ピエローグ/道化の術懐

蛇足:七条大橋のU.F.O

 麗しき金の獣の髪と、捕食者の赤い眼を持つ美女は、白雪を呑み込む漆黒の鴨川──その上流を見つめている。

 彼女が一体、誰を待っているのか、何を待っているのか。彼女を七条大橋の欄干越しに見つけた人々は、そのまぶしい容姿も相まって、純粋な心配をしたり、軟派な下心を以て声を掛けようとしたわけだが、なに故か、そんな多様な心象という奴らは、彼女へ──【天使】へと向けられた瞬間、魔法の様に枯れてしまって、畢竟、誰も【天使】に触れることは出来なかった。

 天使の息は白くならない。吐いた呼気はすべらかに落ちてゆく。

 上流から男の屍が流れて来た。

 その男は──己の娘のわずかな時間と、世界中の恵まれない子どもたちの為に、世界の滅びに加担した大罪人であった。死因は流血と打撲と、心肺停止による酸素欠乏だった。折れた肋骨が肺に突き刺さっていた。身体中に霜が張り付いていた。

 凍り付いた男は、指先まで不自然な形に固まっていた。白目を剥いて、口は半開きだった。芯まで濡れた服装。川の臭い。嗚呼なんてみっともない死に様だ、と天使は内心蔑んでから、水草の絡まった死体を引き上げて遣った。

 天使の腕時計の文字盤にて、長針と短針が完全に重なるまでには、およそ残り七分あった。その短すぎる時間は、しかし【天使】が、ある程度の使命を果たすには十分すぎる猶予だった。

「七千五百人ってところですかね」

 彼は直ぐに、その使命を果たす為に飛び立とうとしたが、刹那の黙考の後、振り返る。

 そして眼前にて凍死した男の死に様があまりにもみっともないこと、それと、心の読めない相手との対話は、少しだけ愉快だったことを思い出して、天使は、明確な上位存在としての誇りを捨て、土に膝を突いた。男の剥いた瞼を閉じて遣る。

 男は蘇った。

【天使】が何かしたわけではない。【天使】に死体を蘇らせる術は無い。

 だが男は息を吹き返した。剥いた白目に、漆黒の意志を宿した瞳が降って来る。

 男は【天使】の腕を引っ掴み、地面に叩き付ける。入れ替わりに馬乗りになり、その綺麗な顔面を必死に殴打し始めた。握りしめた拳に赤黒い祈りを込めて、その脳漿を破壊する。断末魔の代替に祝詞を叫びながら、【天使】を撲殺せんと吠える。

「生きろ生きろ生きろ!どうか!世界中の恵まれない子どもたちが!幸せでありますように!」

 いくらか皮膚の破けた両の拳が、天使の顔面を抉る。

「残された時間をまっとうに美しく激しく鮮やかに生きることが!どうか許されますように!誰よりも誰よりも!世界を!未来を作ってゆく貴方たちが!どうか幸せで在りますように!温かな世界で過ごせますように!」

 土に浮いた赤い血が、生きる生臭さを撒き散らす。男の顔面から落ちるすべての体液が拳を滑らせて、鳴る音は鈍く響きもしない。その様はまるで滑稽な道化だった。

「犠牲が出ませんように呪われませんように!神様神様!神様!どうか世界に安寧を!御慈悲の光が世界を照らしますように!その温度で誰もが温かくなれますように!明日に希望を!未来に世界を!誰も泣きませんように!誰も捨てられませんように!誰も失いませんように!」

 拳は弱弱しかった。一度死んだ人間の威力など、たかが知れている。

「生きろ!生きろ!生きろ!生きてくれ……!お願いだから!祈るから願うから!地獄の底で希望を叫び続けますから!世界の底で支え続けますから!どうか!世界よ!未来よ!子どもたちよ!」

【天使】は、その拳を伝って、何か大いなる意志を感じていた。

 それは【天使】の知らない感情だった。生物としての進化の過程で、彼らが捨て去った不要な熱──熱病のような厄介な息苦しさが、その心臓に巻き付いて深度を増してゆく。

「誰よりも幸せに!誰よりも何よりも温かく!生きて生きて生きて!生きてくれ──‼」

 叫びきると同時に、男はこと切れた。

 駿河会智は死んだ。


 

【天使】は傷一つ無い顔を静かに拭うと、時計の文字盤に目配せした。

 そして大きく嘆息する。

 スーツの胸ポケットから携帯端末を取り出し、落ち着いた男の声で【天使】は話し始める。

「はい。業務完了致しました。迎えをお願いします。今日は……疲れました」

 言って携帯の電源が切れると同時に、遥か上空から巨大な光輪が迫って来た。

 大いなる光輪は【天使】をゆっくりと吸い込むと、そのまますべては掻き消えた。





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