幻影の湖

辻井豊

幻影の湖

 その湖は巨大な断層湖である。面積、およそ六七〇平方キロ、周囲の長さは二四〇キロを超える。最深部は安曇川河口沖にあり、水深およそ一〇四メートル。幾つもの遺跡を、その水底に眠らせて、湖は、今日も深く、青く、湖国に君臨していた。


 琵琶湖総合研究所の助手、水神レイは、白いシャツとブルージーンズのラフな姿で漁船の上にいた。レイの乗る漁船は大津港を出て、今、湖面を切り裂くような速度で安曇川河口沖に向かっている。


 レイの長い髪が風になびく。初夏の日差しが気持ちいい。レイはこの季節が好きだ。

「姉ちゃん、もうすぐ着くからな」

 漁船を操りながら漁師が言った。レイは男性だが、自分の姿がどう見えるのか、それをよく知っていたので、いちいち訂正したりはしない。


 やがて、漁船の行く手に、クレーンを乗せた台船の姿が見えてきた。あっと言う間に、その距離は縮まる。漁船は速度を落とし、台船に横付けする。船体がもやい綱で固定される。

「足元に気をつけてな」

 漁師のごつい手に支えられながら、レイは台船に渡った。台船の上では大勢の人たちが様々な作業に従事している。その中から恰幅の良い紳士がレイのもとへやって来た。上司の藤堂教授だ。

「急にすまんな」

「いえ、先生。わたしも潜ってみたかったので」

「腰を痛めてしまってな。ちょっと今回、無理できなくなった」

 藤堂に連れられて、レイは台船の上に鎮座する潜水艇まで歩く。それは二人乗りの小型潜水艇だった。潜水艦であればセイル(司令塔)にあたる部分に丸窓があり、そこが操縦者ののぞき窓になっている。同乗者は操縦者の足元に腹這いになって搭乗する。潜水艇の下部に設けられた丸窓から水中を観察するのだ。全体を黄色く塗られたその潜水艇のセイルから、作業着姿の男が半身を出している。藤堂が男に手を振る。

「鏡君」

 男がこちらを向いた。セイルから身体を出し、船体に掛けられた梯子を降りて来る。レイたちの前まで来て言った。

「同乗者は男だと聞いていましたが?」

「男だよ」

 藤堂がしてやったりと笑う。このやりとりを楽しんでいるのだ。レイはもう慣れっこになっている。藤堂が男をレイに紹介する。

「鏡浩一君だ。潜水艇の操縦をする」

「鏡です」鏡は名乗り、レイの長い髪に目をやる。

「髪はまとめておいてくれるかな。計器にひっかかることがある。それから携帯と貴重品の持ち込みは禁止」

 そう言ってから手を差し出す。

「わかりました」レイは答えて鏡の手を握る「水神レイです。よろしくお願いします」

「よろしく」


 琵琶湖、安曇川河口沖。今日、レイはそこに潜る。この数ヶ月、夜の琵琶湖の湖面では発光現象が続いていた。それは湖岸から離れた住宅地からも見えた。安曇川河口沖の湖面から、夜空に向かって立つ光柱は、見る者を不安にさせた。通報のあるたびに、水上警察隊は湖面を走り回ることになった。詳しい調査が行われたが原因はわからず、そして、今回、有人の潜水艇を、その湖底に送り込むことになったのだった。


 *


 レイは潜水艇の下部で腹這いになっている。鏡に咎められて、長い髪は後ろでまとめてあった。潜水艇は、今、クレーンに吊るされ、湖面に降りようとしている。

「狭いだろう?」

 頭上の操縦席から鏡が訊いた。

「大丈夫です」

 レイは腹這いになったまま答える。

「潜水艇に乗った経験は?」

「今回が初めてです」

「気分が悪くなったらすぐに言ってくれ」

「はい」

「何もできないけどな」

 それなら訊くなよとレイは思った。皮肉を込めて言う。

「ありがとうございます」

 先が思いやられる。レイが溜息をついたとき、丸窓の先を黒い影がよぎった。猫だ。それが台船の端にいる。だがその姿はすぐに見えなくなる。船体が位置を変えたからだ。

「あれ?」

「どうした?」

「猫が……」

「猫?」

「台船の上にいたんです……」

「いるわけない」

「そうですが……」

「しっかりしろよ」

「すいません」

「着水する」

「はい」

 丸窓の外が水中になった。ダイバーが泳ぎ寄ってくる。ロープを外してゆく音が船体に響く。鏡がハッチを開けた。セイルから身を乗り出し、ダイバーとやり取りをしている。

「離れてくれ」鏡の大きな声。そしてハッチを閉める音。鏡が無線機に言う。

「潜水準備完了」そしてレイに言う「潜るぞ」

「はい」

「メインタンク注水」

 ごぼごぼと音が鳴る。

「二メートル、三メートル、四メートル……」

 鏡が深度を読み上げてゆく。一〇メートルまでは一メートルおきに。そこからは五メートルおきに。暗い水中がライトに照らし出される。まだ何も見えない。


「深度九〇メートル、まもなく湖底だ」

「はい」

「バラスト投下、懸吊する」

 下降するエレベータが停止する感覚。

「見えるか?」

 レイは窓の外に目を凝らす。見えた。湖底だ。まだ下にある。

「見えました。まだ下です」

「この深度でいく。これ以上近づくと泥が舞い上がる」

「はい」

「少し動き回ってみる」

「はい」

 モーター音が船内に響く。窓の外を、湖底がゆっくりと行き過ぎて行く。

「何か見えるか?」

「いえ、何も……」

「ここらあたりだよな、光柱が目撃されているところ?」

「たぶん、そうです……」

 レイはじっと目を凝らす。泥しか見えない。だが、何かおかしい。レイは気付いた。湖底が少し黄色味がかっている。いや、ライトのせいか。レイは自信なく言う。

「ライトを消してください」

「何だって?」

「灯りを消してください」

「了解」

 船内の照明が落とされた。ライトが消える。窓の外が暗黒になる。だが、目が慣れるにつれ見えてきた。湖底が発光している。レイは鏡に確認する。

「そちらでも見えますか?」

「ああ」

「湖底が発光しています」

「何なんだ、これ?」

「わかりません」

 その時だった。船体が微かに揺れた。

「何だ?」鏡の声。

 突然、大波に呑まれた様に揺れ始める。

「つかまれ! 乱流だ!」

 レイは丸窓の横に付けられた取っ手につかまる。船体が激しく揺れ、軋む。

「緊急浮上する!」

 ゴトっと船体から何かの外れる音がした。そしてガクンと揺れる。メインバラストを投下したのだ。急速に浮上してゆく。あっと言う間に丸窓の外が明るくなった。

「深度〇」

 激しい揺れはおさまった。それでも、ゆらゆらと揺れている。

「おかしい」鏡の声「ハッチを開ける」

 ハンドルを回す音。上部から水滴が落ちてきた。レイは身体を起こしたい衝動に駆られる。しかし、鏡からの指示は無い。

「鏡さん?」

 返事はない。

 しばらくして、ようやく鏡が言った。

「ここは……、どこだ……」


 *


 潜水艇は浮上していた。鏡がセイルから出てゆく。そしてハッチから覗き込んで言う。

「上がってくれ」

「はい」

 レイは答え、梯子を上る。セイルから顔を出す。

「ここがどこだかわかるか?」

 セイルの後ろのデッキから鏡が訊いた。レイはあたりを見回す。

「台船は……」

「見えない」

 台船どころか、一艘の船も見えない。おかしい……。レイはセイルから身を乗り出す。首をめぐらせて湖岸を確かめる。無い……。何の建物も無い……。

「どこだかわかるか?」

 鏡がもう一度尋ねた。

「琵琶湖です。たぶん……」

 レイは正面を指差す。

「あれが伊吹山……」

 でも、何かおかしい……。

「崩落面が見えない……」

「俺たちのいる位置は?」

 鏡がいらいらと訊いた。

「潜り始めた位置と同じです。たぶん……」

「船も、建物も見えない」

「でも、位置はあってます……」

 鏡が、ゆっくりと訊く。

「ここは、どこだ?」

「琵琶湖です」

 レイには、そう答えるしかなかった。

「タイムスリップでもしたようだな」

「SFですか?」

「現実にだ」

「あり得ません」

「じゃあ、どう説明する?」

 レイは考え込む。仮にタイムスリップしたのだとして、それでも人のいる場所はどこだろう。

「この船で大津まで行けますか?」

「無理だ」

「どこまでなら行けます?」

「一番近い陸地はどこだ?」

「船木崎です。でも、そこには安曇川の河口があります。少し南に回り込んで南船木まで行けたら」

「わかった。行ってみよう。どっちだ?」

 レイは近くに見える陸地を指さす。

「あそこです」

「わかった。降りてくれ」

「はい」

 レイは梯子を降りる。そして再び船底に腹這いになった。鏡もセイルに入り、操縦席に座る。そして無線機に呼びかける。

「こちら潜水艇うらしま、誰か聞こえますか?」

 何度も繰り返す。

「反応無し」そしてレイに言う「陸地に着くまで我慢してくれ」

「はい」

 船内にモーター音が響いた。潜水艇は動き始めた。陸地を目指して。


 *


 レイと鏡を乗せた潜水艇は、南船木と思われる湖岸にたどり着いた。レイが船内から湖底を観測し、その誘導でぎりぎりまで岸に近づく。


「ここらでいいかな」操縦席から鏡が言った「停船する」

 潜水艇の動きが停まった。鏡がセイルから出てゆく。そして船内のレイに呼びかける。

「上がってくれ」

「はい」

 レイは梯子を上る。セイルから身を乗り出す。間近に湖岸が見えた。狭い浜辺。その背後には藪と雑木林。人工物は見えない。

「ここからは泳ぎだ」

「泳ぎ?」

「これ以上は近づけない。船底を擦る」

 レイは鏡の手を借りてセイルから出た。二人は潜水艇のデッキから湖水に入る。水はひんやりと冷たい。ほんの少し泳ぐと底に足が届いた。レイが岸に上がると、鏡は再び潜水艇に戻って行く。

「鏡さん!」

 レイは慌てて呼び止める。

「安心しろ。船体を係留する。それとサバイバルキットを持ってくる」

 それだけ言って、鏡は潜水艇に泳いで行く。デッキに上がると船内に入った。レイはしばらく待つ。鏡が出てきた。ロープとバックパックのような袋を持っている。レイが見ていると、鏡はハッチを閉じ、船首に移動する。そこにロープの一端を結びつけた。そしてロープのもう一端とバックパックを持って岸に向かって泳いでくる。レイは腰まで水に入り、バックパックを受け取る。それはずしりと重かった。二人で岸にあがる。鏡はロープを湖岸に生えている木の幹に結わえ付けた。

「これでよし」

「どうするんですか?」

「救助を待つ。まず無線機を試す」

 鏡はレイからバックパックを受け取り、その中から無線機を取り出した。電源を入れる。耳に当てる。

「ノイズしかない」

 そして口に当てる。

「こちら潜水艇うらしま、誰か聞こえますか?」

 再び耳に当てる。それを何度か繰り返す。

「反応無し」

 まるで予想していたかのように鏡は言った。そしてレイに言う。

「次は火を起こす」

「火を?」

「たき火をする。目印になる。第一、それがないと夜を越せないぞ」


 二人は枯れ木を拾い集め、湖岸に火を焚いた。着火には発煙筒を使った。

「ここで待つ」

 鏡がバックパックからペットボトルの水と乾パンを取り出し、地面に並べる。

「これで三日分だ」

 五〇〇ミリリットルのペットボトルが六本、乾パンが六パック。

「たったこれだけ?」

「そうだ。とりあえず火にあたれ。服が乾く」

 陽が傾き始めていた。

「万が一、食糧を食べつくしたら、船内に釣り竿がある」

「釣り竿?」

「普段は海で使っている船だからな。遭難した時の用意はしてある」

「水は?」

「目の前にあるじゃないか?」

「あ、ええ……」

「海と違って飲めるからな」


 夜、満天の星空。

 レイと鏡はたき火を前に腰を下ろしている。髪も服も、すでに乾いていた。靴は脱いで火のそばに干してある。

「あの船は」とレイは訊く「もう一度潜れないんですか?」

「潜れない」鏡は答える「メインバラストを捨てたからな。いくらタンクに注水してもだめだ。浮力が勝つ」

「タイムスリップしたと思います?」

 少しの沈黙。そして鏡は問い返してきた。

「君はどう思う?」

「わたしは……」

「君は、あり得ないと言った」

「あり得ないと思います」

「じゃあ、ここはどこだ?」

「琵琶湖です……。たぶん、別の世界の……」

「もう一度潜ることができたら戻れると思うか?」

「わかりません……」

「なに、ここで待っていれば、そのうち目の前に潜水艦が浮上する。でかいのがな」

「え?」

「前に読んだ漫画で見た」

 レイは噴き出す。彼がいて良かった。そう思う。もし、一人だったら、耐えきれなかった。


 *


 夜が明けた。結局二人は眠れなかった。レイが眠い目を擦っていると、鏡がたき火の前から立ち上がる。うんっ! と伸びをする。そして屈伸。ひとしきり身体を動かすと、裸足のまま湖に入って行く。レイも慌てて立ち上がる。

「鏡さん!」

 鏡は湖水でバシャバシャと顔を洗い始めた。

「君も洗え、目が覚めるぞ」

 レイはジーンズの裾をまくり上げ、ひざ下まで湖に入る。湖水をすくい、顔を洗う。そのレイの目の前で、鏡がうがいを始めた。

「ふう、どうした?」

 驚いているレイに、鏡が訊いた。

「遭難し慣れてると思って」

「そうなんです」

 レイは噴き出す。

「オヤジギャグ」

 そう言って笑う。

「お、魚だ!」

 鏡が自分の足元を見て言った。

「たぶんコアユです」

「アユ?」

「コアユ。この時期は接岸してくるんです」

「網があったらすくえそうだな」

「そういう漁法もありました」

「へえ」

「追いさで漁。カラスの羽を付けた竿でコアユを追い込んで、湖岸の際で網ですくうんです」

「詳しいね」

「琵琶湖の研究者ですから、一応」

「その先生に訊きたいことがある」

 鏡がレイの目の前にやって来た。

「何ですか?」

「どうしたら帰れる?」

 レイは言葉に詰まった。うつむく。

「悪かった」

 鏡がレイの肩を叩いた。そして岸に上がる。

「食事にしよう。昨日、食べなかったろ? 身体が持たないぞ」

 レイも岸に上がる。

「今日は内陸に行ってみようと思う」

 たき火の前に腰を下ろして鏡が言った。火に焚き木を足している。炎の勢いが強くなる。

「人家があるかも知れない。水上からは見えなかっただけで。もっとも、竪穴式住居かも知れないが」

 そう言って鏡は笑う。レイには笑えなかった。その時だった。レイの視界を黒いものがよぎった。

「猫!」

「え?」

「ほら、あそこ」

 レイは鏡の背後を指さす。鏡が後ろを振り向く。浜辺と茂みの境に、一匹の黒猫がいた。

「近くに人が住んでいます」

 レイは猫に視線を向けながら言う。これは野生の猫じゃない。家猫だ。その猫が、じっとこちらを見ている。レイが近づくと、猫は向きを変え、茂みの奥に向かって歩き出す。レイが動きを止めると、猫も止まる。そしてレイを振り返る。

「ついてこいと言っています。たぶん……」

 レイがそう言うと、鏡が立ち上がる。

「ついて行ってみよう。少し待ってくれ。バックパックをまとめる」

 鏡が手早くサバイバルキットの中身をバックパックに詰める。二人は靴を履き、たき火に砂をかけて消した。

「行ってみよう」

「はい」

 二人は歩き出す。猫も歩き出した。茂みに入る。レイと鏡は黒猫に導かれながら、藪の奥深くへと入って行った。


 *


 三〇分ほど歩いて、レイと鏡はそこにたどり着いた。それは一軒の家だった。

「場違いだな」

 その家を見て鏡が言った。そうなのだ。それはまるで、大手ハウスメーカーの宣伝している建売住宅のような二階建ての家だった。それが、こつ然と藪の中に現れた。

「なんにしても、これで助かる」

 鏡はそう言ったが、レイにはそうは思えなかった。おかしい。このあたりは南船木だ。内湖と田畑と、民家が並んでいるはずの場所だ。こんなのはおかしい。レイが考え込んでいると「あれ?」と鏡が言う。あたりを見回している。

「どうしたんですか?」

「猫がいない」

「え?」

 レイも視線をめぐらせる。猫の姿は無かった。

「まあいい。呼び鈴を押してみる」

 鏡が門柱に付けられているスイッチに手を伸ばす。押す。ピンポンと家の中から音が聞こえた。

「電気がきてる」

 レイと鏡はそのまま待った。誰も姿を現さない。

「入ってみよう」

 鏡が門扉を開けた。玄関に進む。ドアをノックする。声をかける。

「ごめんください」もう一度言う「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか?」

 反応は無い。ドアノブに手をかける。回す。引く。ドアは開いた。二人は玄関に入った。そこで鏡が言う。

「おかしい。履物が無い」そして自分の靴を脱ぎ、あがりかまちに足をかける。

「ちょっと」レイはそれを止める。

「どうした?」鏡が振り向く「誰かに会ったら、そこで謝ればいい。どのみち、今より事態は悪くならない」そう言って家に上がり込む。レイも仕方なく従う。二人は廊下の突き当りまで進み、そこでドアを開け、室内に入った。そこはリビングだった。鏡が言った。

「人が住んでいる」

 そうなのだ。そこには生活感があった。ついさっきまで、ここには人がいて、そしてこつ然と姿を消した様な。レイと鏡はすべての部屋を見て回った。どこにも人の姿は無かった。特に二階の様子は異様だった。そこはがらんどうだったのだ。家具も何もない。まるで建築途中の家のようだった。それが一階との差を際立たせ、ここが普通の家ではないことを二人に教えていた。


 一通り部屋を見て、二人は一階のリビングに戻った。鏡がソファにバックパックを投げ出す。

「外を見て来る」そう言って玄関に向かう。レイもついて行こうと廊下まで追いかける。すると鏡は振り返り、言う。

「君は家の中を調べてくれ。箪笥の中とか」

「泥棒の真似をしろと?」

「俺たちは泥棒じゃない」

「でも」

「助かるためだ」

「え、ええ……」

「割り切れよ」

「はい……」

「この家には電気がきてる。たぶん、ガスも水道も。何かからくりがあるはずだ。それを見て来る」

 それだけ言うと鏡は玄関から出て行った。レイはリビングに戻る。ソファに座る。そしてテーブルにテレビのリモコンを見つける。それを手に取り、電源ボタンを押した。テレビが点く。午前中の番組を流し始めた。

「え?」

 レイは混乱した。混乱したままチャンネルをザッピングする。琵琶湖放送にチャンネルを合わせる。そしてデータ放送のボタンを押す。ローカルニュースをチェックする。無かった。潜水艇遭難のニュースはどこにも。レイは他の局もチェックした。同じだった。鏡が戻って来た。

「テレビがやってるじゃないか!」

「無かった」レイは力なく言う「どこにも」

「何が?」

「ニュースです。潜水艇遭難の」

「そうか」あっさりと鏡は言った「こっちもだよ。電線もガス管も何もない。これ以上調べるには地面を掘り返すしかない。重機がいる」


 二人はさらに家の中を調べて回った。電気も、ガスも、水道も通じていた。電話やパソコンの類こそ無かったが、驚いたことに、冷蔵庫には食糧があった。スーパーの値札までついている。さらに鏡は別室の箪笥を物色し、着替えも見つけていた。レイと鏡にぴったりのものだった。それらはまるで、二人に、ここで暮らせと、そう言っているようにレイには感じられた。


「遭難で一息ついたとき、何に一番困るか知ってるか?」

 ソファに腰かけて鏡が訊いた。レイは問い返す。

「何に困るんですか?」

「トイレだ」

「はあ……」

「そういうわけで、トイレに行ってくる。紙もあるし、水も流れる。これが夢でないことを祈っててくれ」

 鏡がソファから立ち上がる。

「わたしは、何をすれば……」

「休んでろ」

「え、ええ……」

「先にトイレに行くか?」

「あとでいいです」

「そうか、じゃあ休んでろ」

「はい……」

 鏡がトイレに入った。レイはテレビを見ながら待つ。まるで、遭難なんかしなかったみたいだ。レイはそう思った。異様な状況だった。だが、それがかえって神経を麻痺させている。鏡は、夢でないことを祈っててくれと言った。だが、レイは、これが夢であればいいと思った。この遭難が、全て夢であればいいと。


 その後、二人は冷蔵庫の食材を調理し、食事を摂った。そしてシャワーを浴び、着替えた。ソファでくつろぐ。二人はいつの間にか眠ってしまっていた。目が覚めると、翌朝だった。


 *


「ずいぶん寝たな」

 ソファから立ち上がり、伸びをしながら鏡が言った。レイは身体のあちこちが痛かった。座ったまま腕や足をマッサージする。

「疲れが出たか?」

「少し……」

「いいことだ。休めたってことだからな」

 そう言って鏡がレイに屈み込んでくる。

「髭が伸びないんだな」

 レイの顔をまじまじと見つめて言う。そんな鏡の視線を、レイはそらす。

「ええ、生えないんです」

 そう答える。

「ほんとに女みたいだ」言ってから鏡は「悪かった」と頭を掻く。

「トイレに行って来ます」

 レイは立ち上がる。

「俺は外を見て来る」

 二人はリビングを出た。レイはトイレに、鏡は玄関に向かう。

「おい!」

 レイがトイレに入った時、鏡の驚きの声が聞こえてきた。慌ててトイレから出る。玄関に駆けつける。鏡が玄関のドアを開けて外を見ていた。その鏡の背中越しに外を見る。街だった。家の周りの藪だったところが街になっていた。鏡が玄関を出る。レイも靴を履き、続く。

「街だ……」

 そう、何の変哲もない住宅街が、二人の目の前に広がっていた。だが、そこには人影が無かった。気配すら無い。無音。

「人の気配が無い」

 言ってから鏡はレイを振り返る。そしてまた声を上げる。

「見ろ!」

 家の横を指さす。レイも振り向く。そこはカーポートになっていた。一台のランドクルーザーが停まっている。

「どうやら」と鏡が言う「俺たちの車のようだ」

 そう言ってズボンのポケットを探り、キーの束を取り出す。レイに見せる。

「大津まで行ってみよう」

「ええ……」

「その前に顔を洗って飯だ」


 二人は家に戻った。身支度をし、朝食を摂った。そして家を出る。鍵をかけ、ランドクルーザーに乗り込む。車にはカーナビゲーションシステムが付いていた。運転席に乗り込んだ鏡が、それを見て言った。

「GPSだ。衛星の電波を受けている」

 二人は湖周道路を南下し、大津へと向かった。


 *


 レイと鏡の乗る車は、JR大津駅のロータリーに着いた。相変わらず人の気配は無い。ここに来るまでの道のりにも人の姿は無かった。動いている車にも一台も出会わなかった。だが、信号機や、道路沿いの商業施設の看板は動いていた。鏡は律儀に信号を守って運転し、二人はここまでやって来た。


 レイと鏡は車を降り、そこを離れて駅舎に向かおうとした。その時だった。レイは激しいめまいを感じた。しゃがみ込む。その耳に、人の声、車の音、駅のアナウンス、そして電車の音、それらが一斉に押し寄せて来る。レイは耐えた。すぐにめまいはおさまる。ゆっくりと立ち上がる。あたりを見回す。鏡も、そうしていた。二人の前に、普段通りの、JR大津駅前の姿があった。人や車が行き交っている。

「おい、兄ちゃん! そんなとこに停めんなや!」

 レイたちの車の後ろから、タクシーの運転手が車の窓を開けて怒鳴っている。

「悪い!」

 鏡がすかさず答えて車に乗り込む。

「早く乗れ」

 レイにも促す。レイが助手席に座ると、鏡はすぐに発進させた。駅前のロータリーを出る。

「どういうことだ?」運手しながら鏡が言う「戻ったのか?」

 レイは考える。それはたぶん違う。だが、確かめないと。

「あそこに交番があります」レイは前方を指差す「あのそばに停めて下さい」

「免許証持ってないぞ」

「わたしが降りて聞いてきます」

「何を?」

「潜水艇の遭難事故があったかどうか」

「わかった」

 鏡が交番の前に車を停めた。レイは降り、交番に向かう。そこには若い巡査がいた。

「ごめんください」

 レイは巡査に声をかけた。

「なんですか?」

 巡査がにこやかに答える。

「お聞きしたいことがあるんです」

「なんでしょう?」

「二日前、安曇川河口沖で船の事故はなかったですか? 行方不明者が出た」

「聞いてないですね」

「そうですか……。ありがとうございます」

「あの……?」巡査が不審そうに言う。

「それだけです」

 レイは巡査の視線を振り切って交番を出た。巡査は追ってこなかった。助手席に戻る。

「どうだった?」

「戻れてません」

「そうか……」

 レイは少し考えてから言った。

「琵琶湖総合研究所に行ってください」

「君の家に行った方がいいんじゃないか?」

「わたしの家は京都です。研究所の方が近い」

「どこだ?」

「柳が崎です。案内します」

「わかった」

 鏡が車を発進させた。もと来た道を戻り、柳が先の琵琶湖総合研究所に向かった。


 *


 レイと鏡は琵琶湖総合研究所の受付から、車を停めた駐車場まで戻って来ていた。鏡が言った。

「いなかったな」

「ええ」

 レイは、研究所に自分の上司である藤堂教授を訪ねようとした。たとえ、ここが元の世界でなかったとしても、藤堂なら親身に相談にのってくれると思ったからだ。だが、研究所に藤堂はいなかった。在籍すらしていなかったのだ。

「どうする?」

「とりあえず、家に戻りましょう」

「俺は大阪に行ってみようと思う」

「どうして?」

「会社の支店がある」

「そうですか……」

 レイと鏡は車に戻った。ドアを開ける。座席の上に何かある。財布と携帯電話だ。それが二つずつ。運転席には黒い財布と携帯電話。助手席には赤い財布と携帯電話。

「君のかい?」

「違います」

「俺のでもない。だが使えと言うことなんだろう」

「誰の言うことなんですか?」

「知らん」

 鏡が財布と携帯電話を拾い上げ、そのうち赤い方をレイに渡した。自分は、黒い財布の中身を確かめている。

「ずいぶん入っている」

「わたしの方もです」

 鏡が携帯の画面を開いた。

「使えそうだ」

 二人で覚えている限りの電話番号にかけてみる。だが、どれも繋がらない。

「だめだな、とりあえず二人の間で使えるにようにしよう」

 レイと鏡はお互いに携帯電話番号を交換する。

「最初の電話帳登録だな」

 二人は車に乗り込む。

「さて、大阪に向かう」鏡が車のエンジンをかける「その前に、昼にするか。金もあることだし」

 その言葉に、レイは急に空腹を覚えた。

「そうですね」

「飯を食ってから大阪に向かう」

「はい」


 二人は、研究所近くの大型商業施設に寄った。そこで昼食を済ませる。そして大阪に向かう。バイパスに入り、京都の山科へあと少し。そこで異変が起こった。

「逆向きです」

 最初に、レイがその異変に気付いた。今まで京都方面に向かっていた車が、逆方向の西大津方面へ向かっている。

「そんなはずはない」

「でも逆です」

「Uターンなんかしていない」

「でも戻ってます」

「おかしい……」

 レイと鏡は西大津まで一旦戻る。そこで再度バイパスに入り直す。何度やっても同じだった。山科へはたどり着けなかった。

「滋賀県からは出さないというわけか」

「一度家に戻りましょう」

「そうだな。頭を整理しよう」

 二人は朝方出た家へと向かった。


 *


「これはたぶんVRです」

 リビングのソファーに座り、レイは言った。

「VR?」

 向かいに座る鏡が訊き返してきた。

「バーチャルリアリティー、仮想現実」

「じゃあ、ここはコンピュータの中なのか?」

「そうです」

「馬鹿な、こんなにリアルな仮想現実なんてあるわけない」

「でも、そうでないと説明がつかない」

「日本にそんな高性能のコンピュータがあったのか?」

「日本のものとは限りません。人間のものとも」

「宇宙人か?」

「あるいは」

「学者の言うことじゃない」

 鏡はあきれたように言った。そして続ける。

「明日は電車を試してみる」

「それなら、近江今津駅から特急電車に乗りましょう。途中で堅田にしか停車しないから、勝手に乗り換えはできない」

「わかった」

「確か朝の七時台なら停車するはずです」

「そんな早くにか?」

「ええ」

「まあいい。じゃあ今夜は早く寝よう」

「はい」


 二人は夕食と入浴を済ませ、早くに就寝した。そして翌朝六時、家を出て、車で近江今津に向かった。駅近くのコインパーキングに車を停める。駅で切符を買い、ホームに出る。だいぶ早めに来てしまった。缶コーヒーを飲みながら特急電車を待つ。特急は七時台半ばにやってきた。乗り込む。すぐに次の停車駅、堅田。短い停車時間で発車する。しばらくして長いトンネルに入った。これを抜ければ京都の山科だ。レイは固唾を飲んで身構えた。だが、気づいたとき、二人は西大津方面行の各駅停車に乗っていた。

「だめか」

「そうですね……」


 その日以来、二人は様々なルートを試した。車で、鉄道で、滋賀県を離れようとした。だが、全て失敗した。いつの間にかもと来た道を戻っているのだ。どうやら、琵琶湖から、ある一定の距離以上は離れられないようだった。それがわかって来るにつれ、鏡の様子が荒れていった。毎夜、深酒をするようになった。


「鏡さん……」

「なんだ?」

 レイの呼びかけに、鏡は酒臭い息を吐きながら答えた。

「今日はこれくらいにしましょう」

 レイはそう言い、テーブルの酒を下げようとした。そのレイの頬を、鏡が平手で打った。

「俺に指図するな!」

 レイは頬を押さえる。

「すまんな……」

「鏡さん……」

「お前はどうして平気なんだ?」

「平気じゃありません」

「平気だよ。すごく冷静だ。いつも」

「そんな……」

「明日は俺一人で行く。お前はついて来るな」

 それだけ言い残して、鏡は寝室に消えた。


 *


 翌朝、レイが目覚めると、すでに鏡の姿は無かった。カーポートのランドクルーザーも。鏡が出て行った。もう帰ってこないかもしれない。でも、彼だけでも戻れたら。レイはそう願い、そしてそれを打ち消す。いやだ。一人になるなんて、いやだ……。レイは顔を覆う。その時だった。携帯電話が鳴った。気を取り直し、出る。

「はい」

 電話は警察からだった。鏡が交通事故を起こしたと言う。今、病院にいるから来てほしいと。レイは急いで身支度し、タクシーを呼び、警察に教えられた病院に向かった。病院に着くと、受付で部屋を聞き、その病室に飛び込むように入る。そこに、鏡はいた。ベッドから上半身をおこし、警官と話しをしている。

「鏡さん!」

 レイは鏡に抱きついた。すがりつき、声を押し殺して泣く。そのレイの背中を、鏡の腕が抱いた。

「悪かった……」

 鏡はそれだけ言った。


 鏡の起こした事故は自損事故だった。酒気帯び運転だと言う。山肌の擁壁に斜めに突っ込んだのだ。鏡の怪我は軽症だった。大事をとって一晩だけ入院した。レイは仮設ベッドを借りて鏡に付き添った。

「悪かった……」

「いいです、もう……」

「免許取り消しになったよ」

「どうせすぐにそれも取り消されます」

「車をダメにしてしまった」

「すぐに新車がやってきます」

「そうだな……」

「もう一人でどこかにいかないで……」

「わかった……、二度としない……」


 その日から、鏡は変わった。酒を飲まなくなった。そして、琵琶湖のまわりの観光地を、レイと訪れるようになった。


 夏の終わりの湖北。どこまでも広がる水面。陽が、落ちようとしている。

「綺麗だな」

「はい」

 レイの白いシャツが茜色に染まる。長い髪が、風になびく。

「どこを見ているんですか?」とレイは訊く。

 鏡は答えない。ただ、すっとレイの肩を抱く。

「来てよかったな」

「はい」


 秋の比叡山。青い空、そして紅く染まった木々。

「綺麗だ」

「はい」

 鏡が自分のマフラーを外してレイにかけてくれる。

「ありがとう。寒くないですか?」

「寒くない」

 風が吹いた。落ち葉が舞う。

「熱い紅茶が飲みたい」

「わたしも」


 春の海津大崎。湖岸にどこまでも続く満開の桜。風が吹いた。桜が舞い散る。

「綺麗だ」

「綺麗ですね」

 レイは白いシャツにブルージーンズ。長い髪が、風に揺れる。

「どこを見ているんですか?」とレイは訊く。

 鏡は答えない。

「寒くないか?」

「少し」

「ジャケットを羽織れよ」

「もう少し、このままでいたい」


 こんな暮らしが、この先もずっと続くといい。レイは、そう願うようになっていった。


 *


 初夏がやってきた。あの日から、一年が経とうとしていた。


 夜、風呂あがりの鏡に、レイは黙って買って隠しておいたビールを出した。

「あれ?」

「ずっと飲んでなかったでしょう?」

「いいのか?」

「もちろん!」

「じゃあ遠慮なく」

 鏡はグラスをあおり、ビールを一気に飲み干す。

「もうちょっと味わってよ」

「喉越しがいいんだよ、こういうのは」

「おかわり、ありますよ」

「いただこう」

 レイは冷蔵庫から缶ビールを取り出す。そして自分のグラスも出した。二つのグラスにビールを注ぐ。

「乾杯!」

「乾杯!」

 カチンとグラスを合わせる。鏡が言った。

「もう一年か」

「そうですね」

「あっという間だった」

「はい……」

「やっぱり、戻る方法は、あの潜水艇しかない。俺はそう思う」

「でも、潜水艇はありません……、街と引き換えに消えました」

「そうだな……」

 その時だった。レイの視界の端を黒い影がよぎった。

「あれ?」

 鏡も気付く。猫だった。あの日と同じ黒猫。それが二人の前に現れた。その猫が、言った。

……帰りたいか?……

「帰りたい」

 鏡が答えた。レイは無言。

……明日、お前たちの船を用意する。それに乗れ……

「帰れるのか?」

……お前たち次第だ……

 次の瞬間、猫は消えていた。

「聞いたか?」鏡がレイに訊く。

「聞きました……」

 レイは複雑だった。帰れる? 元の世界に? しかし、それは鏡との別れも意味していた。彼は妻帯者だったのだ。

「どうした?」

 鏡の視線を、レイはそらす。

「いえ、何も……」

「何も無いって顔じゃない」

「帰りましょう、明日、もとの世界へ」

「お前の顔は、そうは言ってない」

「帰りましょう、二人で」

「いいのか?」

 レイは鏡の目を真っ直ぐに見た。そして言った。

「はい」

「わかった。今日はもう寝よう。明日、朝一で湖岸に向かう」

「はい」

 二人は寝室に向かった。隣同士のベッドに入る。レイは、なかなか寝付けなかった。


 *


 翌朝、二人が目覚めると、家のまわりの街は消えていた。一年前の、藪に戻っていた。玄関を出た二人を、またあの猫が案内する。


 二人は湖岸に出た。そこには潜水艇が浮かんでいた。一年前と違うところは、潜水艇が桟橋に係留されていることだった。鏡がさっそく乗り込み、点検を始める。それは小一時間ほども続いた。レイはその間、待ちぼうける。


 鏡が潜水艇から出てきた。

「問題はない。捨てたメインバラストは戻っている。バッテリーはフル充電の状態だ。INS(慣性航法装置)のデータも残っている。エアも大丈夫だ」そしてあたりを見回し、言う「あれ? 猫は?」

「いません……。いつの間にかいなくなりました」

「そうか……」

「それで、どうするんです?」

「すぐに出発しよう」

「帰るんですね……」

「ああ」


 二人は潜水艇に乗り込んだ。あの場所、安曇川河口沖に向かう。鏡がINSのデータ通りに操船し、やがて、そこにたどり着いた。


「潜水準備完了」

 鏡が操縦席から船底に腹這いになっているレイに言う。

「潜るぞ」

「はい」

「メインタンク注水」

 ごぼごぼと音が鳴る。

「二メートル、三メートル、四メートル……」

 鏡が深度を読み上げてゆく。一〇メートルまでは一メートルおきに。そこからは五メートルおきに。暗い水中がライトに照らし出される。まだ何も見えない。


「深度九〇メートル、まもなく湖底だ」

「はい」

「バラスト投下、懸吊する」

 下降するエレベータが停止する感覚。

「見えるか?」

 レイは窓の外に目を凝らす。見えた。湖底だ。

「湖底が下に見えます。あの日と同じです」

「そうか、ここで待つ」

「待つって何を?」

「乱流だ」

「了解」

「ライトを消す」

「はい」

 船内の照明が落とされた。ライトが消える。窓の外が暗黒になる。だが、目が慣れるにつれ見えてきた。湖底が発光している。レイは鏡に確認する。

「そちらでも見えますか?」

「ああ」

「湖底が発光しています」

「あの日と同じだな」

「はい」

 そして、それはやってきた。船体が微かに揺れる。

「来た!」レイと鏡は同時に叫んだ。すぐに大波に呑まれた様に揺れ始める。レイは丸窓の横に付けられた取っ手につかまる。船体が激しく揺れ、軋む。

「緊急浮上する!」

「了解!」

 ゴトっとメインバラストの外れる音がした。ガクンと船体が揺れる。そして、急速に浮上してゆく。あっと言う間に丸窓の外が明るくなった。

「深度〇」

 激しい揺れはおさまった。それでも、ゆらゆらと揺れている。

 帰れたのか? レイは待つ。

「いた!」

 鏡が叫んだ。

「台船だ。帰ったんだ! 俺たち!」

 ハッチを開ける音、鏡がセイルから出てゆく。

「上がれ」

 レイにも声をかける。レイは梯子を上がる。セイルから身を乗り出す。いた! 台船だ。すぐそばだ。その台船の上で人が騒いでいる。こちらを見つけたらしい。手を振っている。そこでレイは気付いた。何かおかしい。レイは首をめぐらせる。湖岸を観察する。建物はあった。だが、そのあちこちから煙が上がっている。遠く、サイレンの音も聞こえてきた。

「何かあったみたいです」

「そうだな」

 やがて漁船が近づいてきた。潜水艇に横付けする。

「無事か!」

 藤堂教授だった。漁船の上にいる。鏡が訊く。

「何があったんです?」

「地震だ、かなり大きな。それと津波」藤堂は答え、そして訊いてきた「そっちは大丈夫なのか?」

「ええ、なんとか」


 レイと鏡は一旦漁船に移り、そして台船に上がった。鏡は台船の上のスタッフと無事を喜び合う。レイは疎外感を感じる。自分一人が取り残された感覚。そのレイの前に、あの黒猫が現れた。レイは金縛りにあったように動けない。


……無事に戻れたようだな……

……だが、ここがVRの世界でないとは、誰にも証明できない……

……生きることだ、この世界で……


 黒猫は消えた。レイの金縛りも解ける。

 レイは、この一年間の出来事を思う。鏡との暮らし、その全てを。あの世界に、わたしの幸福はあっただろうか? あったのだとしたら、そこにとどまった方がよかったのか?

 いや、違う。わたしの幸福は、彼と一緒にいることだ。今、わたしは、彼と同じ世界にいる。レイは、自分に言い聞かせる。今は、それだけでいいと。


 風が吹いた。その風が、レイの長い髪をなびかせる。

 湖は、今日も深く、青く、湖国に君臨していた。

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幻影の湖 辻井豊 @yutaka_394761_tsujii

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