ここが僕と君の安全地帯

道端ノ椿

カフェという名の相談所

 喫茶店とカフェの違いとは何だろう?


「喫茶店は本来、タバコを吸いながらコーヒーを飲める場所」と聞いたことがある。しかし、禁煙ブームの現代では、その基準も曖昧になってきているだろう。ひとまず、ここでは『カフェ』と呼ぶことにする。


 僕は毎週末になると、近所のしがないカフェに通っている。そこは静かで、清潔で、コーヒーが美味くて――いや、真の魅力はそこではない。僕がそのカフェに行く本当の目的は、そこで働くかえでという女性店員なのだ。年はおそらく僕と近い、三十歳前後だろうか。「いい年こいて女の子目当てでカフェに通うなんて恥ずかしい」と自分でも思う。しかし、吃音症きつおんしょうの僕にとって、自分のペースで話せる場所は何より貴重なのだ。


 このカフェは夫婦で経営している。つまり、楓さんは人妻である。もし仮に独身だとしても、僕は相手にされないだろう。彼女とは住む世界が違いすぎるのだ。確かに楓さんは飛び抜けて美人というわけではない。失礼ながら「中の上」と言ったところだろうか。しかし、彼女の一番の長所はその快活な人柄である。誰とでも分け隔てなく接し、常に笑顔を絶やさない。僕と同じように、この店に楓さん目当てで来ている客は少なくないだろう。


「あら、涼平りょうへいさん。いらっしゃい!」

 楓さんは僕を見ると、にこやかに笑いながら手を振った。

「いつものでいい?」


「あっ、はい。い……いつもので」


「はーい」と言って楓さんは厨房に向かった。

「ケーキセットのショート、アイスのブラックです!」


 高身長で爽やかな夫が「はーい」と返事して準備を始める。


「昨日の大雨は大丈夫だった?」

 楓さんは流れるように水とおしぼりを僕の前に置き、自然と話題を振った。


「あっ、はい。あ……っ……アラートは何度も鳴っていましたが、あの、僕の家は大丈夫でした」


「それはよかった」と楓さんは安心したように言った。

「ここの建物自体は古いから、浸水しないか心配でね。念のため段ボールを敷き詰めてたのよ。そんなことしたって変わらないだろうけど、気休め程度にね」

 彼女は自虐的に笑った。つられて僕も笑う。


 楓さんのような素敵な女性と結婚できる夫は、よほど優れた男なのだろう。もちろん羨ましいという気持ちはあるが、さすがに諦めがつく。こうして週に一度、癒しをくれる――それだけで幸せだと思うべきなのだ。


 午後二時を過ぎると、急激に客が増え始めた。その中には常連も多いらしく、休む間もなく楓さんに話しかけていた。まるで相談所のような状態になっている。いや、スナックと言った方が適切かもしれない。みんな自由に声を出せて羨ましい。また、相手の忙しさも気にせず話しかけられる図々しさにも憧れる。僕は溜め息をつき、レジに伝票を持って行った。今の楓さんは忙しいので、後にするべきだったかと後悔した。


「また来てね、涼平さん!」

 楓さんは大きく手を振った。僕は『ごちそうさまでした』と言おうと思ったが、声は出なかった。軽く会釈だけをして、虚しく店を後にした。仕方ない。僕の人生とはそういうものだ。




 その日の夕食はチャーハンを作った。手抜きをしつつボリュームのあるものを食べたかったのだ。結果は無難な完成度で、腹は八分目になった。しかし、何かが足りない。おそらくこれは食欲というより、心の部分だろう。僕は気分転換に外を歩くことにした。

 夜の蒸し暑さも、今日だけは不思議と快適だった。虫が鳴き、コウモリが元気に飛び回る。町を一周すると、近所のスナックが目にとまった。今の家には長く住んでいるが、この店には入ったことがなかった。


 時刻は九時を過ぎた頃である。通りにはちらほら酔っ払いもいるが、スナックから歌声は聞こえない。僕は引き戸を開け、店に入ってみた。カウンター席が六つだけの小さなスナックだった。先客で僕と同い年くらいの女性が奥に一人、五十歳くらいの中年男性一人が手前に座っていた。僕はその間に腰かけ、米焼酎のロックを注文した。

 店は六十歳くらいのママさんが一人で営んでいるようだ。この店の規模なら何とか回せるのだろうか。ママさんは無理に話しかけて来ることもなく、僕は落ち着いた時間を過ごすことができた。


 奥の女性はかなり酔っているようだ。頭をフラフラとさせながら、ママさんに愚痴を言っている。

「うちの旦那はさ。表ではいい顔してるけど、裏ではひどいのよ。面倒なことは全部私に丸投げするし。一緒に店やってるんだから、家事くらい手が空いた時にやってくれりゃいいのにさ」

 今になってようやく気づいた――彼女は僕が行きつけのカフェの店員、楓さんだ。まさかこんなところで会うと思わなかったし、いつもの朗らかな雰囲気と違い、やさぐれているのでわからなかった。


「レスなのも関係あるんかな。なんか面倒くさくなっちゃってね。私はあまりしたいって気持ちはないけど、たまにはするか……」

 僕は楓さんがあの夫とするところを想像してしまい、体が熱くなった。ごめんなさい。僕は彼女だと気づいたので話しかけた方がいいのだろうが、さすがに勇気が出ない。見つかる前に店を出てしまおうか……


「あっ!」と楓さんは声を上げた。

「涼平さん……?」

 横から覗き込んでくる彼女の顔が視界の端に映った。


「……ああ! 楓さんじゃないですか!」

 僕は必死で驚く演技をしたが、きっと下手くそだっただろう。

「偶然ですね」


 楓さんはグラスを持って、僕のとなりのイスに移動した。麦焼酎のソーダ割りを飲んでいるらしい。

「もしかして、さっきの話、聞いてた……?」


 聞いてないと言うのが優しさだろうが、僕は彼女の恥ずかしがる顔を見てみたかった。

「あっ……はい。えっと、全部聞いてました」


 楓さんは顔を赤くして下を向いた。それは酔いだけの赤面ではないように見えた。

「ちょっとー! 早く声かけてよ!」

 彼女は僕に肩をぶつけた。初めてのボディタッチ。

「夫に言わないでね」


 その後は楓さんの愚痴に付き合ったが、酒と緊張のせいであまり覚えていない。僕と彼女と知らないおじさんは、たまに懐かしい曲を歌ったりしてのんびりと過ごした。ここは楓さんにとって、相談所であり安全地帯なのだ。彼女はよくママさんに話を聞いてもらっているのだろうが、今日は僕も少しはその役割を担えたかもしれない。




 閉店時間の0時になり、僕たちは外で大きく伸びをした。そして僕は楓さんを家まで送っていくことにした。


「なんでだろう。いつもよりお酒が回ってるかも……」

 楓さんは千鳥足で隣を歩いている。

「家まで帰れるかな」


「歩けなくなったら、僕が、お……おぶっていきますよ」


「ほんと? 頼りになるわ」

 楓さんは僕に腕を絡めてきた。優しいシャンプーの香りがする。そして何より、腕に伝わる柔らかい感触に気づいてしまった。鼓動が早まり、一瞬で酔いが冷めた。


「えっと、だ、誰かに見られたら、まずいんじゃ……」

 もったいないが、一応言っておかなければならない。


「いいじゃん、これくらい。酔っぱらいの介抱よ」


 そうだ、これは安全のための行為なのだ。それに、厳密には胸ではなくのだ。そうやって何度も自分に言い聞かせた。




 ◇ ◇ ◇




 後日、カフェで楓さんと会った時、僕たちはほのかに顔を赤らめてどぎまぎした。彼女の夫に知られてはいけないので、ふたりで秘密を共有している状態だった。


「え、えっと……いつものケーキセットで、いいかな……?」

 今日は楓さんの方がどもり、不思議と嬉しくなった。


 僕たちの関係がこれからどうなるかはわからない。でいるのが一番平和なのだろう。僕にできるのは、このカフェやスナック――彼女の大事な相談所で話を聞くことくらいだ。相変わらずケーキは甘く、コーヒーは苦かった。







(終)




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ここが僕と君の安全地帯 道端ノ椿 @tsubaki-michibata

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