第一夜 アトリエにて
私は絵筆を握っている、真っ白で無垢なキャンパスの前で。これは夢だ、夢だと分かっているが、この絵の具の香りは全くのリアルだ。ここは私のアトリエ、誰に言われるわけでもなく、私はこの部屋を認識している。部屋の棚や隅に雑多に置かれている画材、仕上げ終わっているかも分からないグチャグチャとしたキャンパスの山。そして、本来は壁があるはずのところにはめ込まれた一面のガラス。
そこからはサバンナが見える。ただ、それは私の知るサバンナではない。地面から生える背の低い草や転がる岩はどれもカラフルで、まるでジャンキーの見る幻覚だ。心なしか空の太陽もミラーボールのようだ。そんな奇怪なサバンナにいる動物もまた奇怪で、白と黒が逆になったシマウマと足の短いチーターが肩を組んでラインダンスをしていたり、鼻の短い象がタップダンスをしたりしている。そしてよく見ると、たてがみのある牝ライオンが寝っ転がりながら週刊文春を読みながらせんべいをかじっていたりする。その横で子ライオンをあやしながら洗濯物を畳んでいる雄ライオンの姿はあまりに哀れだ。
しかしそんな奇天烈な風景も、画家である私になんのインスピレーションも与えてくれない。いや、そもそも私は画家でもなんでもないのだが、この夢の中では画家なのだろう。理屈を説明するのは非常に難しいが、私の自認として、私はどうにも画家のようだ。ゆえにこのスランプがたまらなく苦しい。なにか描きたい、けれど描けない。絵を描けない画家の苦しみたるや、筆舌に尽くしがたいものがある。あぁせめて書けない小説家であれば、この思いを少しは言葉に出来るだろうに。私は握る絵筆に八つ当たりしたくなるが、そんなことをしてもなんにもならないだろう、という自分の理性に止められる。この理性だろうか、私が描けなくなっている理由は。おぉなんと憎たらしい理性め、クソったれ! 叫んでも仕方ないのは分かっているが叫びたくなる。
「私は、一体なんなのだろう」
ふと、背中に小さなぬくもりを感じる。まるで、小さな子供に触れられているような。私は凝り固まった首と肩に鞭を入れて振り返る。するとそこには、癖の付いた赤毛を胸元まで伸ばした少女が立っている。髪が長いものだから、右目はすっかり隠れてしまっている。どうやら背中の小さな手の持ち主はこの子らしい。
「パパ、大丈夫?」
パパ? 私が? そうかな、そうかも。女性経験は全くないけれど、この子がそう言うのなら私はこの子のパパなのかもしれない。
ガラスの向こうで、カバがこっちを向いて歯磨きをしている。人の歯磨きする姿を正面から見るのはどうしてこうも不快なのか。いや、この場合カバだが。
「しょうがないよ。カバさんだって虫歯になったら痛いもの」
私の娘?がそう言う。優しい子だな、私は思わずそう呟く。
「当然だよ。だって私はパパの娘だもの」
「誰の娘とかは関係ないよ。ニコが優しいのはニコが優しいからだ」
ニコ? そうか、この子の名前はニコと言うのか。今更ながら私は、自分の娘の名前を思い出した。どうして忘れていたんだろう。
私は誤魔化すようにニコの頭を撫でてやる。ニコは照れながら、それでも気持ちよさそうに目をつぶる。あぁ、なんて可愛い子だろう。こういうのを目に入れても痛くないというのだろうな。私は一人納得し、またキャンパスに向き合う。
しかし、駄目だ。ニコから元気は貰ったが、それでもどうにもインスピレーションが湧かない。空っぽのコップから無理やり水を飲もうとするような虚しさがある。おかしいな、これほどのモチーフに囲まれているのに。ほら、窓の向こうのサバンナの動物達も心配そうだ。モヒカンのハイエナとスキンヘッドのハイエナの野球も、もう九回裏なのに、どうして私はなにも描けないのだろう。やはり才能か? 才能が全てなのだろうか。才能のないものは結局なにもなしえないのだろうか。どれほど努力と時間をかけても、スプーン一杯の才能にはかなわないのだろうか。あぁ、今回のスランプはどうにも心配だ。
おや、いい香りがする。これは紅茶かな?
「パパ、紅茶をいれたわ。よかったら飲んで」
「ありがとう、火傷したりしてないかい?」
「私、そんなうっかり屋じゃないわ」
ニコが私に、熱々の紅茶が入ったマグカップを差し出してくれる。可愛いアザラシのマグカップだ。確かこれは、富士山の八合目で買ったんだっけ? いや、違うな、私はさっきから適当ばっかり言ってないか? いかんいかん。私はそんな妄想をふり払うように紅茶を飲む。おぉ、ほんのり甘い。混迷する頭に優しく溶けていくようだ。
「お砂糖は二つだったよね?」
「上出来だ」
ニコは照れくさそうに、でも心底嬉しそうに笑った。あぁ、幸せだなぁ。いいじゃないか、絵なんて描けなくても、こんなに出来た愛娘と暮らせているだけで……。
いいわけがない。私は絵描きなんだ、絵を描けない絵描きなんて存在できない。そら見て見ろ。ガラスの向こうからギリースーツを着たヒョウがこちらを狙ってるじゃないか。私が筆を置いてみろ、きっとあのガラスは砕け散って、サバンナの愉快な仲間達がなだれ込んでくるぞ。私はきっと前衛アートみたいにされてしまう。私だけならまだいい。連中はきっと、ニコにも手をかけるだろう。それだけは駄目だ、ニコだけでも守らなければ。
すると、天啓が降りてきた。そうだ、ニコを描けばいいじゃないか! 私の技量ではこの子の魅力の十パーセントも表せないかもしれないが、私の思いの欠片だけでも残せるのなら、それはきっと意義のあることだろう。
「ニコ、ちょっといいかい」
「なぁに?」
私はニコに、モデルになってくれないかお願いをした。ニコは最初は恥ずかしいと言っていたけれど、私の熱意に負けたのか最終的には承知してくれた。
キャンパスの向こうに、ほっそりとした足を揃えてニコが坐っている。背景の極彩色のサバンナがノイズだが、それでもニコは存在感を失っていない。あぁ、なんと素晴らしいモデルだろうか。こんな素晴らしいモデルには出会ったことがない、私は過去のことをなにも覚えていないが、出会っていないに違いない。
「ちょっと恥ずかしいな」
なにを恥ずかしがることがあるのか、いや、ない。私は自分でもなにを言ってるのか分からないくらいニコを褒めそやした。ニコが思わずストップをかけたあたりで私もようやく冷静になり、気を取り直して筆をとった。
これほどスムーズに筆が進むのはいつ以来だろう。もう随分長いこと、こんなに自由に絵を描くことはなかったかもしれない。それくらいニコは、私にたくさんのインスピレーションを与えてくれた。さっきまで空っぽだった私のコップに、今はなみなみと水が注がれている。今にも零れそうなくらいだ。
私には妙なこだわりがあって、人物画を描く時には最後に顔を描くようにしている。もちろん全体のバランスを考えれば最初に顔を描くほうがいいに決まっているのだが、竜を描く時に最後に瞳を入れるように、私は最後に顔を描きたいのだ。だから今私のキャンバスには、のっぺらぼうのニコの絵だけがある。後はこののっぺらぼうに顔を与えてやるだけだ。最後の仕上げというのはどうしてこうモチベーションが上がるのだろう。思わず腕まくりしてしまう。
しかし、ふと気づいた。そういえば私は、自分の娘なのにおかしな話だが、ニコの顔全体のイメージを思い出せない。いや目の前にいるのだ、今確認すればいい。しかしニコはその可愛らしい赤毛で右目を隠している。
「ニコ」
「なぁに?」
「右目を見せてくれるかい?」
空気が凍り付くのが、鈍い私でも分かった。なんだ、なにかマズいことを言ったかな。私はただ、ニコの顔をちゃんと見たかっただけなんだ。
「そんなに、見たい?」
「む、無理にとは」
「いいわ。もう、起きる時間だしね」
起きる? 夢から覚めるという意味か。しかし夢の中で、今から覚めますよ、と言われるのは変な気分だ。
ニコはゆっくり立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。一歩一歩、なにかを踏みしめるように。そこで私は気づいた。先ほどまで目に痛いくらい色鮮やかだったガラスの向こうのサバンナが、真っ暗になっているのを。
「さぁ、よく見てね」
ニコが、右目にかかる髪の毛をかき上げる。
それを見た私は絶叫し、失神するように目を覚ましたのだった。
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