細身の神

をはち

細身の神

米加田満、17歳。


皆から「ミッチー」と呼ばれる高校生は、ふくよかな体型がトレードマークだった。


だが、痩せたいと思ったことは一度もない。


食べたいものを食べたいだけ食べる――それが彼の信念だった。


野菜中心の生活? そんなものはミッチーの世界には存在しない。


待ちに待った夏祭りの夜。


ミッチーは縁日の引換券を握りしめ、神社の境内へ向かった。


焼きそばの香りが漂う屋台には長蛇の列ができていたが、彼は焦らない。


並ぶことすら祭りの楽しみだと知っている。


「ミッチー、また来たの?」と顔なじみの屋台のおじさんが笑う。


「もちろん! 今年も三つ!」ミッチーは焼きそばを受け取り、ベンチで一気に平らげた。


「おじちゃん、今年は一段と美味いよ!」


次はたこ焼きの屋台。


「おばちゃん、たこ焼き三つ!」


「ミッチー、ほどほどにしなよ」とおばちゃんが呆れ顔で言う。


「たこ焼きは祭りの主役だろ。ちゃんと食べなきゃ罰が当たる!」


軽口を叩きながら、ミッチーはたこ焼きを瞬く間にたいらげた。


だが、祭りの本番を前に、突然の腹痛が彼を襲った。


「痛っ…まだそんなに食べてないのに…そういえば、便秘で5日出てないな。」


せっかくの縁日で腹痛なんて最悪だ。ミッチーは神主のもとへ急いだ。


「神主のおじさん、お腹痛いんだ。薬ない?」


「ミッチー、食べ過ぎだろ。社務所は人でごった返してるから、本殿の棚に救急箱がある。そこから勝手に取って使ってくれ。」


「大丈夫、本殿なら慣れてるよ!」


ミッチーは本殿へ急いだ。


神社の本殿は、勾玉のご神体が鎮座する神聖な場所だが、特別な夜だけ扉が開け放たれている。


そこにはもう一つのご神体があった――痩身を司る「細身の神」の小さな石像。


古びた伝承によれば、この神は過剰な肉体を削ぎ落とし、完璧な姿を約束するとされている。


かつて飢えに苦しむ時代、村人たちは細身の神に祈りを捧げた。


神は、痩身を願う者から削ぎ取ったものを蓄えていたとも言われる。


その蓄えが、まるで肉を分け与えられたかのように、 村人にわずかな糧と生き延びる力をもたらしたという。


石像の表面は滑らかで、どこか不気味なほどに細く、まるで肉を持たない影のようだった。


その傍らに置かれた薬箱には、「細身の神の恩寵」と呼ばれる丸薬が収められているとの口碑が残っていた。


丸薬は、痩身を求める者に神の力を授けるとされ、しかしその代償は誰も語らなかった。


ミッチーは古めかしい木目調の薬箱を見つけ、「癪、疝気、渋利腹」と書かれた小箱に目をとめた。


「渋利腹」は腹痛の薬だと直感した。


箱には「一回一丸、白湯にて服すべし。一服一丸限り。二丸服すれば、身を損ずる恐れあり」と記されている。


ミッチーは丸薬を一つ飲み、間もなく襲ってきた便意にトイレへ駆け込んだ。


久々の解放感に高揚しながら、彼は「この薬、すげえ!」と呟き、薬箱をこっそり持ち帰った。


夏休み中、ミッチーはその丸薬を飲み続けた。


すると、驚くべき変化が訪れた。長年の肥満が消え、まるで別人のような体型に。


鏡に映る自分に、ミッチーは目を奪われた。


「これが…俺?」夏休み明けの学校は彼の変貌で大騒ぎだった。


「ミッチー、めっちゃかっこよくなった!」


「どうやって痩せたの?」


同級生の賞賛に、ミッチーは有頂天だった。


初めて浴びる脚光の甘美な響きに、彼の心は酔いしれた。


だが、話題はすぐに薄れ、注目は別のものに移った。


あの喝采をもう一度味わいたい、もっと目立ちたい。ミッチーはそう願った。


だが、丸薬の効果は止まったままだった。


そこで彼は、箱に記された禁忌を無視し、丸薬を二つ飲み始めた。


効果は即座に現れた。体がみるみる細くなり、まるで肉が溶けるように消えていく。


鏡に映る自分は、まるで彫刻のように鋭い輪郭を帯びていた。


「もっと…もっと肉を消したい」とミッチーは呟いた。


だが、周囲の視線は変わり始めた。


「ミッチー、痩せすぎじゃない?」


「なんか…病気みたいだよ。」心配の声が聞こえる。


だが、ミッチーはそれを嫉妬だと誤解した。


「みんなくそくらえだ。俺はもっと目立つんだ!」


ある夜、鏡の前に立ったミッチーは異変に気づいた。


頬はこけ、肋骨が浮き上がり、腕はまるで枯れ枝のよう。自分の体が、まるで他人のもののように感じられた。


「…何だ、これ?」初めての不安が胸をよぎる。


トイレに行くたび、体重が減っていることに気づいた。


いや、減るというより、肉そのものが削れている。


便器に流れるものは、ただの排泄物ではない気がした。


まるで自分の体の一部が、トイレに吸い込まれているような…。


ミッチーは恐怖に震えた。だが、丸薬を飲む手を止められなかった。


あの脚光を取り戻したい。もっと痩せたい。その欲望が、彼の理性を飲み込んでいった。


夜ごと、鏡に映る自分の姿はさらに異様になっていく。


ミッチーは知らない。石碑に刻まれた痩身の祈りを捧げ続けた者の末路を――


皮膚は粉をふき、薄紙のように剥がれ落ち、 目は落ちくぼみ、骸骨のような微笑みを浮かべていた。


それは、神に肉を捧げた者の“祝福された姿”とされた。


友人たちは彼を避け始め、教師たちは心配そうに声をかけ、親は病院へ連れて行こうとした。


だが、ミッチーは聞く耳を持たなかった。


「みんなくそくらえだ。俺は完璧になるんだ!」


ある朝、ミッチーは自分の腕を見下ろした。


血管が浮き上がり、皮膚の下で脈打つ様子が透けて見える。


指を動かすたび、骨が軋む音が聞こえた。


トイレに行くのが怖かった。が、便意は容赦なく襲ってくる。


我慢すればするほど、腹に刺すような痛みが走る。


「もう…我慢できない…」


彼は震える足でトイレに向かった。


その日、学校のトイレに駆け込んだミッチーは、便器の前に座り込んだ。


体が軽い。あまりにも軽い。便意とともに、何かが体内から抜け出ていく感覚。


排水音が響くたび、彼の体はさらに縮こまるようだった。


ふと、床に落ちた自分の影を見た。


そこには、人の形をしていたはずのものが、細く、歪んだ輪郭で揺れている。


まるで、影そのものが彼を嘲笑うように――


「やめろ…やめてくれ…!」


ミッチーは叫んだが、声は掠れ、ほとんど聞こえない。


トイレの個室の壁が、急に狭く感じられた。


自らが殻を抜け出し、何かが溢れ出す――そんな感覚。


部屋そのものが彼を締め付けてくるようだった。


鏡のないこの空間では、自分の姿を確認する術がない。 それが、かえって恐怖を煽った。


自分がまだ「人」として存在しているのか、確かめる術がない。


最後の便意が来たとき、ミッチーは抵抗する力を失っていた。


体が震え、冷や汗が額を伝う。


便器に流れる音が、まるで自分の命が吸い込まれる音のように聞こえた。


視界がぼやけ、意識が遠のく――「俺は…消えるのか…?」


そのトイレのドアは、二度と内側から開くことはなかった。


翌日、ミッチーの不在に気づいた同級生が、トイレの個室を覗いた。


そこには、ミッチーの制服とカバンが、まるで主を失った抜け殻のように放置されていた。


便器の中には何も残っていなかった。


だが、床の隅に転がる小さな薬箱に、その者の目は釘付けになった。


「細身の神の恩寵」と書かれたその箱を、影のような手が拾い上げた。


暗闇の中で、かすかな音が響く――小さな丸薬が、喉を滑り落ちる音。


静寂の中、その者はただ、じっと薬箱を見つめていた。


まるで、新たな欲望が目を覚ますのを待つように。

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