第三夜 喫茶店にて

 ここのコーヒーはいつ飲んでもうまい。マスターの腕がいいのはもちろん、流れる音楽、主張が強すぎない調度品、座り心地のいい椅子、それら全てが過不足なく調和がとれているからだろう。もちろんそれだけではない。ここはモンブランも絶品だ。そこいらのモンブランは、栗に自信がないものだから余計な砂糖などを加えてしまって味がくどくなる。しかしここのは違う。栗そのもの甘みだけで、しっかりとモンブランとして成立している。今時喫茶店でこのレベルのものに出会うのは難しいだろう。全くで、出来れば人に教えたくないものだ。

 そんな文句のつけようのないコーヒーとモンブランだが、どうしたことかニコは全く手を付けていない。今日は付き合って二年目の記念日。そのお祝いに、私はこのとっておきの店に彼女を招待したわけだが、どうにも今日はニコの口数が少ない。一体どうしたのだろう、体調でも悪いのだろうか。

 しかし今日は大切な記念日だ。多少体調が悪くても我慢して貰わないと。

「コーヒー、冷めるよ」

 私は出来るだけさりげなく、ニコにコーヒーをすすめる。あまり強引にすすめるのは品に欠けるというものだ。私はいつだってジェントルマンでありたい。

 それが例え夢の中であっても。

「ええ、そうね」

「うん、そうだよ」

 ニコは返事をしてくれたものの、やはり手を付けない。一体どうしたものか。流石に無礼すぎやしないだろうか、招待されておきながら出されたものにこれっぽっちも手をつけないなんて。これがホームパーティーなら分かる。いくら恋人とはいえ、素人の料理なんて食べられたものじゃないから、気持ちだけ貰っておけばいい。しかしマスターは自分の店を構えるくらいのプロフェッショナルだ。虫人の食べログ、木食でも星を二つ取っている。そんな彼の腕を疑うなんて、どうかしてるとしか思えない。

 しかしそんなことを直接言うほど、私は育ちが悪くない。なんてたって私はジェントルマンだから。

「あの、ね」

「どうしたの」

「凄く、言いづらいんだけど」

 ニコは顔を伏せたまま、なにかブツブツと言っている。長い赤毛で顔はこれっぽっちも見えないが、その赤いカーテンの向こうで彼女はなにかを呟いている。人と喋る時は目を見て話そう、と彼女の家では教わらなかったのだろうか。最低限のマナーだと思うが。

 しかし、どうして私は彼女と付き合おうと思ったのだろうか。こんな無作法で陰気で育ちの悪い女と。彼女と付き合っていても得られるものは、仮初の自尊心だけだと思うが。下を見て一安心する、つまらない人間のライフハックだ。そんなものを私が求めているとはどうしても思えないが。

 そうか、きっと施しのためだ。このままでは死ぬまで誰にも選ばれないであろうニコのために、私は彼女と付き合ってあげているのだ。それなら納得がいく。何故なら私は、どこに出しても恥ずかしくないジェントルマンだからだ。

「別れましょう」

 コーヒーを飲む手が、止まる。おかしいな、聞こえるはずのない声が聞こえるぞ? ニコの口から出るはずのない言葉が聞こえるぞ?

「ごめん、なんて?」

「もう、限界なの」

 ニコは顔を伏せたまま体を震わせる。まるでなにかを絞り出そうとするように。しかしなんだ、この期に及んで顔を伏せたままなんだな。馬鹿にしているのだろうか、彼女は私を馬鹿にしているんだろうか、この、ジェントルマンの私を。

「限界って、なにが」

「あな、あなたの、全部」

「全部、全部ってなに? なんの具体性もないな、君は馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、具体性を持った言葉を話すことも出来なくなったの?」

 ニコは気の弱い非行少女のようにビクビクとしている。そら見ろ、自分の発言に自信がないからそんなにオドオドするんだ。自分の言葉に正当性がないことを心の底では理解しているから言葉に詰まるんだ。そうでないなら理路整然と話が出来て当然だ。出来ない人間なんて人間未満だ。

「あ、朝」

「え?」

「朝、七時に起きてないと何度も何度も電話かけるところ。食べたもの全部の写真を送らないと延々と嫌味を言い続けるところ。デートの度に服装に点数をつけるところ。買い物の度に、自分の希望ばかり押しつけるところ。あなたがしたい時に私は絶対にベッドにいなければいけないところ。それと、それと、

 私は思わず、まだ湯気の立つコーヒーをニコにぶちまけた。ニコは、汚い声をあげる。だけどそれがなんだ。これ以上ニコに言ってはいけないことを言わせてはいけない。

 私は、ゆっくりとモンブランからフォークを抜き、空いた手でニコの右手を掴む。そしてその手をテーブルに押し付ける。

 教えなくては、


 右のこめかみに衝撃が走る。目から星が飛び出しそうなほどの衝撃だ。私は思わず椅子から転げ落ち、無様に床を舐める。ノイズの入る耳から下品なほど男らしい声がする。

「大丈夫か、!」

 ミミ? ミミって誰だ? そもそも君は誰だ? そのどれも言葉に出来ない。呂律が回らず、言葉にしようにも唾が泡になるだけだ。

 この声はマスターか? マスターが誰かを止めているようだ。しかしそれにも負けず、先ほどの男らしい声が大声をあげている。

「こいつ、女の顔にコーヒーをかけやがったんだぞ!」

 かけたさ、かけたとも。だけど私がかけたのはにだ、じゃない、君には関係ないだろう。

「あなたって本当に馬鹿ね」

 妙に、クリアな声が頭に響く。間違いない、これはの声だ。

 あれ? じゃあ、さっき一緒にコーヒーを飲んでいたのは?

 私はいったい誰とコーヒーを飲んでいたんだ?

「あなたが誰かを愛するなんて、百年早いわ」

 その言葉を追いかけるように、私はなんとか目を開ける。

するとその目にうつったのは、男物のスニーカーの靴底。続いて私は、自分の頭と床が激突する音を頭蓋骨全体で聞くことになった。

 そして口の中に、土と鉄の味が広がる。

 あぁ、折角おいしいコーヒーとモンブランを味わったのに。


 遠のく意識の底、私は汗だくのまま目を覚ます羽目になった。

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夢々忘れるなかれ ビト @bito123

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