世界中の子どもたちに幸せと平和と温かさを。生きて生きて生きて、世界は君たちの鼓動の中で息をする /怒りの日
天使は言った。
【俺の中にある最大の絶望】を覆す為に願いを使えと啓示した。
最大の絶望について望郷すれば、それは間違いなく、俺が自らエミちゃんを失ったあの日のことを指すだろう。
十三年前の冬。喫茶店での談合から早々に成立した離婚は、静香さんと大抵の家財を俺から奪って行った。すっからかんになったボロアパートには、数量としてはほんの僅かなものだけが残された。
けれども価値としては、その他のすべてと、夜空の星をすべて合算しても追いつかないくらいのモノを、彼女は置いて行ったのだ。
静香さんは、新たなパートナーと真っ当な新生活を築く為に、エミちゃんを置いて行った。
空っぽの箱庭には、か弱いお姫様だけが残されていた。
──────────・・・
夜目が慣れて、エミちゃんの寝顔が暗闇から浮き上がって来る。可愛らしく安らかなそれは、俺の首を締め上げた。
過去と現在と未来が同時に壊れてゆく思いだった。後悔と憂慮が俺を新たな拷問に掛けた。俺は粉ミルクの温度もお風呂の入れ方も、オムツの変え方も夜泣きのあやし方も、エミちゃんのアレルギーだとか趣味嗜好だとか、そういうあらゆる一切を知らなかった。可愛がるばかりでその世話をパートナーに押し付けっぱなしだった不理解の負債が、一気に濁流となって俺を呑み込んだ。己の愚かさ、計画性の無さ、思慮の浅さ程度の低さ──自分を構成するあらゆる成分の汚点が目に付いて、黒い虫となって脳を喰い尽くした。思考という行為が遠くなって、俺は気絶したかのように、エミちゃんの隣で跪き、声を殺して泣いた。泣く資格なんて在りはしないのに。
このまま時間が止まるか、いっそ世界が滅べばいいと願っていた。
憎しみや怒りといった、他人に向ける悪感情は無かった。ただ空虚な絶望が涙となって漏れ続けた。
俺にこの子を育てることは出来ない。
俺はこの子を幸せにすることが出来ない。
自分の面倒すらまともに見れないような奴が、どうして愛すべき世界一の愛娘を、自分なら幸せにできるだなんて思い上がれるだろう。人生は一度切りだ。一度起きた不幸は絶対に覆らない。だから絶対に失敗なんて出来ないのだ。
俺に手段は無かった。友人すら持たなかった俺に、頼れる綱は一つしかなかった。
実家の土間に額を叩きつけ、擦りつけた。
最後に着たのは何年前なのかも碌に知れない、しわくちゃのリクルートスーツに袖を通し、両親と弟に土下座をして、一生に一度の願いを叫んだ。
『どうかこの子を育てては頂けないでしょうか!』
虫の良い態度だった。金と仕事に取り憑かれて、連絡も返さずに一方的に絶縁しておいて、自分が嫁に捨てられたら子どもの後を頼む。情けないとか下らないとか、そういう領域の話ではない。根っこから性格が歪んで千切れている。俺は頭がおかしい。正常な人間ではない。わかっている。そんなことは百億回自戒した。けれども足りない。想うだけでは伝わらないのだ。俺は無力なヒトだから。
額から血が流れた。熱くて冷たい。
食いしばった歯が折れて、顎が痺れて感覚を失くす。
壊れたように目玉が汁を零した。
父親に殴られた。親父は泣きながら俺を殴った。拳一発ごとに罵詈雑言が耳に突き刺さる。それを見て母親も泣いた。弟は早々に自室に戻っていた。俺は無抵抗のまま殴られ続けた。掴まれた胸倉だけが俺を支えていた。最早血の味と涙の味の違いはわからない。切れた瞼に塩が沁みた。腫れた肉がうざったい。
俺という存在が、このまま千切れて無くなってしまえば、どれだけ心は楽だろうかと妄想して、楽など俺に許されるわけがないと思い出す。すべては俺の咎なのだ。野球に熱中出来なかったことも。長距離走で管を巻き続けたことも。労働に容易く心を削られたことも。静香さんに愛想を尽かされたことも。エミちゃんを失うことも。全ての咎の源泉は俺でしか在り得ない。
ゴメンナサイと世界に啼いた。
俺が屑でごめんなさい。
俺が親でごめんなさい。
俺が俺でごめんなさい。
地獄の底で、鼻が擦り切れても謝ります。瞼が千切れるまで謝ります。唇が無くなっても謝ります。顔面が削れて、俺が俺で無くなるまで誠心誠意心を込めて祈ります。だからどうか、この子だけは。
──足りなくなった血液に揺らされて、その場に倒れた。朦朧とする意識と視界の中、親父と母さんはエミちゃんを抱いてくれた。初孫だった。初孫を、こんな形で抱かせてやることになって本当に申し訳ない。二人は慣れた感じでエミちゃんをあやしながら、少しの笑顔を覗かせた。嗚呼良かったと心中呟きながら、俺は深い闇の中へと沈んでいった。あれ程までに両親が頼もしかったことは無かった。
そして俺は
二度と実家の敷居を跨がないことを条件に、エミちゃんを両親に預けた。
養育費は受け取ってもらえなかった。
──────────・・・
【俺の中にある最大の絶望】は、娘であるエミちゃんを自分の手で幸せにしてやれなかったことに尽きる。
全てを失って、俺はむしろ働くようになった。過去からまるで何も学んでいない。しかし自明の理として、愚か者が愚か者であるたった一つの理由は、己が愚かであることを自覚してなお、治すことが出来ないからなのだ。失う物は何も無かった。
俺の望みはエミちゃんだけだ。
それはもう揺るがない。
欲というものはさっぱり湧いてこなくなっていた。自分という存在への興味が薄れていた。けれども俺は、どうも幸福な気分だった。だって目標があったから。目標、展望、そういう未来の成分に著しく欠け続けた俺の人生に、その時ばかりは明確な目標があったのだ。
俺は妄想する。成長したエミちゃんが白いドレスに身を包み、笑顔で幸せになる、その後ろ姿を。
ただ、ただ、いつかこうして貯めた金が、何時の日かエミちゃんの幸せの為に使われてくれたらと願いながら働いた。俺は参列出来ないだろうから、せめてドレスだとか食事だとか、そういうものを豪華にする資金にして欲しかった。
俺は彼女の為になら生きられた。苦しみの先には、必ずあの子の幸せがあると信じ続けた。
どうか健やかに、幸せに、そして美しく、どうかどうか──神様、その御光を駿河恵美さんにお与えくださいと。
祈り続けた。
しかし続くものとしては──エミちゃんは生まれてからずっと身体が弱くって、激しい運動などは出来なかったこと、普通の幸せとは少し遠かった。そしてその結果、今年の十月に緊急入院することになった。その時になって、俺は約八年越しにエミちゃんと再会した。
一度だけ許されて参観した、幼稚園のお遊戯会ぶりに見たエミちゃんの身体は、十三歳とは思えなかった。小学生にも見えるくらい細く、薄く、背が低かった。そして彼女の脈は、もう触れてもわからないくらいに弱ってしまっていた。
俺たちは四人で医者に泣きついた。金なら幾らでも出すと泣き叫びながら、エミちゃんの延命を懇願した。皮肉なことだ。金に固執し続けてすべてを失った男が、今度は金で大切なものを取り返そうとしている。俺の人生の全部は金に支配されたままだ。しかしそんな冷えた客観視に絆されるほど、俺は大人ではなかった。お医者にしつこく付き纏っては何度も何度も頭を下げた。軽い頭だった。脳が足りないから。
けれどもお医者様には分かっていたのだ。それが無駄な足掻きに過ぎないことが。
そして運命の日。
十二月二十五日のクリスマス。なんとか都合を付けた医師による、命を伸ばす為の術式が決行された。
──────────・・・
両親と弟は、今頃、京都中の寺社仏閣を行脚してはエミちゃんの無事を祈っていることだろう。
『神頼みは俺たちに任せて、お前は自分の子どもの傍にいてやれ』と言って、親父は俺の胸を拳でタップした。
俺はその力強く慈悲に溢れた言葉に、確かに頷いたと言うのに。傍にいると誓ったはずなのに。本当に申し訳ない。何度謝っても足りないくらいに愚かな俺は、三条商店街の前を走り抜けた。
クリスマスカラーにライトアップされた商店街の煌びやかさに目も暮れず、溢れかえる人々を押し退けて走った。切れた肺が血の味を奥から引っ張ってきて、空腹も相まって嘔吐しそうになる。けれどもすべてを、すべての過去と罪と恐怖を飲み干して俺は走る。自己への嫌悪感すらガソリンにして、俺という愚者は絶叫しながら走った。周囲の人々の奇異の視線など全く気にしなかった。とにかく願いを叫びながら走った。『生きろ生きろ生きろ! 鮮やかに美しく! 世界中の子どもたち! 命ある限りどうか! どうか! どうか! 幸福に!』
熱狂する脳の片隅で、冷静な俺が顎に手を添え思考する。
【狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人也】と人は言う。客観視して俺は頭がおかしい。世界中の子どもたちと、その親の幸せの為に俺は走っているんですと主張しようと、そんな戯言を信じる奴はいないだろう。誰かにとって今宵は、頭のイカれた奴に突き飛ばされた人生最悪のクリスマスになるかもしれない。
エミちゃんは、こんな俺を見たらどう思うだろう。
最期まで情けない父親でごめん。プレゼントを手渡せなくてごめん。君が眠る時に近くにいてあげられなくてごめんなさい。
地獄の底で謝ります。目を焼きながら謝ります。その光に乾いても、命無くとも謝り続けます。天国に向かって何度でも謝ります。だからごめんなさい。今夜だけは。
『生きてくれ世界中の子どもたち! 例えその命が短くても! 苦しくても悲しくても! どうか俺たちを見捨てないでくれ──!』
長距離走の定石を無視した無駄な発声と全力疾走は、容赦なく身体を引き裂いた。寒いのか熱いのか痛いのか痒いのかまるでわからない。もう脳味噌はとっくに煮崩れて、思考能力は落ちこぼれた。幻覚のように浮かび上がる煌びやかなイルミネーションと流れるクリスマスキャロル。嗚呼まるで夢の世界のようだ。
疲労は既に限界に達していたが俺は知っている。疲労の限界と思ってからが、案外人間長いのだ。俺はまだやれるやらねばならぬ。世界中の笑顔の為に。そして誰よりも、エミちゃんの二十四時までの命の為に、足を止めることは許されない。
彼女のことを想って刹那引かれた後ろ髪に従って、最早遠くの巨影となった医院に視線を伸ばそうと振り返る。
そして煮えくりかえる人混み中に、金の髪と紅の瞳──【天使】を見つけた瞬間。夢の心地は滅ぼされた。
昇っていた血と温度が一斉に地獄へ引き摺り込まれた。一瞬にして凍り付いた思考を噛み砕いて解凍し、俺は再び走る。二度と振り向かないことを心に決めてひた走る。腕を振れ足で叩け。悪い妄想のすべてを置き去りに駆け抜けろ。景気づけに絶叫する。
『生きろ! 生きろ! 活き活きと鮮やかに激しく清く、眩しく生きてくれ! 俺は世界中の子どもたちの為に! 世界中の大いなる幸福の為に! 今宵ばかりは俺は全世界的にサンタクロォーーース!!』
木霊する祝詞がクリスマスキャロルを消し飛ばす。
南の彼方に四条河原町が見えてきた。
──────────・・・
京都で最も明るく栄えた四条河原町の光に、やはり見向きもせずに俺は駆け抜ける。日付が変わるまで三十分弱の時刻であることもあって、人々はどこか名残惜し気に遠い夜空を見つめていた。大学生がええじゃないかと騒いでいる。会社員が疲れて泣いている。カップルがちゅーしてる。全部知った事じゃない。俺は娘と世界の為に走る。
しかし四条の人混みという奴は三条の比ではなかった。何度も通行人と正面衝突しそうになって、その度に無茶な姿勢で避けて、遂には転んで地面に背中を打ち付けた。一瞬暗くなる視界。冷や汗が背筋を重く伝った。しかし痛みや苦しみよりも恐怖が俺の背中を刺した。このざまでは何時か天使に追いつかれる。
眉を焦がされてちっとも冷静にならない頭を、一度地面に叩きつけてから考える。熱い血が流れていった代わりに少しだけ冷静になれたような気がした。残虐なくらいの黄色い悲鳴が飛び交った。俺も血を飛ばしているのでお相子だ。
例えこの逃走経路を、バカ正直に南へ南へと伸ばしても、四条の人通りの多さでは上手く立ち行かないだろう。五条も人は少なくない。そして北からは【天使】が迫るのだから、ならば俺の逃走経路は東西のどちらかとなる。
寒気に震える身体に鞭打ち、俺は東を選んだ。歩道は人だらけだったので車道を走った。肩が外れるくらい腕を振った。関節が砕けるくらいに大股で、クリスマスを飛び越える。恥も外聞も無く狂人が駆ける。血しぶきが飛び散る。メリーブラッディクリスマス。けれども俺の血は世界に残らなくていい。たった一人の愛すべき娘を除いて。
四条の街から東に行くと、鴨川を横断する四条大橋が掛かっている。当然そこも人でごった返しており、更には車道まで渋滞していた。気まずい疲労に圧し掛かられて、俺は振り返る。【天使】の姿は直ぐに見つかった。当然の様に俺を補足したままに凄まじい速さでこちらへ迫る。燃え上がる赤い瞳が光線となって心臓を穿つ。
あらゆる体液を溢し、謝意を叫びながら四条大橋を踏みつける。有象無象の人々を突き飛ばしながら、橋の中央を堂々と走る。
橋の中頃まで来た俺は立ち止まり振り返った。前方には人、人、人が壁となってそびえていた。詰まった人の海は、俺の言葉では決して開かれない。俺の逃走経路は此処にて終了したのだ。文字盤を見やる。けれども日付が変わるまではあと十九分。まだ足りない。
俺は怒り狂う【天使】に向けていやらしく笑い、ひらりと手を振った。掠れた喉でアディオスと呟いて──鴨川へと視線をずらす。
夜の闇に呑まれて真っ黒な鴨川は、地獄に通じる泉に見えた。生唾を飲み干す。こめかみがスカスカになってゆく。下手をしたら死ぬかもしれない。落下死、溺死、凍死──死因ばかりは無限に浮かんで沈んでくれない。けれども死線を潜らなければ死からは逃れられない。冬の水中は、身を焼き尽くすくらいに冷たいだろうが、きっと俺を受け止めてくれる。愛してるぜ京都鴨川。エミちゃんの次に。
雑踏の最中、俺は橋の欄干に飛び乗った。騒ぐ通行人と、見開かれる天使の赤眼。一瞬の無重力感覚。今宵の月の清らかさに落涙。身体中の息を吐き切る。あばよと口だけの言葉は雑音の彼方。
自重に運命を任せて、背面から鴨川へと飛び込んだ。
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