票のない国

をはち

票のない国

夢野仁、27歳。


都会の喧騒に揉まれながら、政治活動に身を投じた若者だった。


彼の胸には、理想の民主主義を築くという熱い志が宿っていた。


しかし、その情熱は冷笑と「夢想家」というレッテルにすり替えられ、都会の雑踏に飲み込まれていった。


失望と無力感に苛まれたある日、ふとした思いつきが彼の心を捉えた。


「小さな村なら、純粋な民意を束ね、理想の社会を築けるのではないか。」


そうして仁は、人口わずか30人ほどの小さな村に移り住んだ。


そこは公民館の裏に雑草が生い茂り、老人たちが静かに日々を過ごす、自治の輪郭すら曖昧な場所だった。


仁は考えた。


「30人の村なら、民意は手に取るように感じられる。性急に立候補すれば、よそ者として警戒されるだけだ。まずは信頼を築こう。」


彼は3年、いや5年、無償で村のために尽くすことを決意した。


ゴミ拾い、草刈り、老人の話し相手――どんな些細な仕事も笑顔で引き受けた。


汗と時間を惜しみなく捧げる仁の姿は、村人たちの間に静かに浸透していった。


老人たちは「ありがとう」


「助かるよ」と口々に感謝し、仁はそのたびに胸を高鳴らせた。


「民意が近づいている。やがて彼らは私を必要とし、立候補を求めてくれるだろう。」


だが、仁の純粋さは、彼が気づかぬところで別の影を落としていた。


村人たちの感謝の言葉の裏には、冷ややかな打算が潜んでいた。


「あの若者は神様がくれた労働力だ」


「褒めりゃタダで働く」と、陰で彼を嘲笑う声が広がっていた。


純粋な感謝の気持が、いつしか、してくれるのが当たり前と捉えられはじめ


仁の奉仕は、村人にとって都合の良い道具にすぎなくなった。


5年が過ぎ、10年が経った。


仁はなおも村のために尽くしたが、選挙の話は誰一人持ち出さなかった。


痺れを切らし、ついに自ら出馬の意志を口にすると、村人たちは曖昧な笑みを浮かべ、言葉を濁した。


「まあ、そのうちな」


「焦らんでもええよ」


仁はなおも信じた。時間が経てば、彼の奉仕は美談となり、村人の心を動かすと。


しかし、ある日、公民館の裏で雑草をむしっていた仁の耳に、村人たちの本音が飛び込んできた。


「あのバカ、気づかねえだろ」


「おらたちが死ぬまで働かせりゃいい」


その言葉は、仁の夢を無残に打ち砕いた。この村に選挙など存在しなかった。


10年間、彼はただ利用されていただけだったのだ。


失意に沈んだ仁は、誰にも告げず山奥へと消えた。


そこで彼は、ひっそりと自らの身を焼いた。


煙と灰は風に乗り、村に舞い戻った。


それから村人たちは奇妙な病に冒され始めた。


誰もが、耳元で囁く声を聞いた。


「夢野仁に、清き一票を。」


その声は夜ごと彼らを苛み、眠りを奪った。


仁の夢は、選挙に出ることから、村人の心を動かし、希望の象徴となることに変わっていた。


彼の純粋さは、打算と無関心に塗れた村人たちの心に、かすかな罪悪感と恐怖を呼び起こした。


だが、その純粋さゆえに、彼は嘲笑の渦に沈み、村は今、彼の夢の残響に悩まされている。


人間の心は複雑だ。


仁の奉仕は、村人たちに感謝と嘲笑、親しみと冷淡さという矛盾した感情を同時に抱かせた。


彼らは仁を利用しながらも、その純粋さに心のどこかで揺さぶられていた。


だが、その葛藤を直視する勇気は誰にもなかった。


仁の死後、村人たちは囁く声に怯えながらも、互いに目を合わせず、沈黙を守り続けた。


そして今も、夜の闇の中で、耳元に響く声が村を包む――「夢野仁に、清き一票を。」


その声は、仁の夢が未だに村の空気を震わせている証だった。


だが、その震えが希望か呪いか、村人たちには永遠にわからないだろう。

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