五臓六腑に剣と盾

 天使は果たして困惑した。合理性と完璧な社会道徳倫理のみを映す彼らの瞳には、俺の願いは滑稽に映っているだろう。

 俺もおかしくなってフと笑う。久方ぶりに片腹痛い。

 不服そうな天使に向けて歯を見せる。

「先立つ不孝をお赦しくださいって言葉は、天使の語彙には無かったかな」

「知っていますよ。子が親よりも早く死ぬのは親不孝だという観念でしょう。けれどもそれは、若者に死を躊躇わせる為の考えであって、親が先に死ぬことを推奨するための言葉じゃない。貴方こそ適当じゃありません」

 全く以てその通りだ。親には親の人生と幸福がある。それを目指して生きている。けれども不幸から逃げ切ることも、幸福の一つの結論だ。

『何かの為に生きられる』ことは、『何かの為になら死ねる』とも換言できる。

「エミちゃんがいなくなった未来で、俺はすべての幸福を拒否するんだろ? 俺もそう思う。確信がある。あの子のいない世界に価値なんて無い。ヒトは幸せになる為に生きているんだ。だったら──これ以上続けても疲れるだけだ」

「いいえ違います。貴方は何も理解していない。不幸な顛末を覆す願いを、貴方は一つ叶えることが出来るんです。私はそういう話をしている。別に我々は悪者じゃない。可能な限りのヒトを、幸福に生かす為に活動している。貴方の命を奪っても意味が無い」

「意味が無い意味が無いって、勝手に決めつけるなよ。人を殺すんだぞお前は」

 天使は何かを強く叫ぼうとして、しかしその口から声は出なかった。歯車が空回りしたみたいに、呼気だけが吹いた。

 この数十分の会話の中で、幾つか【天使】について分かったことがある。

 天使という種族は頭が固い。自分が正しいと思ったことを疑えない。何故なら、彼らの心に芽吹いた正義道徳倫理に対する猜疑心は、通じ合う心によって、即座に周囲にバレて消されてしまうから。

 彼らは自分を疑えない。気に入らない物を拒否することも出来やしない。彼らにとって、それは悪なのだから。

 そして【天使】について分かったことはもう一つあった。

「なんだ、怖いのか? 人間の心は読めないもんな」

 減らず口に対して、しかし天使は動かない。ただ、深紅の瞳の奥で何かが揺れ動いていた。

 何故気付かなかったのだろう。

【天使】は俺を怖がっている。

 彼らは心が通じ合っているのがデフォルトの種族だから、【天使】同士であれば、お互いの悪意を見抜いて安全に対処することが出来る。お互いに相手の行動が分かっている以上、数が多い方が勝つ。だからこそ天使の社会は、マジョリティが勝利し続けた世界なのだろう。それは最大多数の幸福が成立する社会で、それこそが多分【天国】なのだ。

 けれども、ヒトと【天使】では心が通じ合っていない(天使の言うチャンネルが開通されていない)から、彼らにとってコミュニケーションは困難を極める。相手の内心がわからないという、ヒトにとっての当然が、彼らにとっては異常なのだ。

 だから悪巧みに対する警戒心が強い。相手の見えない思考が恐ろしい。

 だから変な欲求は呑めない。けれども可能な限り安全に物事は処理したい。

 だからこそ全てを統合して俺が出す解答ねがいは、『俺を初めに処分すること』だ。

【天使】からしてみれば、不確定要素である俺を一番初めに処理できる好条件だろう。しかし疑り深い天使は、その整った目鼻立ちを乱してまで俺を睨め付けた。

「ですがその場合、先に亡くなる貴方は『待て』を解除することが出来なくなります。その手には乗りません。耳障りの良いことを言って、本当は恵美さんの延命を図るおつもりでしょう」

 俺は首を振る。全く見当違いな意見に内心笑う。そもそも延命のみを目的とするならば黙秘を続ければ良いだけだ。

「願いの内容に『駿河会智が死亡した場合に、天使に掛けた『待て』の言葉を解除する』と組み込めば問題は無いよ。多分出来るだろ」

 天使は黙る。出来ないとは言わなかったので多分出来る。こいつは明朗な答えが用意出来ている場合には、厄介な程に早口に返答を寄越してくるからだ。

「俺の願いを叶えてくれよ」

【天使】は片手で顔を抑えた。

 目元を深く隠した数舜の黙考の末、その瞳は再び開かれる。


 ──────────・・・


 天使が胸ポケットからメモ帳を取り出す。現代的なバインダー式の簡素な物だ。文房具屋で買えそうなその代物に、しかし彼は丁寧に、丁寧に。宝物を取り扱うかのようにゆっくりと触れる。実際、宝物なのだろう。彼ら【天使】が仕事を行う上での道標であり、世界の命を管理する台帳なのだから。

 天使は金のラインの入った格好の良い万年筆を、二度、滑らせた。二本の斜線が暗闇を裂いた。何かを取り消したのだ。それから、俺の顔を見る。

 綺麗な顔だ。細く白い女の顔に、すべらかな金の絹の髪。仏頂面の仮面に嵌め込まれたピジョンレッドの瞳は、命を燃やす色をしていた。

 流星の尾の如き唇が瞬く。

「駿河会智さん」

「はい」

 恐怖は無かった。目的は明確だった。怯えていては、この身は竦んでしまって、まるで思い通りにはならないだろう。それでは駄目だ。

 俺は願いを叶える為に、まだ生きている。

「貴方を天定寿命台帳の改変により、執行します」

 万年筆が精緻な音をたてて、墓標の代わりに紙の上へと俺の名を刻む。

 天使は取り出した物をもう一度すべて仕舞ってしまうと、俺に立ち上がる様に促した。

 天使の背丈は思っていたよりもずっと低かった。一般的な女性の身体であるから当然とも言えるのだが、絶大で偉大な風格を纏い、逆らいようのない過去を次々と掘り起こす【天使】は、俺にとって明確に上位存在という認識でいた。だから少し意外だった。

 思えば自己紹介された時には、ただの不審者としか思っていなかったはずなのに、気付けば、こいつが本物の天使であると心の底から信じていた。不思議だ。目の前の天使が、神経衰弱した俺の妄想でない確証は無い。俺という奴は、実は今、夢遊病の最中にて、エミちゃんの死と向き合うことが怖いから自死を選ぼうとしていて、その後付けの理由に脳内に【天使】を生み出した──理屈としては問題ないし理解できる範囲だろう。

 俺は手を差し伸べた。

「握手ですか?」

「ああ。最後に話し相手が出来て良かった」

「それはどうも」

 天使と熱い握手を交わす。

 けれどもその体温は低かった。指の骨まで細くって、少し力を入れれば簡単に壊れてしまうくらいの薄弱な脆さ。

 しかしその握力は並み大抵の物ではなかった。むしろ俺の手が握り潰されるんじゃないかってくらい、万力の如き力で抱擁する。

 この痛みと重みは間違いなく本物だ。

 仮に【天使】は幻想で、実際には自分で自分の手を握っているのだとしても、俺にこんな握力は無い。

 天使は本物で、そのお告げも本物で、俺は本当に殺される。

 すんと鼻が鳴った。垂れそうになった鼻水を持ち上げるついでに視線を高く掲げる。集中治療室の扉は開かない。

 頭の中は考えることでいっぱいだ。

【本当にこれで良いのだろうか】【願いをこんなことに使って良かったのだろうか】【俺は機会を十分に活かすことが出来るのだろうか】【エミちゃんに謝らなければならない】【このプレゼントはどうすれば良いのだろうか】【俺が死んだら死体はどうなって、手続きはどうなるのだろう】【天使は何処へ行くのだろう】【俺は本当に、俺に期待していいのだろうか】【何処へ行こうか】【どうやろうか】【天使はどうやって命を奪うのだろうか】【俺に出来ることはこれだけなのだろうか】【俺の中にある最大の絶望は、これにて覆るのだろうか】

 言葉と意志は群れとなって、頭の草原を駆け巡る。草食獣の思考が駆ける。

「もういいでしょうか」

 天使の声で我に返ると、まだ手は繋がれたままだった。天使の方は、もう完全に脱力しているのに、俺だけが後生大事に力を込めているものだから、彼の眉も困ったように傾いている。

「あスマン。壁みたいにすり抜けるかと思ってさ」

 天使について分かったことがもう一つある。

 こいつらは物理的な攻撃では倒せない。

 先ほどから折るつもりで本気の力を込めている。だが天使の表情や動作に変化は無い。痛覚全般が遮断されているのだろう。【天使】は同種族同士だと心が通じ合ってしまうから、もし痛覚が鋭敏に冴えていたならば、痛みが不特定多数に拡散してしまうのかもしれない。

 ただ、物理的な足止めを行うことは出来るらしい。生命に干渉する以上、肉体的な接触に関しては壁のようにすり抜けることは出来ないようだ。

 その答え合わせの様に、俺はまだ、嫌がるこいつの手を握れている。

「俺ってどういう風に死ぬのかな。死体って残る?」

「残りますよ。魂を抜くだけですから」

「鎌とか見当たらんけど」

「死神じゃありません。天使です。私たちの道具は指先です。指先で額に触れればそれでお終い。何か考えるまでも無く、苦痛も無く終わりますよ」

「便利だなあ」

「ええ」

 満身の力を込めて天使の腕を思い切り引いた。殴り抜く様に引き飛ばした。咄嗟のことにバランスを崩した天使は、一瞬何が起こったかわからないかのような呆けた表情を晒した後、これが異常な事態であること、心が読めない人類に反逆されたのだと気付く。刹那天使の右足は力強くリノリウムを踏みしめて、その姿勢はきっぱりと立ち上がってゆく。俺は頭部に触られないように大きく体を捻じって、その勢いのまま、天使を壁へと叩き付けた。固い音が砕けて、背中から大きな衝撃を受けた天使は、肺の中身をすべて零して短い悲鳴を上げた。

 しかし【天使】は直ぐに立ち上がる。

 彼らの肉体は完璧で、痛覚を持たない。

 劣勢は俺の方だった。いきなりの有酸素運動と極度の緊張によって、全身の筋肉はまるで上手く動かない。足は竦み、身体は小規模に纏まった。

 天使の瞳が血の色に燃えていた。

 生まれて初めての悪意と敵意に臨戦して、失われし闘争本能が目覚めているのだろう。反乱分子を排除するという天使の常識に基づいて、俺という愚かな動物を逃がさぬようにと、その目はキロキロと忙しない。爬虫類の如き鋭さでシナプスが燃える。確実に俺を処理するために、視界に映るあらゆる情報を処理しながら、高速で一手一手を詰めてゆく。

 重く熱い唾を呑み込んだ。全身が武者震いに悴む。

 これは分の悪い賭けだ。

 身体能力で、ヒトは【天使】に勝てない。ならば無い頭を回せ。読めない心と向き合い続けてきた、ヒトという生き物の力を以て。一瞬で良い。上位存在を凌駕しろ。武器は人間の仕組みと人間の思考。決して、爆ぜるスターターピストルを聞き逃すな。

 怒りに振られて、天使の金の髪が逆巻いた。今にも飛び掛からんとする肉食獣の低い姿勢が、俺の本能に眠った恐怖を呼び起こす。しかし、

 天使はだらんと垂れ下がった腕──俺が引っ張った方の腕──を直視しながら、その目を大きく見開いた。狭い額を遅い汗が伝って落ちた。理解不能の事態が身体に起きて、これは呪いか魔術かと怯んでいる。

 全身が熱くなる。アドレナリンによる興奮で確信する。

 天使が人間の身体を真似て現れ、そして骨があるならば、思い至る攻略法が一つあった。

 脱臼だ。

 例え無敵の肉と骨を持とうと、人体としてのフットワークを維持するうえで、関節を堅く固めることは出来やしない。痛覚の無い彼らにとっては、身体に何が起こったのか気付くことすら難しいだろう。例え現代日本人の知識をインストールしていたとしても、まず痛みと症状を自覚できないから、事実の分類すら出来ない。

 遥か彼方。ずっと昔に聞き逃してしまったピストルの破裂音。

 火薬の匂いが俺の魂を着火する。

 全身全霊を掛けて俺は逃げる。走る。滑る。跳ぶ。潜る。屈む。飛ぶ。腕を振って、足で蹴って。魂を燃やせ。全身で走れ。【躍動】の二文字を脳内で爆発させろ。俺という厄介な見舞客は、ヤクザな音を撒き散らしながら深夜の病棟を駆け抜けてゆく。

 すっ転びそうになりながら、けれどもブレーキは掛けない。音も光も、クリスマスキャロルもイルミネーションも、俺に追いつくことは出来ない。その全てを彼方へと遠ざけて、俺は走る。持てる物は己の身一つ、高速度で駆け抜ける。

 天使に追いつかれて魂を抜かれてしまっては、奴の次の標的はエミちゃんだ。そして次には見知らぬ子どもが犠牲になる。そんなことはあっちゃいけない。三番目以降の幼気いたいけな子どもに憐憫を! 俺にしか与えてやれない幸福を!

 世界中の子どもと、その親の幸せを守る為に俺は走る。夜を砕いて走り抜ける。クリスマスの夜、あと四十二分で終わる聖夜。その清さを守り抜く為に『今宵ばかりは俺は全世界的にサンタクロース!!』

 俺には出来ることがある。だったらやらなきゃ、今までの善意すべてが嘘になる。今まで貰った幸せが全部偽物になる。それでは駄目だ。

 人は幸福になる為に生きている。で、不幸から逃げ切ることも幸福の一種だ。けれども翻ってそのベクトルは他者にも向け得るものだから、誰かを不幸から守ってやれることも、明確に一つの幸福として、俺の心臓の真ん中で息吹を吹いて仕方が無いのだ。親の幸福とは、何よりも子どもの安寧と明日のおはようグッモーニンだ。俺はそれを知っている。失ったから知っている!

 冷たい夜の下に出た。刹那振り返る。【天使】はいない。足音も気配も無い。けれども当然立ち止まりはしない。沸騰する血液のままに、俺の温度は衰えない。

 一秒の休憩時間を終えて、俺はまた全力疾走に耽る。夢遊病走法は使わなかった。俺は今、俺の意志で、世界中の幸せを守る為に走っているのだから。


 このクリスマスは、人生最悪にして最高のクリスマスだ。

 愛する娘は死の運命に臥し、悪徳天使に絡まれ、何一つ守れなかった己の過去を回顧した。

 けれども俺は、世界中の笑顔を守る資格を天使から与えられたのだ。大人なのに! もうおっさんなのに! 素晴らしいプレゼントを貰ったのだ!

 世界中の子どもの安寧と明日のおはようグッモーニンを守る為に、俺は光より速い闇になる。暗い夜を全部吸い込む。全身を笛にして叫ぶ。枯れた不細工な声帯を壊しながら絶叫する──

『生きろ! 世界中の恵まれない子どもたち! 理不尽に命を誑かされようと、君たちの親は、誰一人して君が死ぬことなんて望んでない! みんながみんな、幸せにしてあげたいと心の底から祈っている! だから生きろ! 生きてくれ! どうか親の無力と我儘を赦してくれ! 俺たちを置いて行かないでくれ──!』

『生きろ、生きろ鮮やかに激しく美しく生きろ! 世界は君たちの未来の為に朝を迎えるのだから‼』


 狂人が三条の街を駆け抜けた。





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