第二夜 デパートにて

 ふと、目が覚めた。どうやら随分寝入ってしまっていたらしい。自分では気づかないくらい疲れていたのだろうか。いや、そんなことよりも、こんなところでなにを寝ているんだ。いい大人が、寝具売り場のベッドで寝落ちするなんて。私は羞恥に頬を染めながら辺りを見渡す。幸い、周りに人はいないようだ。私は妙な安心を覚え、ベッドからソッと下りる。

 しかし、妙だ。私はいったい何故ここに来たのだったか。ここがデパートであることは覚えている。駅前の古びたデパート。近くにイオンが出来たせいか、客はほとんどいない。いや、少なくとも目につく限り客は誰もいない。まばらに暇そうな店員が立っているだけだ。閑散としたデパートというものは、どうしてこうも不気味なのだろう。まるで眼球のない眼窩を除くような気分になる。

「イカガデシタか、ネゴコチは」

 背中から甲高い声を浴びる。思わず私は飛びのいてしまった。当たり前だがこの店にも店員はいたらしい。店員の頭がニワトリなのは今更驚くようなことではないが、無防備な背中に声をかけられたことが、私のノミの心臓には非常に心地悪い。

「はぁ、中々いいベッドですね」

「ソウでしょう! このベッドはドンなフミンショウの患者でもアッサリ眠らせてシマイマスヨ。ナント言っても、中にワタシのツマのウモウがビッシリとハイッテマスから」

 中々笑いづらいジョークだ。しかし長年の癖か、そのジョークにヘラヘラと笑ってしまう。こういうところだ。私のこういうところが、学生のころから他人の金魚の糞にしかなれない理由だった。ほら見ろ。ニワトリの店員も不満そうにクルックと言っているじゃないか。

「いや、本当にいいベッドだ。ちょっと妻と相談してきますね。あいにく財布は妻に握られているものでして。お恥ずかしい、はっはっは」

 私はいささかテンプレートな言い訳をしながら、その場を後にすることにした。店員が背中越しに、クックルーと言っているのに気づかないようにしながら。


 私は先ほど、妻と相談してくる、と言った。つまり、私には妻がいるということじゃないだろうか。そのはずだ。私には女性と交際した記憶も結婚式の記憶もないが、私の口から出た言葉を信じるならば、私には妻がいるらしい。そうに違いない。ここはきっと夢の世界だが、夢は嘘をつかない、嘘まみれの現実世界と違って。

 そんな根拠のない確信を持ったまま、閑散としたデパートをうろつく。あたりに見えるのは誰が買うのかも分からない茶碗をはじめとした陶器、人生で何度袖を通すかも分からないのに法外に高い着物、謎の国の民芸品、そんな雑多なものが売られている。買う気はない、買う気はないのだがなんとなく見てしまう。全く持って不思議な気分だが、それがデパートの持つ魔力なのかもしれない。ちょっと上等にした祭りの縁日のような、という表現が適切か。特にこういう寂れたデパートはちょっとした非日常感がある。小旅行というか、もっと言えば薄暗い異界を除くような、そういった誰もが胸に少しは持っている好奇心が刺激される。

 ほら、あの黒い木でできたオブジェなんてどこに飾るんだ。というか、誰が買うんだ。しかし、不思議と目を引かれる。あれのモデルは人なのだろうか。いやにほりの深い顔に、妙に細いウエスト。ああいう美術品を見ていると、人に刺さるのはリアリズムだけじゃないんだな、ということを再確認する。

 おっと危ない。店の奥から首の長いキリンの店員がこっちをニコニコと見ている。このままではまた、お喋りに華が咲いてしまうところだった。私は足早に店前を通り過ぎる。背中越しに、キリンの店員がショボンと首を垂れる姿が浮かぶようだった。


 しかし、妻はどこにいるんだ。もう随分歩いたぞ。ここはそんなに広かっただろうか。ひょっとすると、下か上のフロアだろうか。しかし下は書店、上は紳士服売り場だけだ。妻はどちらにも用はないだろう。ひょっとしたら、眠りこける私に呆れて、先に帰ってしまったのか。それは困る。もし先に帰ったのだとしたら、私はどうやって家に帰ればいいんだ。このデパートから駅まで少なく見積もって三十分、多く見積もって三年はかかるのに。いや、こんな自己中心的な性格だから、妻は私を見捨てたのだろうか。私は途方に暮れて、胸の中に空っ風が吹くのを感じていた。この年になっても、迷子はつらい。迷子センターは、こんなおじさんでも受け入れてくれるだろうか。いやだなぁ。小さい子に囲まれながら三角座りで迎えを待つの。その絵面を脳内で描き、私は思わず乾いた笑いが出る。

「ごめんよ、ニコ」

 恥ずかしい話、無意識に出たそのひとり言で、私は妻の名前をやっと思い出した。あぁ、ニコ、かけがえのない私の妻。私みたいなつまらない男と結婚してくれた器の大きい女性。さようなら、もう会えないかも……。

「こんなところにいたの」

 顔を上げると、目の前に長い赤毛の美しい女性が手に紙袋を持って立っている。

「め、女神様?」

「なに寝ぼけてんのさ。シャキッとしなよ」

 この少しハスキーな声、間違いない、ニコだ、私の妻だ。

「あぁ、ごめん。どこに行ってたんだい? 随分探したんだよ」

「地下だよ、食品売り場。言ったでしょ、行ってくるって」

 そうだったか。いまいちベッドで寝る前のことは覚えていない。そういえば言われた気もするし、そういわれても言われてない気もする。

「出店でイカ焼きも売ってたから買っといたよ。好きだったでしょ、あんた」

 あぁなんて気が利くんだ。そうだ、私はたこ焼きなんかよりもイカ焼きのほうがずっと好きなんだ。しかし問題は、関東風か関西風か。さて、どっちかな。

 私はそれを聞こうとして、慌てて口を塞ぐ。買っておいて貰いながらなにを言うんだお前は、という冷静な自分の突っ込みが聞こえるようだ。

「ありがとう、嬉しいよ」

「別に、ついでだしね」

 ニコはそう言うと、少し目線をそらす。照れた時のニコの癖だ。愛おしいなぁ、いちいちの所作が本当にチャーミングだ。結婚何年目かも思い出せないけれど、死ぬまでニコと一緒にいたいな、という我ながら重い感情を再確認する。

「荷物持つよ」

「じゃあ半分持って」

「え? 別に全部持てるよ」

「そうじゃ、なくってさぁ、ほら、さぁ」

 ニコは片方の荷物だけをこちらに差し出す。私はそれを素直に受け取る。するとニコは、空いた方の手で私の手を握ってきた。少し、手汗でしけっている。

「ほら、帰るよ」

 ニコはそう言って、私の手を引いたままズンズンと歩き出した。なるほどなるほど、ニコは……。そういうことね。なんだか私は、甘酸っぱい気持ちになった。ニコといつ出会ったかすら思い出せないけれども、学生時代からこういう関係性だったんじゃないか、というような妄想が実に捗る。

 駐車場に出る出口が見えてきた。なんだろう、妙に眩しいな。

「ニコ、なんだか眩しくない?」

「あたしが?」

「そりゃ君はいつも眩しいけど」

「ふふ、ありがと」

 ニコは特に気にしていないらしい。なら、大丈夫か。私はニコに全幅の信頼を寄せている。そのニコが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。

 私はニコに手を引かれるまま、出口から出ていく。

「またね」

「え?」

 手から、ふとニコの手の感触が消える。そして体が光に、光に飲まれていく。段々と光と自分の境界があいまいになっていく。それはまるで混ざりゆくカフェオレのようで。

「ニコ!」


 そして、ニコのいない世界で目が覚めた。

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