第2話

——1か月後。


「だから脂っこい物は控えなあかんって言うてるやんか。血圧もお医者さんからさんざん注意されてんの、私も知ってんねんで。」

「相変わらず口うるさいなお前は、こんなもんただの風邪やろが」


憎まれ口を叩く言葉の最後の方は「ごほっごほっ」という咳に遮られた父の姿を見て、私はズレかけていたマスクを慌てて直す。


「インフルかて流行ってんねんから。もし熱出てきたらちゃんとお医者さん行きや。」

「わかっとるわ」

「保険証、すぐわかるとこに置いときや。どこにあんの?」


保険証がどこにあるのかわからないまま、急にバタっといかれたら色々と大変なのだし。


「えーとな、保険証・・」


とたんに父の表情が弱気になる。いやな予感がした。


「・・もしかして、どこに置いたかも覚えてないの?」

「いやいや、ちゃんとしまってあんねん」

「だからどこによ」

「この家のどこかにや」

「私が探しといたるから寝といてよ。どうせ例の書斎のどこかやろ」

「あの部屋には入るなって!」


何をそんなにこだわるのか、父はやはり書斎・・と呼ばれている奥の部屋にわたしが入るのを拒むのだった。


★★★


「って言ったって、リビングにも書類関係が入ってる場所とかなさそうやったし、やっぱりここをさがすしかないやんか」


父が万年床で寝息を立て始めるのを見届けた私は、例の書斎の前に立っていた。思えば子供の頃以来この父の部屋には入った記憶がないな。


「ふう・・じゃあ、いきますか」


大きく息を吸い込むと私は腹を括った。父のあの態度から想像するに、かなり散らかっているに違いない。片付けていくにはそれなりの気合がいると思われる。


「失礼しまーす」


一応形だけそう言ってから部屋にはいると、


「あれ、なんだ。綺麗にしてんじゃん。」


意外にも整然と片付いていることに驚く。頻繁に換気されているのか、カビ臭さもない。


四畳半の隅に置かれた、簡素な事務机の引き出しのいずれかに保険証があるのだろうと私は目星をつけた。父のプライバシーに土足で踏み込むようで気が引けるものの、こちらだってもしもの時に保険証の置き場所がわからなければ一大事なのだ。


一番上の引き出しを勢いよく開ける。


が、ハズレ。会社関係だった。


勤務先だった町工場の勤続四十年記念バッジやら、社員旅行の写真やら、企業年金の書類やら。


二段目。なぜかこの引き出しには暗証番号方式のロックがかかっていた。なぜ?と思ったが、私は遊び半分で父の誕生日にダイヤルを合わせてみた。


が、これは違った。次は私の誕生日・・


が、これも違う。


「他に何かあったっけ・・」


と言いかけた私の頭に、とある可能性が浮かんだ。もしかして


「ジンスケ命日なのかも」


0608。これがビンゴ。ダイヤルの奥でカチリとした音が聞こえ、引き出しが開く。


だけど、そこにはお目当ての保険証はなく、なぜか高校時代のわたしの写真と、高校の卒業アルバムが入っていた。え、なんでこんなところに黒歴史発動トラップが。しかもわざわざロックまでかけて・・まぁいい、見なかった事にしよう、と引き出しを戻しかけた時


変な感じがした。


「私って眼鏡、してなかったっけ。」


200x年度文化祭 と書かれた立て看板の前でピースサインを作っている制服姿の私。自分の記憶とは異なり、写真の中の私はずいぶん垢抜けた容貌だった。薄く化粧をし、髪も少し明るく染めている。でも違和感の原因は私の見た目だけじゃない。


「誰?この人」


隣で同じようにピースサインを作っている男子生徒。細い眉にピアス。そして襟足だけを長く伸ばしたソフトモヒカンは2000年代前半だったわたしの高校時代の流行を思い起こさせる。並んで写真に映る私と彼の距離感はものすごく近く、恋人同士のようだ・・・けど。


「いやいや、おかしいって」


私の高校3年間は彼氏どころか友達すらいない灰色の3年間だったのだから。第一この男子生徒はどこの誰なんだ?まずその疑問を払拭するために私は卒業アルバムを手に取って、乱暴にクラス写真のページを捲った。


果たして彼の顔写真は私と同じ2組の先頭に載っていた。


芦原 仁介


「アシハラ ジンスケ」


その名をつぶやくいた私の頭の奥が強烈に熱を帯びていき、ギリギリと錆びたボルトを誰かが強引にこじ開けるようにして頭蓋骨が緩む感覚に襲われた。


だめだ、これ以上は見ては行けない。だけどそんなもう一人の自分の制止も聞かず、私の手はさらに卒業アルバムの下に隠すように仕舞われていたB5サイズの大学ノートを手に取ってしまう。そしてそれにはこう書かれていた。


マヨラー交換日記①


なんだ?


何かに取り憑かれるようにして私は最初のページを捲った。


『200x年11月x日


一応、今日から私と仁介くんは正式に付き合うってことになったと思ってるんだけど・・・合ってるよね?笑

その前提で話を進めるけど、この交換日記は私の自己満足みたいなものだから、お互いが時間のある時に書きたいことだけを書ければ・・・っていう感じのゆるーい日記を考えてます。ゆくゆくは大なり小なり喧嘩もするだろうし、そんな時に面と向かっては言いにくい事なんかを交換日記にかけたらなぁ、なーんて笑

交換日記のタイトルはテキトーに考えました。だって仁介くんがあんなにマヨラーだなんてしらなかったもん。納豆にマヨネーズ入れるのは私は美味しいとは思えなかったけど、お父さんに教えたら何故かハマってた笑』


「何これ、全然記憶にないんやけど。」


だけどどう見てもこれは私の字だった。初めてできた彼氏に惚気る様を綴っているのは本当に私なの?という疑問符と同時に、食堂の牛丼にマヨネーズをかけている制服姿の彼の姿がありありと浮かぶのだ。どうして?


ページを捲っていくと、そこには一週間に一度のペースでお互いの日常を綴る日記のラリーが続いていた。おおよそ一冊の大学ノートを一年で消費しているようで、マヨラー交換日記⑥まで続いている。


『200x年4月x日


仁介くんって意外と料理の手際が良くてびっくりした。私なんかより全然上手いじゃん。今日私の家で二人で作ったカレー、お父さんにも好評だったよ。飴色玉ねぎってテレビとかではよく聞くけど、実際自分でやってみると大変だよね。自分一人だとできないかなぁ笑』


ページを捲る手をとめられない。


『200x年 10月x日


もうじき付き合って4年、正直この日記がここまで続くとは思わなかった。

もっと正直にいうと、絶対4年も持たずに破局すると思ったてた笑

こんな私だけどこれからもよろしくね。

付き合い出した記念にどこにいこう?って去年もこの話したけど、結構いろんなとこにいったから最近ネタ切れだよね。まぁおいおい決めるってことで』


『200x年 2月x日


今日の言葉、とっても嬉しかったよ。まさかちょっと揉めた後のこのタイミングで!?って感じでサプライズだったから余計に。

私の指のサイズなんていつ測ったの?(素朴な疑問)

お互いの親はもう顔見知りだし、結納とか・・・そんな格式ばったものはいいと思うけど、とりあえず改まって挨拶だけはして筋を通しといた方がいいかなぁ。』


『200x年 5 月x日


初めての海外出張、楽しむ余裕なんてないだろうけどなるべくリラックスしてね。仁介くんは初対面の相手だと表情が固くなるから、スマイル意識して!あと、水道の水は飲んじゃだめ。蛇口から綺麗な水が飲めるのは日本だけだから!

じゃあHave a nice trip,good luck!』


これが最後の日記だった。そして私は知っているのだ。彼の乗った上海行きの飛行機がどうなったかを。

それを裏付ける証拠として、父の引き出しに保管されている200x年6月8日の夕刊。


『上海行旅客機、墜落

 乗客・乗組員532名死亡

 機体制御系統に異常発生か』


私は彼の親族と共に、身元の判別が困難なほどに損傷した遺体を確認した。寒々しい安置室の中、その遺体が彼だと決定づけたのは左手薬指に嵌められた私と同じデザインの指輪だ。


あの時の私は半狂乱だった


どうしてこんなことが


私たちは何一つ罪も犯していないのに


あの飛行機に乗らなければ


輝かしい青春の日々も台無し


希望にあふれた未来地図も真っ黒


そして


その時のショックで流れてしまったお腹の赤ちゃ——


「菜穂子!!」


私の名を叫ぶ声で現実に引き戻される。


父が後ろから私を力強く抱きしめていた。


「お父ちゃん」

「お前、見たんか?」

私は何も言い返せない。

「それを見たんか!?思い出したんか!?」


私の肩を抱いて無理矢理に振り向かせ、父が瞳をのぞきこむ。悲しみ、哀れみ、後悔、いろんな感情が混ざり合ったその瞳には薄く涙が溜まっていた。


「お父ちゃん、私・・・私・・」


ずっと蓋をしていた黒い感情がまるで工場排水のようにドバドバと溢れ、嗚咽となって吐き出される。


「菜穂子、きっと大丈夫。ワシは言うた。人は忘れることで生きていけるって。けど、忘れたらあかんこともある。ゆっくりや。ゆっくり受け入れてったらいいんや。」


父は、ことさら「ゆっくり」の部分をまるで幼児に言い聞かせるようにゆっくりと、噛んで含めるように言い、私を強く抱きしめてくれた。


暫く言葉も涙も出なかった。

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マヨラー交換日記 リクタシン @rikutashin

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