終わらない夏休みと階段

秋犬

どこにも辿り着けなかった

 既に閉校になった俺たちの母校である西元部にしもとべ小学校の校舎の解体が決まった。そんな話を聞いたのは、8月の帰省で開かれた同級会でのことだった。


「そうか、いよいよ取り壊されるか」

「こうして思い出ってなくなっていくのかねえ」


 そう言って酒を酌み交わしているのはたったの4人、俺と松本まつもと岸辺きしべ沢井さわい。男3人女1人の西元部小学校最後の卒業生だ。隣の小学校との統合が正式に決まったのは俺たちが卒業する年だった。今は村に子供がほとんどいない。子供どころか人がいない。俺たちだって、夏にこうして実家に帰ってこなければいないのと一緒だ。


「それで、取り壊してどうなるんだ?」

「建物が古いから危ないってことで壊して、そこから先はどうなるんだか」

「いっそ修理して最近流行の校舎利用とかはできないのか?」

「それで、誰がそれの管理を?」

「それが面倒くさいからぶっ壊そうって話なんだろう」


 何だかんだとワイワイ喋っているが、俺は微妙に落ち着かない。俺たち4人のうちの女1人、松本が今度沢井と結婚することになっている。「次に会うときはもう松本じゃないから、ちゃんと詠美えいみって呼んでね」と松本ははにかんでいて、沢井は「来年は詠美なしで、その次はもう一人増えるかなー!」などと冗談を言っている。そのたびに俺は視線をはずし、岸辺は天井を見上げる。


 ああそうだ、俺たち3人は小学生の頃、誰が松本と一緒になるかで日々火花を散らしていた。最初に松本に告ったのは俺だった。確か小学校4年生くらいのときか。そのときは冗談だと思って相手にしてもらえなかった。次に岸辺と沢井がそれぞれアタックして、それぞれ同じように笑われただけだった。その時はそれで終わりだと思って、観念した俺たちは卒業まで仲良く4人組を続けることにした。


 そうして俺たちは田舎の小学校から少し大きな中学校に進学した。世界の広さを知った俺たちは松本ひとりに執着することはなくなり、隣の小学校から来たたまらなくいい匂いのする女の子たちに驚きびっくりして、遊び相手が俺たちしかいなかった松本が急にガキっぽく見えてしまった。


 そうして俺たちが芋みたいな中学校生活を送っている間に松本に彼氏が出来て、すぐに別れたって話があって、そしてまあ、俺たちはちょっとの間バラバラになった。穏当に中学高校大学浪人専門親と喧嘩して就職、それぞれの人生があった。


 それから何年経ったのか。急に沢井が「同級会を開こう」と言い出した。25歳になった俺たちは久しぶりに4人で顔を合わせることになり、そうして数年が経った。気がつけば沢井はすっかり大人になってきれいになった松本とくっついていた。後で俺と岸辺が「抜け駆けすんな!」と詰め寄ると「そんなら、俺より先にどうにかしてればよかっただろ」と正論で返された。畜生、そんなことはわかってるんだよ。だから俺は俺自身に腹立たしい。


 その日の会もお開きとなり、今日はお互いの実家に帰るから、なんて言いながら沢井と松本は二人で消えていった。畜生、持ってる奴の余裕が後ろ姿からも滲み出てきて本当に嫌になる。その場に残された俺と岸辺は顔を見合わせた。どうせ考えていることは俺と一緒のはずだ。俺は即座に提案した。


「もう一軒行くか?」

「それより、取り壊される前に小学校に今から行ってみないか?」


 俺の提案を岸辺は却下して、新たな提案を出した。


「でも夜の学校なんて怖くないか?」

「俺は今ならどこにでも行ける気がするぜ」


 岸辺のやけくそのような言葉に、素面でない俺も乗ってしまった。俺も岸辺もこの胸のモヤモヤをどうにかしなければ家に帰れない気がしていた。


「不法侵入って奴だな」

「もういいよ、どうせ壊すだけの建物なんだから」


 酒のせいで気が大きくなっている俺たちは連れ立って小学校を目指した。街の居酒屋から山へ向かって歩き、途中にあったスーパーで調達した懐中電灯を持って寂しい道をぐんぐん進んでいく。昔はもう少し店や家があった気がするが、今は更地になっていたりシャッターが閉まっていたり、廃屋同然の空き家になっていたりしている。


 こうして俺たちは街灯の少ない夜道を歩いて、小学校の校舎に辿り着いた。まだ工事の看板も立っていない小学校は、門を乗り越えれば誰でも簡単に立ち入ることができる。軽々と門を超えて誰もいない校庭に降り立つと、一気に小学生に戻った気がした。


「真っ暗だけど、やっぱり小学校だな」

「肝試し大会ってやったよな。先生がお化け役でさ」

「そうそう。それで夜眠れなくなる1年生が毎年出るんだ」


 それは夏の宿泊授業、と言って当時の小学校では毎年企画されていた。全校生徒が集まって昼間は思いっきりプールで遊び、家庭科室で夕飯を作って食べ、夜は校舎を使って肝試しをして、体育館で布団を敷いて寝るという「如何にも」な夏の思い出作りだった。今となって考えると、娯楽の少ない田舎の子に楽しんでもらおうという先生たちの努力が感じられる。


「肝試しのルートってさ、こっちだよな」


 まだ熱の冷めない8月の夜の空気に煽られて、俺たちは小学生に戻っていた。懐中電灯を手にして、正面玄関の入り口に手をかけた。勿論鍵がかかっている。


「もしかして、と思ったけどな」


 俺たちは校舎への侵入は諦めた。今更入っても何もあるはずがない。


「体育館なら入れるんじゃないか?」

「入ってどうするんだ?」

「せっかくだから一晩泊まっていこうぜ」

「いいね、久しぶりの宿泊授業だ」


 そう言って、向かった体育館で岸辺がふざけて入り口の扉に手をかけた。


「……開いてるぞ」


 岸辺が恐る恐る扉を押すと、その向こうに黒くて熱を帯びた空気があった。しばらく誰も入っていないと思われる体育館の匂いが鼻を突いた。


「よし、入るか」


 俺たちは迷うことなく体育館の中にどんどん入っていった。星明かりがなくなったため、買ってきた懐中電灯がようやく活躍するときが来た。バスケットボールのゴールリング、前面にある校歌の書かれたパネル、隅に置かれたままになっているピアノ。埃を被っているが、全てが昔のままだ。


「何か忘れ物はないかな」

「あっても困るだろう」


 そう言って、俺たちは何もなさそうなステージの脇の部屋を覗いた。ここを見たら帰ろうと俺は考えていたが、懐中電灯に照らされた室内を見て岸辺が呟いた。


「……蓋が開いてる」


 それはステージの下に降りるための階段のようなものだった。階段は地下深く続き、まるで底が見えなかった。こんな蓋、あったのか? 思い出そうとしても、ひとつも思い出すことができない。


「どこに繋がっているんだろう?」

「どうせ地下にある変電盤とかブレーカーとか、そういう施設だろ?」


 好奇心から俺たちは階段を降り始めた。中は思ったより広く、大人2人が並んで歩いてもまだ余裕がありそうな広さがあった。


「しかし、こんな空間があったんだな」

「6年間通っていてもわからないことってあるもんだな」


 最初は懐中電灯を手にして意気揚々と階段を降りていたが、数十段降りてから俺はおかしなことに気がついた。


「なんかこの階段長くね?」

「意外とどっか別の場所に通じていたりして」


 そうかな、体育館の地下に行くだけでこんなに階段を降りることってあるのか。岸辺の言うとおりどこか別の場所に通じているだけかもしれないし……。そう考えながらも、とりあえず進むしかなかった俺たちはどんどん階段を降りた。100段くらい降りたところで、流石に岸辺も様子がおかしいことに気がついた。


「なあ、俺たち何段降りてきた?」

「数えてないけど、100段は降りたと思う」

「さすがに戻ろうか」


 階段を上りながら、俺は嫌な気分がこみ上げてきた。とうに酔いなど冷めきっている。こんな体育館の地下に通じる階段が100段以上あるのはおかしい。


 一体、俺たちはどこに向かって階段を降りてきたんだ?


 深く考えたくなかったため、俺は岸辺に話しかけた。


「でも沢井、こっちに帰ってきて結婚するだろう? 子供増えるんじゃね?」

「さあ、どうだか」


 俺は自分で言っておきながら、沢井と松本が子供を作っているところを想像してしまって大変不愉快になった。そこですぐに違う話題を考える。


「でもあいつ、こっちに帰ってきて仕事どうするんだよ」

「古民家カフェとかやるって言ってるけどな」

「だから、それがちゃんと出来るか心配してるって話だよ」

「それはまあ、あいつの人生だし」


 思いのほか松本について岸辺が覚めていることに俺は驚いた。


「でもムカつくよな? なんで沢井は……」

「好きだったんだろ、詠美のこと。それを詠美にちゃんと伝えた。男じゃねえか」


 階段を上りながら、岸辺はきっぱりと言い放った。


「だけど、だけどさ……」

「男なら諦めろよ。俺は諦めてるぞ」

「何でそう言い切れるんだよ」

「俺はきっぱり振られてるからな。最後の宿泊授業で」


 は?

 少なくとも俺は聞いていないぞ、そんな話。


「聞いていない、って顔してるだろ。暗いけど俺は見えてるぞ」

「そりゃするよ。聞いていないぞ、そんな話」


 暗くてよく見えなかったが、岸辺が肩をすくめたような気がした。


「俺も抜け駆けしようと思ったんだ。だから最後の宿泊授業の日、みんなが寝静まった後に詠美を体育館の外に呼び出したんだ。星空の下で告白すればロマンチックかなって思ったんだ。バカだな俺、小学生だもんな」


 少し間があって、岸辺は続けた。


「そうしたらさ、他に好きな男の子がいるって言われて、それがお前だってさ」


 え、俺!?


「でもお前、星川ほしかわのこと振ったじゃねえかって言ったら、星川が先に告白してきたからビックリして断ってしまったって言ってた。本当は詠美、お前のことが好きだったんだと。理由は初めて告白してくれたからだって」


 なんだよそれ、聞いてないよ。初めて聞いたよ。

 なんでそんな大事な話を今、俺はこんな体育館の地下で聞かなきゃいけないんだ?


「それをさあ、お前に言うかどうかずっと迷っていたんだけど何だか悔しくてさ。今更言ってどうにかなるわけでもないし、俺たちが最後の卒業生なのに変にぎくしゃくしたくなくて、それで……」


 岸辺が何を言いたいのかは何となくわかった。あの夏の日が、未だに岸辺の中で終わっていないんだろう。そして俺も、まだあの体育館にいる気がしてならない。


「だからさ、この階段を上りきったらまだ俺たちは小6のままでさ、あの日に戻ってやり直しができたら一体どうなっていただろうって思うよ」


 ずっと階段を上ってきて疲れてきた岸辺が絞り出すように言う。いい加減足が疲れてきたが、地上に出る気配はまだない。懐中電灯を持つ手も震えている。


「いいよ、やり直そう。この階段を上りきったら、俺もお前も、沢井も詠美も。恨みっこなしで、あいつらを祝福する。それでいいよな?」

「いいよ、もうそれでいい。あいつらの結婚式にわだかまりはナシだ」

「そうだ、結婚式だなあ!」

「盛大に祝ってやらなきゃなあ!」


 やけくそ気味に叫んでみて、俺たちは同時に足を止めた。いい加減現実と向き合わなければならなくなった。


「何なんだよこの階段は!? いつになったら地上に戻るんだ!?」


 岸辺が思い切り叫んだ。そもそも、ここはどこなんだ??


「もしかしたら戻れないのかもしれないな。俺たちは閉じ込められたんだよ」


 俺はその場に座り込んだ。岸辺も足を投げ出して、上の方を仰ぐ。俺が懐中電灯で天井を照らすと、真っ暗な中に電灯の細い光が伸びていくが、その先は一切見えなかった。


「気がつけば壁は鉄みたいに固い、天井はない、階段の一番上も一番下もない。さて、俺たちはこれからどうすればいい?」


 俺は尻ポケットからスマホを取り出すが、もちろん圏外で使い物にならない。


「さてこれからどうする?」

「どうもこうもないよ。終わりだ、終わり」


 岸辺は足を投げ出したまま呟いた。


「どこまで行ってもキリがないんだから、俺たちはここでおしまい。無限階段の途中で力尽きる以外、選択肢がないじゃないか」


 無限なのにおしまい、という矛盾した言葉が俺には何だか面白かった。


「何だよ、何がおかしいんだ?」

「だって、俺お前とここでくたばるなんて未来は予想してなかったし」

「確かに、俺もだ」


 俺たちは2人でゲラゲラ笑った。笑うくらいしか、俺たちに残された選択肢はなかった。


「さて、それで本当にどうする?」

「下に行くか上に行くか、どうするかだな」


 俺は今まで上ってきた段数を思い出す。明らかに降りてきた階段の数より絶対上った段数のほうが多い。それなのに懐中電灯で上のほうを照らしても出口が見える気配がない。もちろん一番下も暗闇に閉ざされている。


「俺たちはどこにも行かない。いや、行けない」

「それなら、これからどうしようか」

「せめて楽しい話をしよう」


 俺と岸辺はそれぞれ座り込んで、スマホを取り出した。助けを呼ぶためではなく、明かりとして使うためだ。こんなに長く外出する想定をしていなかったのでモバイルバッテリーもないし、水も食糧も一切無い。つまり、スマホと懐中電灯の電池が尽きれば暗闇が訪れる。そうしたらいよいよ、終わりの始まりだ。


 そんなことを考えたくなかったので、俺たちはひたすら思い出話をした。小学校の頃一緒にヤマブドウを食べたこと、理科の時間にヘチマを育てたこと、学校でウサギを飼っていたこと、みんなが大好きだった先生のこと、中学校の盛大だった体育祭のこと、当時流行っていた漫画やアニメ、アイドルのこと、駄菓子屋で買ったくじのこと、詠美以外で可愛かった女の子のこと、沢井と詠美のこと、4人で仲良く遊んでいたこと。


 もし外に出られたら結婚式で何をするか。俺は岸辺と相談して今日のことを話すことに決めた。お前が変な気後れしてたから両思いが結ばれなかったんだとか適当なことを言って、それで沢井に殴られる覚悟で俺はもう一度詠美に告白をしようと思う。そしてちゃんと振られようと思う。この体育館の地下から出られたら、きっともっといい日が過ごせると思うんだ。


 ぼそぼそ話しているうちに何度か眠くなって、お互いを起こして俺たちは凌いだ。喉が異様に乾いてきた。気がつけば暑くも寒くもない。一体ここはどこなんだ。上も下も過去も未来もない、ただひたすら続く階段。あの夏の日からどこにも行けなかった俺たちが閉じ込められるには、最高に似合いの場所だ。


 互いのスマホの電池がなくなってしばらくが経った。このまま眠ることができたら、俺は楽になれるのかもしれない。さっきから岸辺を揺すっても反応がない。疲れ果てて深く眠ってしまっているんだろうか。俺は懐中電灯を握りしめて、眠り込んだ岸辺の隣で無限に続く暗闇を眺めていた。


 やがて懐中電灯の電池も尽きてきて、暗闇が次第に広がってきた。ああ、これが夢だったらよかったのにと俺は思う。酔っ払って眠ってしまって、起きたら体育館のステージの脇に岸辺と転がっていて、変な夢を見たなあってゲラゲラ笑うんだ。俺はそんな夢を見たかった。


 とうとう懐中電灯の電池が切れた。俺の上に真の暗闇が降ってきた。用のなくなった懐中電灯を俺は放り投げた。懐中電灯はカン、カンと音を立てながら下の方に転がり落ちていった。あの懐中電灯はこの果ての無い階段をどこまで落ちていくんだろう。そして俺は、どこまでこの暗闇に耐えることができるんだろう。遠くから微かに懐中電灯が落ちる音だけが聞こえてくる。あとは俺の息遣いと心臓の音。それ以外は何もない。


 きっと俺には果てがあるはずなんだ。夢なら覚めてくれ。この果てなき階段から、誰か俺を助けてくれ。そううっすら望みながら、俺の意識も闇に同化していった。


〈了〉

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