第5話 騎士団長と筋肉の真理
「――ただいま戻った!」
賢者の塔に、実に晴れやかな声が響き渡った。
びっしょりと汗をかき、心なしか体のキレが増しているジンが、満足げな表情で帰還したのだ。彼の肩には、例のストレッチ棒(世界樹の杖)が誇らしげに担がれている。
塔のテラスには、巨大なグリフォン、プロテイン号が翼を休めており、ジンの特製プロテイン(豆の粉)をうまそうに啄んでいた。
「おかえりなさい(どんより)」
ソファでぐったりしていたリリアが、重い体を起こして出迎える。
「村は一応、助かったみたいですけど……。まさか伝説の魔獣をペットにして帰ってくるなんて、前代未聞ですよ。明日には王国中が大騒ぎです」
「リリア、何度言ったら分かる。ペットではない。最高のトレーニングパートナーだ」
ジンはそう言うと、汗を拭うためにローブを脱ぎ捨て、見事な逆三角形の上半身を晒した。
その肉体は、有酸素運動を終えた後の心地よい疲労感と達成感に満ちている。
「プロテイン号もなかなかのポテンシャルを秘めているぞ。私の指示通りに飛行高度と速度を調整することで、心肺機能に的確な負荷をかけることが可能だ。まさに、生きたフィットネスマシンだな」
「もう何でもいいです……」
リリアが諦めの境地に達した、その時。
塔の下から、重厚な鎧が立てる、規則正しい足音が聞こえてきた。それは一人分とは思えないほどの威圧感を放っている。
やがて、許可もなく最上階まで上がってきたその人物は、部屋に入るなり、ジンの姿を真正面から捉え、動かなくなった。
年の頃は四十代半ば。短く刈り込んだ髪に、歴戦の傷が刻まれた厳つい顔。そして、その身にまとったローブの上からでも分かるほど、異常なまでに発達した筋肉。
その男こそ、王国の盾と矛、王宮騎士団の頂点に立つ男。騎士団長デューク・アイゼンハートだった。
デュークは、ローブを脱ぎ捨て半裸で佇む大賢者と、そのテラスで豆の粉を啄む伝説の魔獣という、理解不能な光景を目の当たりにして、数秒間、固まっていた。
「……大賢者殿、お初にお目にかかる。王宮騎士団長、デューク・アイゼンハートだ」
我に返ったデュークは、騎士の礼を取り、野太い声で言った。
「単刀直入にお聞きしたい。祝賀会での奇行、そしてこのグリフォンを手懐けたという報告……。あなたのその強さ、本当に魔法によるものなのか?」
その問いかけは、疑念と、そしてわずかな期待が入り混じっていた。
デュークは、魔法という不確かなものを信じていない。鍛え上げられた肉体と、磨き上げた剣技こそが戦場における絶対の真理だと信じる、生粋の武人である。
ジンは、デュークの体を頭のてっぺんからつま先まで、品定めするようにじっくりと眺めた。
(ほう……。この男、なかなかいい三角筋をしている。大胸筋上部の盛り上がりも悪くない。特に、その首の太さ……僧帽筋がよく鍛えられている証拠だ)
「魔法?」
ジンは、デュークの問いに、フッと鼻で笑った。
「いや、違うな」
その言葉に、デュークの目がカッと見開かれた。
「(!)では、やはり貴殿も……!」
「ああ」と、ジンは力強く頷いた。
「全ては、筋肉のおかげだ」
「き……きんにく……?」
デュークの口から、間の抜けた声が漏れた。
彼が生涯をかけて信奉してきた「鍛錬」という概念の、さらに根源にある何かを突かれたような、そんな衝撃が彼を襲った。
デュークは混乱していた。だが、武人としての本能が、目の前の男の言葉がハッタリではないと告げている。
ならば、確かめるまで。
「――失礼ながら、大賢者殿。その『筋肉』とやら、このデューク・アイゼンハートが長年鍛え上げた、この剣で確かめさせていただきたい!」
デュークは腰に下げた長剣の柄に手をかけた。その瞳には、真実を求める者だけが宿す、真剣な光が燃えている。
リリアは(あぁ、もうやめて! これ以上面倒事を増やさないで!)と心の中で絶叫した。
だが、ジンは不敵に笑うだけだった。
「よかろう。だが、剣は無用だ」
「なに?」
「男なら、いや、筋肉を信じる者ならば、小細工なしに拳で語り合うべきだろう」
そう言うと、ジンは近くにあった重厚な木製のテーブルを指さした。
「腕相負で、決めようじゃないか」
◇
訓練場に、ゴトッと音を立ててテーブルが置かれる。
王国最強の魔法使いと、王国最強の騎士が、今、腕相撲で雌雄を決するという、前代未聞の光景が繰り広げられようとしていた。
「よろしいのですか、大賢者殿。私のこの腕は、オークの首を捻り折るために鍛え上げたものですが」
デュークは自信に満ちた顔で、丸太のように太い腕をテーブルに乗せた。
「うむ。良い上腕二頭筋だ。だが、少し力みすぎだな。もっとリラックスしろ」
「……む」
デュークはジンの謎の上から目線に少し眉をひそめながらも、その逞しい腕をがっしりと掴んだ。
リリアは壁際に寄りかかり、もう何も考えたくないという顔で天を仰いでいる。
「では、参る! うおおおおおおおっ!」
開始の合図と共に、デュークは全身の体重を乗せ、全力でジンの腕をねじ伏せにかかった。
騎士団長の全力。それは、城門すら破壊するほどの力だ。テーブルがミシミシと悲鳴を上げる。
しかし。
ジンの腕は、微動だにしなかった。
「な……にぃ!?」
デュークの顔に、驚愕の色が浮かぶ。
ジンは、涼しい顔で呟いた。
「ふむ。なかなか良い負荷だ。だが、君のやり方では、上腕二頭筋への刺激が少し足りないな。これでは、前腕筋ばかりが疲労してしまう」
「な、何を……訳の分からぬことを……!」
デュークは歯を食いしばり、さらに力を込める。額には血管が浮き上がり、顔は真っ赤だ。
だが、ジンの腕は、まるで大地に根を張った大樹のように、ピクリともしない。
「いいか、デューク殿。手首の角度が少し悪い。もっとこう、内側に捻るように……そう、前腕屈筋群を意識して、そこからゆっくりと……」
信じられないことに、ジンは勝負の最中に、腕相撲のフォーム指導を始めたのだ。
「う、ぐ……ぬおおおお……!」
デュークの目から、生理的な涙が滲む。
自分が生涯をかけて鍛え上げてきたはずの剛腕が、赤子の腕のようにあしらわれている。プライドが、音を立てて砕けていく。
そして。
ジンは、ふっと息を吐くと、今までとは比較にならないほどの圧をかけた。いや、デュークにはそう感じられた。
「これが、『筋肉との対話』だ」
ゆっくりと、しかし、絶対に抗うことのできない力で、デュークの腕がテーブルに沈んでいく。
バンッ!!!
乾いた音が響き渡り、勝負は決した。
デュークは、テーブルに突っ伏した自分の腕を見つめ、呆然としていた。
完敗だった。それも、赤子扱いされての、完膚なきまでの敗北。
「君も、なかなか良い筋肉をしている。素質はあるぞ」
ジンは立ち上がり、汗だくのデュークの肩をポンと叩いた。
「よければ、明日から私のトレーニングに参加するかね? ゼクス殿も、今日から走り込みを始めたところだ」
その言葉を聞いたデュー-クは、ゆっくりと椅子から滑り落ちると、その場に両膝をついた。
彼の瞳には、もはや戸惑いはない。あるのは、絶対的な強さの真理を目の当たりにした者だけが浮かべる、畏敬と憧憬の色だった。
「……『筋肉』……。私が追い求めてきた強さの答えは、魔法でも剣技でもなく……『筋肉』そのものだったというのか……」
デュークは、天を仰ぎ、そして、ジンに向かって深々と頭を下げた。
「――師匠(マスター)ッ! どうかこの私にも、その『筋肉道』の真髄を、ご教授くださいッ!」
まさかの、二人目の弟子入り志願。
その光景を目の当たりにしたリリアは、静かに呟いた。
「エリート魔導士の次は、王国騎士団長……。もう、この塔……脳筋養成所か何かなの……?」
彼女の魂のツッコミは、またしても、誰に届くこともなく虚空に消えていくのだった。
【筋力S++】脳筋賢者の成り上がりっ!〜魔法?いいえ、フィジカルです。脳まで筋肉だと誰が言った?〜 境界セン @boundary_line
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