第12話 新しい未来

 朝。私は編集部の会議室で、三つの書類束を最終確認した。

 1) 契約書(会場・保険・出演義務)

 2) 許諾書(録音・録画・検体保全・報道エリア)

 3) 運営台本(導線、配膳、乾杯手順、変更時の記録方法)


 千堂と法務が同席し、読み合わせは短く終わった。どれも昨日までに内容は固まっている。私はサイン欄を確認し、抜けがないことを確かめた。


「これで“うっかり”は通らない」

「はい。——今日は“人”ではなく“場を閉じます」


 必要なものは揃った。湯気のように流れて消えるものは、もう残っていない。残るのは紙と記録だけだ。



 会場の管理事務室で、最後の手順を確認した。

 ・乾杯は一斉。個別の注ぎ直しは不可。

・ボトルは採番→前検体採取→封緘→受領印の流れで管理。

・運営台本の変更は、担当者名と時刻を紙に残す。

・カメラは赤いランプを見える位置に。録音・録画の許諾掲示は入口と角に。


 会場責任者は頷き、保全用の外部ストレージに「削除禁止」のフラグを入れた画面を見せてくれた。


「記録は三重に残します。あとで“無かった”とは言えません」

「ありがとうございます」


 廊下で相原に会う。手首はまだ固定具で守られているが、表情は明るい。


「湯気が来たら前に出る。骨のときは下がる」

「お願いします」

「君の腹は?」

「今日は、笑う準備ができています」


 控室には、ワンピース姿の佐伯梨央もいた。封筒が二通、机に置いてある。ラベルには受領と保全。空欄のスタンプに私が印を押すと、彼女は小さく頷いた。


「学術所見は“否定できない”のままでいい。言い切らないけれど、骨はもう立ってる」



 開場。

 配置は“あの夜”に似せてあるが、中身は違う。

 赤いランプは増え、掲示は目に入りやすい高さ。受付では許諾の読み上げを丁寧に行い、名札の色で立ち入り範囲を分ける。


 司会が開演を告げ、料理が出る。

 皿は真っ直ぐで、嘘の味はしない。場にだけ、小さな“クセ”が混ざる。

 ——ワゴンの影で「見せグラス」の封緘に指が触れて、止まる。

 ——角で床が少し濡れて、すぐに黄色い看板が立つ。

 ——非常口の帯の上でヒールが二度止まる。


 どれも未遂。どれも時刻と場所が記録される。紙に短い行が増えていく。


 中盤、私はステージで短く話した。

 「“翌朝の腹”は、生活の指標です。数字は大切ですが、母数・継続・記録を生活の言葉に戻してから使うべきです。今日は忘れ物をしない仕組みをここに置きました」

 スクリーンには“人名のない矢印図”——名義の推移、導線の履歴、封緘と受領印、事故報告の連鎖。会場は静かに頷く。説明は、これで十分だ。



 乾杯の時間。

 ステーションでは、ボトルが採番され、口元が拭かれ、前検体が小瓶に落ち、封緘される。梨央が受領印を押す。

 司会の合図で、一斉にグラスが上がる。音が重なり、泡が立つ。個別の注ぎ直しはどこにも発生しない。

 ワゴンの影で手が伸びかけて、封緘を見て引っ込む。未遂。

 私は唇を少し濡らし、会場を見渡した。赤いランプは消えない。湯気は散り、骨だけが増える。


 乾杯の直後、運営スタッフから私へ「個別の差し入れ乾杯をしたい」という申し出が伝わる。

 ——提案者は玲奈だ。理由は「気持ちの問題」。

 私は台本を指差し、会場責任者に視線で合図する。

 責任者は迷いなく答える。


「安全規定により不可です。手順は変更できません」


 これで終わり。手続きが場の支配に勝つ。

 玲奈は笑って引き下がった。笑顔の膜は薄く、わずかに疲れて見えた。



 終盤の控室。私と玲奈は短く向き合った。

 「全部あなたが奪った」

 彼女は小声で言う。

 「私は奪ってない。戻しただけ。——構造を、人が守れる場所へ」

 「正しさばかりじゃ、人は動かない」

 「正しさの翻訳は、私の仕事」


 彼女の指が、手すりを二度はじむ。いつもの合図。

 しかし、もう何も動かない。赤いランプは点き続け、許諾の紙が壁にある。

 彼女はうすく笑い、視線を逸らした。



 廊下で響に会う。

 「俺は、ただ生き延びたかった」

 彼の言葉はまっすぐだ。私は頷く。

 「法と紙に話して。翌朝に残る言葉で」

 舞台裏の出口には会場スタッフと契約担当。**出演義務(安全確保中は離脱不可)**の条項を説明する紙が手元にある。

 彼は一度だけ袖口を整え、深く息を吐いた。逃げない選択をした顔だった。



 イベントが無事に終わると、私は会場責任者と事故報告書の項目を埋めた。

 ・床の濡れ——対応済/時刻印/担当者名

・台車接触未遂——対応済/時刻印/担当者名

・見せグラス封緘——異常なし/受領印

 紙はバインダーに収まり、背表紙に今日の日付が入る。



 数日後。

 スポンサーから正式な文書が届いた。

 ・「“翌朝の腹”表現は引用に改める。媒体監修の紙に従う」

・「母数・継続・記録の取り方を見直す」

 保険会社と会場からも通知。

 ・「名義は会場側で統一、個人列挙なし。不自然な変更は無効」

 業界団体の処分通知。

 ・響は契約上の注意と倫理勧告。本人からは協力証言が提出された。

 ・玲奈は運営資格の停止相当。社内の処分は「調整の度を越した」と記載された。


 私はどれにも感情的な言葉を足さない。結果だけを紙に綴じる。

 “復讐”は、これで完了だ。刃は抜かなかった。紙で終わらせた。



 ある夕方、編集部で千堂が封筒を差し出した。

 メールヘッダの印刷と、梨央の青い注釈。

 遅延送信とキーワード通知の痕跡。登録名の欄に**「RIO」**。

 胸の中で音がした。未来の私が、もし戻れたらのために残した保険。

 千堂は短く言う。


「記事には出さない。だが、お前の鞘に入れておけ」

「はい」


 その夜、見慣れた差出人不明から一行だけ届く。


刃は抜くな。紙で終わらせ、紙で始めろ。——RIO


 私は返信しない。十分だ。ここまで来れば、もう自分で歩ける。



 季節がひとつ進んだ。

 小さな店を借り、看板を取り付ける。Blue Gentian(青い竜胆)。

 意味は“正義”。この言葉は、もう旗ではなく、習慣だ。


 開店前夜。厨房は静かで、相原が皿を温めている。

 ファーストメニューはGentian Consommé。澄んだスープに、薄い苦みを残す。

 私は味を見る。翌朝の腹が笑うように、塩をひとつまみだけ整える。


 ドアの鈴が鳴り、千堂と梨央が入ってくる。

 「おめでとう」

 「ありがとう。席はそこで」


 カウンターの端に、封のままの薄い封筒が一つある。ラベルにはR。

 私はそれを手に取り、封を開けないまま、バインダーに戻す。

 開けなくていい。ここからは、毎朝で更新できる。


 千堂が一言だけ言う。「走れ」

 私は頷き、スープ鍋の火を少しだけ弱める。

 客の気配が外に集まり始める。

 カウンター越しに相原が目で合図をくれる。準備はできている。


 オープン。

 最初の客にスープが出る。

 「どうぞ。——翌朝の腹で、また会いましょう」


 笑い声がやわらかく広がる。私は深く息を吸い、胸の中で言葉を結ぶ。


短い嘘は終わった。

長い本当は、毎朝ここから。


 スープの湯気は軽い。けれど、店の骨はもう揺れない。

 新しい一日が始まる音が、扉の鈴に混じって鳴った。


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あの日、私を殺した君へ 湊 マチ @minatomachi

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