1999

ねくしあ@新作準備中

Ⅹ.72=I

 俺は、昔から「声」が聞こえた。 

 無機質で、しかしどこか人を見下すような傲慢さを持つ、人間ではない何かの声。それが、脳の真ん中に響き渡っていた。


 ——その声が、遍く人類に届くその日までは。


 ◇


環太かんた、誰と喋ってるの?」

「んーとね、『王様』? って人だよ!」


 俺は独り言の多い子どもだった。いや、正確には、他の人には聞こえない存在と会話していた。当時幼かった自分には理解出来なかったが、ただ彼は自分のことを王様だとしか言わなかった。

 その度にお袋は気味悪がったような顔を浮かべていたが、次第に受け入れていった。あるいは諦めたのか。どちらにせよ、その理由は4つにまとめることが出来る。


「物語の本は辞書より42冊多くて……えっと、198から42を引いて2で割って——」

『我が使徒よ。その問題の答えは78だ』


 1つ。俺にだけ聞こえる「声」の主——王様は、俺を助けてくれた。

 俺は勉強が得意ではなかったが、数学の問題を解いてくれたり、英語を教えてくれたりした。発音こそ文字をそのまま読んだみたいなもので奇妙だったが、問題を間違うことは殆どなかった。


『我が使徒よ。その棚の3段目にある黒い本を取れ』

「わ、分かった」

『貴様には学ぶべきことがある。やるべきことがある。王たる我の御前から逃げることは許されぬ』


 2つ。俺は図書館か家にずっと籠もっていた。

 友達と遊ぶことは王様に許されず、ひたすらこのフランス語の気持ち悪い本を読まされた。おかげでフランス語が読めるようになったが、それを使う機会は全くと言っていいほどなかった。


『百詩篇I-46——そこはこう訳すのだ。“三晩で天からの大火が降るGrand feu du Ciel en trois nuits tombera”と』

「あぁ、そうか。確かに、単語が少し抜けていたよ」

「……ねぇ、環太。また王様と喋ってるの?」

「そうだよ。フランス語の勉強をさせられてるんだ」

「そ、そう……」


 お袋は俺を心配した。最初は言語に興味を持つ秀才だ、と喜んでいたが、自己暗示みたいな笑みは薄れていき、おかしな子だという認識をかえって強める結果となった。


 そして——3つ。1994年、俺が中学2年生の時。とある宗教が世の中を騒がせていたらしい。 

 俺はその本の解読にようやく成功し、何度も繰り返し読まされていた頃だったから詳しくは知らなかったが、それがお袋を大きく動かした。俺が3歳になって以降、下がりっぱなしだったお袋の口角が平行になるまで、12年くらいかかったのだ。


「環太。お母さんね、宗教を作ろうと思うの」

「宗教……? キリスト教とか、そういう?」

「そうよ。環太って、が聞こえるんでしょ? それって神様なんじゃないかって、お母さん思ったんだ」


 その目には、狂気が宿っていると感じた。学校では一人ぼっちだったから、よく観察者気分でいたのが役に立ったのだ。これは、おかしな人の目だった。とある宗教のせいで親を亡くしたというクラスメイトは、あれと似て非なる顔をしていたのが、どうにも重なったような気がした。


 そうして、お袋は神王教しんおうきょうを興し、自らを教祖とした。実家は神妙な雰囲気に改装され、俺は預言者という立ち位置になった。


 最後に、4つ。お袋にとってこれが大きかったのかは知らないが、親父が家を出ていってしまった。普段から仕事で忙しくしていて家にはいなかったから、生活は殆ど変わらなかった。けれど、心を揺さぶったのは事実だ。その大小は、数学が苦手な俺では数字にできなかった。


 それもあって、お袋の宗教については、例の本を読んでじっとしてれば様になると言うので、仕方なく受け入れることにしたのである。


『ふむ。貴様の母はどうやら良き才を持っている。我のことを理解しているようだ。この宮殿は我に相応しい』


 窓を締め切って薄暗い部屋には、煙たい匂いが充満している。他にあるのは、蝋燭の火が燃える音と、微かな明かり。それと手元の相棒。


 お袋は、神王教への勧誘で忙しくしているので、この場にはいない。今までやっていた仕事はやめたらしい。税金がどうこう言っていたが、そんな教育は受けていないも同然なので、無視することにした。王様も教えてはくれなかった。


「お前は何がしたいんだ。俺には分からない。本を読ませ、お袋を変にして、あとは何が望みだ」

『そうだな……なら、次は貴様が本を書け。作家になれ。そしてこの我のことを書け』


 文学者の英才教育でも施した気なのか、王はそんなことを宣った。まるで、命令とでも言わんばかりの尊大な口調で、俺に告げたのだ。


「そう言われたって、お前の名前すら俺は知らない。王としか言えないじゃないか」

『貴様は莫迦なのか? 我が使徒ともあろうものが、斯様な愚者では話にならない。貴様は、まだその本を読み返す必要がある』


 家では預言者として、時々訪れる信徒に尊大な口調で話しかけ、喜ばれる。学校では生徒として、時々話しかけてくるクラスメイトになんとか答え、離れられていく。それは、高校に入っても変わらなかった。


 高校2年生のある日、視界に入った新聞に、こんなことが書いてあった。


「学生向けコラムコンテスト……?」


 曰く、地元の新聞社主催で行われる、学生限定のコンテストらしい。応募期間はこの夏休み中。原稿用紙一枚から四枚程度で書いたコラムを送り、優秀作品は新聞に掲載される——というものだった。

 正直、好奇心は殆ど動かなかった。食指が動くものじゃない、と思った。しかし、王様は予想外の言葉を口にする。


『ククク……ようやくだ。我が使徒よ、この機会を逃すな。我の指示に従えば良いのだ』


 王様は長く連れ添った相棒だ。その提案が怪しかろうと、拒む理由などなかった。その日のうちに、俺はお袋の目を盗んで原稿用紙を数枚買ってきた。


 それからは、百詩篇あの本を読んでは執筆し、読んでは執筆——の毎日だった。書かれた情景を、俺の経験という糸で編んでいき、気に入らなければ全てほどいてまたやり直す。

 無論、母親にバレてはいけない。神王教について書いているのだ、と言えば見過ごしてくれるかもしれないが、淡い期待に委ねてはいけない。俺は、ただ一人でこれを完成させなければいけない。


『そこは神妙に書け。この偉大さを、恐怖を、刻みつけるように』


 様々心配したが、結局五日ほどで完成した。四枚ギリギリまで使ってしまったが、良いものが書けたと自負している作品だ。作家と編集者の関係はこういうものなのだろうか、なんて空想しながらだったので、楽しくもあった。


 残りの使命は、家にあった封筒を使い、原稿用紙を新聞社宛に送ること。これもやはり、お袋の勧誘の間に行うことができた。


 ——季節が一つ過ぎた頃、郵便受けに俺宛の封書が入っていた。

 恐る恐る開けてみると、そこには「受賞のお知らせ」の文字が目に飛び込んできた。俺は何度もそれを読み返し、掲載許可と承諾のサインをし、すぐさま投函した。興奮のあまり手放したくはなかったが、急がねばバレてしまうので、泣く泣くのことだった。


「あぁ……なんだか、夢みたいだ……」

『夢ではない。もうすぐ、

「……あぁ、そうだよな」


 その帰り道。ようやく、俺の能力が認められた。そう思って、本気で喜んでいた。自分の積み重ねてきたことだけを評価されたのだ、嬉しくない人はきっといない。だが、ふと「王様のおかげだ」なんて独り言が脳裏に生まれ、死んだ。その死骸が、強烈な違和感を催した。


 これは、本当に自分の力なのか? と。

 王様に誘導された、ただの帰結なのではないか? と。


 途端に苦しくなって、頭を振る。今はどちらでもいいのだ。どうせ、王様のことなど誰も知らない。理解できない。そう暗示をかければ、自信が湧き出てきた。


 数日後。 

 お袋の大声で目が覚める。


「環太! 起きなさい!」

「……なんだよ。うるさいなぁ」

「何と言いたいのはこっちよ!」


 そう言って、新聞の「弥生環太:『恐怖の大王の予言』」という文字列を指差す。だからなんだ、と言いかけた時、それが何を表しているのかに気づき、一瞬で意識が覚醒する。


「そっ、それは——」


 心臓が早鐘を打つ。血の気が引いていく。心臓と脳以外の命が奪われたような感覚になる。

 

 直後、空っぽになった身体に重いものがぶつかる。

 それは拳でも車でもなく、お袋の身体だった。


「さすが環太……! 預言者として、立派に役目を果たしたのね!」

「よげん、しゃ……?」


 何を言っているかさっぱりだった。けれど、少し考えれば理解できた。お袋は、俺の「声が聞こえる」という能力を信じて宗教を興したのだ。それに関連した話を新聞に載せたなら、喜ぶのも当然だろう。


 ひとしきり俺のことを褒めたお袋は、久しぶりに笑顔を見せ、部屋を去った。マイナーな、怪しい新興宗教の仄暗い雰囲気は、どこかに消えてしまったように思えた。


 変化はそれだけではない。来るか来ないか、程度だった信者の数が、突如増えたのだ。俺が座る部屋は、暑苦しいほど人が集まるようになった。異口同音に「預言者様」と言っていたので、あの新聞のコラムの効果に違いない。


 高校でも変化はあった。今まで確実に俺を避けていたクラスメイトが、話しかけてくるようになったのだ。最初は物好きだけだったが、俺が案外暗くない人間だと分かると、クラスの人気者になっていった。


 ——こうして、俺は平穏な幸せを手に入れた。家は相変わらずうるさいが、それもなんだか心地よくなっていた。


 1年が経ち、1999年の7月。俺が書いたコラムにも明記した、「滅びの年」の中心。俺はそのことを忘れかけていたが、信者が「滅びとはどういうものか」なんて質問をしたことで思い出した。


『滅びとは何か? かかっ、それは、その時にこそ分かる。恐怖の大王が来るというのはしっかりと書いたのだ、莫迦な質問と言えよう』


 気温が30度を超える、暑い夏の日。俺は、何度目になるか分からない質問に、王様の言った答えをオブラートに包んで答えていた。

 最近は、日本中で滅びの予言に備える動きがあるらしい。俺が色んな人を動かしたと思うと、どこか気持ち良くなってくる。クラスメイトも、「滅んだらどうしよう」なんて話題で連日盛り上がっている。


 ——その刹那。空が、炎のように赤く染まった。須臾の出来事に信者たちが驚く。俺も慌てて壁の時計を見て、夕暮れには早い正午であることを確認する。


〝我こそは恐怖の大王。古に予言されし王、その人である〟


 毎日聞いていた「声」が、今度は脳の中ではなく、空から聞こえた。どうやらそれは、皆も同じようであった。


「何だこの声は……!」

「恐怖の大王——!」

「予言は本当だったのか!」

「預言者様よ、どうかお助けください!」


 ドタバタと音を立て、老若男女が俺に縋り付く。鼻腔に十人十色の匂いが満ちる。

 しかし、縋りたいのは俺も同じだった。


 ——まさか、王様こそが恐怖の大王だったなんて。


 今考えれば、すぐに分かりそうな話だ。にもかかわらず、俺は気づかなかった。俺が莫迦だからか、あるいは精神がいじられていたのか。どちらにせよ、俺は孤立してしまったのだ。


〝我はこの力を以て世界の恐怖を叶えよう。失せることを畏怖せしものを、世界から抹消し給う〟


 直後、信者たちは消え去った。

 部屋の入口を見ると、泣き崩れるお袋の姿があった。

 お袋は、俺ではなく信者が消えることを恐れた——その証拠であった。


『さぁ、我が使徒よ。貴様には直接訊いてやる。何が消えるのを恐れる?』

「悪魔っ……! この悪魔ああああ!」

『言ったであろう。百詩篇に書いてあっただろう。我が恐ろしさが、恐怖の意味が!』


 無くしたくないものが、次々と思い浮かんでくる。

 高校の友達、受賞者という栄誉、それらを作り上げた努力——18年の中で、色々と大事なものを得ていた。


 けれど、最後に残るものはたった一つしかなかった。否定したかったけれど、嘘だと言いたかったけれど、心にはそれだけがあった。


「でも……やっぱりダメだ。無くしたくないのは相棒——お前だよ。少し不思議で、怖くて、けど優しい、親友みたいな、お前だ」

『……はぁ? き、貴様、何を言って——!』

「大事なものは、近くにある。そうだろ?」

『嘘だッ、我は恐怖の大王で——』


 プツリ、と電源の消えたテレビの如く声は消えた。同時に、空の赤も失せ、不気味なくらいに青々とした空が広がっていた。


 やけに大きく聞こえる蝉の大合唱は、まるで終末のラッパのように、台風一過と言わんばかりに、空虚に鳴り響いていた。

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