夏の匂い

神楽堂

夏の匂い

 私が幼い頃、胸の奥にずっとくすぶっていた不思議な感覚があった。

 その感覚は、決まって夏になると強まった。

 どうしても自分にはお兄ちゃんがいたような気がしてならなかったのだ。

 ある日、勇気を出して家族に尋ねてみた。


「私にお兄ちゃんって、いたの?」


 返ってきたのは静かな拒絶だった。


「葵に兄はいません」


 家族は口をそろえて否定した。

 しかし、母の目が一瞬だけ揺れ、まるで何かを飲み込むような表情をしたのを、私は見逃さなかった。

 父は新聞の影に顔を隠し、ただページをめくり続けていた。

 不自然な沈黙が、かえって疑念を深めていくこととなった。


 記憶とは不思議なもので、視覚や聴覚よりも「匂い」の方が、鮮明に過去を呼び覚ますことがある。

 「夏の匂い」は、心の中に住むお兄ちゃんを呼び起こす鍵のようなものであった。

 梅雨明けの朝、庭の土から立ち上る湿り気を含んだ匂いを嗅ぐと、決まって脳裏に情景が浮かぶのだ。

 私の手を握り、「行こう」と囁く声。

 田舎道を裸足で駆け、水たまりを飛び越えた思い出。

 お兄ちゃんの背中は私よりずっと大きく見え、その姿を追いかける私は、いつも少し息が切れていた。

「待って!」

と叫ぶと、お兄ちゃんはいつも立ち止まり、振り返って手を差し伸べてくれた。

 それらの記憶は、本当に「幻」なのだろうか。

 家族が言うように、お兄ちゃんなど初めから存在しなかったのだろうか──


 昼下がり、軒先に吊るされた風鈴が微かに揺れた。

 カーテンの隙間から差し込む陽の光が、部屋の中に浮遊する埃を照らし出す。

 私はベッドに横たわり、天井を見つめていた。

 窓から漂ってきたのは、向かいの家の庭で焚かれた蚊遣りの匂い。

 その匂いを嗅いだ途端、私は夢を見るように記憶の中へと沈んでいった──


* * *


 縁側に腰掛け、夕闇に浮かび上がる蛍を眺めていた夏の夕べ。

 お兄ちゃんは小さな虫かごを手に持ち、「見ていろよ」と言いながら、意気揚々と茂みへと入っていく。

 やがて戻ってきたお兄ちゃんの手の中で、淡い緑色の光がほんのりと明滅していた。


「ほら、光ってるだろ」


と、小さな手のひらを開いたとき、そこに灯った蛍の光が、お兄ちゃんの笑顔をふんわりと照らし出した──


* * *


 台所から母が切ったスイカの甘い香りが漂ってきて、私は我に返った。

 熟れた果肉の瑞々しい匂いは、私の鼻腔をくすぐり、唾液を誘発した。

 それは、兄とのスイカの思い出を蘇らせた。


* * *


「半分こ!」


 白い縁側でお兄ちゃんと向かい合って座り、赤くみずみずしいスイカを頬張る。

 甘い汁が顎を伝い、シャツを染めていく。

 種飛ばし競争もした。

 お兄ちゃんはいつも遠くまで飛ばせていた。


「負けた!」


と悔しがる私の頭を、お兄ちゃんは優しく撫でてくれた。


「いつかは勝てるさ」


 その言葉には何の根拠もなかったが、不思議と救われた気がした。

 スイカの香りは、いつだってお兄ちゃんの優しさを思い出させてくれた。


* * *


 日が沈んだ。

 隣の家の子が花火を始めたようだ。

 硝煙の匂いが我が家にも入ってきた。

 すると、その匂いに導かれるように、また兄との記憶が浮かび上がってきた。


* * *


 お兄ちゃんと一緒に花火をした思い出。

 どちらが長持ちするか競争した線香花火。

 煙たいはずの花火の匂いが、懐かしい思い出を呼び起こす。

 楽しかったな……


* * *


 数年後、私は図書館で過去の新聞記事を調べてみた。

──小学生が増水した川で溺死──

 そこにあった写真は、紛れもなく私の記憶の中にある"お兄ちゃん"そのものだった。

 七歳で川に呑まれてしまったお兄ちゃん。

 当時の私はまだ四歳で、その記憶は断片的なものでしかなかった。

 母は兄の死をきっかけに深い悲しみに沈み、家族は母を守るため、兄の痕跡をすべて家の中から消し去った。写真も、おもちゃも、名前さえも。まるで初めから存在しなかったかのように──

 けれど、消せなかったものがあった。

 それは、私の記憶の中に残る"夏の匂い"。


* * *


 夏も終わりに近づいたある日、私は母のそばに座り、静かに言った。


「あの記事、見つけたよ。お兄ちゃんのこと」


 母の手が止まり、長い沈黙が部屋を満たしていく。

 やがて、母の頬を一筋の涙が伝った。


「あなたはまだ小さかったから……」


 母の声は震えていた。


「あの子が死んだとき、私は壊れてしまうと思った。葵にまで辛い思いをさせたくなくて……でも、葵は覚えていたのね」


「匂いで覚えていたの」


 私は言った。


「雨上がりの土の匂い、蚊取り線香、スイカ、花火……全部、お兄ちゃんを思い出すの」


 母は立ち上がると、ためらいながらも一歩ずつ押入れへと歩いていった。

 押入れの前に立ち、母は目を閉じてふうっと息を吐いた。手を合わせてから目を開き、ゆっくりとふすまに手をかける。

 重たい音とともに、古びたふすまが軋んで開かれていった。

 中には使われなくなった布団が積まれていた。

 そして、奥の方にひとつの段ボール箱があった。

 箱は色褪せ、角は少し潰れ、上にはうっすらと埃が降り積もっている。

 母はしゃがみこみ、箱の表面を指でなぞるように撫でた。

 その仕草にはまるで、長く離れていた誰かの頬に触れるような優しさがあった。


「ずっと、開けられなかったの……」


 その声は震えていた。

 母は意を決し、蓋をそっと開ける。

 埃の匂いとともに、過去の気配が一気に部屋の中に溢れ出てきた。まるで閉じ込められていた時間が解き放たれていくように。

 箱の中には、色褪せた子ども服、小さな運動靴、プラスチックの動物フィギュア、そして──お兄ちゃんの写真。

 照れ笑いを浮かべて写っているその顔は──記憶の中のお兄ちゃんであった。

 母はひとつひとつを丁寧に手に取りながら、懐かしそうに見つめていた。

 その目には涙が溜まり、声には出さずとも、想いは伝わってきた。

 もし「匂い」がなければ……私はお兄ちゃんのことを忘れていたのかもしれない。

 あの夏の日、土と草と風の匂いに包まれたお兄ちゃんは、確かにいたのだった。


* * *


 今年も夏がやってきた。

 窓を開けると、雨上がりの土の匂いが、そっと部屋に流れ込んできた。

 その瞬間、私の心の中でお兄ちゃんが目を覚ます。

 虹を見つけ、それを見せようと手を引いてくれた姿が、昨日のことのように蘇る。


 私は母と一緒に、久しぶりに縁側で蚊取り線香を灯した。

 立ち昇る煙を見つめながら、私達はお兄ちゃんの思い出を語り合った。

 香りが漂うにつれ、お兄ちゃんの姿はより鮮やかになっていった。


「あの子は、いつも葵を守るって言ってたのよ」


 私は母と二人でスイカを食べた。

 小さな種が舌の上を転がり、じゅわりと広がる水気には夏草の匂いが混じっていた。

 スイカの匂いとともに、お兄ちゃんと食べた思い出が蘇る。


「お兄ちゃんは、いつも半分こにしてくれた」


「そうね、あの子はそんな子だったわ」


 私たちは線香花火を楽しんだ。

 燃え尽きていく火花を見つめていると、花火の煙の匂いとともに、兄と楽しんだ花火の記憶が蘇っていく。

 雨、土、花火、線香、スイカ──それらの匂いが、お兄ちゃんの声と笑顔を連れてきてくれた。

 夏の匂いがある限り、私とお兄ちゃんの思い出は、ずっと生き続けていく。


 夜風が私の頬をやさしく撫でた。



「お兄ちゃん、おかえり」



< 了 >

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