三章 ベルゼブブの仔

第一節


 芸人達が姿を消し、客が引けたテント内では雑用を務める小人たちが後片付けを始めていた。そのうちの一人、客席の茣蓙ござほうきで掃いていた者にヨアヒムは、君!座長はどこだ!?と詰め寄った。いきなり大きな男に声をかけられた小人は驚いたというより殆どおびえた様子で背の高い男を見上げる。

 「ああ……すまない。驚かせて。君たちの親方はどこ?」ヨアヒムが自分をなだめながら改めて聞くと彼は小人特有のカン高い声でもうヤサ(家)に戻っちまいました。と言う。

 「すまないが案内してくれないか」

 ヨアヒムは懐の財布から小銭を掴み、その手を小人の前に出す。

 「受け取ってくれ」小人の顔つきがたちまち変わった。彼は箒を放り出しその手に小銭をジャラジャラと受け取ってそれをポケットに入れながら、ちょいとお待ちを。こいつを片付けちまうんで。そう言いながら茣蓙を丸めだした。

 「手伝おう」ヨアヒムは丸められた茣蓙を肩にかついだ。


 二人の小人の後について行った先にヨアヒムが目にしたのは大きな幌馬車とこもを被せられた荷台。緩く繫がれた二頭の栗毛の馬が道端の草をんでいた。ここでいいのかい?ヨアヒムが声をかけると小人はニッコリして荷台の薦を捲くる。ヨアヒムが担いだ茣蓙をそこに置くと小人は馬車の中に向かって甲高い声をあげた。

 「バッコス!お客さんですぜ!」その声に反応して馬車の内からああ?と低いがよく通る声があがった。馬車の中で人が動く気配がしたかと思うと、後方の入り口から例の黒ひげサンタがのそのそと外に出てきた。バッコスと呼ばれたその男にヨアヒムが貴方が座長ですか?と尋ねると男はいかにも。と答え、御用向きを伺いましょうと存外愛想の良い調子で言ってきた。

 「さっき、最後の演目で踊っていた小さな女の子だが……」ヨアヒムが切り出すと座長は苦笑いを浮かべながら言った。

 「ああ、ベルですかい。時々そういうご所望もありますがね。あいつぁご勘弁を。まだたったの八つだ。お相手なんかさせたら死んじまいまさぁ」黒ひげサンタはヨアヒムの前で両手を振り、こう続けた。

「ナイフ投げの娘なんかはどうですかい?見た目はガキだがあいつは小人でね。ああ見えてハタチを過ぎてる。立派にお相手がつとまりますぜ?それとも空気女はいかがで?ちぃっと年増だがあれで身は引き締まってるんでさあ」

 ……座長がさっきから何を言っているか。その意味を解したヨアヒムはいやそうじゃないんだ。と、慌てて手を振った。

「ほほう。じゃあ男の方で?」ナイフ投げの的になったあのハンサムな

青年のことを言っているのだろう。彼も客の相手を務めるのか。

 「いや、だからそういう事じゃなくて」話がどうしてもそっちの方に流れるのにヨアヒムは困惑しきりで、そのやりとりを傍らで見守っていたカールがとうとうプっと吹き出した。

 「ヨアヒム。お坊ちゃん育ちのお前さんは知らんのだろうが、客が舞台が引けた後に芸人に用があるってのは、大概はそういうことなんだって」

 友人はくつくつと笑った。

 「そうだったのか……いやでも、本当にそんな意味じゃなくて……その、つまり……ベルと言ったか。あの子は貴方のお孫さんですか?」ヨアヒムは改めて座長に問う。

 「いいや。あの子は拾いっ子でさぁ。E国でね」

 E国……亡妻の生まれた国。

 「すまないが、少しあの子の話を聞かせてくれないか?いや、誓ってそういう意味じゃ無いんだ」

 「そういう意味じゃ無いったって……」いぶかしむ座長の手にヨアヒムは懐の財布から紙幣を一枚とりだし彼の掌に握らせた。

 「頼む。私はあの戦争で妻を亡くして、その妻はE国生まれだったんだがP国で私達は知り合って……妻は身ごもっていて……」しどろもどろに喋り続ける長身の男を見上げながらどうにも要領を得ないと座長のバッコスは首を傾げながらも、掌に握らされた紙幣にチラリと目をやり、まあどうぞ中へとヨアヒムとカールを馬車の中へとうながした。


第二節


 馬車の中に入れて貰ったヨアヒムとカールは彼らの寝具であろう積み上げられた毛布を背にして座った。大きな馬車の中はかなり広く。中に居たのは座長とベル。ナイフ投げの二人と隻腕の軽業師たちの六人。空気女に小人達と火吹き男はどうやら外で夕食の準備中のようで、肉の焼ける香ばしい匂いが微かに漂ってきた。彼らを入れれば総勢十人。それだけの人間が起居出来ているのは小人率の高さもあるだろうが、もしかしたら交代でテントで野営するのかもしれない。そんな彼らの様子にヨアヒムはふと訊ねた。

 「あなた方はツィゴイナー(ジプシー)ですか?」と。

 だが口に出した瞬間、しまったと思った。隣に座るカールが険しい顔で睨んでいる。当然だ。ツィゴイナーのような流浪の民はあの戦争のおりにN党によって欧州のほぼ全土で狩り出され、強制収容されたのである。残虐非道極まりない迫害を受け、蹂躙されたのはダビデの星をあがめる民ばかりではなかったのだ。考えなしの失言をヨアヒムは悔いた。が、座長は不愉快な様子は見せずに、若干眼を伏せながら穏やかに言った。

 「純粋なロマは儂と死んだカミさんだけでさぁ。後の連中は元々はれっきとしたサーカスの芸人だ。皆あの戦争の犠牲者さね。口上と演奏の腕を見込まれて、座長なんぞに収まっとりますがね、敗戦で収容所じごくからおっぽり出されて物乞いをしていた儂とカミさんを拾って下すったのが先代の団長で……いや、こんな話はよしやしょう。」 

 「カストル!ウィスキーがまだあったな!?」話を打ち切ったバッコスが声をあげると軽業師の一人が酒瓶を投げて寄越してきた。座長はそれを受け取り、どうです?とヨアヒムとカールに勧めてきたが二人はさっきったばかりだと断った。

「それで……と。ベル!こっちへ来な 」座長はウィスキーを一口やると馬車の奥にうずくまっていた少女を手招いた。かじっていた林檎りんごを手にとてとて歩いてきた小さな踊り子をバッコスは抱き上げ、膝の上に座らせる。

 「さっきも言いやしたがこの子はE国で拾いましてね。旦那も聞いたことがおありでしょう?”R市に狼少女現る”という話を」

「R市の狼少女?いや……」否定しかけたヨアヒムはふと思い出した。そんな記事が昔、新聞の海外ニュース欄に載っていたような……。

 

──E国はR市の一角で一人の嬰児が母親と思しき女性の腐乱死体と共に廃屋の中から発見された。近隣住民からの通報で何処からか異臭が漂ってくるというので警官が辺りを捜索したところ、異臭の元は粗末な小屋からのようであり、警官がその小屋の扉を開けて中に入ってみると一匹の雌犬が横たわり仔犬に乳を与えていた。腐臭にひかれて小屋に入り込み、死体を食い荒らしたのはどうやらこの雌犬であることは容易に察しがついたが、特筆すべきはその雌犬に取りすがって乳を飲んでいる仔犬の中に人間の嬰児が混ざって一緒になって乳を吸っていた光景である──


 そんないささかケレン味のある記事のことをヨアヒムは思い出した。その嬰児がまさか……。

 「儂らぁ無学な流れ者ですがね。そんな噂は風にのって流れてくるもんでさあ」座長は膝に乘せた少女の頭を撫でながら言った。

 「それでこの子だが……」バッコスはウィスキーを一口煽る。

 「教会の神父様がやっていなさるんでしょうな。そこそこに立派な教会の隣に孤児院があったんでさあ。儂はそれに目をつけ、どうせならここで子供ガキども相手にひと稼ぎしてやろうかと外に出た時に、孤児院の中からね」


 ──あっち行け!蝿の子供め!

 ──ウジ虫!あんた何かと一緒じゃご飯食べられないわ!」

 ──大人が言ってたぞ!おまえは蝿の悪魔ベルゼブブの子だって!


 「そんな声が聞こえてきたと思ったら、こいつがパンを握りしめて外に出てきた。泣きもせずにボンヤリとしてましたさ……」バッコスは喉を潤しながら続ける。

 「噂なんてえものはね、伝えられ伝えられしていくうちに、どんどんヘンテコに変わっていっちまうもんだ……それで儂はその様子からハハァこの子か……と思った。カンですがね」

 「で、儂は思ったんでさあ。連れていっちまおうってね。持て余されているようだし、その噂をケレン味たっぷりに利用させて貰おうじゃないかとね」

 そこまで話したバッコスはウィスキーの瓶に自分が口をつける前に、どうです?と再びヨアヒムに勧めてきた。今度は素直に受け取った。猟奇的な記事を思い出して、気つけが欲しくなっていた彼はグビリと喉を鳴らしてウィスキーを飲んだ。それで一息ついてから改めて座長の膝の上に座っている少女を見た。自分のことを話されていることを意識しているのかいないのか。ただ無心に林檎を齧る少女の顔には何の感情も見いだせない。関心をもたない者がみれば白痴かと思うだろう。だが……。

 (そうだ……妻もこんな眼をしていた)ヨアヒムは画家の眼で少女の瞳を覗き込んだ。アクアマリン程には輝かない、穏やかな湖面のような色味をした青い月長石。ブルームーンストーンを思わせるその眠たげな眼に、彼はいよいよ亡妻を思い出す。R市の狼少女。E国で生まれた……妻も生まれはE国だった。P国なんぞに移住しなければ……自分と出会いさえしなければ……。いまだ消えない胸の痛みが涙になって零れ落ちそうになった時、目の前に座る少女が声を発した。

 「悲しいの?」その声に弾かれたようにヨアヒムはうつむいた顔をあげる。その拍子に彼の蒼い眼からひと雫の涙が振り零れた。少女はバッコスの膝から身を乗り出し小さな手でヨアヒムの頭を撫でた。

 「あ……あああっ」思いがけない少女の行動に驚くと同時にヨアヒムはこらえきれずに嗚咽おえつを漏らし、顔を覆って泣き出してしまった。

 少女は眼を丸くして手を引っ込め、不安げにバッコスを振り仰いだ。自分は何かいけないことをしたのかと問うように。座長は少女を抱え直し、その肩を優しくトントンと叩きながら大丈夫、大丈夫だ。お前のせいじゃないよと少女を揺すった。そうしながらバッコスは深い眼差しでヨアヒムを眺め、彼が落ち着くのを待った。


 「いや、とんだ失態を」落ち着きを取り戻したヨアヒムはバツが悪そうに言いながらティッシュを取り出して涙をぬぐい鼻をかんだ。

 「夕飯時に時間をとらせてしまった。直ぐに退散しましょう。あなた方はいつまで此処に?」

 「さてねえ稼ぎ次第でさあ。来たばかりなんで暫くは粘りますがね」

 「明日の夜もうかがっても?」

 「断る理由はねえでがしょう。お客は大歓迎ですぜ」

 呵々大笑かかたいしょうをもってそう答えたバッコスにヨアヒムはでは明日と挨拶をし、話の途中で半ば居眠りをしていた友人のカールも中々楽しませて貰ったぜと言い残して二人は馬車を後にした。


第三節


 あくる日の夕刻ヨアヒムが再び広場へ向かうと、昨夜と同じ場所にテントは張られており、同じように火吹き男が芸を披露していたが、小人たちの姿が見当たらない。昨夜同様テントの入り口で入場料を帽子で受け取っているバッコスに、やあ、と声をかけ銅貨を帽子に落して中に入ると舞台の上で小人たちによるコメディーが繰り広げられていた。それで温められた客席の笑い声があがる中、ヨアヒムは茣蓙に腰をおろし昨夜と同じ演目を黙って最後まで鑑賞した。帰り際に小人の一人に明日も此処にいるのかと聞くと、明日は場所を変えると言うのでその場所を教えて貰った。

 彼らは二日三日で場所を変えるので、ヨアヒムは帰りしなに必ずその場所を聞いてからテントを後にした。来る日も来る日もやってきては黙って同じ演目を鑑賞し続けている彼に対して、流石に芸人たちはいぶかしみ始めたが座長のバッコスだけが何かを察しているようであった。


 一週間も過ぎた頃、いつも通りヨアヒムがテントに足を運ぶとそこに友人のカールの姿を発見した。

 「よお、お前も来たのか」友人は手をあげて挨拶してきた。

 「お前こそ?わざわざ汽車でこれを観にきたのか?」思いがけない友人の出現に戸惑いながらもヨアヒムはその隣に腰を下ろした。

 「まさか。この地区でカミさんと子供の買い物に付き合わされてな。ついでに立ち寄った。俺はみんなで行こうと言ったんだがカミさんが承知しなかった」

 「まあ、そうだろうな……」

 二人がそんな話をしているうちに舞台は進行してゆき、カールは二度目の見物を楽しんでいるようだったが、ヨアヒムはほぼ上の空だった。漂泊者である彼らは今日を最後に他所へ移るということで、彼は今日こそ申し出るつもりでいたのである。大きな決断を── 


第四節


 「はぁ!?」 あまりに突拍子もない友人の申し出に、一番最初に素っ頓狂な声で反応したのはカールであった。舞台が引けて馬車に戻った彼らの所へおもむいたヨアヒムが、座長のバッコスにあの小さな女の子を引き取らせてくれないかと願い出たのである。

 「おいアンタ。一体どういうつもりだ……?」

 カールの次に反応したのは、ナイフ投げの的になったあの美しい青年だった。その青い隻眼に警戒心と敵意がちらついている。

 「妙にあいつに執心だとは思ったが……金づくで連れ帰っていいようにしようって魂胆じゃねえだろうなぁ」

 青年が懐からジャックナイフを取り出しバチンッと刃を跳ね上げて見せると、座長の怒号が響いた。

「よさねえかアーレス!お前さんは顔に似合わずどうにも血の気が多くていけねぇ。その剣吞なモンをさっさと仕舞いな」

 そう制する座長に対し、彼はなおも食い下がった。

 「だけどよバッコスの親父。今までにも結構いたろ?ベルに相手をさせろだとか、売値はいくらだって言ってきやがった変態や人買いがよぉ?」

 それを聞いたヨアヒムは、決してそうではないことをどう言えば解って貰えるだろうと青年の斬りかかるような視線を受けながら、必死に思案した。が──

 「アーレス……お前、俺の人を見る目が信用出来ねえってのか?」

 座長が重々しく言うと、青年は舌打ちしながら不貞腐れた態度で引き下がった。

 「すいやせんね旦那。悪い奴じゃねえんですが、あいつの言う通りなんでさあ。なんしろ可愛いつらしてるんでね」座長はまず座員の非礼を詫び、それから改めてヨアヒムに向きなおる。

 「で……旦那はもうせん、身籠っていた奥様を亡くされたといいなすったね」そう問われて、ヨアヒムはええ。と短く答えた。

 「にしても、また何でこんなイワクつきのガキを?旦那ならもっと良いご養子をいくらでも探せるだろうに」

 「私はただ単に子供が欲しいわけではないんだ……この娘は……ベル、といったか。妻にそっくりなんだ」

ヨアヒムは率直に言った。

 「あなた方にとってはあまりに唐突で、非常識で勝手極まりないことだとは解っている。けれど私は、私にはね。この子が舞台上に現れた時、妻が少女に生まれ変わってそこに現れたように見えたんだ……それで通い詰めていたんだが、あなた方が此処を離れたら恐らく二度とは会うことは無いでしょう。それを思うと矢も楯もたまらずに……」

 「私の事情です。私の勝手な願いです。ですがそこをまげて……どうかこの子を私に、私の子供として、家族として、引き取らせて貰えないだろうか?」

 座長は黙って。深い眼差しでヨアヒムを見つめている。先程食ってかかってきた青年も、今度はやや違う眼つきでヨアヒムを見ている。

 いつかと同じく座長の膝の上にのっていた当の本人は、自分の事を話されていると解っているのかいないのか。相変わらずボンヤリしていた。

 「ベル。このおじさんはお前さんを引き取りたいそうだ」

 バッコスが顔を傾けて膝に抱いた少女に言うと、少女はヒキトルってなあに?と聞き返してきた。

 「お前のお父さんになってくださるってこった」

 「オトウサンて?」と少女は再び聞き返してきた。そのやりとりを傍で見守っていたあの青年をはじめ馬車の中にいた全員がどっと笑い転げた。

 「そうか、そうだよなあ俺たちはあだ名で呼び合っているからなあ」

バッコスもまた大笑いしながら言う。

 いや笑いごとではない。ヨアヒムとカールは顔を見合わせる。知らないのだこの子は。言葉の意味ではなくお父さんお母さんという概念そのものがそもそも無いようなのである。

 恐らく自分は蝿魔王の子だと本気で信じ切っているのだろう。

 「ともかくね旦那。あんたは信用できる紳士のようだが、ちぃと時間をおくんなさい。儂ら家族の末娘の行く末となりゃみんなで話合わんとね」

 バッコスは笑い涙を拭きながら言う。ヨアヒムはもっともだと頷いた。

 「それと旦那。御身の上をもうちっと詳しく話しちゃくれねえですかい。お仕事は何をなさってるんで?」

 言ってなかったか!?ヨアヒムは今更ながら、自分がかなり我を忘れていたようだと赤面した。

 「すまない……大変な失敬をしていたようだ。私はヨアヒム・ランゲ。画家で生計を立てている。お世辞にも売れているとは言えないが……」

 「ほぉう……」

 バッコスは顎髭をしごきながらヨアヒムを値踏みするように眺めた。

「……それと、たいした家柄じゃないが、若干ながら代々からの資産を所有している」

 資産。という言葉に、座長以下、芸人一同の眼が鋭く光った。空気を察した友人のカールは、このバカ言わんでもいいことをと心中で呟いた。が、もう遅い。

 「ほほぅ……それはそれは」座長は努めて冷静を装い、今度はカールの方に水をむけてきた。

 「こちらの御仁は?」

 「俺はカール・シュナイダー。画商だ。こいつの絵も俺が取り扱っている。確かにさして売れちゃいない」友人はぶっきらぼうにそう答えはしたが、資産という言葉の前ではもはや何の予防線にもならない。

 「成程なるほど」バッコスは愛想よく頷いたが、最初からカールには特段に興味はなかった。聞いてみただけである。

 「ともかくだ、明日か明後日あたりにまたおいで願えねえですかい?なに儂らは何も急いじゃいねえ。それとベルはガキとはいえあれでもうちの看板芸人だ。手放しゃこちとらも損害だ。お身請けとなりゃそれ相応の……」

 そら来た。カールは思った。まあ彼らの言い分は正しいと言えば正しいがどれだけ吹っ掛けてくる気なのか……。

 そんな友人の心中をよそにヨアヒムは懐から小切手帳を取り出し一枚切ってバッコスに差し出した。カールは右手で顔を覆い仰向いたまま、もう何も言わなかった。これだから金持ちは……と逆に腹がたってきた。しかし小切手を渡された座長は、何ですかいこの紙っ切れは?と訊ねてきた。

 「それに入用な金額を書いて銀行か郵便局に持って行けば金に換えてくれる。流石に0を7つ以上書かれては困るが……ペンならここに」そう説明するヨアヒムに対し、バッコスは苦笑いと共に小切手を返してきた。

 「旦那ぁ。儂らにそんな難しいこた解らねえ。なにやらご大層な場所にも縁がねえんで。ひとつこいつで願いまさぁ」座長は人差し指と親指で輪っかをつくる。現金でという事だろう。

 「わかった。明後日だ。明後日には充分な金貨を用意してこよう。しかしあなた方にとっても大事な娘さんだ。何より本人が嫌だと言うかもしれない。だから私が明後日また此処に来た時に馬車が見当たらなかったら。私は諦めるとしよう」

 対価を要求したものの、金貨など滅多には拝まぬロマの老人は内心眼を丸くしたが努めて平静を装い、金貨ねえ……と、黒い顎髭を勿体つけるようにしごきながらもう片方の手で指を三本立てて見せる。

 「これだけ都合願えますかね?」内心の歓びを隠すように口許を小賢し気に歪めた。

 「わかった。では、また明後日に。帰るぞカール」

 ヨアヒムは友人を促し、二人で馬車を後にした。


 家路をたどる道すがら、ふたりは喋り通しだった。

 「ヨアヒム。お前気は確かか!?」

 「ああ……これはやはり人身売買という事になるのかな?」

 「いやそう言う事じゃなくて!……いやまあそういう事でもあるがヨアヒム。お前、子供を引き取るってことがどういう事か解っているのか!?」

 「……解ってないかもしれない。だがもう約束してしまった」

 「約束ったって……」カールは額に手をあてため息をつく。

 「なあ、考え直すなら今のうちだぞ?連中は明後日までは居ると言ったが彼らは流れ者だ。お前さんが現れなかったらそのままどっかに流れていっちまう。あいつらだって本気で期待しちゃいないさ。そんな旨い話があるわけないってな」

 「約束は約束だ。行くだけは行ってみるよ。居なきゃ諦める」

 「本当に金貨を用意していく気か?まあお前さんにとっちゃ出せない金額じゃないんだろうが。だけどあの娘、可愛がられていたみたいじゃないか?あの若い男なんざナイフまでちらつかせやがった。手放すとも思えんがね」

 「そうだな。とにかく明後日になってみないと解らない」

 「あのまま彼らの所に居た方が倖せだと思うがね。それにあの娘……少しおかしいのかもしれんぜ?」

 そう言いながら自分の頭を人差し指で突いて見せた友人に、ヨアヒムは歩みを止めて彼の真正面に向きなおる。

 「お前の言葉とは思えんなカール。だったらどうだと言うんだ?それにあの娘は言葉を喋ったろう?そうして私を慰めようとしたんだぞ?仮にどこかがおかしいとしても、人の心の機微を感じ取ることは出来るんだ。それで充分じゃないか?」

 いつになく語気を強めた友人のそんな様子に虚を突かれたカールは、すまない。取り消すよ。と素直に謝罪した。

 「しかしなあヨアヒム。子供を育てるってのはそんな簡単な話じゃないぞ?」自身、二人の子供を持つカールはその苦労をよく解っている。

 「まあ。明後日までにゆっくり考えるんだな」

 そう言ってカールはヨアヒムの背中をポンと叩き、駅に向かって歩き出した。



 ※ ツィゴイナー。ジプシーのドイツにおける呼称

 ※ ジプシー。エジプシャン(エジプト人)に由来するフランスでの呼称。移動型民族。流浪の民。その歴史は古く謎に包まれている。前述のツィゴイナー同様、いずれも外名である。

 ※ ロマ。彼らの自称とされているが必ずしもそうとは限らない。前述の二つの外名は現代では差別用語とされている。


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