四章 God bless you

第一節


 翌日、朝早くに目を覚ましてしまったヨアヒムは、洗顔を済ませると食事もそこそこに家中の掃除をし始めた。今さっきまで寝ていた寝室のダブルベッドのシーツと、サイドベッドとしてのシングルのシーツを剥がして洗濯機に放り込み、掛け布団をベランダに干した。次に寝室の他に殆ど使っていない幾つかの部屋の窓を開け放って風を通し、カーテンやカーペットにカビが生えていないかをチェックして、天井や壁のほこりを払い、クリーナーをかけた。彼女─ベルがもし此処にくることになれば子供部屋が必要になるが、当面は寝室のサイドベッドで寝て貰おうか。そんな事を考えながら身体をひたすら動かしていた。取らぬ狸の皮算用に終るかもしれないが、そうでもしていないとどうにも落ち着かなかった。実は昨夜もよく眠れなかったのである。取り返しのつかないことをしたのか。いや、カールの言うように自分が行かなければ、彼らはそのまま流れていくのだろう。だけど……。

 ヨアヒムは宙ぶらりんな気分のまま、その日は家中の掃除に明け暮れた。


 翌日、銀行が開くと同時にヨアヒムは金貨を用意し、不安と期待がぐるぐる巡る心持ちで一昨日の場所を訪なうと、果たして彼らはそこに居た。

 二頭の馬に飼葉を与えていた小人二人にヨアヒムがやあ、と声をかけると小人たちはまさかという様子で互いの顔を見合わせ、本当に来たんですかい?と、やや呆れたように異口同音に言い、それでも馬車のなかで寝ているらしい座長を呼びにいってくれた。

 「バッコス!この間の紳士がお見えだ。起きてくんな!」馬車の中から小人のカン高い声が聞こえ、暫くしてから例の黒ひげのサンタクロースがあくびをしながらのそのそと出てきて、まさか本当に来るとはねえ。と小人と同じような事を言った。

 「で、やはりご決心は──」バッコスが言い終わらないうちにヨアヒムは手にしたチャック付きの革の手提げかばんを差し出した。受け取ったバッコスはそのズシリとした重さに思わずうっと呻いて寝起きの脚をよろめかせ、取り落しそうになった鞄を胸に抱え直す。

 「約束通り金貨だ。とはいえこの国の貨幣の値打ちは下がっている。30枚用意させて貰ったが足りるか?」

 「た……」あまりにも想定外な金額の提示にロマの老人は口をパクパクさせた。

 「もし足りなければ……」言いながらヨアヒムはコートのポケットから小さな香炉を取り出した。

 「祖父が収集していた骨董品の中にあった。恐らくは東洋の翡翠ヒスイだとは思うが残念ながら鑑定書が……」

 「ちょっと、ちょっと待ってくれ」一方的にまくしたてるヨアヒムを制して、老人は馬車の方へあごをしゃくった。

 「ひとまず中へ入っておくんなせえ」とうながされ、ヨアヒムは幌馬車の入り口をくぐった。


第二節


 座長が鞄のチャックを開けた途端、馬車内は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。ピュウーっと口笛を吹いて、こいつぁ凄えと感心したのは火吹き男のヘラクレス。俺らこんな近くで見るの初めてだ。と、眼を輝かせたのは戦禍で片腕を失くしたカストルとポルックスの双子の兄弟。小人たちに至っては見たことすら無かった。

 「凄いじゃないのベル。あんた今日からお嬢さまよ」そうはしゃぎながら左右から小さなベルに抱きついたのはナイフ投げの小人女アルテミスと、肉襦袢を着ておらず本来の鍛えられた身体をさらした空気女のダイアナ。その喧噪が外に漏れ聞こえるのを危惧した座長のバッコスが、静かにしねえか!と一番大声を出した。林にほど近い場所に野営しているので人が通るような場所でも無いのだが……大金に動揺しているのだろう。

 ただ、満員御礼の馬車内に何故かあの眼帯をした伊達男アーレスの姿がみえなかった。

 「それで……承知して貰えるのだろうか?」

馬車の中が落ち着いた頃合いを見計らい、おずおずと切り出したヨアヒムにバッコスが笑って答える。

 「小人どもや双子どもは寂しそうにしてましたが……承知しましたよ。ヘラクレスの野郎は金次第だとぬかしてやがったが、金貨3枚どころか倍以上ときてすっかり舞い上がっちまった。あいつぁ元のサーカス団の一番の古株でね、ちっとばかし足りねえ頭で、いまだに再興を夢みてやがる」

 「女どもは最初から大賛成だった。てえのは、此処にいさせたらいずれは客の相手をしなきゃならなくなる。それが決まりだ。だからアーレスも不承不承だが折れた」

 座長がそこまで話した時、ナイフ投げのアルテミスがヨアヒムに言った。

 「旦那。あたいはこんな身体だけどアーレスとはれっきとした夫婦でね。だけどあたいらにゃ子供が出来なかったんだ。だからあいつは……アーレスはベルを本当に可愛がっていたんだ。あんたを何処まで信用していいもんか、正直解らない。でも少なくとも旦那にはベルを買おうっていう下衆野郎どもの臭いはしなかった。……信用していいんだね?」

 小人ではあっても均整のとれた身体つきのおかげで12,3歳の少女にしか見えないアルテミスの黒い双眸そうぼうが厳しくヨアヒムを捉える。その視線を真っ向から受け止めヨアヒムは答えた。

 「誓うよ。責任をもって健やかに育てる。だけど」

 ヨアヒムは視線をアルテミスから外し、ダイアナのふくよかな胸に抱かれている小さなベルをみた。

 「一番肝心なのはお嬢さんの気持だ。あなた方にこんなに愛されて、幸せに暮らしている。何処へも行きたがらないんじゃないか?私も無理は言わない」

 「……何処まで解っているか知らねえが、行ってもいいと言いやしたよ」

 バッコスはそう言ってから、少し哀しそうな顔で続けた。

 「あいつぁ流転に慣れちまってる。物心つくかつかないうちにあちこちたらい回しにされてきたんでしょうよ。今度もそれと同じだと感じてやがるんでしょうさ……不憫ふびんな子だ」

 それを聞いてヨアヒムの心はますます揺らいだ。

 「あなた方は流浪の民だ。後になって此処を恋しがったりされたら……」

 「そん時はそん時だ。恋しがって泣くようなことがあったとしても、それをどうするかはあんたの役目でさぁ。親になるてえのはそういうこった。その覚悟がおありなさらんのなら、その金を持って帰りなさるがいい」

 バッコスのいう事はもっともだった。此処を出たその瞬間、ベルは自分の娘になる。

 「……ベル。おいで」初めて、ヨアヒムはお嬢さんではなくその名を呼んだ。少女、いや。まだ幼女と呼んでもいいような娘は呼びかけに応じ、とてとてとヨアヒムの所まで歩いてきた。

 「ベル。私と一緒に来てくれると言ってくれたそうだね?」

 娘はコクンとうなづく。

 「私と一緒に行くという事は、ここを出ていくという事だ。解るかい?」

 再び、小さな娘は頷く。

 「私と君は今から此処を出るが、それはバッコスのおじいさんや皆とお別れするという事なんだよ。もう二度と会えないかもしれない。それでもいいの?」

 ヨアヒムの前に立つ少女は小首をかしげて言った。

 「おじさんは知らないの?」

 「……なにを?」

 「ジプシーとサーカスは何処へだって現れるのよ。それがいつか解らないだけ」 

 娘は無邪気そのもので、何も心配ないというように初めて微笑みを見せた。

 その時、座長のバッコスが手を叩いてハッハっハァと太い声で笑い、ようく解ってるじゃねえか。とベルの髪をクシュクシュと乱した。

 「さ、これ以上話すこた何もねえ。もうお行きなせえ。こいつはあまり喋らんのだが、旦那には受け答えて笑った。あの笑い方は死んだ儂のカミさんに踊りを習っていた時と同じくらい楽しそうだった。何も心配いらねえさ」

 バッコスはキリが無いとみて追い立てるようにヨアヒムを促した。


 「旦那!行く前にあたいの亭主に会ってやっておくれな!林の中で不貞腐れてるから」

 アルテミスの呼びかけに手を挙げて応え、ヨアヒムは馬車を後にした。


第三節 

 

 馬車のすぐ近くの林の中にヨアヒムとベルが入っていくと、成程。木の切り株に腰を下ろしているアーレスが目に入った。項垂うなだれて見えたが、近寄ると彼は自分のナイフでなにか削っているところであった。

 「……君は、この娘の父親のようなものだったんだね」ヨアヒムが話しかけると青年は、兄貴分と言ってくれよな。と、ぶっきらぼうに答え、手にしたナイフを目の前の樹に投げた。カッと音がしたその先を見ると大きな蛾が胴体を射貫かれていた。

 「見事だ」ヨアヒムは感心したが青年はチッと舌打ちして言った。

 「頭を狙ったんだよ」

 「アーレス。わたしこのおじさんと行くの」

 少女は特段なんの感情もみせずにそう告げる。

 「そうだってな。ちょっと待ってろ。餞別せんべつをやるよ」

 青年が削っていたのは何やら白い塊で、蝋石か何かのようだ。彼はそれに器用に切れ込みを入れ自分の薄紫色のストールを裂いて紐を作り、切れ込みに括りつけて蝶結びのリボンを作ると紐の両端を結んで輪にした。彼はペンダントを作っていたのである。アーレスはそれをベルの頭から潜らせ言った。

 「お前の羽音だよ」

 そのペンダントトップは小さな角笛の形をしていた。

 (ああそうか、ベルの舞台の幕開けに鳴り響いていたあの羽音は……)傍らで見守っていたヨアヒムは思い出した。

 以前テントを片付けるのを手伝った際に、荷台に大小の角笛が幾つも置かれていたのを。それは遥か南半球に位置する大陸の最南端の国々に伝わる民族楽器。ブブゼラといったか。成程、あの大小の角笛を複数人で吹きならせば、蝿や蜂といった昆虫の羽音が再現できるというわけか。

 少女は首に掛けられたペンダントのトップを掌にのせ、不思議そうに眺めている。アーレスはそんなベルを抱き上げ言った。

 「忘れるなよベル。ジプシーとサーカスは」

 「何処にでも現れる!」アーレスが言い終わらないうちにベルが続けた。

 「そうさ!それでいい」青年はベルを抱き上げたままクルクルと最後の舞台を踊る。そうしてヨアヒムに向きなおると、いきなりベルをヨアヒムの胸に押し付けてきた。

 「おっと!?」

 ふいの事にやや驚いたが、画家はその小さく柔らかな生き物を両腕でしっかり抱え直した。

 「しっかり頼むぜ!親父殿」青年は初めて笑顔を見せた。

 「ああ。任せてくれ」ヨアヒムもまた、笑って応える。

 「じゃあな、ベル」青年はそう言い娘にキスしようとしたが、かなりな長身のヨアヒムが抱えた幼女の顔の位置はやや高く、彼は若干の背伸びをしなければならなかった。

 「でっけえ男だなあ」アーレスは朗らかに笑ったあと、黒いインバネスをばさりとひるがえした。

 「あばよ」

 伊達男は背中を見せながら右手を振り、仲間の所へと帰って行った。


第四節


 その日の一座の夕べはベルの門出を祝っての大宴会となった。今までに稼いだ銅貨をあるったけつぎ込んで肉や腸詰めや果物、酒をあがない、焚火を囲んで飲食しながら大量の金貨をどうやって崩そうかと話しあう。彼ら流浪の民が金貨などで物を贖おうなどとしたら、何処で手に入れたと怪しまれるからだ。適当と思われたのは男連中で後ろ暗い売春宿か博打場で散財して銀や銅貨に崩して、女どもはその金で好きなだけ着飾りゃあいい。などと盛り上がり、やがてバッコスがギターをかき鳴らし座員一同が踊りはじめ、宴会は夜通し陽気に続けられた。


 明け方。座員たちは馬車やテントでそれぞれ眠りこけていたが、座長のバッコスはただ一人、末娘が舞台で付けていた虫の翅を愛おし気に撫で続けていた。

 「神の祝福を」

 黒ひげのサンタクロースはウィスキーの瓶を高く掲げ、暁降あかときくだちの空に末娘の幸いを祈った。

 

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エリカ街道にて ─ In der Lüneburger Heide ─ 猫アレルギー(無謀の塵) @23mado91

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