遠くを走る車の走行音。そのどれもが、日常の構成要素でしかない。
音葉「……乳白色の、霧みたいな音。形はなくて、輪郭も曖昧。でも、すごく暖かくて……ずっと、包まれていたいような……」
彼女はうっとりとした表情で目を閉じる。クロッキー帳を開き、淡い色のパステルで、捉えどころのない、柔らかな光の塊のようなものを描き始めた。高校時代に追いかけた「黒い棘」とは、まさに対極にあるような、穏やかで美しい音。
SE:パステルが紙の上を滑る、乾いた優しい音。
最初は、俺も気にも留めていなかった。彼女の世界には、時折そうした名状しがたい美しい音が現れることがあったからだ。それは春の陽気だったり、心地よい風だったり、あるいは彼女自身の満たされた心の反映だったりする。
だが、その「乳白色の霧」は、日を追うごとに、その濃度を増していった。
そして、奇妙な現象が、キャンパスのあちこちで起こり始めた。
講義を無断で欠席する学生の増加。サークル活動の急な休止。いつもは賑やかな学生食堂が、妙に静まり返っている日。誰もがどこか上の空で、表情からは活気が失われ、まるで夢の中にいるかのように、ただぼんやりと日々を過ごしている。深刻な問題、というわけではない。ただ、キャンパス全体を、一種の穏やかな無気力が覆い始めている。そんな奇妙な停滞感。
学生たちの間で、ある噂が囁かれ始めた。
「中央広場の、あの古い時計塔の下に行くと、すごく癒やされる」
「何もかもどうでもよくなって、ただ幸せな気持ちになれるんだ」
中央広場の時計塔。そこは、音葉が「乳白色の霧が一番濃く見える」と語る場所だった。
SE:少し不穏さを感じさせる、低いアンビエント音。時計の秒針の音が重なる。
俺は、研究室に篭もり、一つのデバイスの開発を急いでいた。
それは、数年前から構想を練っていた、俺の研究の集大成とも言えるものだった。
『共感覚体験インターフェース、コードネーム:エコー・ペインター』。
ヘッドセット型のデバイスで、装着した音葉の脳波(特に視覚野と聴覚野の反応)をリアルタイムで読み取り、彼女が「見て」いる音の色彩と形状を、ディスプレイ上に映像として再構成するシステムだ。まだプロトタイプで、正常に作動するかは未知数だった。
だが、確かめる必要があった。彼女だけが見ている「美しい音」の正体を。そして、それが引き起こしている、この静かなる異変の根源を。
数日後、俺は完成したばかりのヘッドセットを手に、音葉のいるアトリエを訪れた。
SE:アトリエのドアが開く音。絵の具と油の匂いがする空間。静かに流れるクラシック音楽。
アトリエの中は、彼女の世界そのものだった。壁一面に飾られたキャンバスには、音の風景が色鮮やかに描かれている。夕立の激しいリズム、猫の喉を鳴らす柔らかな振動、そして、俺と二人で過ごした文化祭の、あの暖かな喧騒。
音葉「……響くん。来てくれたんだ」
彼女は巨大なキャンバスに向かっていたが、俺に気づくと、絵筆を置いて微笑んだ。その顔は、少しだけ、ぼんやりとしているように見えた。例の「霧」の影響だろうか。
音葉「……今日も、聞こえる。すぐそこまで、来てるみたい。白くて、優しい霧が……」
俺は無言で、彼女にヘッドセットを差し出した。
彼女は少し驚いた顔をしたが、俺の真剣な目を見て、すぐに意図を察してくれた。
音葉「……あなたの、新しい機械?」
俺は頷く。
彼女は静かに椅子に座り、俺がそのヘッドセットを彼女の頭に優しく装着するのを待った。ケーブルを俺のノートパソコンに接続し、プログラムを起動する。
SE:デバイスの起動音。微かなファンの回転音。キーボードをタイプする音。
画面に、複雑なコードと波形が表示される。キャリブレーションを開始する。
音葉「(囁き声で)……目を、閉じるね」
彼女の脳波データが、流れ込んでくる。俺はいくつかの音源を再生し、彼女が見るであろう色や形と、実際の脳波のパターンを同期させていく。
SE:様々なテスト音(サイン波、水の音、ピアノの単音)が小さく流れる。
響(心の声):「……ピアノのドの音は、赤い円。よし、パターン一致。……風の音、緑の曲線。これもいい。……俺の声は……」
俺はマイクに向かって、彼女の名前を呼んだ。声には出さず、ただ、心の中で。
すると、画面に、深い藍色の、角の取れた四角形が浮かび上がった。あの、図書館で初めて会った日に、彼女が言ったのと同じ形だ。
キャリブレーションは、成功だった。
俺は、彼女に目を開けるように合図する。そして、尋ねた。例の音は、どこから来るのか、と。
音葉「……時計塔。……中央広場の、古い時計塔から。霧は、あそこから流れ出して、キャンパス全体を覆ってる」
俺たちは、アトリエを出た。
ノートパソコンとヘッドセットを繋いだまま、音葉は俺の少し前を歩く。彼女の見る世界が、リアルタイムで俺のパソコンの画面に映し出されていく。
SE:二人分の足音。周囲の環境音が、パソコンのスピーカーから、映像と同期したエフェクト音として微かに再生される。
すれ違う学生たちの話し声が、色とりどりのシャボン玉になって浮かび上がる。自転車のベルの音は、鋭い黄色の矢印となって飛んでいく。世界は、音に満ちていた。そして、その全てが、美しい形と色を持っていた。これが、彼女が常に見ている世界。
中央広場に近づくにつれて、画面の端から、例の乳白色の霧が流れ込んできた。それは、他のすべての音の色を覆い隠し、世界全体を淡い光で満たしていくようだった。美しい。確かに、抗いがたいほどに美しい光景だ。だが、他の固有の音たちが持つ、ざらざらとした質感や、鮮やかな輪郭が、その霧の中に溶けて消えていく。個性が、失われていく。
広場には、多くの学生たちが集まっていた。皆、まるで何かに引き寄せられるように時計塔を見上げ、恍惚とした表情を浮かべている。座り込んでいる者、横になっている者。誰も言葉を発さず、ただ、そこにいる。
時計塔の根元。その扉が開いていた。普段は固く閉ざされているはずの、古い扉が。
霧は、その扉の奥の暗闇から、絶え間なく溢れ出してきている。
俺と音葉は、顔を見合わせる。そして、頷き、二人でその扉の奥へと足を踏み入れた。
SE:重い扉の内側に入る音。外の喧騒が遠くなり、反響する空間に入る。螺旋階段を上る二人の足音。
中は、埃っぽい螺旋階段だった。上へ、上へと続いている。
パソコンの画面は、もはや乳白色の霧で完全に埋め尽くされていた。他の色は、見えない。
だが、音葉は何かを感じ取っているようだった。霧の中心に、何か核のようなものが「見える」のだという。
音葉「(囁き声で)……霧の、真ん中に……とても小さな、黒い点がある。……泣いている、みたいに震えてる……」
階段を上りきると、そこは時計塔の最上階、機械室だった。
巨大な歯車と振り子が、今は動きを止め、静まり返っている。部屋の中央に、その装置はあった。
SE:装置から発せられる、非常に心地よいが、人工的な持続音(ドローン音)。
いくつものスピーカーが同心円状に配置され、その中心には、複雑な電子回路とアンプが組み込まれたコンソールがあった。そして、そのコンソールの前に、一人の女性が座っていた。白衣を着た、俺たちと同じくらいの歳の女性だ。彼女は、装置の前に置かれたヘッドホンをつけ、目を閉じて、恍惚の表情を浮かべている。
彼女が、この音の発生源。
俺たちが部屋に入ってきたことに気づくと、彼女はゆっくりとヘッドホンを外し、静かにこちらを見た。
女性「……来たのね」
その声は、ひどく穏やかだった。
女性「あなたね。私の音の世界を、唯一、正確に『見て』いるのは」
彼女は音葉に向かって言った。
音葉「……あなたは、誰ですか。この音は、いったい……」
女性「私は、相良(さがら)しおり。かつて、あなたと同じ世界を見ていた者よ」
相良と名乗る女性は、静かに語り始めた。
彼女もまた、かつては共感覚の持ち主だったこと。音を色として、形として感じられる、その美しい世界に生きていたこと。しかし、数年前に患った脳の病気の手術で、その後遺症として、その能力を完全に失ってしまったこと。
相お良「……世界から、色が消えた。音が、ただの空気の振動に戻ってしまった。あの絶望が、あなたに分かる? 美しいシンフォニーも、愛する人の声も、ただの無味乾燥な信号になってしまったのよ。私は、私の世界を取り戻したかった。ただ、それだけだった」
彼女は、自分の失われた感覚を、科学の力で再現しようとした。脳科学と音響工学を学び、人々の脳に直接働きかけ、擬似的な共感覚体験を生み出すこの装置、『サイレント・オーケストラ』を開発したのだ。
相良「この音は、人の脳が最も心地よいと感じる周波数と波形で構成されているわ。聞く者に、至福の感覚と、全てが満たされるような錯覚を与える。私の見たかった、あの美しい世界。それを、みんなにも分け与えてあげているの」
音葉「……これは、偽物です」
音葉は、はっきりとそう言った。
音葉「あなたの作る世界は、確かに美しい。でも、そこには何もありません。喜びも、悲しみも、怒りも……生きている音の、ざわめきが何もない。ただ、全てを白く塗りつ潰すだけの、空っぽの音です」
相良「……偽物? これ以上に完璧な調和があるというの?」
その時、俺は行動を起こした。
持ってきた機材の中から、一つの小さなスピーカーを取り出し、ノートパソコンに接続する。そして、ある音声ファイルを再生した。
SE:文化祭の、あの賑やかな喧騒がスピーカーから流れ始める。たくさんの笑い声、バンドの演奏、呼び込みの声、俺と音葉の足音。
それは、あの日、俺が録音した「文化祭の音」だった。
パソコンの画面に、音葉が見ている世界が映し出される。
無数の暖色系のシャボン玉が弾け、銀色の稲妻が走り、茶色い香ばしい形が立ち上る。混沌として、不協和音だらけで、決して完璧な調和ではない。だが、そこには、圧倒的な生命のエネルギーが満ち溢れていた。
相良は、その画面を呆然と見つめている。
彼女が失ったのは、ただ色が見える能力だけではなかった。不完全なものを美しいと感じる心、混沌の中に輝きを見出す感性、そのものだったのかもしれない。
音葉は、ゆっくりと相良に近づいた。そして、自分が着けていたヘッドセットを、そっと彼女の頭に着けさせた。
音葉「(囁き声で)……見て。これが、私の、私たちの世界」
画面が切り替わる。
今、この時計塔の中で響いている音の風景。
相良の装置が発する、巨大で美しい、しかし空虚な乳白色の霧。
俺が流した文化祭の喧騒が描く、生命力に満ちた色彩の洪水。
そして――。
音葉は、俺の方を向いて、微笑んだ。
画面の中心に、一つの形がくっきりと浮かび上がる。
深く、静かで、どこまでも優しい、藍色の四角形。
俺の、心臓の音。俺の存在そのものが奏でる音。
音葉「(囁き声で)……あなたの世界には、色がなかったんじゃない。あなた自身が、色のない世界を選んでいただけ。……でも、本当は、今も聞こえているはず。あなたの心臓の音も、血の流れる音も、ちゃんと、あなただけの色を持っている」
相良の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、自分の胸にそっと手を当てる。
失われたと思っていた。だが、確かにそこにある、自分自身の生命の音。
相良「……ああ……。そうだった。私の音は……ずっと、ここに……」
彼女は震える手でコンソールを操作し、装置の電源を落とした。
SE:持続していたドローン音が、ゆっくりとフェードアウトし、完全な静寂が訪れる。
乳白色の霧が、晴れていく。
窓から差し込む西日が、部屋の中の埃をきらきらと照らし出していた。
止まっていた時計の、巨大な振り子が、まるで再び時を刻み始めるかのように、小さく、一度だけ、揺れた。
SE:カチリ、と小さな金属音が響く。
事件から、一ヶ月が過ぎた。
相良しおりの装置は解体され、彼女自身も大学からの厳重注意を受けた後、しばらく休学することになった。キャンパスは、元の活気を取り戻していた。無気力に覆われていた学生たちも、あの数週間を、まるで心地よい白昼夢でも見ていたかのように語っている。
俺と音葉は、海に来ていた。
夕暮れの砂浜を、二人で並んで歩く。
SE:穏やかな波の音。カモメの鳴き声。遠くで船の汽笛。
寄せては返す波の音は、淡いシアンのグラデーションを描きながら、白い泡の形になって弾けていく。俺の隣を歩く音葉のサンダルの、砂を擦る乾いた音は、ベージュ色の細かな粒子となって舞い上がる。
俺は、一つの小さなイヤホンを、自分の耳に着けた。
それは、あの日使った『エコー・ペインター』の、最新バージョンだった。音葉の見る世界を、映像ではなく、特殊な音響信号に変換して、俺の聴覚に直接フィードバックするシステムだ。まだ、完璧な翻訳にはほど遠い。だが、彼女の世界の輪郭くらいは、感じ取れるはずだ。
もう片方のイヤホンを、音葉の耳にそっと着けてあげる。彼女はくすぐったそうに笑った。
SE:イヤホンを装着する、かすかな音。
スイッチを入れる。
世界が、変わった。
SE:現実の波の音に重なって、キラキラとしたシンセサイザーのような、幻想的な音が響き始める。
俺の耳に、聴こえてくる。
波の音が、寄せるたびに、上昇する美しいアルペジオに変わる。
風が肌を撫でる感覚が、柔らかなストリングスの和音として響く。
音葉の息遣いが、すぐ耳元で、温かいパッド系のシンセの音色になって、俺の聴覚を優しく包み込む。
これが……彼女の聴いている、世界の音。
なんと、美しく、複雑で、愛おしいのだろう。
俺は、あまりの感動に、言葉を失って立ち尽くす。
すると、音葉が、俺の耳元に顔を寄せ、囁いた。
音葉「(ASMR・囁き)……聞こえる? これが、私の愛する、世界の音」
彼女の声そのものも、イヤホンを通して、幾重にも重なる倍音を含んだ、心地よい響きとなって鼓膜を震わせる。
音葉「(ASMR・囁き)……そしてね、その中心には、いつも、あなたの音が響いてるんだよ。……深く、静かで、何よりも安心する……藍色の、優しい音が」
俺は、ゆっくりと彼女の方を向いた。
夕日が、彼女の髪をオレンジ色に染めている。
その瞳に映る俺は、どんな色をして、どんな形をしているのだろうか。
俺は、彼女の手を、強く握り返した。
言葉はいらない。
俺たちの世界は、今、確かに一つに重なっていた。
SE:波の音と、幻想的なシンセの音が美しく溶け合い、ゆっくりとフェードアウトしていく。
共感覚(シナスタジア)の君が聴く世界は、ノイズまみれの謎解きと、囁きに満ちた恋の音。【ボイスドラマ】【G’sこえけん】 ☆ほしい @patvessel
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